LovePost

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疑い

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翌朝、教室のドアを開けた瞬間に分かった。
今日は、私の席のまわりだけ空気が薄い。

声はいつも通りに飛び交っている。笑い声もある。椅子を引く音も、カーテンを開ける音も。
それなのに、私が入ってきたところだけ一瞬、音の密度が変わる。水の中に手を入れたときみたいに、私の周囲だけ波紋が生まれて、その波紋を避けるように音が退いていく。

目が上がって、すぐ逸れる。
逸れ方が、練習みたいに揃っている。誰かが「こう逸らせ」と指示したみたいに、全員が同じ角度で、同じ速度で。私を見た、という事実だけを残して、中身を消す逸らし方。

「……おはよ」

言葉が床に落ちたみたいに軽かった。
返ってくる「おはよ」はある。でも少し遅い。
遅いのが、わざとじゃないふりをしているのが分かるから、余計に痛い。この遅延は気まずさじゃない。判断だ。返すかどうかを一瞬迷って、返した方が安全だと結論した上での「おはよ」。計算された応答を返されている。私がずっとやってきたことを、今度は浴びている。

席に座って鞄を開ける。指先が冷たい。
机の中のノートの角をなぞって、呼吸を整えようとした。

背後から、ひそひそ声。

「昨日のやつ、ひよりじゃない?」
「え、だって文の感じ……」
「"落ち着く場所を作る"とか、ああいう言い方するよね」

耳が勝手に拾う。拾ってしまう。
拾った言葉が、頭の中で歯車みたいに回り始める。止めたいのに止まらない。一つ聞こえると次が聞こえ、次が聞こえると意味が繋がり、意味が繋がると結論が出る。結論は一つしかない。私が疑われている。

私は振り返らなかった。
振り返ったら、そこで確定する気がした。
"私が疑われている"という形が、私の目で完成してしまう気がした。見なければ、まだ確定していない。見たら、死んでいる。

スマホが震える。クラスのグループチャット。通知の数が、昨日より多い。
開くのが怖くて、でも開かないと、もっと怖い。開かない間に、中では私の知らない合意が形成されていく。

画面をタップすると、スクショが貼られていた。
真鍋と佐倉の別れ話——佐倉が受け取った"冷たい文"。

見た瞬間、胃がきゅっと縮んだ。

文章は整っていた。
余白が揃い、句読点の位置が揃い、感情の温度だけが抜けている。
"機械みたい"と言われる理由が、目で分かった。

そして、私の中の別の部分が、もっと嫌なことを理解してしまった。

——この文は、私の文じゃない。
でも、"私っぽい"と言われたら否定しきれない形をしている。
似ている。骨格が。

昨夜、引き出しにしまう前に見えた「4」の数字。あのCountは、私が使った回数だ。なら、この別れ文は誰が書いた? LovePostが出す文章には共通の骨格がある。使う人間が違っても、整え方が同じだから、結果が似る。

——私以外にも、あの端末を持っている人間がいる。

その可能性が頭をよぎった瞬間、恐怖の質が変わった。自分だけの秘密だと思っていたものが、秘密ですらなかったかもしれない。

「ひより」

美咲が小さな声で呼んだ。
私の隣の席に座って、机の上に手を置く。指先が少し震えている。美咲の指が震えているのを見るのは初めてだった。この子はいつも手が安定している。その手が震えているということは、美咲の中で何かが壊れかけている。

「ごめん。昨日さ……私がひよりの文、真鍋に転送したの、もう何人か知ってるみたい」

私は息を止めた。

「真鍋が昨日の夜、グループに"友達経由でこういうの来た"って書いたの。名前は出してないけど、文面がそのまま貼られてて……」

つまり、私が美咲に送った文章が、美咲から真鍋へ転送され、真鍋からグループへ流れた。人の手を経由するたびに文脈が削れ、残ったのは「整いすぎた文面」という印象だけ。発信者の善意は消え、文章の異質さだけが増幅されている。

