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第9章
(23)夢を諦めた男
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ライブハウスの近くにあった公園のベンチに日比野さんを座らせ、僕は自動販売機に足を向けた。彼女の様子が気掛かりで急いで投入口に五百円玉を入れようとして手が滑り、それが砂の上を転がっていく。
「あっ」
側溝へ向けて真っ直ぐに転がる五百円玉。溝の中へとそれが落ちる寸前、飛び出してきた黒猫が素早くそれを前足で押さえた。
「え? ラッキーキャット様?」
黒猫はハッとしたようにこちらを見て、オロオロとした様子で視線を漂わせている。その仕草はどう見ても、「しまった! 思わず身体が動いてしまったけれど、この後どうしよう」と戸惑っているような表情だった。
いつ見ても、この黒猫の動きや表情は、どこか人間のようで面白い。
「あの……。それ、有り難うございました」
肉球の下にある五百円玉を指差し、驚かさないように声のボリュームを抑えて話し掛ける。
「それから、雨宮のことを見つけてくれて有り難うございます。あいつの歌を、気に入ってくれて有り難うございました。これからも、公演見に来て下さいね」
そう言って笑いかけると、垂れ下がっていた尻尾をピーンと立て、まるで返事をするかのように勢いよく左右に振ってくれた。そして、五百円玉を咥え、恐る恐るこちらに近付いてくる。
「え!」
黒猫の方から近寄ってくれるなんて初めてだ。僕がそっと掌を差し出すと、咥えていた五百円玉を乗せてくれた。
うぉおおおーーー!
ラッキーキャットさまぁあああ!
その場で叫び出しそうになる嬉しさを必死に心の中に押し込めて、僕は「有り難うございます」と黒猫に頭を下げる。その毛並みに触れて、思う存分モフってみたかったけれど、待たせたままの日比野さんの事が気になり真島は自販機へと引き返した。
冷たいお茶と温かいお茶を一本ずつ買って、駆け足で初音の元へ戻る。
「日比野さん、お待たせしました。温かいのと冷たいの、どっちがいいですか?」
「有り難う。温かい方、もらってもいい?」
「もちろん」
日比野さんがバッグから財布を出そうとしていたので、「いいっすよ」と制して、僕は隣に腰を下ろした。
「ごめんね。皆さんとの話の途中で、急に抜けちゃって」
「いえ。さっきより、顔色だいぶ良くなりましたね。良かった」
僕が笑うと、日比野さんもようやく落ち着きを取り戻したのか、笑みを返してくれた。それでもやはり、まだ少しぎこちない笑顔で、彼女の心に何か大きな衝撃があった事が容易に予想できる。
それは、『小町さん』と呼ばれている老婦人の話題になり、その行方不明の息子の名がでた瞬間だった。
そっと日比野さんの様子を伺うと、何か言おうと口を開き、けれど戸惑うようにまた口を閉ざしてしまう。そんな風に、先程からずっと何かを言い淀んでいる。
僕は無理に聞き出すことはせず、努めて明るい声で別の話を振った。
「あそこの自販機で手が滑って小銭を落としたんですけど、それをラッキーキャットが拾ってくれたんです」
「え? ラッキーキャットさんがいたの?」
「はい。溝に落ちる寸前に小銭を止めてくれて、更にそれを咥えて、僕のところまで運んでくれたんです!」
僕はポケットの中に入れていたそれを取り出すと、初音の手をとりそれを掌に乗せた。自販機でこの五百円玉を使ってしまうのが勿体無いような気がして、お茶は千円札を崩して買ったのだ。
「この五百円、日比野さんが持っていて下さい。ラッキーが詰まった、最強の御守りだと思うんで」
日比野さんはそれをしばらく見つめると、ギュッと握り締めた。そして、意を決したように話し始める。
「私ね……。子供の頃、施設で育ったの」
