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アマメと私
アマメと私 その8
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天気予報の通り、翌日の新座には朝早くから雪が降り始めた。はじめのうちは細雪であったが、昼を過ぎるころにはしとしとの牡丹雪へと変わった。石油ストーブを働かせている家の中にいても寒いくらいで、廊下に出るのは億劫を通り越して苦行であった。
新座の雪はよく積もる。網走監獄を囲む塀の如き雪の壁が出来る、北海道の奥地ほどではないが、関東近郊ではまず間違いなく一番であろう。浮遊以前はそうでもなかったのだが、町全体が宙に浮いてからは雪が解けにくくなった。雪が雨へと変わる前に落ちてくるのも一因である。
容赦なく降り注ぐ大粒の雪がどしどしと積もっていく様を、私は家の窓からじっと見ていた。恐らく明日には、下から運ばれてきた除雪車が新座を走り回ることになるだろう。
雪の光景には慣れている。だからといって好きにはなれるのかといえば、それは別問題である。久しぶりに見て改めて理解した。やはり私は雪が苦手だ。
外に出たくはなかったが、ここまできて「やっぱなし」では、アマメに針を百万本口に突っ込まれた挙句、青前さんの手によってアメリカンコーヒーの海で溺死させられる。積もりゆく雪を眺めつつ、私は覚悟を決めた。
午後の五時を超えた辺りで、茂川先生から電話がきた。先生の声はやたらと弾んでおり、どうやら雪に興奮しているものと思えた。
「やあ在原くん。いやあ、今日は絶好のお祭り日和だね」
先生はふんすと鼻息を吹いた。
「さっき祭りの道具を借りてきたところでさ。いつでもいいよって、伝えようと思って」
「借りたって……つまり、準備はまだなんですか?」
「ああ。君らと一緒にやろうと思って。よく言うだろう? 祭りは準備が一番楽しいってさ」
「なにを悠長なことを。これから準備を始めたら、祭囃子が鳴るころにはサンタがプレゼントを配り終わってますよ」
「大丈夫さ。すぐに出来るから」
「なにを言ってるんです。お祭りはカップ麺作るのとは違うんですよ」
「僕にとっては似たようなものさ。とにかく、どこでお祭りを開こうか。個人的には平林寺の前の通りがいいんだけどなぁ」
「あんなところに無許可でやぐらでも建てたんじゃ、市役所に何言われるかわかりませんよ」
私は深くため息を吐いた。「片山の小学校なんてどうですか? あそこなら広いですし、多少騒いでも大目にみてくれると思います」
「まあそれでいいか」と茂川先生は渋々納得した。
「なら、一時間後に学校で会おう」
それから私は浴衣に着替え、その上からぶ厚いベンチコートを着込んだ上で外に出た。しかしそれでもまだ寒かったので、一旦家に戻り、使い捨てカイロを身体中に貼り付けてから再度出発した。
昼に比べれば雪は弱くなっていたが、寒さは厳しくなっている。家を出てから一分もしていないのに、足の指先と鼻の頭が既に痛い。真新しい雪を踏みつけるとしゃりしゃりと音がして、その度に耳がぞわぞわする。背筋が冷たいのは寒さだけのせいではない。
新座の夜はただでさえ静かだというのに、この雪のせいでなおさら静まり返っているようだった。ぼんやりと歩いていると、世界に取り残された天空の町で、さらに独りで取り残された気分になる。歩いているうち時折視界にちらつく、民家の一室から漏れる暖色の光が、私の孤独感をさらに強めた。
ふうふう息を吐きながらなんとか歩き、二十分ほど掛けてようやくアンリに着いた。店に客の姿は無かったが、ただひとり青前さんだけがカウンター席の一番奥で肘をつき、ぽつんと座っている。上品な薄紫の浴衣が、季節外れではあるが大変よく似合っていた。