美咲は続けた。

「私、悪いことしたよね。ひよりの文章、勝手に使った。……でも、ひよりだって、あれ……」

言いかけて、美咲は言葉を飲み込んだ。
飲み込んだところが、逆に刺さる。

"ひよりだって、あれを書いた"
言い切らないのに、形だけが残る。言い切らないことで、美咲は自分を「責めた側」にしないまま、私を「問われる側」に置いた。美咲にそんな計算があるとは思わない。でも、結果としてそうなっている。

「……私が書いたのは、美咲への返事だけだよ。真鍋への別れ文は知らない」

そう言った声が、自分でも遠かった。
事実を言っている。事実なのに、言い訳に聞こえる。信頼が下がった状態では、事実は言い訳に変換される。

美咲はうなずいた。うなずいたけど、目が揺れている。

「うん。分かってる。分かってるけど……みんな、ひよりの文章って"正解"っぽいって言うから」

正解。
またその言葉。昨日は美咲が私に向けて「正解すぎる」と言った。今日は周囲が美咲に向けて「ひよりの文は正解っぽい」と言っている。"正解"が、今度は私を縛る鎖になっている。

---

そのとき、教室の後ろの方で、椅子が鳴った。佐倉だった。朝からずっと席にいたのに、存在が薄かった。誰も話しかけていなかった。教室にいるのに、教室の外にいるみたいだった。

スマホを見ていた手が震えて、机に当たった音。髪が少し乱れていて、手にスマホを握りしめている。
目が赤い。泣いているというより、泣いたまま固めた目。

誰かが小さく「……佐倉」と言った。
それが合図みたいに、視線が一斉に集まる。さっきまで私に向いていた視線が、新しい対象に移動する。

佐倉はそれを見て、足が止まった。
笑おうとして、笑えない口元。

「……ねえ」

声が震えていた。
震えているのに、止められない震え。

「これ、……回ってるの……?」

スマホを掲げる。画面に、あのスクショ。
自分が受け取った別れの文章が、教室の明るさの中で晒されている。

「やめてよ」

小さな声だった。
でも、その小ささが、教室を刺した。小さいから刺さるのだ。怒鳴り声なら防御できる。でも、壊れかけた声の小ささには、誰も盾を持っていない。

「……私が送られた、私だけのやつでしょ……?」

佐倉の目が、誰かじゃなく空気を見た。
誰を責めればいいか分からない目。文章が転送されて、転送されて、転送されて、もう誰が最初に回したのか分からない。怒りをぶつける先がないから、怒りが内側に折れ曲がって、自分を削っている。

「昨日から、ずっと……見返してたのに……」

言葉が途切れて、肩が揺れた。
泣くのを我慢する揺れ方じゃない。
我慢する回路が切れた揺れ方。

「もう、やだ……」

そのまま、佐倉は机の縁に手をついて、うずくまった。
嗚咽が漏れた瞬間、教室の"噂"が"現実"になった。

誰も笑わない。
誰も動けない。
音が消えたみたいに静かで、逆に耳が痛い。

私は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
罪悪感。でもその罪悪感が、二層になっていることに気づいた。表面の層は「佐倉を傷つけた」という痛み。その下の層は「別れ文を書いたのは私じゃない」という言い訳。二つが同時に存在していて、どちらかを選べない。

ただ——佐倉が受け取ったあの別れ文が、私の文じゃないなら。

誰かが、同じ道具を使って、あの文を書いた。
私と同じ骨格の、私より冷たい文を。

その「誰か」が、この学校のどこかにいる。

---

一時間目の途中で、担任が「少し話をする」と言った。
黒板に向かう先生の背中が、いつもより重い。

「最近、SNSやメッセージで、行き違いや誤解が増えているようです」

誰の名前も出さない。
でも、教室の視線は私の方を一度だけ掠めた。
掠め方が刃物みたいだった。目の端だけで切る。正面からは見ない。正面から見ると「見た」ことになるから。

「スクリーンショットは一部だけ切り取られて、全体の文脈が消えることがある。勝手に回すと誰かを傷つける」

先生の声は正しい。
正しすぎて、耳が痛い。先生の正しさ。レイの正しさ。昨日の私の正しさ。全部が同じ金属でできていて、全部が誰かを切っている。

休み時間になると、すぐに質問が飛んだ。
囲まれた、というほど近くはない。
机の周りに立つ子たちが、私と距離を保ったまま言う。
その距離が、ちょうど怖い。責めるには遠くて、許すには近い。