好き勝手に夢を追い働こうとしない父親と、支えるだけの生活に疲れ果て、壊れてしまった母親。そんな母と彼女を置いて、父親はすぐに別の女性の元へと去っていったと話してくれた。それは真島が初めて知る、彼女の過去だった。
「私の名前は、出て行った父がつけたの。母はこの名前を呼ぶ度に父の事を思い出すようで、この名前をずっと憎んでいたと思う。まだ父が側にいた頃は、違っていたのかもしれないけれど、私にはもう、母から愛しそうな声で名前を呼んでもらった記憶はなくて……。いつも辛さや憎さがこもった声をしていた」
名前へ向けられた母親の憎しみは、徐々に形を変えて、日比野さん自身へと向けられるようになったという。
「ある夜、息苦しさに私が目を覚ますと、母は泣きながら私の首を絞めていた。でもね、あの頃の私には母の存在が全てだったから、その母をこんなにも苦しめる自分の名前と父の事が許せなかった」
『ごめ、んね……おかあ……さ……』
彼女のその声で母親は我に返り、最悪の事態は免れた。しかし母は即日入院となり、その日から彼女は親戚中をたらい回しにされる事になる。そして、どこにも居場所は見つからないまま施設で暮らす事になった。日比野さんが話す少女時代の彼女の時間は、僕の想像をこえた過酷なものだった。
『私、首元に、前方から手を伸ばされるのが苦手で……』
僕は一度、前方から日比野さんの肩についた糸を取ろうとして、強く手を振り払われた事があった。向かい合わせで座り、一緒にランチを食べた日の事を思い出す。あれは、幼少期のトラウマだったのだ。
「父の事は、もう顔も覚えてないの。それでも私は、一生あの人のことを恨み続ける。私と母の人生をめちゃくちゃにしたあの人を、私は絶対に許さない」
彼女の瞳に、強い憎悪の色が滲むのが見えた。
「日比野という苗字は母の旧姓で、父の……父の苗字は……」
僕の脳裏に、雨宮の同級生が言った名前が過ぎる。
『行方不明の息子さんの名前は、水寺 宗一さんだよ』
そんな思考の中の名前と、隣に座る日比野さんの言葉が重なる。
「父の名前は、水寺 宗一。雨宮くんの同級生の方が言った名前と同じだった」
ただの同姓同名の偶然という可能性は否定できない。それでも、なぜかその人が日比野さんの父であるような気がした。
誰よりも憎んでいる父親の名前と、彼女にとって祖母になるかもしれない『小町』の存在。こんな情報を一気に知る事になり、日比野さんが戸惑うのは当然だ。
「でも、あの場では、何も言えなくて……。逃げるみたいに、離れることしか出来なくて」
日比野さんがうつむいて、今にも泣き出しそうな顔で掌の中の五百円玉を強く握り締めている。
「日比野さん。話してくれて有り難うございます。今は、ものすごく混乱してると思うんですよね。だから……だから……、うまい飯を食いに行きませんか?」
「え?」
「落ち着いて、お腹いっぱいになって、それから、日比野さんがどうしたいのか。ゆっくり考えるのがいいと思います」
恐らく、雨宮たちは日比野さんに話を聞きたいと思っているだろう。小町さんの体調不良を思うと、早く情報を知りたいはずだ。けれどこんな状況の彼女を、無理やり急かして話をさせる事だけはしたくないと思った。
「改めて落ち着いてから、しっかり考えましょう!」
「そうだね。そう言えば……、私もお腹すいたかも」
そう話す日比野さんの表情が、少し和らいだように思う。ホッと息を吐いた時、ベンチの後ろの植え込みから、ふと視線を感じて僕はそちらに目を向けた。
「あ」
黒猫が、木々の合間からチラチラとこちらを見つめ、まるで聞き耳を建てるようにピンと耳を伸ばしている。
その表情は日比野さんを気遣っているような眼差しで、先程までの二人の会話を理解しているように見えた。
「あそこ、ラッキーキャット様も心配してるみたいですよ。日比野さんのこと」
