流れ星の願い

白いお尻

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 夜も更けた頃。
 絨毯を敷き詰めた部屋の片隅で、一匹のシャム猫が丸くなりこくりこくりと眠っていた。首に赤いリボンと鈴をつけたシャム猫。猫の毛並みはすっかり衰え、色あせている。かなりの老齢らしいその猫は、一日の大半を同じ場所で眠って過ごしていた。
 部屋の中央のソファには若い男女が並んで座っている。男性は読書をし、女性は編み物をしていた。しばらくして、女性は編み物の手を休め、小さく欠伸をする。
「クルト、先に寝るわね」
 身ごもっているらしい女性は、編み物を脇によけるとゆっくりと立ち上がった。お腹の中の赤ん坊はもうすぐ生まれるらしく、彼女のお腹は大きく膨らんでいる。クルトという青年も本を置き、ソファから立ち上がる。
「お休み、レイラ」
 クルトはレイラ軽く抱きしめると、両頬にキスをする。そして、最後にレイラのお腹にそっと手をあてる。
「お休み、僕達の赤ちゃん」
 若い夫婦は、幸せそうな笑みを交わす。
 絨毯の隅のシャム猫も眠りから覚め、頭を上げて二人を見つめている。視力も衰えぼんやりとしか見えないが、愛おしそうな目を二人に向けている。シャム猫は身重のレイラを気遣うように、歩いて部屋を出ていくレイラの姿を見送っていた。
 妻のレイラと寝室に行っていたクルトが部屋に戻って来ると、シャム猫は緩慢な動作で身を起こす。そして、クルトの足元までフラフラと歩いてきた。
「ミーア、どうした?」
 クルトは足元の猫を見下ろす。ミーアという名のシャム猫は、小さく鳴くとクルトの顔をじっと見つめた。クルトは手を伸ばし、そっとミーアを抱き上げる。クルトに抱かれたミーアは、その手で優しく撫でられ、ゴロゴロとのどを鳴らす。
「今夜は静かな夜だな」
 クルトは窓に目を向けると、ミーアを抱いて窓辺に歩いて行く。窓から夜空を見上げると、真っ暗な空にたくさんの星達が瞬いていた。
「綺麗な星空だ」
 クルトの胸の中のミーアも空を見上げ、ミャァと鳴いた。
「ミーア、僕は星空を見ると、いつも思い出す人がいるんだ……」
 空を見ながらクルトは呟く。
「レイラにも話したことはないんだけどね」
 クルトはフッと笑う。
「昔、一度だけ会った美しい少女のこと。あの人のことは今でも忘れない」
 ミーアはクルトの顔をじっと見つめながら鳴く。その小さな鳴き声は嬉しいような寂しいような響きをもっていた。
「ミーアにあの人のことを話してあげるよ」
───クルト、私もあの日のことは忘れない。ずっと……


 私はシャム猫ミーア。ほんの小さな赤ん坊の頃から、クルトの家で飼われていた。初めて抱かれた小さなクルトの腕。柔らかくて温かくて、私は安心しきってスヤスヤと気持ち良く眠っていた。それは今も同じ。クルトは随分大きくなって逞しい青年になったけれど、温かくて柔らかな腕の感触はちっとも変わらない。
 心の優しさだって……。結婚してレイラと暮らすようになっても、ちゃんと私を連れてきてくれた。クルトはレイラと同じように、私のことも大切にしてくれる。
 私もクルトが大好き。
 あぁ、それにしても近頃は目が見えにくくて、歩くのさえやっとになってきた。猫の一生も人間と同じくらい長ければいいのに……。そうしたら、もっと長くクルトと過ごしていられるのに……。
 私がクルトの腕にそっと頭をこすりつけると、クルトは私の頭を優しく撫でてくれた。私の首の鈴がチリンチリンと鳴る。私はゴロゴロと喉を鳴らして目を瞑った。
「流れ星が落ちてきそうな空だなぁ」
 流れ星? 私は薄く目を開けて夜空を見上げる。今夜も流れ星が流れるかしら?……
流れ星を見たら、何と願いをかけようか? 瞬く星達を見つめながら、私は遠い昔に思いをはせる。