「ねえ、ひより。真鍋に送った文って、ひよりが考えたの?」
「違うなら違うって言えばいいじゃん。なんで黙ってんの?」

黙っているつもりはなかった。
答えが出せないだけだった。

"違う"と言うなら、何が違うのか説明しなきゃいけない。
説明したら、黒い端末の存在に触れる。
触れたら、全部が現実になる。「じゃあ何で持ってるの」「何回使ったの」「他に誰に送ったの」——質問が枝分かれして、一つ答えるたびに三つ新しい問いが生まれる。

「……知らない」

言った瞬間、相手の眉がわずかに上がった。
"知らない"は逃げだ。真実を言えば壊れる。嘘を言えば重なる。残ったのが「知らない」で、「知らない」は真実でも嘘でもない灰色の場所だ。灰色は安全に見えて、実はいちばん信用されない色だ。

教室の端で、誰かが笑った。
笑い声の形をしているけど、笑ってない。

そのとき、前の席の椅子が引かれる音がした。
レイが立っていた。

「それ、今ここで詰める話?」

声が低くて、教室のざわつきが一瞬止まった。
レイは誰かを睨まない。睨まないのに、場が引き締まる。

「文面だけで"誰が書いた"って決めるのは危険だよ。スクショは切り取りで意味が変わるし、転送された時点で別の意図も混ざる」

言っていることは正しい。正しすぎる。そして、昨日の廊下で私に言った「本人の温度より先に"形"が出ると、周りが勝手に意味を作る」と同じ構造の言葉を、今度は教室全体に向けて使っている。

「それに、ひよりが誰かを壊すために文章を書くって、みんな本気で思ってるの?」

誰も反論できない静けさ。
反論できないのは、レイが正しいからだ。でも正しさで黙らされた人間は、納得したのではなく、封じられただけだ。

レイはそこで、私を見た。
優しく微笑んだ。完璧な温度。完璧であることが、もう恐怖の信号になっている。

「ひよりもさ。もし何か事情があるなら、ちゃんと言えばいいよ。みんな、君の言葉なら信じるから」

——君の言葉なら信じる。

優しい。
でも、逃げ道が塞がれた。

"ちゃんと言えばいい"は、"黙っていたら信じない"の裏返しだ。
"君の言葉なら信じる"は、"信じてもらえる言葉を出せ"という圧力だ。信頼は贈り物に見える。でも条件付きの信頼は、返済を求める借金だ。

教室の空気が少しだけゆるむ。
ゆるんだ分だけ、私の中で別の疑いが増える。

レイが庇った。
その事実は、もう新しい噂になる。「レイがひよりを庇った」「あの二人やっぱり」——庇った瞬間に、レイと私はセットになる。
そして私は、"信じてもらえる言葉"を出さなきゃいけなくなった。

自分の言葉で。
——自分の言葉で、足りるだろうか。足りなかったら、また端末に頼る。頼ったら、Countが増える。増えたら、もっと足りなくなる。螺旋だ。降りる方の螺旋。

---

昼休み。
美咲が「ごめんね」と言ってきた。

「ひより、さ。みんなに一言言った方がいいよ。"違う"って。ちゃんと」

ちゃんと。
レイも言った。美咲も言う。
みんなが"ちゃんと"を求めている。

でも"ちゃんと"は、"完璧に"だ。
完璧な言葉を。私の口から。
私の口から出る言葉が、もう信用されていないのに。信用されていない人間に「ちゃんと」を求めるのは、溺れている人間に「ちゃんと泳げ」と言うのと同じだ。

「……ねえ、ひより。正直に言って。あの文章、ひよりが書いたの?」

その問いが、いちばん苦しかった。
美咲の中でも、私の"正解"が信頼の根拠になってしまっている。「ひよりなら書ける」という信頼と、「ひよりが書いたんじゃないの」という疑いが、同じ根から生えている。

私は答えられなかった。
「書いた」と言えば別れ文の犯人になる。「書いていない」と言えば美咲への文も否定することになる。どの扉を開けても、違う種類の崩壊が待っている。

