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二章
10. 冷酷無比な王は親子の息の根を止める②
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「物理的に隔離すると仰るならば、もう少しスケールを大きくされてはいかがですか。いっそ国外……アメリカには滞在のご経験があるようですので、全く別の土地だと新鮮かもしれませんね。大陸、中東、ヨーロッパ、アフリカ……ああ、ウルグアイなんていかがでしょうか。萩原さん、どう思いますか」
「えぇ、よろしいかと思います。直行便はありませんがたったの30時間強で行けますし、ビーチも美術館もあって歴史的な街並みも美しいです。牛肉がお好きであれば、ウルグアイ牛を使ったステーキハウスが多いことでも有名ですので、お楽しみになれるかと。温泉もございますので、環境は別府とさほど変わらないと思われます」
月落からの問いかけに、萩原は間も置かずに淀みなく述べた。
「変わるわよ!30時間もかかる国なんか誰が行くのよ!アメリカでも言葉が通じなくて苦労したのに、ウルグアイなんて絶対に行かない!あんたたちにそんなこと決める権利なんてないでしょう!?」
「あちらでの衣食住は月落が一生保障いたします。ある程度の交際費もお渡ししましょう。もちろん、粕川家からも大事な娘さんへ生活費はお送りになるでしょうから、普通の水準以上での生活は可能でしょう」
「お父さん、黙ってないでなんとか言って!私の将来が台無しになっちゃうじゃない!」
「こちら側に全面的な非があるのは重々承知の上で、靦然たるお願いではありますが、何とか国内でと……あ、と申し訳ない。電話が」
「いえ、急用でしたら事ですので、この場で出ていただいて構いません」
苦虫を潰したような顔で粕川勝造が話し始めたとき、内ポケットに入れていたスマホがけたたましく鳴った。
急いで電源を落とそうとするが、この部屋の主人が承諾したとなれば従うしかない。
通話ボタンを押してスマホを耳元に近づけると、外で待機しているはずの第二秘書が焦った声音で一息に告げた。
『粕川先生、大変です。まもなく着工が予定されている体験型大型リゾート施設の建材調達を依頼していた中国企業が、契約解除を申し出てきました』
「なっ、あれは息子へ地盤を引き継ぐ来年の選挙のために必ず必要な箱物だぞ!何を今さら契約解除などと……多額の違約金や損害賠償が発生すると脅して黙らせろ」
『以前、先生にお見舞い金として渡した1億円の事実を公表されたくなければ今回は黙って手を引けと、逆にこちらが脅されている状況です」
「何を馬鹿な!1億譲渡の証拠など残っているはずがないだろう!」
「証拠ならば、ここに」
粕川勝造の焦った様子を静観していた月落が、突然声を発した。
後ろに控える萩原から数枚の書類を受け取ると、それをそのまま粕川の座る前へと置く。
「え……?」
「深圳交通建設が粕川先生に賄賂を渡していた証拠ならば、ここにあります」
粕川勝造の時が止まる。
『粕川先生?先生?』
途切れた会話を不審に思った第二秘書が、電話越しに何度も粕川を呼ぶが、もはやその声は届かない。
スマホをソファへと放り投げた粕川は、震える手でその紙の束を手に取った。
ごくり、と唾を飲みこむ音がする。
「深圳交通建設はおととしの中間決算で、架空の売上を計上し不正会計を行っていました。当時の日本円にして約1億円です。それを数回に渡って粕川先生の口座へと送金した記録もありますので、次のページをご参照ください」
ぺらりと捲った先には、三度に渡って中国企業から送金された記録が記されている。
日付や細かい金額については憶えていないが、月落が提示したものに間違いなどないだろう。
外にいる秘書を呼んで確認するまでもない。
「こんな、これを一体どこで……海外の口座を経由したから足跡は残らないと……」
「ええ、巧妙に隠していらっしゃいましたね。それは粕川先生側から辿ったものではありません」