私は店の扉を開き、「青前さん」と声をかけた。「よくお似合いですね。素敵ですよ」
少し間を置いてから青前さんはこちらを向き、「お世辞なんていいのに」と笑みを浮かべた。一日経ったからなのか、機嫌を直してくれたらしい。
「お世辞じゃありませんよ。そんなつまらんことを言う男じゃありません、私は」
カウンターにはカップがふたつ並んでいた。ひとつはきっとアマメのものだろう。私は青前さんの隣に腰掛けながら、「アマメはどうしたんですか」と訊ねた。
「いま、向こうで浴衣に着替えてるよ。そろそろ来るんじゃないかな」
青前さんはコーヒーに視線を落として、黒い液面をソーサーでくるくるとかき回す。
「ナリヒラくんから誘ってくれるのは嬉しいけどさ、どうして浴衣が必要になるのさ」
「そのうちわかります。もう少しだけお待ちを」
「この秘密主義者め!」
「ひとつやふたつ秘密を持つくらいでないと、男はダンディズムを身に着けられないのです」
店の奥から「お待たせ」という声が聞こえてきて、それに続けてアマメが姿を現した。白いラインの走った黄色い浴衣は、朱色の帯と相まって、なんだかとっても大正ロマンの香りに溢れている。
「あら、アマメちゃん。なかなか似合ってるじゃない」
「それほどでも」とアマメは口周りの表情筋のみを動かした。
「そろそろ行こうよ。わたし、早く屋台の焼きそばが食べたいな」
アンリを出た私達は、三人で列になって雪に埋もれた白い道を進んだ。雪中行軍の行きつく先がお祭り会場だとは、まさか青前さんは夢にも思っていないだろう。
アンリの裏に伸びる道を歩けば、三分ともせず片山の小学校に辿り着く。鍵が開け放しになった裏門から敷地内にこっそりと入り校庭に向かうと、例の空飛ぶデロリアンが雪上に駐車されていた。それを見つけた青前さんは、興奮したように「デロリアンだ!」と声を上げた。
「ドクが乗ってるのかな!」
乗っているのはドクではないが、うさん臭さという点に限るならば茂川先生もあの人に負けてはいないだろう。
私達が車に近づくと、ねじり鉢巻きを頭に締めてゾウキリンのTシャツを着た茂川先生が運転席から出てきた。足元は下駄、片手にはうちわで、夏の季節からタイムスリップしてきたかのような恰好である。「なにあの頭おかしい人」と青前さんは身もふたもないことを言った。
「やあ。待ってたよ在原くん」
先生は鼻水をずるずる垂らしながらも笑顔を浮かべた。「さて、君の素敵なお連れ様と会うのは初めてだけど、挨拶は後にしようか。じゃないと僕はそのうち凍え死ぬ」
「凍え死ぬ前にお祭りを置いていって」
涼しい顔でそう言ったアマメを見て、先生は私にこっそりと「怖い姪っ子だね」と耳打ちした。
「まるでお祭り強盗だ」
「新座市民は楽しいことに飢えているのです。その中には、あの子のように目的のためなら針を百万本飲ませることだって辞さない人だっているのですよ」
「どこにでも過激派はいるものだね」
しみじみとそう言った茂川先生は車のトランクを開け、何やら引っ張り出そうとする。寒さのせいなのか動きが緩慢だ。見かねた私がそれを手伝おうとしたが、その矢先に私の肩をがっしり掴んで止めたのが青前さんであった。
「ちょっと待ってよ、ナリヒラくん。お祭りってなに?」
「祭囃子が鳴り響き、ぼったくり価格の屋台が立ち並び、無暗に女性を美しく見せる、夏の一大イベントです」
「そういうコトを聞いてるんじゃないの!」
「まあまあ。きっと、いまにわかりますから」
青前さんをなだめた私は改めて先生を手伝った。
車のトランクに詰められていたのは古臭いわたあめ製造機であった。真ん中に穴が空いた銀色のたらいからモーターが飛び出た簡単な造りで、機械全体がオレンジ色のクリアカバーで覆われている。カバーにはファンシーな文字で〝わたあめ工場〟と書かれたぼろぼろのステッカーが貼り付けてあり、それがなんともこの機械の歴史を感じさせる。