喉の奥が、乾いた紙みたいに擦れる。

そのとき、スマホが震えた。
クラスのチャットに、誰かがこう書いていた。

「ひより、文章得意だし、相談されて書いたとか? ならそう言えばよくない?」

相談。得意。
得意というラベルは、逃げ道でもあり、檻でもある。逃げ道として使えば「相談に乗っただけ」で済む。でも檻として機能すれば「得意だから頼まれて書いた」が定着して、次からもっと疑われる。

——だったら、いっそ火を消す文章を作ればいい。
——この場を"収束"させればいい。

考えが出た瞬間、背中にぞわっと冷たいものが走った。
私はもう、自然に"勝てる言葉"を探し始めている。問題が起きるたびに、反射的に言葉で解決しようとする。解決できてしまうから、やめられない。やめられないから、問題が大きくなる。

やめたい。
でも、やめたら負ける。
負けたら、私は一人になる。

私は美咲に「ちょっとだけ」と言って、図書室へ逃げた。
逃げる足取りが、もう慣れている。四日続けて同じ場所に逃げている。逃げ場所がルーティンになった時点で、逃げているのではなく通っている。

---

黒い端末を鞄から出す。
布包みの中で角が冷たい。

電源を入れると、白い画面にいつもの一行。

《あなたの言葉を、最適化します》

LovePost。

私は目を閉じて、入力欄に打った。

相手:クラス全体
目的:疑いを鎮めたい/これ以上拡散させたくない
制約:自分が黒幕に見えない/美咲を守る/真鍋を孤立させない

"自分が黒幕に見えない"。

その一文を打った指が、いちばん嫌だった。
私は今、自分を守るための正解を欲しがっている。"君の言葉なら信じる"に応えるために、私の言葉じゃないものを使おうとしている。レイの信頼に応えるために、レイを裏切っている。

【生成】

文が出る。
読み終えた瞬間、私は笑いそうになった。
感情じゃない笑い。冷たい笑い。完璧なものを見たときに出る、降伏の笑い。

> 「みんなへ。
> いま回ってるスクショの件、私が誰かを傷つけるために文章を書いたことはない。
> ただ、相談を受けて"落ち着く言い方"を一緒に考えたことはある。
> それが別の形で広まって、誰かを追い詰めるなら、私は止めたい。
> スクショを回すのはやめてほしい。
> 真鍋のことも、佐倉のことも、ここで断定して責めるのは違うと思う」

正しい。綺麗。
守りたいものが、全部守れる形。

そして、最悪なのは——この文章が"優しい"ことだ。被害者を守っているように見せながら、本当に守っているのは私自身だ。「止めたい」と書いているのは善意ではなく、これ以上掘られると困るからだ。

私はスマホに書き写した。
書き写すたびに、私の中の罪悪感が薄くなる。一回目は手が震えた。二回目は少し震えた。三回目からは震えなくなった。今日で五回目だ。
慣れている、という事実が怖い。

送信。

数秒で、既読の数が増える。
増え方が速い。待っていたのだ。みんな、私の言葉を。

すぐに返信が来る。

「了解」
「ごめん、回してた」
「ひより、そういうことなら最初から言ってよ」
「やめよ、スクショ」

空気が変わる。
本当に、文字だけで空気が変わる。教室にいなくても、図書室の隅から、画面越しに空気を操作できる。

——私、今、火を消した。自分がつけた火を、自分で消した。

美咲からも来た。

> 「ひより、ありがとう。助かった」

助かった。
誰が? 美咲が? 真鍋が? 佐倉が? ——私が?

私はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
勝てた。助けた、ではなく、勝てた。この語彙の選択が、自分の中で何が起きているかを正確に映している。

端末を閉じようとして、指が画面の隅に触れた。
薄い灰色の数字。

Count: 5

呼吸を忘れた。

五回。
私は、五回も"正解"で人を動かした。

Countの下に、さらに小さな文字が並ぶ。

Manual(マニュアル)
Owner(オーナー)
Exempt(イグゼンプト:例外)

意味は分からないのに、意味があることだけが分かる。説明書のない道具を使い続けている。使い続けることで、道具の方が私に馴染んできている。それは道具が使いやすくなったのではなく、私が道具の形に変わっただけかもしれない。