「ならばどういう……まさか中国サイドなわけは……」
「その通りです。深圳交通建設は北京建設集団総公司の子会社です。大陸では民間企業にも商業賄賂が適応され、処罰の対象となります。そのため、親会社である北京建設集団総公司を通して事実確認を行い、それを証拠として提出してもらいました」
「ぺ、北京建設集団総公司がなぜそんなことを……?」
「子会社とはいえ、これが公になれば親会社にも当然疑いの目は向けられます。痛くない腹を探られるくらいならば、問題を事前に炙り出して早急に対策を講じるべきだ、と創業者一族に連絡を取りました」
「そんな、誰が」
「私が、ですね。そこの次男とは友人でして」
がくり、と粕川勝造の頭が落ちる。
先ほどまで額に無数の雫を作っていた汗は完全に干上がり、むしろ身体中の水分が一気に蒸発したかのように粕川は潤いを失くした様子だ。
『隣のお爺ちゃん議員』を演出していた福福とした頬も、一瞬で瘦せこけた。
「さて、粕川先生。ここで、ひとつご提案があります。深圳交通建設との贈収賄の件は、親会社である北京建設集団総公司の監査部門が対応するよう便宜を図ってもいいと言っています。逃げ道はいくらでもあれど、敢えて不正会計を公表して追徴課金を支払うことも厭わない、と。その際、粕川先生のお名前が明るみにならないよう、私からお願いして差し上げましょう」
「それは願ってもない!リゾート施設建築は我が地元待望の計画でしてな、破綻すれば粕川家は嘘つきとして血祭りにあげられます。是非によろしくお願いしたい」
「その代わり、娘さんをウルグアイへ。できればこれからすぐと言いたいところですが、一生のお別れになりますのでご家族と最後の挨拶を交わす時間も必要でしょう。ですので、あさっての午後に出発できるよう航空券をご用意しております」
音もなく、萩原が航空会社のロゴが印刷された封筒をテーブルの上に置く。
それを見て、父より激昂したのはピンクに着飾った娘だった。
「はぁ?!あんた何言ってんの?!何で私がお父さんの賄賂を隠すための犠牲になんなきゃいけないのよ!お父さんの不正はお父さんが勝手にやったことなんだから私には全く関係ないでしょ!巻き込まないでよ、私を!ウルグアイなんて行か——」
「えぇい!やかましい!黙りなさい!今まで何度となく起こした事件をもみ消してやったのは誰だと思ってるんだ!親孝行のひとつもしてこないで、むしろ親の脛ばかり齧って好き勝手しおって!お前の我儘で家を潰す訳にはいかん!金輪際、お前は粕川家の娘ではない!」
まさかの勘当を言い渡された粕川春乃は、その衝撃に濁音混じりの絶叫を放った。
「なによぉぉぉぉぉ!!!!偉そうにしないで!!!!あんたなんか役立たずの老害のくせにぃぃぃぃぃ!!!!」
空気を歪に引き裂く金切声に、萩原は即座に両耳を塞ぐ。
その格好のまま、普段は月落衛が使っているモカブラウンのエグゼクティブデスクまで歩を進める。
デスクの下にあるボタンを押すとすぐに扉が開き、黒いスーツを纏ったSPたちがぞろぞろと入ってきた。
粕川春乃は両腕を掴まれると、強制退場と相成る。
「ちょっと、あんたたち何よ!離しなさいよ、離して!私を誰だと思って、汚い手で触んないで!ちょっと!!!」
叫び声は、扉が閉まってもしばらく聞こえていた。
ようやく静寂を取り戻した室内に、3つ分のため息が落ちる。
「どこまでも恥ずかしい娘で申し訳ありません」
深々と頭を下げる粕川だが、安心しきるにはまだ早い。
トドメは、その鎌首が持ち上がらないところまで刺さなければ。
「あさっての出国まで、先ほどのSPたちが24時間体制で娘さんと行動を共にしますので、そのおつもりでいてください。少々奇抜な行動をされるのが特徴だとこちらも存じておりますので、思い切った行動に出られないようにするための予防策だとご理解ください。人間、窮地に立った時に起こす行動には鬼気迫るものがありますので、それが鳴成准教授を万が一にでも害することになれば、私も理性を手放して報復しかねません。代償は命、ということも」
監視するが、口を出すな。