 私は昔から人間の話す言葉を理解出来た。クルトが私に話しかける言葉は全て分かったし、他の人達のうわさ話だって分かった。
 あの日、クルトがまだ少年の頃。今夜のように空一面に星が瞬く、ある日の夜。私はクルトと一緒に夜の散歩に出かけていた。
「ミーア、寒くない?」
 クルトは、後からついていく私の方を振り向いて声をかける。夏が近いといっても日が暮れるとまだ少し肌寒い。
───大丈夫よ!
 そう言うつもりで、私はミャーと元気に鳴いた。
「今夜は星がとても綺麗だから、もう少し歩いてみようか。星を見るのに良い場所を知っているんだ」
 笑顔でクルトは言う。クルトの優しい笑顔が好き。サラサラした栗色の髪、青い瞳が月明かりに映し出される。
───行きましょう! その場所に。
 私はクルトの元に駆けていき、はしゃいで彼の足元をクルクル回る。クルトが私の首につけてくれた赤いリボンと小さな鈴がリンリンと元気に鳴る。
「ミーア、おいで!」
 クルトは元気に走って行く。その後を追いかけていく私。クルトと過ごす時間が好き。クルトの言うことならなんでも理解出来る。だけど、残念なのは、私は人間の言葉が話せないこと。私の発する言葉はどれも猫の鳴き声。クルトとは会話出来ない。

 クルトと私は星空の綺麗な丘に到着した。広く小高い丘は、少しだけ空に近づいている。遮る物は何もない。手を伸ばせば星に届きそうなくらい、空が大きく近くに見える。
「到着ー!」
 丘を駆け上がって来たクルトは、息を切らせながら丘の上に寝ころぶ。私もクルトの後を追いかけ、寝ころんだクルトの頭近くに座り込む。
「ミーア、綺麗だろう?」
 クルトは仰向けに寝たまま夜空を見上げる。ミャァと鳴いて私も空を仰ぐ。キラキラ光る宝石のように、空の星達は綺麗だった。
「流れ星が落ちてきそうだなぁ」
───流れ星?
「ミーアは流れ星を見たことないかい? 光の尾を引いて流れる星はとても綺麗だよ」
 しばらくクルトと空を見つめていると、一つの小さな星が空をサッと横切るように流れてきた。
「あっ、流れ星だ」
───流れ星、あれが流れ星というもの?
 私はうっとりと星空を見つめる。
「早すぎて願い事を唱える暇がなかった」
───願い事?
 人間の言葉の代わりに、私はミャァと鳴く。
「ミーアも今度流れ星を見つけたら、願い事を唱えれば良いよ。流れ星が流れ落ちるまでに、心の中で三回願いを唱えるんだ。そしたら、その願いは叶うらしい」
 クルトは私を見ながら微笑む。
「でも、三回は無理なんだよね。僕はいつも一回唱えるのが精一杯」
───流れ星に願い事を三回? そしたら願いが叶う。
 私は星空をじっと眺めた。今度星が流れて来たら、願いを唱えてみよう。
 その後、星は何度か流れて来たけれど、クルトが言うように三回も願いを唱えるのは難しい。それでも私は、流れ星に願いを唱え続ける。たった一つの私の小さな願い。
───私を人間にして。私を人間にして。私を人間にして。
 星達に向かって、ずっと私は願い続けた。

 丘から戻り、私はいつものようにクルトと同じベットで眠りについた。クルトの体の温かさ安らかな寝息を側で感じながら、私は安心しきって眠る。
 その日の真夜中過ぎ。眩いばかりの明かりを体で感じ、私はふと目を覚ました。そこには誰もいない。ただ、部屋全体が真昼のような明るさに包まれていた。
───クルト!
 私は不安を感じ、猫の声で鳴いてクルトを見る。クルトは光には全く気付かず、安らかに眠っている。私はクルトに体をすり寄せ、警戒しながら体を丸める。
『お前の願いを叶えてやろう』
 どこからか声が響く。
───誰?
『お前は星に願いをかけた。その願いを叶えてやる』
───星の願い?
『猫のお前を人間にしてやろう。ただし陽が昇り沈む間だけだ。明日目覚めたらお前は人間の姿になっている。』
───人間に! 私を人間にしてくれるのですか?
 私は光に向かって叫ぶ。その声は猫の声。だけど、その人には私の言葉が分かるようだった。
『そうだ。半日だけ人間として過ごすが良い』
 力強いその声はそう言うと、光とともに闇の中に消えていった。何事もなかったかのように、辺りはまた暗闇と静けさに包まれる。
───これは夢? 幻?
 私はまた眠気に襲われ、瞳を閉じて深い眠りの中へと落ちていく。