「……茂川先生。確かにわたあめはお祭りの醍醐味ではありますが、この存在があるだけでお祭りと呼べるかといえば、無理があると思われますが」
「これだけで〝さあお祭りだ〟と言えるほど、僕は豪胆じゃないよ」
製造機をバッテリーに繋いだ茂川先生は、どこまでも胡散臭い売り口上を並べ立てた。
「さあさあお立合い! こいつァただのわたあめ製造機じゃない。百年以上も昔から日本各地の祭り会場を渡り歩き、北は北海道、南は沖縄まで、全ての祭りの空気を吸い込んだ不思議で素敵なわたあめ製造機なんだ。ひとたびこいつを動かせば、辺りにたちまち祭りの空気が広がってく。そしてひとつ瞬きをするうちに、その場所はたちまち祭り会場へと変貌するってェんだから驚きだ」
「ナリヒラくん。この人、やっぱり寒さで頭おかしくなったのかな」と青前さんは呟き、これに同意するようにアマメがこっくり頷いたが、けったいな江戸っ子口調の茂川先生はちっとも気にせずさらに続けた。
「さてさてしかし、砂糖や飴玉が祭りの材料なのかって言えば、それってェのは少しばっかり違う。用意するのはリンゴ飴の棒、屋台のはずれくじ、失敗した型抜き、ビニールテープ製のわなげのわっか、ラムネのビー玉、花火の燃えカス、綺麗なスーパーボール、その他諸々……夏の残り香がする思い出の品々を細かく刻んで装置に入れて、あとはスイッチをひとつ押せば、さてどうなるか――」
茂川先生はズボンのポケットから5cm程度の小瓶を取り出した。中には、恐らくお祭りの〝材料〟であろう色鮮やかな粒子が詰まっている。まるで夢の欠片のようだと私は思った。
小瓶のふたを開けた先生は、中に詰まっていた材料すべてをモーターに流し込み、製造機の電源を入れた。
ぶぉーんと低い音が鳴り、モーターが高速で回転する。やがてたらいの内部には、蜘蛛の巣のように細く、煌びやかな糸がふわふわと浮かび始める。懐から割り箸を取り出した先生は、まるで本物のわたあめを作るかのようにそれを絡め取っていく。やがて作り上げられた、やけにキラキラとしている偽のわたあめを満足そうに見つめた先生は――雪のちらつく新座の空に向けて、目いっぱいに振りかぶって放り投げた。
宙に放られたわたあめは、重力に逆らってゆっくり空へと昇っていく。先生は「さあ! とくとご覧あれ!」と天高く叫んだ。
空へと消えていくわたあめを眺めるうち、まず感じた変化が気温であった。明らかに先ほどよりも空気が温かくなっている。というよりも暑さすら感じる。私はベンチコートと手袋とマフラーを脱ぎ捨てて、市松模様の浴衣だけになった。しかしそれでもなお暑いのだから異常だ。頬を撫でる風は多くの湿気を含んでおり、重苦しさすら感じるほどで、これではまるで真夏の夜である。
原因不明の病気にかかったのかと思ったがそうではない。私だけではなく青前さんもアマメも、「あっついなあ」と言いながら身に着けていた防寒着を全て脱ぎ捨てたのである。
「ナリヒラくん、なにこれ。ドッキリ? ドッキリなの?」
「わかりません。ですが、楽しくなってきました」
「正直、あたしも楽しい!」
私は空を見上げた。これだけ暑いにも関わらず、未だ雪がちらついている。それどころか、却って先ほどよりも粒が大きくなってきたように見える。
これだけ暑くなったというのに、どういうことかと思っていると、落ちてくる雪に手を伸ばしたアマメがそれを舌で舐めとって、「あまい」と呟いた。
「お兄さん、お姉さん。これ、わたあめだよ」
「ウソだ」と返した青前さんは、落ちてきた雪を手の平で受け止め、恐る恐る舌を伸ばす。舌先で軽くそれを突いた彼女は、一転笑顔になって「ホントだ!」と言った。