鳴成に何かあった際には抹消もかくや、と言外に仄めかされて、粕川は頷くしかなかった。
「また、ウルグアイに着いてもしばらくはあちらのSPが娘さんの警護をしますので、何もご心配なく」
あちらでも監視は続けるがやはり口を出すなと言われても、粕川は首を縦に振るしかない。
「それと……ああ、忘れるところでした。リゾート施設の件に関して、深圳交通建設が退いた空席には、北京建設集団総公司の別の子会社が協力可能とのことでした。こちらはクリーンな会社なので突然の契約解除等も起こらないでしょう。話を進めてもよろしいですか?」
「はい、はい!よろしくお願いします、是非!ありがとうございます!」
藁にもすがる思いで粕川は感謝の言葉を繰り返した。
祖父の代から三代に渡って、道路を大幅に整備したり、夏祭りを開催したり、マラソン大会を誘致したりと生まれ育った地元の地域活性化を推し進めてきた。
そして今、世代交代に際し、父から息子へ政治家としての最後のプレゼントとしてリゾート開発に乗り出した。
既に大規模な山の切り崩し工事は終えているため、ここで計画が頓挫すれば住民の反感は想像に難くなく、来年の息子の選挙にもかなりの悪影響を及ぼすだろう。
それは避けたい。
それだけは、何としても避けたい。
たとえ娘を今後一生異国の地に閉じこめたとしても。
「承知しました。では、そのように」
「はい、ありがとうございます」
「確か、息子さんは来年出馬予定でしたね?」
「はい。まだまだ未熟ではありますが、父親の私に似ず真面目で一直線な息子です。必ずや日本の皆さんのお役に立てると思います」
「期待しています。是非ともクリーンな政治家になっていただきたい。お父上や与党の他の議員の皆さんを反面教師にして」
「え……?」
月落が再び宙に掌を差し出すと、後ろに控える萩原がまたもそこに紙の束を乗せた。
「先日、父と共に食事を楽しまれた白金の料亭。とても気に入っていただけたようで、重鎮の皆さんに広くご紹介くださいましたね?皆様にも好評のようで……ああ、週に数回のペースで通われている方もいらっしゃるようですね」
興味なさげな様子で数枚ページを捲った月落は、面白味もないと言った無表情でそれを粕川の前へと置く。
デジャヴに気が遠くなりそうなのをなんとか堪えて、粕川はそれを手にとり力なく眺めた。
そこには、議員の氏名や密会を行った者の詳細、会話の内容などが細かく記載されていた。
粕川が世には知られていない隠れ家だと紹介したことで、皆安心して店を利用したらしい。
夜と共に立ち消えなければならない影が、文字になり生き残ってしまっている。
一言で言うと、とんでもなくまずい。
「なぜ、なぜこんなものが……あの店の責任者は月落とは一切関係のない男だったはずで……」
「粕川先生にだけお教えしましょう。あの店は父が偶然出会った料理人を救うために作った料亭なんです。責任者はその人ですが、実際の出資者は父でして。隠れ家として特定の方にだけ紹介しながら、情報収集しているんです」
「情報、収集……」
この部屋に入って僅か30分ほどで与えられた衝撃の数々に粕川の頭はパンク寸前だ。
茫然とした可哀想な老人に、月落は眼をキラリと光らせながら愉快そうに微笑んだ。
初めてみる生き生きとしたその表情に、粕川の背筋には幾筋もの逆さ雷が走る。
「嵌りましたね、罠に」
「ひぃ……!」
獲物は飲み込まれて、息の根を止めた。
「それにしても、北京建設集団総公司はよく深圳交通建設の不正を正すことに合意しましたね。それが公になれば、いくら自主的な綱紀粛正とはいえ非難は避けられないと思うのですが」
テーブルに散らばった資料を片付けながら、萩原が月落に問う。
鳴成に『粕川春乃は二度と先生の前に現れません、安心してください』とメッセージを送った月落は、アンセミオングレイのティーカップとソーサーを手に取って、デカフェのアールグレイを一口飲んだ。
