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第12章
(33)自殺二秒前だった男
しおりを挟む【 真田 理人の場合】
--カロンッ。
俺が扉を開ける動きに合わせ、内側の扉についたカウベルの独特な音色が響いた。ここは、橙色のランプが目印の幻想的な雰囲気をした珈琲店だ。
「いらっしゃいませ。一名様ですか? お好きな席へどうぞ」
黒縁眼鏡をかけた秀麗なマスターが、カウンターからこちらに向かって微笑む。
「いえ、五人なんですが……」
そう言って店内を見渡す。
L字のカウンター席が五つに、四人掛けのテーブル席が二つ。カウンター席の左端に男性が一人いて、テーブル席の一つには女性が一人座っていた。
「すみません。またの機会にします」
五人では座れそうにないので店を出ようと踵を返したその時、テーブル席の女性に呼び止められた。
「私が席を移動します」
女性が上着を持って立ち上がる。
「宜しいのですか」
「はい。私は一人ですから、カウンター席でも問題ありませんので」
「有り難うございます」
自分と同年代だと思われるその女性は、ふんわりとしたウェーブの掛かった長い髪で、全体的に優しい雰囲気をしている。こちらに向かって話す声も穏やかだった。
カウンター席へと移動した女性は、マスターと気さくに話をしているように見える。常連なのだろうか。
「では、テーブル席に三人と二人に分かれて座らせて頂きます」
俺はその女性とマスターにそう告げて、店の外で待っている四人を呼んだ。
「うわ~。なにかの物語の中に出てきそうな雰囲気! 素敵ですね、真田先生」
先頭で店へと入ってきた手塚が瞳を輝かせている。
店内は、天井まで伸びた備え付けの書棚が左右の壁際にあり、書籍とランタンがいくつも並べられている。間接照明のほんのりとした灯りが、『隠れ家』という言葉を連想させるお店だった。
「だろ? 窓から少し見える店内が気になって、ずっと入ってみたいと思っていたんだ」
嬉しそうな手塚の隣で、雨宮がこっそりと彼女に耳打ちする声が漏れ聞こえた。
「いつもちょいダサな真田先生らしくない、オシャレなお店だね」
「あーまーみーやー。聞こえてるぞ」
「あ、褒めてますから! 顔はイケメンなのに服が微妙にダサい真田先生。俺、大好きなんで!」
恩師と言いつつ軽口を叩いてくる雨宮に苦笑する。けれど、彼が誰にでも懐くタイプの人間ではないと知っているので、これも雨宮なりの信頼の証だろうと俺は納得していた。
「本当に素敵なお店ですね」
日比野さんも店内を見渡し、テーブル席へ腰を下ろす。彼女の正面に座った真島くんが、彼女の嬉しそうな表情を満足そうに見つめていた。
もう一つのテーブル席に、雨宮と手塚、そして俺の三人で腰を下ろす。隣同士に並んだ元教え子達は、仲良くメニューを見つめていた。二人が恋人になったと連絡をもらったのが、ちょうど二ヶ月程前。嬉しそうな彼らの笑顔を見て、こちらまで幸せな気分になったのを思い出す。
そして今日は、日比野さんと真島くんの二人から報告したい事があると言われ、先程まで小町さんの家に全員集合していた。
そこで二人から、結婚するという報告を受けたのだ。
小町さんはあれから随分と体調が回復し、布団から出て起き上がる時間が増えたという。今日も嬉しそうな笑顔で、みんなと一緒に出前のお寿司を食べていた。
そんな水寺家からの帰りに、五人でもう少し話をしようという事になりここに訪れたのだ。
「小町さんと健次郎さん、お二人とも嬉しそうでしたね」
「はい。初めて家に伺ったあの日から、お二人が私をとても気遣って下さって……。自分に祖父母ができるなんて、まだ夢のようです」
日比野さんは二人から、自分たちに万が一の事が会った時は、家やその他の財産を相続して欲しいと頼まれたそうだ。
「私の朧げな記憶だけでしたので、万が一、記憶違いなんて事があったらと思って……。お二人と私のDNA鑑定を申し出ました」
そして、正式に血縁関係が証明された。
日比野さんの正面に座っている真島くんも、「いや~、本当に良かったですね。日比野さん」と自分の事のように喜んでいる。
「そう言えば……。真島くんは、まだ『日比野さん』って呼んでるの?」
俺が気になった事を尋ねると、雨宮も彼らのテーブルを覗き込むようにして「それ、俺も気になってた。真島先輩ずっと日比野さんに敬語だなって」と言葉を挟んだ。俺達の問いに、二人が顔を見合わせて笑いながら理由を説明してくれた。