「なにこれ。ホントなにこれ。夢じゃないんだよね?」
「お嬢さん。こんなことで驚いてるようじゃ、心臓がいくつあっても足りないよ」
茂川先生はもうひとつわたあめを作ると、再びそれを空へと放った。するとどこからか太鼓の音と祭囃子が響いてくる。もうひとつ投げればおたふくソースの焼ける香ばしい匂いが、さらに投げれば鈴カステラの甘い香りが野暮ったい風に運ばれてくる。
「ほら、まだまだ!」
先生はわたあめを作っては投げ、作っては投げを繰り返す。その度にイカ焼き、くじ引き、たい焼き、わなげ、焼きそば、金魚すくい、かき氷、射的、りんご飴、ヨーヨー釣りなどの屋台が雪の積もった校庭からにょきにょきと生えてきて、祭りの風景を形成していく。
最後に先生が空に放った大きなわたあめが、数々のちょうちんをぶら下げた大きなやぐらを形成したことで、学校の校庭には純然たる夏祭りの風景が出来上がった。
私の記憶の中には、この学校の校庭にこのように屋台が立ち並んでいた景色はない。しかし、これがきっと新座の在りし日の姿なのであろう。下で行われる大きな祭りに比べれば大したことがないのは事実だが、こじんまりとしているのも趣がある。それに、間違いなく見たことがない景色だというのに、私の中の心象風景を思い起こさせて無性に感慨深い。
青前さんは「なにこれ」と嬉しそうに呟いたきり絶句している。アマメは無表情ながらもキラキラと瞳を輝かせて、「スッゴイ」と呟いた。
「さあて、若い子たちは遊んどいで。僕はここで、お祭りを作り続けなくちゃ」
「手伝わなくていいんですか?」
「構わないよ。今日の僕は客ではなくてお祭り奉行だからね」
お祭り奉行がどんな役割を持つ役職なのかは定かではないが、言わんとしていることはなんとなくわかった。私が「では、お言葉に甘えて」と頭を下げると、茂川先生は「ぐっどらっく」と親指を立ててみせた。
アマメが私と青前さんの浴衣の袖を「行こうよ」と引っ張った。
「せっかく、あのおじさんが用意してくれたお祭りだもん。楽しまなくちゃ」
新座の雪はよく積もる。網走監獄を囲む塀の如き雪の壁が出来る、北海道の奥地ほどではないが、関東近郊ではまず間違いなく一番であろう。浮遊以前はそうでもなかったのだが、町全体が宙に浮いてからは雪が解けにくくなった。雪が雨へと変わる前に落ちてくるのも一因である。
容赦なく降り注ぐ大粒の雪がどしどしと積もっていく様を、私は家の窓からじっと見ていた。恐らく明日には、下から運ばれてきた除雪車が新座を走り回ることになるだろう。
雪の光景には慣れている。だからといって好きにはなれるのかといえば、それは別問題である。久しぶりに見て改めて理解した。やはり私は雪が苦手だ。
外に出たくはなかったが、ここまできて「やっぱなし」では、アマメに針を百万本口に突っ込まれた挙句、青前さんの手によってアメリカンコーヒーの海で溺死させられる。積もりゆく雪を眺めつつ、私は覚悟を決めた。
午後の五時を超えた辺りで、茂川先生から電話がきた。先生の声はやたらと弾んでおり、どうやら雪に興奮しているものと思えた。
「やあ在原くん。いやあ、今日は絶好のお祭り日和だね」
先生はふんすと鼻息を吹いた。
「さっき祭りの道具を借りてきたところでさ。いつでもいいよって、伝えようと思って」
「借りたって……つまり、準備はまだなんですか?」
「ああ。君らと一緒にやろうと思って。よく言うだろう? 祭りは準備が一番楽しいってさ」
「なにを悠長なことを。これから準備を始めたら、祭囃子が鳴るころにはサンタがプレゼントを配り終わってますよ」
「大丈夫さ。すぐに出来るから」
「なにを言ってるんです。お祭りはカップ麺作るのとは違うんですよ」