 朝の光が私の顔にかかる。遠くで小鳥たちのさえずりが聞こえる。
───もう朝?……
 まだ眠い目をゆっくりと開け、ぼんやりとした頭で隣りに眠っているクルトを見る。クルトはまだ眠っている。彼はいつも朝寝坊する。だから、毎朝クルトを起こすのは私の役目。私は大きく伸びをして、ベットから身を起こす。
───うん? 体が寒い。
 手を伸ばしてクルトの体を揺すろうとした私は、その手を見てびっくりした。
───えっ! 何?
 人間の手だった。
「クルト!」
 猫の声で叫んだつもりが、私の喉から出てきた言葉は人間の言葉。慌てた私は、クルトの体を揺する。
「クルト、クルト!」
 クルトはようやく静かな眠りから目覚める。
「ミーア、もう朝になった?」
 欠伸をしながら、クルトはゆっくりと起きあがる。まだ瞼にくっつきそうな目を開けて私を見る。
「!……」
 私を見たクルトの目は大きく見開かれた。そして、顔を真っ赤にすると、ベットから飛び起きる。クルトの眠気はいっぺんに吹き飛んでしまったようだ。
 私は訳が分からず自分の両手に目をやった。人間の手が二つ。体も人間……。
「あっ……」
 私は人間になっていた。しかも一糸まとわぬ生まれたままの姿。猫なら服なんか着なくていいのに、人間は裸ではダメみたい。私は露わになった体を毛布で覆う。恥ずかしいという気持ちは私にはなかったけれど、クルトはものすごく狼狽えていた。
 十五才のクルトには、とても刺激的な姿だったのかもしれない。
「だっ、誰?」
 クルッと私に背を向けてクルトは聞いた。
 ミーアだって言いたかった。流れ星の願いが叶えられて人間になったと、だけどクルトには信じて貰えないかもしれない。
「なんでこんな所に?」
 答えない私にクルトが聞く。私もどうしたらいいか分からない。毛布をしっかりと体に巻き付けて、私は俯く。
「……ごめんなさい。私もよく分からない……目覚めたらここにいたの」
「……僕は君のこと何も知らない」
 クルトは振り向いて、チラリと私を見る。
「待って……母さんの服を借りてくる」
 クルトはそう言うと、急いで部屋を出ていった。

 クルトのお母さんの服を着た私は、クルトに連れられて台所に行った。いつも見慣れた台所。その片隅には私の餌を入れるお皿が置かれている。
「何か食べる?」
 私はテーブルにつくと首を振る。
「……あ、ミルクが飲みたい」
 毎朝、クルトは私にミルクをくれる。新鮮な朝のミルクは大好き。クルトはいつもの私用の入れ物ではなくて、マグカップにミルクをつぐと私の前に置いた。
 この入れ物は飲みにくそう……私は思わず猫のように顔だけカップに近づけ、舌を出してミルクを飲もうとした。首の鈴がチリンと鳴って、ようやく今は人間だということを思い出す。
「あっ、そのリボンと鈴……」
 怪訝そうな顔で私を見つめるクルトは、私の首の赤いリボンと鈴に気付く。
「ミーアと一緒だ。そう言えばミーアはどこに行ったんだろ?」
 クルトはキョロキョロと猫の私を探す。
「……」
 私がミーアよ! と叫びたい気持ちを私はグッと抑える。
「ね、君は何て言う名前? どうして僕のベッドで寝ていたの?」
 クルトは私の正面の席につくと、私をじっと見つめる。
「昨日寝る前、僕の部屋には誰もいなかった。窓の鍵だってちゃんとかけていたんだ。僕はいつものようにミーアと一緒にベットで眠って───」
「何も覚えてないの!」
 私は突然席を立つと、裸足のまま走って台所を飛び出した。
「あ、待って!」
 猫の時みたいに素早くは出来ないけれど、それでも私はスピードを上げて走り、家を出ていった。何も聞かないで! 私は心の中で叫びながら走って行く。
「待って、ねぇ、待って!」
 後からクルトが追いかけてくる。私は構わず走り続け、猛スピードで昨日行った丘まで走って行った。
「……君、恐ろしく足が速いね……」
 丘に着いた私の元に、遅れてクルトが駆けてくる。はぁはぁと苦しそうに肩で息をしていた。
「クルト」
 私はちょっと心配になってクルトの元に走って行く。
「大丈夫?」
 クルトはそのまま草の上に倒れ込んだ。
「……僕、君に名前教えたっけ?……」
 荒い息をしながらクルトは私の顔を見上げる。
「?……分からない」
 私は首を振ってクルトの側にしゃがみ込む。
「君は何も分からないんだね……」
 汗で濡れた顔を私に向けて、クルトは優しく微笑む。いつものクルトの笑顔。私は少しホッとして微笑んだ。
「あ、君、ミーアと同じ薄いブルーの瞳をしているね。そのリボンと鈴もミーアと同じだし、まるでミーアみたいだなぁ」
 仰向けのまま、私の瞳をじっと見つめるクルト。そうよ、私はミーアだもの。
「ク・ル・ト」
 いつものようにミャーと甘えて鳴くように、心を込めて私はクルトの名前を呼んだ。私を見つめていたクルトの頬が赤く染まる。
「……君はとっても不思議な子だけど、何だか初めて会ったような気がしない」
 猫の姿なら、クルトに甘えて身をすり寄せるんだけど……人間の姿では出来ない。でも、もっとクルトの側に寄りたくて、私はゴロンとクルトの横に寝ころんだ。クルトは少し驚いたみたい、戸惑った顔して私を見る。
「空、とても綺麗……」
 私は雲の浮かんだ青い空を見上げる。夜空も綺麗だったけれど、昼間の青い空もとても美しい。気持ちのいい風が草花の香りを運んで丘を駆け抜ける。
「……うん、綺麗だね」
 クルトも空を見上げる。心地よい風に吹かれながら、私はそっと目を瞑った。クルトと私は二人並んで寝ころび、丘の上でしばらくウトウトと眠っていた。

