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第9章
(22)夢を諦めた男
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【真島 秋斗の場合】
後輩である雨宮のミュージカル本番の日。
日比野さんとの待ち合わせ場所に到着した僕は、先にその場に立っていた彼女の姿に見惚れ、思わず少し手前で足を止めた。
会社で会う日比野さんは、肩より少し長い髪をいつも一つにまとめている。服装も、ジャケットとパンツの組み合わせである事が多い。けれど今日は、艶のある髪がそのまま下ろされており、時折吹く穏やかな風にサラサラと揺れていた。その髪と同じように、鮮やかなさくら色のスカートも膝の辺りで揺らめいている。
やっぱ、好きだ。
僕は思う。
本当はもう随分前から、既に好きになっている自覚はあった。
僕の視線の先で、日比野さんが揺れる髪を手で押さえ、そっと耳に掛けている。しばらくして視線に気付いたのか、彼女が不意にこちらを向いた。
僕の姿を見つけた途端、凜とした印象の瞳が、柔らかに細められていく。その微笑みに、思わず息をのんだ。自分と近い距離にいた男二人から「綺麗な人だな」と、囁きあう声が聞こえる。
「今、俺に笑った?」
「や、俺じゃね?」
などと交互に話す声に対し『それ自分なんで』という優越感と、もっと早くに来るべきだったという後悔が同時に胸に広がった。自分が彼女にドキドキするのはいいが、他の男まで一緒になってドキドキを味わっているのは少し癪に障る。
しかしそこまで考えが巡った所で、お互いの正しい関係性を思い出して僕は苦笑した。
彼女と僕は、ただの先輩と後輩。そのうえ、社会人経験ゼロの使えない後輩でもある。
こっそり彼氏ヅラをして喜んでいる場合ではない。
せめて仕事のできる後輩へステップアップしなければと思い掌を握り締め、僕は日比野さんの元へ駆け出した。
*
雨宮達後輩による迫真の演技フィナーレを迎え、舞台の幕が降りた。
そして狭いライブハウスの中が、拍手の音に包まれる。
やはり、雨宮圭吾は本物だった。
自分の夢を託した後輩に、僕も心からの拍手を送る。けれどこの心境に至るまで、驚くほどたくさんの葛藤があった。
雨宮が入ってくるまでの劇団七年生は、大学サークルの延長線上にある、芝居や歌のレベルは似たり寄ったりな、『みんな一緒に楽しく過ごす』劇団だった。
そんな中に、明らかな才能の差を認識ぜずにはいられない異分子が入ってきたのだ。みんな驚き、喜び、けれどじわりじわりと、心が嫉妬で侵食されていった。
輪を乱すな。
このぬるま湯に熱湯なんか注いでくるな。
いつしか雨宮に対し、劇団内にそんな空気が漂い始める。
みんなで楽しみ、みんなで夢を見て、みんな一緒に『やっぱり難しい世界だったね』と諦める。
自分の夢は叶わない、けれどみんなの夢も叶わなかった。それを『夢の引き継ぎ』と言ってしまえば聞こえはいいけれど……。
この不条理こそが、誰も傷つかないこのユートピアの秩序だったのだ。
雨宮に対して距離を置き始めた周りの態度に、彼は居心地の悪さを感じていただろう。雨宮が初めて劇団七年生の舞台本番を経験した日、その公演後に彼は舞台袖で震えながら泣いていた。
観客はわずか数人。そんな現実を目の当たりにし、尚且つ劇団内の先輩からは嫉妬で距離を取られる。
雨宮はもう、何もかもが嫌になってしまったのかもしれない。
ごめん。
ごめん、雨宮。
そう思った瞬間、耐えられない程の罪悪感に襲われ僕は雨宮の元へと駆け寄っていた。そして、至近距離で見たその横顔に驚き足を止める。
彼の口角は上がり、その表情は笑っていた。
雨宮は自分の内側から湧き立ってくる高揚を抑えきれないように、ギュッと拳を握り締め、零れ落ちる涙もそのままに笑っていた。その瞬間の彼の耳にはもう、ちっぽけな妬み嫉みという周りの雑音など届いていなかったのかもしれない。彼のその涙は、その震えは、舞台に立つ意味を知った歓喜の涙だったのだと僕は知った。
あぁ、次元が違う。
僕は全身の力が抜けて、その場に座り込んだ。いっそ清々しい程に、格の違いを見せつけられた。歌や芝居の優劣だけでは無い、役者としての素養、その根幹の違いを……。