「僕にとっては似たようなものさ。とにかく、どこでお祭りを開こうか。個人的には平林寺の前の通りがいいんだけどなぁ」
「あんなところに無許可でやぐらでも建てたんじゃ、市役所に何言われるかわかりませんよ」
私は深くため息を吐いた。「片山の小学校なんてどうですか? あそこなら広いですし、多少騒いでも大目にみてくれると思います」
「まあそれでいいか」と茂川先生は渋々納得した。
「なら、一時間後に学校で会おう」
それから私は浴衣に着替え、その上からぶ厚いベンチコートを着込んだ上で外に出た。しかしそれでもまだ寒かったので、一旦家に戻り、使い捨てカイロを身体中に貼り付けてから再度出発した。
昼に比べれば雪は弱くなっていたが、寒さは厳しくなっている。家を出てから一分もしていないのに、足の指先と鼻の頭が既に痛い。真新しい雪を踏みつけるとしゃりしゃりと音がして、その度に耳がぞわぞわする。背筋が冷たいのは寒さだけのせいではない。
新座の夜はただでさえ静かだというのに、この雪のせいでなおさら静まり返っているようだった。ぼんやりと歩いていると、世界に取り残された天空の町で、さらに独りで取り残された気分になる。歩いているうち時折視界にちらつく、民家の一室から漏れる暖色の光が、私の孤独感をさらに強めた。
ふうふう息を吐きながらなんとか歩き、二十分ほど掛けてようやくアンリに着いた。店に客の姿は無かったが、ただひとり青前さんだけがカウンター席の一番奥で肘をつき、ぽつんと座っている。上品な薄紫の浴衣が、季節外れではあるが大変よく似合っていた。
私は店の扉を開き、「青前さん」と声をかけた。「よくお似合いですね。素敵ですよ」
少し間を置いてから青前さんはこちらを向き、「お世辞なんていいのに」と笑みを浮かべた。一日経ったからなのか、機嫌を直してくれたらしい。
「お世辞じゃありませんよ。そんなつまらんことを言う男じゃありません、私は」
カウンターにはカップがふたつ並んでいた。ひとつはきっとアマメのものだろう。私は青前さんの隣に腰掛けながら、「アマメはどうしたんですか」と訊ねた。
「いま、向こうで浴衣に着替えてるよ。そろそろ来るんじゃないかな」
青前さんはコーヒーに視線を落として、黒い液面をソーサーでくるくるとかき回す。
「ナリヒラくんから誘ってくれるのは嬉しいけどさ、どうして浴衣が必要になるのさ」
「そのうちわかります。もう少しだけお待ちを」
「この秘密主義者め!」
「ひとつやふたつ秘密を持つくらいでないと、男はダンディズムを身に着けられないのです」
店の奥から「お待たせ」という声が聞こえてきて、それに続けてアマメが姿を現した。白いラインの走った黄色い浴衣は、朱色の帯と相まって、なんだかとっても大正ロマンの香りに溢れている。
「あら、アマメちゃん。なかなか似合ってるじゃない」
「それほどでも」とアマメは口周りの表情筋のみを動かした。
「そろそろ行こうよ。わたし、早く屋台の焼きそばが食べたいな」
アンリを出た私達は、三人で列になって雪に埋もれた白い道を進んだ。雪中行軍の行きつく先がお祭り会場だとは、まさか青前さんは夢にも思っていないだろう。
アンリの裏に伸びる道を歩けば、三分ともせず片山の小学校に辿り着く。鍵が開け放しになった裏門から敷地内にこっそりと入り校庭に向かうと、例の空飛ぶデロリアンが雪上に駐車されていた。それを見つけた青前さんは、興奮したように「デロリアンだ!」と声を上げた。
「ドクが乗ってるのかな!」
乗っているのはドクではないが、うさん臭さという点に限るならば茂川先生もあの人に負けてはいないだろう。
私達が車に近づくと、ねじり鉢巻きを頭に締めてゾウキリンのTシャツを着た茂川先生が運転席から出てきた。足元は下駄、片手にはうちわで、夏の季節からタイムスリップしてきたかのような恰好である。「なにあの頭おかしい人」と青前さんは身もふたもないことを言った。