「粕川議員だけでなく、国内外への贈収賄を行っていた深圳交通建設の執行役員を退任させたかったようです。噂は多々あるのに、中々尻尾を掴めなかった。けれど今回、収賄側の正確な日時と金額の記録を得たことで、北京建設集団総公司が入手していた疑惑の記録と照合でき、贈賄が確定した、と。スパイダーに感謝を伝えてくれと言われました」
「お役に立てたようで光栄でございます」
「今回、萩原さんをはじめスパイダーやスネークの皆さんには短期間で色々とご協力いただきました。調査依頼はこの一件だけではないはずなので、多大なる負荷をお掛けしたと思います。僕からの感謝も伝えてください」
「皆、渉様と鳴成様のためにと自主的に闘志を燃やした結果でございますので、労いのお言葉を頂いただけで疲れも吹き飛ぶことでしょう」
「心ばかりの品を手配してますので、皆さんの癒しとなれば嬉しいです」
「ありがとうございます。有難く頂戴します」
後日。
スパイダーとスネークの面々がオフィスとして使用している都内のとあるビルの一室に、巨大な段ボールが幾つも届いた。
ひとつは最新式のコーヒーメーカー数台と一生分はありそうな量のカプセル。
ひとつは老舗菓子匠『はこゑ』をはじめとする、有名店の和洋折衷さまざまな茶菓子。
そして、もうひとつには人数分のご祝儀袋、その中に高級焼肉店の食事券が同封されていた。
ちなみに、どんな大食漢でも優に三度は食事を楽しめる金額であったため、皆喜びを通り越して若干後ずさりしたのはその場にいた者しか知らない。
「えぇ、よろしいかと思います。直行便はありませんがたったの30時間強で行けますし、ビーチも美術館もあって歴史的な街並みも美しいです。牛肉がお好きであれば、ウルグアイ牛を使ったステーキハウスが多いことでも有名ですので、お楽しみになれるかと。温泉もございますので、環境は別府とさほど変わらないと思われます」
月落からの問いかけに、萩原は間も置かずに淀みなく述べた。
「変わるわよ!30時間もかかる国なんか誰が行くのよ!アメリカでも言葉が通じなくて苦労したのに、ウルグアイなんて絶対に行かない!あんたたちにそんなこと決める権利なんてないでしょう!?」
「あちらでの衣食住は月落が一生保障いたします。ある程度の交際費もお渡ししましょう。もちろん、粕川家からも大事な娘さんへ生活費はお送りになるでしょうから、普通の水準以上での生活は可能でしょう」
「お父さん、黙ってないでなんとか言って!私の将来が台無しになっちゃうじゃない!」
「こちら側に全面的な非があるのは重々承知の上で、靦然たるお願いではありますが、何とか国内でと……あ、と申し訳ない。電話が」
「いえ、急用でしたら事ですので、この場で出ていただいて構いません」
苦虫を潰したような顔で粕川勝造が話し始めたとき、内ポケットに入れていたスマホがけたたましく鳴った。
急いで電源を落とそうとするが、この部屋の主人が承諾したとなれば従うしかない。
通話ボタンを押してスマホを耳元に近づけると、外で待機しているはずの第二秘書が焦った声音で一息に告げた。
『粕川先生、大変です。まもなく着工が予定されている体験型大型リゾート施設の建材調達を依頼していた中国企業が、契約解除を申し出てきました』
「なっ、あれは息子へ地盤を引き継ぐ来年の選挙のために必ず必要な箱物だぞ!何を今さら契約解除などと……多額の違約金や損害賠償が発生すると脅して黙らせろ」
『以前、先生にお見舞い金として渡した1億円の事実を公表されたくなければ今回は黙って手を引けと、逆にこちらが脅されている状況です」
「何を馬鹿な!1億譲渡の証拠など残っているはずがないだろう!」
「証拠ならば、ここに」
粕川勝造の焦った様子を静観していた月落が、突然声を発した。
後ろに控える萩原から数枚の書類を受け取ると、それをそのまま粕川の座る前へと置く。
「え……?」
「深圳交通建設が粕川先生に賄賂を渡していた証拠ならば、ここにあります」
粕川勝造の時が止まる。
『粕川先生?先生?』
途切れた会話を不審に思った第二秘書が、電話越しに何度も粕川を呼ぶが、もはやその声は届かない。
スマホをソファへと放り投げた粕川は、震える手でその紙の束を手に取った。
ごくり、と唾を飲みこむ音がする。