そういことか。
納得した途端、じっとりと湿り気を帯びていた妬みの感情が、まるで雨上がりの空のように爽快な気分へと変化していく。
その時、僕が目にしたものは、才能の輝きが消える瞬間ではなく、その原石が本物の光に目覚める刹那だった。
何としても、雨宮圭吾を世間に届けたい。
その日から僕の行動は変わった。
雨宮には泣きながら謝罪して、とくかく『お前には才能がある』と伝え続けた。そして、まだ距離を置いたままの周りに対し歩み寄りを促したのだ。
少しずつ、けれど着実に、劇団内の意識に変化が起こり始めた。
雨宮に対するスタンスも変わり、今の劇団七年生は『夢の引き継ぎ』が本来の意味で行われている劇団になっている。
それでも『芸』の道の現実は厳しく、劇団七年生の公演に観客は増えない。見て欲しい。見てもらえない。届けたい。届かない。宣伝や呼び込みの声は虚しく地面に転がり消えるだけだった。
注目のための、最初のきっかけが欲しい。
「雨宮。うちなんか辞めて、もっと大手の劇団に……」
「俺、ここで足掻ける事は全部やりたいっす」
劇団七年生に、雨宮がそこまで義理立てする必要はない。そう話す僕に、雨宮は小さく「先輩のおかげなんで」と笑った。
「もう記憶にないと思いますけど、大学のサークル勧誘で、劇団のチラシを俺に渡したの真島先輩だから。あのきっかけが無かったら、そもそも俺は芝居とかやってないっす」
ただ無作為に、チラシを配りまくったのは覚えている。その中に、雨宮がいたとは知らなかった。そんな、気にも留めない行動の一つが、一人の人間の指針を変えた。そう思うと、たまらなく胸の奥が熱くなってくる。
「マジか?」
「マジっす」
僕は雨宮の肩を小突く。
「それさ。お前がいつかテレビや雑誌のインタビュー受ける時に絶対言ってくれよ。尊敬する先輩がくれたきっかけのおかげで、今の自分があります。この先ずっと、ギャラの半分はその先輩へ捧げます。って!」
「そこは前半のみで許して下さいよ」
「むしろ後半の方が大事だ。就活、上手くいかなくて無職になったら養ってくれ」
「それ嫌すぎる」
露骨に顔を顰めた雨宮を見て、僕は「冗談に決まってるだろ」と、声を出して笑った。
そんな時を経て──。
今、雨宮が羽ばたこうとしている。
ラッキーキャット信者だけにとどまらず、あの動画は『歌に酔いしれる猫の表情がたまらん』と、一般的な猫好きの間にまで広まっていった。
世界は猫好きで溢れ、猫の映像が動画再生数の上位を席巻している。そんな多くの猫好き達の中にも、雨宮の歌声に興味を持つ人がたくさん現れたのだ。
あの動画はこの先、まだまだ再生数を伸ばすだろう。
ふと、隣の日比野さんに目を向ける。
惜しみない拍手を送りながら、彼女は涙を流していた。
「日比野さん、うちの後輩どうでした?」
そっと声を掛けると、初音は前を向いたまま話し始めた。
「私ね。歌をうたってる人が嫌いだったの。ただあの人と同じ事をしている。それだけで許せなかった」
あの人が誰なのか、僕にはわからない。
それでも話を止めたりはせず、彼女の言葉に耳を傾けた。
「歌って、響くんだね。こんなに、届くんだね」
胸に両手を押し当て、ゆっくりとこちらを向いた日比野さんが微笑んだ。
「後輩くん、すごかったよ。真島くん、誘ってくれて有り難う!」
好きな人が笑っている。
それが、僕の心を堪らないほど嬉しくさせる。
「それ、直接あいつにも伝えてやって下さい。絶対に喜びます。この後、裏口に行きましょう」
「でも、公演の直後なのにいいの?」
「大丈夫です!」
言って僕は席を立ち、そっと日比野さんの手をとった。
「こっちです」
どさくさに紛れて手を繋いだ。
振り払われ無かったので、そのままギュッと力を込める。
そして、劇団七年生には珍しく人の賑わう客席の中をすり抜け、僕は彼女と一緒に雨宮の元へ向かう。そこで雨宮の高校時代の恩師と同級生を紹介され、一緒にラッキーキャットの話題で盛り上がった。
しかし、話題の流れで老婦人の息子の名前が出た直後に、日比野さんの顔色が一変する。その場で倒れてしまいそうな程に、血の気が引いていた。