 夢のようなひとときだった。クルトと二人丘をめぐり小川で水遊びをして、いつものようにクルトと戯れる。でも、その日私は猫の姿じゃなくて、人間の少女の姿。
 流れ星の願いは、一生の宝物。この日の記憶はずっと忘れない。
 日が傾き始めた頃、クルトは一緒に家に帰ろうと言った。
「君は記憶を失っているみたいだから、しばらく家で暮らすと良いよ」
 と、クルトは言ってくれた。人間の姿のままずっとクルトと過ごせたらどんなにいいだろうと思う。でも、それは出来ない。私はもうすぐ元の猫に戻るから。
「私、もう少し外にいる」
 私は小さな声でそう言う。
「じゃあ、後で迎えに来るよ。今日はミーアをずっとほったらかしだから、ミーアの様子をちょっと見てくるね」
 クルトは微笑んでそう言った。
「うん」
 私も笑顔で頷く。今度会う時は猫のミーアでね。そう思うとちょっと寂しい気持ちになる。クルトは私に手を振ると、家に向かって走って行く。
───流れ星さん、素敵な一日をありがとう。
 心の中で私は呟く。クルトの姿が見えなくなるまで、私はずっとクルトの後ろ姿を見つめていた。


「それで、今日みたいに星が綺麗に瞬き始めた頃、僕は彼女を迎えに丘に行ったんだ。だけど彼女の姿はどこにもなかった。その代わり、丘にはミーア、君がいた。丘の上にじっと座っていたね。あの日君はずっとどこかに行っていたよね?」
 クルトは腕の中のミーアを見る。ミーアは目を細めながら小さくミャァと鳴いた。こくりこくりと頭を揺らし、今にも眠ってしまいそうになっている。
「ミーア、眠いのかい?」
 クルトは軽くミーアを揺するが、ミーアはぐったりとしたままだった。
「それで、不思議だったのは、丘の上に母さんの服が落ちていたこと。僕が彼女に貸してあげた母さんの服があったんだ。彼女は服を脱ぎ捨てて、またどこかへ行ってしまったのかもしれないね。彼女はそれっきり、流れ星みたいに消えてしまったんだ。現れた時みたいに……」
 しばらく、クルトはミーアを抱いて星を見上げていた。

「クルト、まだ寝ないの?」
 真夜中過ぎ、目覚めたレイラが部屋に入って来た。
「あぁ、星空が綺麗だったから、ミーアと一緒に見とれていたんだ」
 レイラも窓辺に近寄り、窓の外を眺める。
「本当ね。星が眩しいくらい光ってる」
 クルトの腕で眠っていたミーアは、何かの気配を感じふと目を覚ます。ミーアが窓から夜空を見上げた時、光り輝く流星が夜空をゆっくりと流れてきた。
「あっ、流れ星」
 クルトは輝く流星に見とれる。ミーアは最後の力を振り絞るように、クルトの腕の中で身を起こした。そして、首を伸ばし、霞む目で流れる星を見つめながら、一心に願いを唱える。
───人間に生まれますように。人間に生まれますように。人間に生まれますように……
ミーアはそう願うと、ゆっくりと瞳を閉じた。
「早すぎて願いを唱えられなかったな」
 クルトは窓から視線を移し、微笑んでレイラに言う。
「残念ね。でも、流れ星は一つの命が終わり、一つの命が宿る時にも流れるらしいわ」
 レイラはそっと大きくなったお腹を押さえる。
「流れ星が、新しい命を無事に運んできてくれると良いね。ミーア、もう眠ったのかい?」
 クルトが腕の中のミーアに声をかけると、ミーアは目を瞑ったまま力を振り絞るようにミーと小さく鳴く。そして、ぐったりとクルトに身を委ねる。
 安らかな満ち足りた表情をしたミーアは、そのまま永遠の眠りへと落ちていった。
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