「深圳交通建設はおととしの中間決算で、架空の売上を計上し不正会計を行っていました。当時の日本円にして約1億円です。それを数回に渡って粕川先生の口座へと送金した記録もありますので、次のページをご参照ください」
ぺらりと捲った先には、三度に渡って中国企業から送金された記録が記されている。
日付や細かい金額については憶えていないが、月落が提示したものに間違いなどないだろう。
外にいる秘書を呼んで確認するまでもない。
「こんな、これを一体どこで……海外の口座を経由したから足跡は残らないと……」
「ええ、巧妙に隠していらっしゃいましたね。それは粕川先生側から辿ったものではありません」
「ならばどういう……まさか中国サイドなわけは……」
「その通りです。深圳交通建設は北京建設集団総公司の子会社です。大陸では民間企業にも商業賄賂が適応され、処罰の対象となります。そのため、親会社である北京建設集団総公司を通して事実確認を行い、それを証拠として提出してもらいました」
「ぺ、北京建設集団総公司がなぜそんなことを……?」
「子会社とはいえ、これが公になれば親会社にも当然疑いの目は向けられます。痛くない腹を探られるくらいならば、問題を事前に炙り出して早急に対策を講じるべきだ、と創業者一族に連絡を取りました」
「そんな、誰が」
「私が、ですね。そこの次男とは友人でして」
がくり、と粕川勝造の頭が落ちる。
先ほどまで額に無数の雫を作っていた汗は完全に干上がり、むしろ身体中の水分が一気に蒸発したかのように粕川は潤いを失くした様子だ。
『隣のお爺ちゃん議員』を演出していた福福とした頬も、一瞬で瘦せこけた。
「さて、粕川先生。ここで、ひとつご提案があります。深圳交通建設との贈収賄の件は、親会社である北京建設集団総公司の監査部門が対応するよう便宜を図ってもいいと言っています。逃げ道はいくらでもあれど、敢えて不正会計を公表して追徴課金を支払うことも厭わない、と。その際、粕川先生のお名前が明るみにならないよう、私からお願いして差し上げましょう」
「それは願ってもない!リゾート施設建築は我が地元待望の計画でしてな、破綻すれば粕川家は嘘つきとして血祭りにあげられます。是非によろしくお願いしたい」
「その代わり、娘さんをウルグアイへ。できればこれからすぐと言いたいところですが、一生のお別れになりますのでご家族と最後の挨拶を交わす時間も必要でしょう。ですので、あさっての午後に出発できるよう航空券をご用意しております」
音もなく、萩原が航空会社のロゴが印刷された封筒をテーブルの上に置く。
それを見て、父より激昂したのはピンクに着飾った娘だった。
「はぁ?!あんた何言ってんの?!何で私がお父さんの賄賂を隠すための犠牲になんなきゃいけないのよ!お父さんの不正はお父さんが勝手にやったことなんだから私には全く関係ないでしょ!巻き込まないでよ、私を!ウルグアイなんて行か——」
「えぇい!やかましい!黙りなさい!今まで何度となく起こした事件をもみ消してやったのは誰だと思ってるんだ!親孝行のひとつもしてこないで、むしろ親の脛ばかり齧って好き勝手しおって!お前の我儘で家を潰す訳にはいかん!金輪際、お前は粕川家の娘ではない!」
まさかの勘当を言い渡された粕川春乃は、その衝撃に濁音混じりの絶叫を放った。
「なによぉぉぉぉぉ!!!!偉そうにしないで!!!!あんたなんか役立たずの老害のくせにぃぃぃぃぃ!!!!」
空気を歪に引き裂く金切声に、萩原は即座に両耳を塞ぐ。
その格好のまま、普段は月落衛が使っているモカブラウンのエグゼクティブデスクまで歩を進める。
デスクの下にあるボタンを押すとすぐに扉が開き、黒いスーツを纏ったSPたちがぞろぞろと入ってきた。
粕川春乃は両腕を掴まれると、強制退場と相成る。
「ちょっと、あんたたち何よ!離しなさいよ、離して!私を誰だと思って、汚い手で触んないで!ちょっと!!!」
叫び声は、扉が閉まってもしばらく聞こえていた。
ようやく静寂を取り戻した室内に、3つ分のため息が落ちる。