僕は彼女に寄り添い、その場を後にする。
そして彼女の子供時代の話を、僕は知ったのだった。
後輩である雨宮のミュージカル本番の日。
日比野さんとの待ち合わせ場所に到着した僕は、先にその場に立っていた彼女の姿に見惚れ、思わず少し手前で足を止めた。
会社で会う日比野さんは、肩より少し長い髪をいつも一つにまとめている。服装も、ジャケットとパンツの組み合わせである事が多い。けれど今日は、艶のある髪がそのまま下ろされており、時折吹く穏やかな風にサラサラと揺れていた。その髪と同じように、鮮やかなさくら色のスカートも膝の辺りで揺らめいている。
やっぱ、好きだ。
僕は思う。
本当はもう随分前から、既に好きになっている自覚はあった。
僕の視線の先で、日比野さんが揺れる髪を手で押さえ、そっと耳に掛けている。しばらくして視線に気付いたのか、彼女が不意にこちらを向いた。
僕の姿を見つけた途端、凜とした印象の瞳が、柔らかに細められていく。その微笑みに、思わず息をのんだ。自分と近い距離にいた男二人から「綺麗な人だな」と、囁きあう声が聞こえる。
「今、俺に笑った?」
「や、俺じゃね?」
などと交互に話す声に対し『それ自分なんで』という優越感と、もっと早くに来るべきだったという後悔が同時に胸に広がった。自分が彼女にドキドキするのはいいが、他の男まで一緒になってドキドキを味わっているのは少し癪に障る。
しかしそこまで考えが巡った所で、お互いの正しい関係性を思い出して僕は苦笑した。
彼女と僕は、ただの先輩と後輩。そのうえ、社会人経験ゼロの使えない後輩でもある。
こっそり彼氏ヅラをして喜んでいる場合ではない。
せめて仕事のできる後輩へステップアップしなければと思い掌を握り締め、僕は日比野さんの元へ駆け出した。
*
雨宮達後輩による迫真の演技フィナーレを迎え、舞台の幕が降りた。
そして狭いライブハウスの中が、拍手の音に包まれる。
やはり、雨宮圭吾は本物だった。
自分の夢を託した後輩に、僕も心からの拍手を送る。けれどこの心境に至るまで、驚くほどたくさんの葛藤があった。
雨宮が入ってくるまでの劇団七年生は、大学サークルの延長線上にある、芝居や歌のレベルは似たり寄ったりな、『みんな一緒に楽しく過ごす』劇団だった。
そんな中に、明らかな才能の差を認識ぜずにはいられない異分子が入ってきたのだ。みんな驚き、喜び、けれどじわりじわりと、心が嫉妬で侵食されていった。
輪を乱すな。
このぬるま湯に熱湯なんか注いでくるな。
いつしか雨宮に対し、劇団内にそんな空気が漂い始める。
みんなで楽しみ、みんなで夢を見て、みんな一緒に『やっぱり難しい世界だったね』と諦める。
自分の夢は叶わない、けれどみんなの夢も叶わなかった。それを『夢の引き継ぎ』と言ってしまえば聞こえはいいけれど……。
この不条理こそが、誰も傷つかないこのユートピアの秩序だったのだ。
雨宮に対して距離を置き始めた周りの態度に、彼は居心地の悪さを感じていただろう。雨宮が初めて劇団七年生の舞台本番を経験した日、その公演後に彼は舞台袖で震えながら泣いていた。
観客はわずか数人。そんな現実を目の当たりにし、尚且つ劇団内の先輩からは嫉妬で距離を取られる。
雨宮はもう、何もかもが嫌になってしまったのかもしれない。
ごめん。
ごめん、雨宮。
そう思った瞬間、耐えられない程の罪悪感に襲われ僕は雨宮の元へと駆け寄っていた。そして、至近距離で見たその横顔に驚き足を止める。
彼の口角は上がり、その表情は笑っていた。
雨宮は自分の内側から湧き立ってくる高揚を抑えきれないように、ギュッと拳を握り締め、零れ落ちる涙もそのままに笑っていた。その瞬間の彼の耳にはもう、ちっぽけな妬み嫉みという周りの雑音など届いていなかったのかもしれない。彼のその涙は、その震えは、舞台に立つ意味を知った歓喜の涙だったのだと僕は知った。
あぁ、次元が違う。
僕は全身の力が抜けて、その場に座り込んだ。いっそ清々しい程に、格の違いを見せつけられた。歌や芝居の優劣だけでは無い、役者としての素養、その根幹の違いを……。
そういことか。
納得した途端、じっとりと湿り気を帯びていた妬みの感情が、まるで雨上がりの空のように爽快な気分へと変化していく。