「僕ら社内恋愛で、しかも同じチームの先輩後輩でして……。それに当初は、日比野さんが僕の指導係だったんです」
「プライベートで近しい間柄になると、部署異動させられるんです。もう少しこのコンビで仕事がしたくて、結婚が決まるギリギリまで会社では内緒にしようって二人で決めていました」
「それで、うっかり『初音さん』とか呼ばないように、名前と言葉遣いをそのままにしたんです」
「なるほど」
話にひと段落がついたタイミングで、マスターが淹れたての珈琲を運んできた。
途端に、深い香りがテーブル席一体を包み込む。
「お待たせしました。コロンビアの中深煎りと、サントスの深煎りです」
五人とも珈琲に詳しくなかった為、注文前に色々と質問して決めたものだったが、正直まだ、豆の名前を言われても俺は良く分からなかった。そして俺以外の四人も、似たようなレベルだ。
「ところでマスター。店の入り口にある、あの貼り紙は何ですか?」
気になっていた事を質問する。
「あれは、何か話したい事がある人に、気軽に話をして頂ければと思いまして……」
「話とは、何でもいいのですか?」
「はい、なんでも構いません。ただ、相談事であったとしても何も解決は致しませんが……。名前も知らない相手だからこそ、気軽に本音を話せる事もあるかと思いまして」
俺が頷いていると、正面の手塚も興味を持ったようで質問し始めた。
「それは予約制ですか?」
「いえ。ご来店の際に、カウンターの左端の席が空いていればすぐにでもお話を伺います」
マスターが、ピンッと指を伸ばした掌で座席を指し示す。
思わず、五人揃ってその左端の席を見つめた。
そこには、全身黒のスーツ姿の青年が座っている。背中に視線を感じたのか、青年の肩がビクリッと震えていた。恐る恐るこちらを振り返った青年は、短髪ではあるけれど長い前髪が瞳を半分以上覆い隠している。そしてすぐに振り返った体制を元に戻して俯いていた。
「あの、僕も質問いいですか?」
今度は真島くんが身を乗り出し、マスターに問い掛ける。
「マスターはこの辺の事情に詳しそうですが、ラッキーキャットをご存知でしょうか?」
瞬間、カウンター席の青年が「ぐふっ」と珈琲を吹き出し咳き込むのが聞こえた。
「だ、大丈夫ですかね……。あちらの方」
「ええ、問題ないかと」
心配する俺に比べ、マスターはこの状況をどこか楽しんでいるように感じる。
「あの黒猫の事は、もちろん僕も存じております。皆さんは、ラッキーキャットのおかげで何かいい事があったのですか」
「ええ。ここにいる全員が見事に幸せを頂きまして、もっとちゃんとお礼を伝えたいので、また会えたらと思っているのですが……」
そんな俺の言葉にマスターはチラリッとカウンター席を見つめると、「大丈夫ですよ。その気持ちは届いていると思うので」と小さく呟いた。
「え?」
聞き返す俺の言葉には答えず、にこやかに一礼してカウンターの中へと戻って行く。
「ラッキーキャット様にも、結婚式に出席して欲しかったですねー。日比野さん」
真島くんと日比野さんは、ラッキーキャットに指輪を咥えてバージンロードを運んでもらえたらと、そんな願望を話していた。
カウンター席の青年は、何故かラッキーキャットの話題になる度に咳き込んだり、カップを持つ手が震えたりと、居心地悪そうにしている。一方マスターは笑うのを堪えるかのようにうつむいて、肩を揺らしていた。
俺がそんなカウンターの様子を見つめていると、始めに席を譲ってくれた女性が立ち上がり、店を出ようとしている。俺が女性に向かって頭を下げると、彼女もこちらへ会釈して店を後にした。
また、会えるだろうか。
不意にそんな思いが浮かび上がり俺は驚く。
女性に対してそんな風に思うのは、本当に久しぶりの感覚だった。
「ん?」
その時、自分が座っている座席の隣の椅子に、文庫本が乗っていたことに気付いた。そこはもともと彼女が座っていた場所だ。恐らく、席を移動してくれた際に置き忘れたのだろう。
このテーブル席を譲ってくれた女性がいた事を四人に告げて、俺は忘れ物を手渡すため、急いで珈琲店を飛び出し彼女を追いかけたのだった。
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