私は画面を伏せて、布に包み直した。

---

放課後。
教室は静かだった。
静かになったぶん、私の孤立が目立つ。

誰も責めない。誰も近づかない。
それがいちばんきつい。責められれば反論できる。無視されれば諦められる。でも「責めないけど近づかない」は、何もできない。

レイが私の席に来た。
机に手を置いて、いつもの声で言う。

「さっきの文章、よかったね。場が落ち着いた」

褒められている。
褒められているのに、吐き気がする。褒められるほど、嘘の上塗りが厚くなる。

「……ありがとう」

私はそう言ってしまう。お礼を言う。嘘の文章を褒められて、お礼を言う。
レイは頷いて、少しだけ笑う。

「君、そういうときの言葉、強いよね。"みんなが納得する形"を作れる」

納得する形。また、形。形が強いと言われている。中身のことは誰も聞かない。

私はレイの顔を見た。
優しいのに、どこか遠い。地図を見るみたいに、全体の配置を確認している目。

「……レイって、こういうの慣れてるの?」

レイは一瞬だけ間を置いた。
その間が、ちょうどいい。考えているふりの間。答えは最初から決まっていて、「考えている」という演出を挟んでいるだけの間。

「拗れる前に整えた方が、みんな傷つかないから」

正しい。
正しいから、怖い。

レイが去ったあと、廊下の奥にスズがいた。
四日連続で放課後に現れている。四日目にもなると、驚きは消えて、代わりに諦めに似た感覚が来る。
ただ、私のスマホを見て、目を細める。

「……今日のチャット、読んだよ」

私は答えなかった。

スズは小さく笑った。笑ってない笑い。

「文章ってさ。隠したつもりでも、癖が出るんだよ」

一歩近づいて、囁く。

「言い訳の順番。句点の癖。間の取り方。逃げ道の作り方。——指紋」

指紋。言葉の指紋。その比喩が正確すぎて、背骨が冷える。

「で、面白いことに」

スズは指を一本立てた。

「今朝回ってた真鍋の"別れ文"と、あんたが今日チャットに送った"火消し文"。骨格が似てるんだよね。似てるけど、癖が違う」

息が止まった。

「あんたの癖は知ってる。去年の部誌で照合できるから。で、別れ文の方は——あんたじゃない。でも同じ"整え方"をしてる」

スズは私の目をまっすぐ見た。

「つまり、同じ道具を使って、別の人間が書いてる」

言葉が出なかった。スズは私が考えていたことを、もっと正確に、もっと速く、言語化してしまった。

スズは踵を返しながら、最後に言った。

「明日、文芸室。来て。来なくてもいいけど——その場合は、私が先に"証明"する。道具の正体も、もう一人の使用者も」

廊下に残されたのは、夕方の光と、私の呼吸だけだった。

スズは知っている。端末のことだけじゃない。別の使用者がいることまで。文体分析だけでそこに辿り着いたのか、それとも別の経路があるのか。どちらにしても、明日の文芸室で、何かが確定する。

---

家に帰って、部屋のドアを閉めた。
机にノートを広げる。素稿ノート。昔の短い文章。誰にも見せていないはずの、自分の言葉。

私はペンを握った。
書こうとした。
書けなかった。

ペン先がノートに触れた瞬間、頭の中で自動的に「最適な書き出し」が浮かぶ。LovePostを開いていないのに、LovePostの思考回路が起動している。

代わりに、頭の中に"勝てる言葉"の形が浮かぶ。
どう書けば相手が落ち着くか。
どう書けば疑いが消えるか。
どう書けば誰も私を責めないか。

全部、相手の反応から逆算している。自分が何を思っているかではなく、相手がどう受け取るかから書き始めている。それは文章じゃない。設計図だ。

私はノートを閉じた。

——私は救ったの?
——それとも、操作したの?

問いは、答えを持っていない。
でも、答えの代わりに、薄い数字だけが浮かぶ。

Count: 5

五回。
私の中で、何かが不可逆に進んだ回数。

そして、この学校のどこかで、別の誰かのCountも進んでいる。

暗闇の中で、言葉だけが光る。

正解。
勝ち。
収束。

それらが、私の声に見える日が来たら。
私はもう、戻れない。
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