その時、僕が目にしたものは、才能の輝きが消える瞬間ではなく、その原石が本物の光に目覚める刹那だった。
何としても、雨宮圭吾を世間に届けたい。
その日から僕の行動は変わった。
雨宮には泣きながら謝罪して、とくかく『お前には才能がある』と伝え続けた。そして、まだ距離を置いたままの周りに対し歩み寄りを促したのだ。
少しずつ、けれど着実に、劇団内の意識に変化が起こり始めた。
雨宮に対するスタンスも変わり、今の劇団七年生は『夢の引き継ぎ』が本来の意味で行われている劇団になっている。
それでも『芸』の道の現実は厳しく、劇団七年生の公演に観客は増えない。見て欲しい。見てもらえない。届けたい。届かない。宣伝や呼び込みの声は虚しく地面に転がり消えるだけだった。
注目のための、最初のきっかけが欲しい。
「雨宮。うちなんか辞めて、もっと大手の劇団に……」
「俺、ここで足掻ける事は全部やりたいっす」
劇団七年生に、雨宮がそこまで義理立てする必要はない。そう話す僕に、雨宮は小さく「先輩のおかげなんで」と笑った。
「もう記憶にないと思いますけど、大学のサークル勧誘で、劇団のチラシを俺に渡したの真島先輩だから。あのきっかけが無かったら、そもそも俺は芝居とかやってないっす」
ただ無作為に、チラシを配りまくったのは覚えている。その中に、雨宮がいたとは知らなかった。そんな、気にも留めない行動の一つが、一人の人間の指針を変えた。そう思うと、たまらなく胸の奥が熱くなってくる。
「マジか?」
「マジっす」
僕は雨宮の肩を小突く。
「それさ。お前がいつかテレビや雑誌のインタビュー受ける時に絶対言ってくれよ。尊敬する先輩がくれたきっかけのおかげで、今の自分があります。この先ずっと、ギャラの半分はその先輩へ捧げます。って!」
「そこは前半のみで許して下さいよ」
「むしろ後半の方が大事だ。就活、上手くいかなくて無職になったら養ってくれ」
「それ嫌すぎる」
露骨に顔を顰めた雨宮を見て、僕は「冗談に決まってるだろ」と、声を出して笑った。
そんな時を経て──。
今、雨宮が羽ばたこうとしている。
ラッキーキャット信者だけにとどまらず、あの動画は『歌に酔いしれる猫の表情がたまらん』と、一般的な猫好きの間にまで広まっていった。
世界は猫好きで溢れ、猫の映像が動画再生数の上位を席巻している。そんな多くの猫好き達の中にも、雨宮の歌声に興味を持つ人がたくさん現れたのだ。
あの動画はこの先、まだまだ再生数を伸ばすだろう。
ふと、隣の日比野さんに目を向ける。
惜しみない拍手を送りながら、彼女は涙を流していた。
「日比野さん、うちの後輩どうでした?」
そっと声を掛けると、初音は前を向いたまま話し始めた。
「私ね。歌をうたってる人が嫌いだったの。ただあの人と同じ事をしている。それだけで許せなかった」
あの人が誰なのか、僕にはわからない。
それでも話を止めたりはせず、彼女の言葉に耳を傾けた。
「歌って、響くんだね。こんなに、届くんだね」
胸に両手を押し当て、ゆっくりとこちらを向いた日比野さんが微笑んだ。
「後輩くん、すごかったよ。真島くん、誘ってくれて有り難う!」
好きな人が笑っている。
それが、僕の心を堪らないほど嬉しくさせる。
「それ、直接あいつにも伝えてやって下さい。絶対に喜びます。この後、裏口に行きましょう」
「でも、公演の直後なのにいいの?」
「大丈夫です!」
言って僕は席を立ち、そっと日比野さんの手をとった。
「こっちです」
どさくさに紛れて手を繋いだ。
振り払われ無かったので、そのままギュッと力を込める。
そして、劇団七年生には珍しく人の賑わう客席の中をすり抜け、僕は彼女と一緒に雨宮の元へ向かう。そこで雨宮の高校時代の恩師と同級生を紹介され、一緒にラッキーキャットの話題で盛り上がった。
しかし、話題の流れで老婦人の息子の名前が出た直後に、日比野さんの顔色が一変する。その場で倒れてしまいそうな程に、血の気が引いていた。
僕は彼女に寄り添い、その場を後にする。
そして彼女の子供時代の話を、僕は知ったのだった。
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