「え?」
僕が小声でそう告げると、日比野さんがそっと後ろを振り返った。こちらを見つめる黒猫と日比野さんの視線がピタリと重なったのが、横から見ていて分かった。
「ラッキーキャットさん。心配してくれて有り難う。私は……あの頃と違って、子供の頃の私と違って……今の私には、隣で話を聞いてくれる誰かがいるから。ちゃんと、ちゃんと笑えるような気がします」
日比野さんが黒猫に向かってそう話すと、伸ばした耳をピクッと震わせ、それから嬉しそうに尻尾を左右に振った。けれどその数秒後には、「別に心配とかしてませんけどー」とでも言いたそうなスンッとした表情をして、植え込みの中へと姿を消してしまった。
あの黒猫にも、使い分けなければいけない本音と建前があるのだろうか。
「急にスンッて顔して去って行きましたね」
「うん」
振り返っていた姿勢を戻し、日比野さんが小さく笑う。
僕も釣られるように、声を出して笑った。
「でも、隣で話を聞いてくれる誰かが、真島くんで良かった」
五百円玉を握り締めた手を胸に当てて「真島くんで、よかった」と、日比野さんがもう一度呟く。
この人を守りたい。
誰かに守られなければいけないほど、彼女は弱い人ではないし、誰かを守れるほど僕は強くもない。それでも今、止められないほどの熱い想いが心の中に湧き立ってくる。
「日比野さんが嫌いなその名前を、これからは僕が、あなたの代わりに愛してもいいですか?」
見開かれた彼女の瞳が、驚きのせいか複雑に揺れているのが見える。
「こんな時にすみません。でも、あなたの事が好きです。返事は急ぎません。色んな事が落ち着いて、もし、もしも気が向いたらご検討下さい。…………という訳で、飯食いに行きましょうか!」
日比野さんの負担にならないように、僕は笑ってベンチから立ち上がった。ゆっくりと歩き始めた時、不意に背中に温もりを感じて立ち止まる。日比野さんの手が僕の服をキュッと握り締めたのが、引っ張られた服の感触で分かった。肩口の温もりは、恐らくそこに日比野さんの額が触れているからだ。
「ちゃんと返事をします。だから少し、少しだけ待っていて下さい。凄くびっくりして……でもそれ以上に嬉しかった。だから、もう少し落ち着いてから、ちゃんと返事をさせて下さい」
押し当てられた額の温もりと、背中越しに香るほんのり甘い匂いに、このまま振り返り抱き締めてしまいたい衝動に駆られ、僕は強く掌を握り締めた。
待つと言ったのは自分だ。
一つ大きく息を吐いてから、僕は努めて明るい声で「はい、お待ちしております」と言葉を返したのだった。
「あっ」
側溝へ向けて真っ直ぐに転がる五百円玉。溝の中へとそれが落ちる寸前、飛び出してきた黒猫が素早くそれを前足で押さえた。
「え? ラッキーキャット様?」
黒猫はハッとしたようにこちらを見て、オロオロとした様子で視線を漂わせている。その仕草はどう見ても、「しまった! 思わず身体が動いてしまったけれど、この後どうしよう」と戸惑っているような表情だった。
いつ見ても、この黒猫の動きや表情は、どこか人間のようで面白い。
「あの……。それ、有り難うございました」
肉球の下にある五百円玉を指差し、驚かさないように声のボリュームを抑えて話し掛ける。
「それから、雨宮のことを見つけてくれて有り難うございます。あいつの歌を、気に入ってくれて有り難うございました。これからも、公演見に来て下さいね」
そう言って笑いかけると、垂れ下がっていた尻尾をピーンと立て、まるで返事をするかのように勢いよく左右に振ってくれた。そして、五百円玉を咥え、恐る恐るこちらに近付いてくる。
「え!」
黒猫の方から近寄ってくれるなんて初めてだ。僕がそっと掌を差し出すと、咥えていた五百円玉を乗せてくれた。
うぉおおおーーー!
ラッキーキャットさまぁあああ!