「どこまでも恥ずかしい娘で申し訳ありません」
深々と頭を下げる粕川だが、安心しきるにはまだ早い。
トドメは、その鎌首が持ち上がらないところまで刺さなければ。
「あさっての出国まで、先ほどのSPたちが24時間体制で娘さんと行動を共にしますので、そのおつもりでいてください。少々奇抜な行動をされるのが特徴だとこちらも存じておりますので、思い切った行動に出られないようにするための予防策だとご理解ください。人間、窮地に立った時に起こす行動には鬼気迫るものがありますので、それが鳴成准教授を万が一にでも害することになれば、私も理性を手放して報復しかねません。代償は命、ということも」
監視するが、口を出すな。
鳴成に何かあった際には抹消もかくや、と言外に仄めかされて、粕川は頷くしかなかった。
「また、ウルグアイに着いてもしばらくはあちらのSPが娘さんの警護をしますので、何もご心配なく」
あちらでも監視は続けるがやはり口を出すなと言われても、粕川は首を縦に振るしかない。
「それと……ああ、忘れるところでした。リゾート施設の件に関して、深圳交通建設が退いた空席には、北京建設集団総公司の別の子会社が協力可能とのことでした。こちらはクリーンな会社なので突然の契約解除等も起こらないでしょう。話を進めてもよろしいですか?」
「はい、はい!よろしくお願いします、是非!ありがとうございます!」
藁にもすがる思いで粕川は感謝の言葉を繰り返した。
祖父の代から三代に渡って、道路を大幅に整備したり、夏祭りを開催したり、マラソン大会を誘致したりと生まれ育った地元の地域活性化を推し進めてきた。
そして今、世代交代に際し、父から息子へ政治家としての最後のプレゼントとしてリゾート開発に乗り出した。
既に大規模な山の切り崩し工事は終えているため、ここで計画が頓挫すれば住民の反感は想像に難くなく、来年の息子の選挙にもかなりの悪影響を及ぼすだろう。
それは避けたい。
それだけは、何としても避けたい。
たとえ娘を今後一生異国の地に閉じこめたとしても。
「承知しました。では、そのように」
「はい、ありがとうございます」
「確か、息子さんは来年出馬予定でしたね?」
「はい。まだまだ未熟ではありますが、父親の私に似ず真面目で一直線な息子です。必ずや日本の皆さんのお役に立てると思います」
「期待しています。是非ともクリーンな政治家になっていただきたい。お父上や与党の他の議員の皆さんを反面教師にして」
「え……?」
月落が再び宙に掌を差し出すと、後ろに控える萩原がまたもそこに紙の束を乗せた。
「先日、父と共に食事を楽しまれた白金の料亭。とても気に入っていただけたようで、重鎮の皆さんに広くご紹介くださいましたね?皆様にも好評のようで……ああ、週に数回のペースで通われている方もいらっしゃるようですね」
興味なさげな様子で数枚ページを捲った月落は、面白味もないと言った無表情でそれを粕川の前へと置く。
デジャヴに気が遠くなりそうなのをなんとか堪えて、粕川はそれを手にとり力なく眺めた。
そこには、議員の氏名や密会を行った者の詳細、会話の内容などが細かく記載されていた。
粕川が世には知られていない隠れ家だと紹介したことで、皆安心して店を利用したらしい。
夜と共に立ち消えなければならない影が、文字になり生き残ってしまっている。
一言で言うと、とんでもなくまずい。
「なぜ、なぜこんなものが……あの店の責任者は月落とは一切関係のない男だったはずで……」
「粕川先生にだけお教えしましょう。あの店は父が偶然出会った料理人を救うために作った料亭なんです。責任者はその人ですが、実際の出資者は父でして。隠れ家として特定の方にだけ紹介しながら、情報収集しているんです」
「情報、収集……」
この部屋に入って僅か30分ほどで与えられた衝撃の数々に粕川の頭はパンク寸前だ。
茫然とした可哀想な老人に、月落は眼をキラリと光らせながら愉快そうに微笑んだ。
初めてみる生き生きとしたその表情に、粕川の背筋には幾筋もの逆さ雷が走る。
「嵌りましたね、罠に」