「やあ。待ってたよ在原くん」
先生は鼻水をずるずる垂らしながらも笑顔を浮かべた。「さて、君の素敵なお連れ様と会うのは初めてだけど、挨拶は後にしようか。じゃないと僕はそのうち凍え死ぬ」
「凍え死ぬ前にお祭りを置いていって」
涼しい顔でそう言ったアマメを見て、先生は私にこっそりと「怖い姪っ子だね」と耳打ちした。
「まるでお祭り強盗だ」
「新座市民は楽しいことに飢えているのです。その中には、あの子のように目的のためなら針を百万本飲ませることだって辞さない人だっているのですよ」
「どこにでも過激派はいるものだね」
しみじみとそう言った茂川先生は車のトランクを開け、何やら引っ張り出そうとする。寒さのせいなのか動きが緩慢だ。見かねた私がそれを手伝おうとしたが、その矢先に私の肩をがっしり掴んで止めたのが青前さんであった。
「ちょっと待ってよ、ナリヒラくん。お祭りってなに?」
「祭囃子が鳴り響き、ぼったくり価格の屋台が立ち並び、無暗に女性を美しく見せる、夏の一大イベントです」
「そういうコトを聞いてるんじゃないの!」
「まあまあ。きっと、いまにわかりますから」
青前さんをなだめた私は改めて先生を手伝った。
車のトランクに詰められていたのは古臭いわたあめ製造機であった。真ん中に穴が空いた銀色のたらいからモーターが飛び出た簡単な造りで、機械全体がオレンジ色のクリアカバーで覆われている。カバーにはファンシーな文字で〝わたあめ工場〟と書かれたぼろぼろのステッカーが貼り付けてあり、それがなんともこの機械の歴史を感じさせる。
「……茂川先生。確かにわたあめはお祭りの醍醐味ではありますが、この存在があるだけでお祭りと呼べるかといえば、無理があると思われますが」
「これだけで〝さあお祭りだ〟と言えるほど、僕は豪胆じゃないよ」
製造機をバッテリーに繋いだ茂川先生は、どこまでも胡散臭い売り口上を並べ立てた。
「さあさあお立合い! こいつァただのわたあめ製造機じゃない。百年以上も昔から日本各地の祭り会場を渡り歩き、北は北海道、南は沖縄まで、全ての祭りの空気を吸い込んだ不思議で素敵なわたあめ製造機なんだ。ひとたびこいつを動かせば、辺りにたちまち祭りの空気が広がってく。そしてひとつ瞬きをするうちに、その場所はたちまち祭り会場へと変貌するってェんだから驚きだ」
「ナリヒラくん。この人、やっぱり寒さで頭おかしくなったのかな」と青前さんは呟き、これに同意するようにアマメがこっくり頷いたが、けったいな江戸っ子口調の茂川先生はちっとも気にせずさらに続けた。
「さてさてしかし、砂糖や飴玉が祭りの材料なのかって言えば、それってェのは少しばっかり違う。用意するのはリンゴ飴の棒、屋台のはずれくじ、失敗した型抜き、ビニールテープ製のわなげのわっか、ラムネのビー玉、花火の燃えカス、綺麗なスーパーボール、その他諸々……夏の残り香がする思い出の品々を細かく刻んで装置に入れて、あとはスイッチをひとつ押せば、さてどうなるか――」
茂川先生はズボンのポケットから5cm程度の小瓶を取り出した。中には、恐らくお祭りの〝材料〟であろう色鮮やかな粒子が詰まっている。まるで夢の欠片のようだと私は思った。
小瓶のふたを開けた先生は、中に詰まっていた材料すべてをモーターに流し込み、製造機の電源を入れた。
ぶぉーんと低い音が鳴り、モーターが高速で回転する。やがてたらいの内部には、蜘蛛の巣のように細く、煌びやかな糸がふわふわと浮かび始める。懐から割り箸を取り出した先生は、まるで本物のわたあめを作るかのようにそれを絡め取っていく。やがて作り上げられた、やけにキラキラとしている偽のわたあめを満足そうに見つめた先生は――雪のちらつく新座の空に向けて、目いっぱいに振りかぶって放り投げた。