その場で叫び出しそうになる嬉しさを必死に心の中に押し込めて、僕は「有り難うございます」と黒猫に頭を下げる。その毛並みに触れて、思う存分モフってみたかったけれど、待たせたままの日比野さんの事が気になり真島は自販機へと引き返した。
冷たいお茶と温かいお茶を一本ずつ買って、駆け足で初音の元へ戻る。
「日比野さん、お待たせしました。温かいのと冷たいの、どっちがいいですか?」
「有り難う。温かい方、もらってもいい?」
「もちろん」
日比野さんがバッグから財布を出そうとしていたので、「いいっすよ」と制して、僕は隣に腰を下ろした。
「ごめんね。皆さんとの話の途中で、急に抜けちゃって」
「いえ。さっきより、顔色だいぶ良くなりましたね。良かった」
僕が笑うと、日比野さんもようやく落ち着きを取り戻したのか、笑みを返してくれた。それでもやはり、まだ少しぎこちない笑顔で、彼女の心に何か大きな衝撃があった事が容易に予想できる。
それは、『小町さん』と呼ばれている老婦人の話題になり、その行方不明の息子の名がでた瞬間だった。
そっと日比野さんの様子を伺うと、何か言おうと口を開き、けれど戸惑うようにまた口を閉ざしてしまう。そんな風に、先程からずっと何かを言い淀んでいる。
僕は無理に聞き出すことはせず、努めて明るい声で別の話を振った。
「あそこの自販機で手が滑って小銭を落としたんですけど、それをラッキーキャットが拾ってくれたんです」
「え? ラッキーキャットさんがいたの?」
「はい。溝に落ちる寸前に小銭を止めてくれて、更にそれを咥えて、僕のところまで運んでくれたんです!」
僕はポケットの中に入れていたそれを取り出すと、初音の手をとりそれを掌に乗せた。自販機でこの五百円玉を使ってしまうのが勿体無いような気がして、お茶は千円札を崩して買ったのだ。
「この五百円、日比野さんが持っていて下さい。ラッキーが詰まった、最強の御守りだと思うんで」
日比野さんはそれをしばらく見つめると、ギュッと握り締めた。そして、意を決したように話し始める。
「私ね……。子供の頃、施設で育ったの」
好き勝手に夢を追い働こうとしない父親と、支えるだけの生活に疲れ果て、壊れてしまった母親。そんな母と彼女を置いて、父親はすぐに別の女性の元へと去っていったと話してくれた。それは真島が初めて知る、彼女の過去だった。
「私の名前は、出て行った父がつけたの。母はこの名前を呼ぶ度に父の事を思い出すようで、この名前をずっと憎んでいたと思う。まだ父が側にいた頃は、違っていたのかもしれないけれど、私にはもう、母から愛しそうな声で名前を呼んでもらった記憶はなくて……。いつも辛さや憎さがこもった声をしていた」
名前へ向けられた母親の憎しみは、徐々に形を変えて、日比野さん自身へと向けられるようになったという。
「ある夜、息苦しさに私が目を覚ますと、母は泣きながら私の首を絞めていた。でもね、あの頃の私には母の存在が全てだったから、その母をこんなにも苦しめる自分の名前と父の事が許せなかった」
『ごめ、んね……おかあ……さ……』
彼女のその声で母親は我に返り、最悪の事態は免れた。しかし母は即日入院となり、その日から彼女は親戚中をたらい回しにされる事になる。そして、どこにも居場所は見つからないまま施設で暮らす事になった。日比野さんが話す少女時代の彼女の時間は、僕の想像をこえた過酷なものだった。
『私、首元に、前方から手を伸ばされるのが苦手で……』
僕は一度、前方から日比野さんの肩についた糸を取ろうとして、強く手を振り払われた事があった。向かい合わせで座り、一緒にランチを食べた日の事を思い出す。あれは、幼少期のトラウマだったのだ。
「父の事は、もう顔も覚えてないの。それでも私は、一生あの人のことを恨み続ける。私と母の人生をめちゃくちゃにしたあの人を、私は絶対に許さない」
彼女の瞳に、強い憎悪の色が滲むのが見えた。
「日比野という苗字は母の旧姓で、父の……父の苗字は……」
僕の脳裏に、雨宮の同級生が言った名前が過ぎる。
『行方不明の息子さんの名前は、水寺 宗一さんだよ』
そんな思考の中の名前と、隣に座る日比野さんの言葉が重なる。
「父の名前は、水寺 宗一。雨宮くんの同級生の方が言った名前と同じだった」