宙に放られたわたあめは、重力に逆らってゆっくり空へと昇っていく。先生は「さあ! とくとご覧あれ!」と天高く叫んだ。
空へと消えていくわたあめを眺めるうち、まず感じた変化が気温であった。明らかに先ほどよりも空気が温かくなっている。というよりも暑さすら感じる。私はベンチコートと手袋とマフラーを脱ぎ捨てて、市松模様の浴衣だけになった。しかしそれでもなお暑いのだから異常だ。頬を撫でる風は多くの湿気を含んでおり、重苦しさすら感じるほどで、これではまるで真夏の夜である。
原因不明の病気にかかったのかと思ったがそうではない。私だけではなく青前さんもアマメも、「あっついなあ」と言いながら身に着けていた防寒着を全て脱ぎ捨てたのである。
「ナリヒラくん、なにこれ。ドッキリ? ドッキリなの?」
「わかりません。ですが、楽しくなってきました」
「正直、あたしも楽しい!」
私は空を見上げた。これだけ暑いにも関わらず、未だ雪がちらついている。それどころか、却って先ほどよりも粒が大きくなってきたように見える。
これだけ暑くなったというのに、どういうことかと思っていると、落ちてくる雪に手を伸ばしたアマメがそれを舌で舐めとって、「あまい」と呟いた。
「お兄さん、お姉さん。これ、わたあめだよ」
「ウソだ」と返した青前さんは、落ちてきた雪を手の平で受け止め、恐る恐る舌を伸ばす。舌先で軽くそれを突いた彼女は、一転笑顔になって「ホントだ!」と言った。
「なにこれ。ホントなにこれ。夢じゃないんだよね?」
「お嬢さん。こんなことで驚いてるようじゃ、心臓がいくつあっても足りないよ」
茂川先生はもうひとつわたあめを作ると、再びそれを空へと放った。するとどこからか太鼓の音と祭囃子が響いてくる。もうひとつ投げればおたふくソースの焼ける香ばしい匂いが、さらに投げれば鈴カステラの甘い香りが野暮ったい風に運ばれてくる。
「ほら、まだまだ!」
先生はわたあめを作っては投げ、作っては投げを繰り返す。その度にイカ焼き、くじ引き、たい焼き、わなげ、焼きそば、金魚すくい、かき氷、射的、りんご飴、ヨーヨー釣りなどの屋台が雪の積もった校庭からにょきにょきと生えてきて、祭りの風景を形成していく。
最後に先生が空に放った大きなわたあめが、数々のちょうちんをぶら下げた大きなやぐらを形成したことで、学校の校庭には純然たる夏祭りの風景が出来上がった。
私の記憶の中には、この学校の校庭にこのように屋台が立ち並んでいた景色はない。しかし、これがきっと新座の在りし日の姿なのであろう。下で行われる大きな祭りに比べれば大したことがないのは事実だが、こじんまりとしているのも趣がある。それに、間違いなく見たことがない景色だというのに、私の中の心象風景を思い起こさせて無性に感慨深い。
青前さんは「なにこれ」と嬉しそうに呟いたきり絶句している。アマメは無表情ながらもキラキラと瞳を輝かせて、「スッゴイ」と呟いた。
「さあて、若い子たちは遊んどいで。僕はここで、お祭りを作り続けなくちゃ」
「手伝わなくていいんですか?」
「構わないよ。今日の僕は客ではなくてお祭り奉行だからね」
お祭り奉行がどんな役割を持つ役職なのかは定かではないが、言わんとしていることはなんとなくわかった。私が「では、お言葉に甘えて」と頭を下げると、茂川先生は「ぐっどらっく」と親指を立ててみせた。
アマメが私と青前さんの浴衣の袖を「行こうよ」と引っ張った。
「せっかく、あのおじさんが用意してくれたお祭りだもん。楽しまなくちゃ」
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