ただの同姓同名の偶然という可能性は否定できない。それでも、なぜかその人が日比野さんの父であるような気がした。
誰よりも憎んでいる父親の名前と、彼女にとって祖母になるかもしれない『小町』の存在。こんな情報を一気に知る事になり、日比野さんが戸惑うのは当然だ。
「でも、あの場では、何も言えなくて……。逃げるみたいに、離れることしか出来なくて」
日比野さんがうつむいて、今にも泣き出しそうな顔で掌の中の五百円玉を強く握り締めている。
「日比野さん。話してくれて有り難うございます。今は、ものすごく混乱してると思うんですよね。だから……だから……、うまい飯を食いに行きませんか?」
「え?」
「落ち着いて、お腹いっぱいになって、それから、日比野さんがどうしたいのか。ゆっくり考えるのがいいと思います」
恐らく、雨宮たちは日比野さんに話を聞きたいと思っているだろう。小町さんの体調不良を思うと、早く情報を知りたいはずだ。けれどこんな状況の彼女を、無理やり急かして話をさせる事だけはしたくないと思った。
「改めて落ち着いてから、しっかり考えましょう!」
「そうだね。そう言えば……、私もお腹すいたかも」
そう話す日比野さんの表情が、少し和らいだように思う。ホッと息を吐いた時、ベンチの後ろの植え込みから、ふと視線を感じて僕はそちらに目を向けた。
「あ」
黒猫が、木々の合間からチラチラとこちらを見つめ、まるで聞き耳を建てるようにピンと耳を伸ばしている。
その表情は日比野さんを気遣っているような眼差しで、先程までの二人の会話を理解しているように見えた。
「あそこ、ラッキーキャット様も心配してるみたいですよ。日比野さんのこと」
「え?」
僕が小声でそう告げると、日比野さんがそっと後ろを振り返った。こちらを見つめる黒猫と日比野さんの視線がピタリと重なったのが、横から見ていて分かった。
「ラッキーキャットさん。心配してくれて有り難う。私は……あの頃と違って、子供の頃の私と違って……今の私には、隣で話を聞いてくれる誰かがいるから。ちゃんと、ちゃんと笑えるような気がします」
日比野さんが黒猫に向かってそう話すと、伸ばした耳をピクッと震わせ、それから嬉しそうに尻尾を左右に振った。けれどその数秒後には、「別に心配とかしてませんけどー」とでも言いたそうなスンッとした表情をして、植え込みの中へと姿を消してしまった。
あの黒猫にも、使い分けなければいけない本音と建前があるのだろうか。
「急にスンッて顔して去って行きましたね」
「うん」
振り返っていた姿勢を戻し、日比野さんが小さく笑う。
僕も釣られるように、声を出して笑った。
「でも、隣で話を聞いてくれる誰かが、真島くんで良かった」
五百円玉を握り締めた手を胸に当てて「真島くんで、よかった」と、日比野さんがもう一度呟く。
この人を守りたい。
誰かに守られなければいけないほど、彼女は弱い人ではないし、誰かを守れるほど僕は強くもない。それでも今、止められないほどの熱い想いが心の中に湧き立ってくる。
「日比野さんが嫌いなその名前を、これからは僕が、あなたの代わりに愛してもいいですか?」
見開かれた彼女の瞳が、驚きのせいか複雑に揺れているのが見える。
「こんな時にすみません。でも、あなたの事が好きです。返事は急ぎません。色んな事が落ち着いて、もし、もしも気が向いたらご検討下さい。…………という訳で、飯食いに行きましょうか!」
日比野さんの負担にならないように、僕は笑ってベンチから立ち上がった。ゆっくりと歩き始めた時、不意に背中に温もりを感じて立ち止まる。日比野さんの手が僕の服をキュッと握り締めたのが、引っ張られた服の感触で分かった。肩口の温もりは、恐らくそこに日比野さんの額が触れているからだ。
「ちゃんと返事をします。だから少し、少しだけ待っていて下さい。凄くびっくりして……でもそれ以上に嬉しかった。だから、もう少し落ち着いてから、ちゃんと返事をさせて下さい」
押し当てられた額の温もりと、背中越しに香るほんのり甘い匂いに、このまま振り返り抱き締めてしまいたい衝動に駆られ、僕は強く掌を握り締めた。
待つと言ったのは自分だ。
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