「ひぃ……!」
獲物は飲み込まれて、息の根を止めた。
「それにしても、北京建設集団総公司はよく深圳交通建設の不正を正すことに合意しましたね。それが公になれば、いくら自主的な綱紀粛正とはいえ非難は避けられないと思うのですが」
テーブルに散らばった資料を片付けながら、萩原が月落に問う。
鳴成に『粕川春乃は二度と先生の前に現れません、安心してください』とメッセージを送った月落は、アンセミオングレイのティーカップとソーサーを手に取って、デカフェのアールグレイを一口飲んだ。
「粕川議員だけでなく、国内外への贈収賄を行っていた深圳交通建設の執行役員を退任させたかったようです。噂は多々あるのに、中々尻尾を掴めなかった。けれど今回、収賄側の正確な日時と金額の記録を得たことで、北京建設集団総公司が入手していた疑惑の記録と照合でき、贈賄が確定した、と。スパイダーに感謝を伝えてくれと言われました」
「お役に立てたようで光栄でございます」
「今回、萩原さんをはじめスパイダーやスネークの皆さんには短期間で色々とご協力いただきました。調査依頼はこの一件だけではないはずなので、多大なる負荷をお掛けしたと思います。僕からの感謝も伝えてください」
「皆、渉様と鳴成様のためにと自主的に闘志を燃やした結果でございますので、労いのお言葉を頂いただけで疲れも吹き飛ぶことでしょう」
「心ばかりの品を手配してますので、皆さんの癒しとなれば嬉しいです」
「ありがとうございます。有難く頂戴します」
後日。
スパイダーとスネークの面々がオフィスとして使用している都内のとあるビルの一室に、巨大な段ボールが幾つも届いた。
ひとつは最新式のコーヒーメーカー数台と一生分はありそうな量のカプセル。
ひとつは老舗菓子匠『はこゑ』をはじめとする、有名店の和洋折衷さまざまな茶菓子。
そして、もうひとつには人数分のご祝儀袋、その中に高級焼肉店の食事券が同封されていた。
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【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている
キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。
今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。
魔法と剣が支配するリオセルト大陸。
平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。
過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。
すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。
――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
全8話
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c
【完結】この契約に愛なんてないはずだった
なの
BL
劣勢オメガの翔太は、入院中の母を支えるため、昼夜問わず働き詰めの生活を送っていた。
そんなある日、母親の入院費用が払えず、困っていた翔太を救ったのは、冷静沈着で感情を見せない、大企業副社長・鷹城怜司……優勢アルファだった。
数日後、怜司は翔太に「1年間、仮の番になってほしい」と持ちかける。
身体の関係はなし、報酬あり。感情も、未来もいらない。ただの契約。
生活のために翔太はその条件を受け入れるが、理性的で無表情なはずの怜司が、ふとした瞬間に見せる優しさに、次第に心が揺らいでいく。
これはただの契約のはずだった。
愛なんて、最初からあるわけがなかった。
けれど……二人の距離が近づくたびに、仮であるはずの関係は、静かに熱を帯びていく。
ツンデレなオメガと、理性を装うアルファ。
これは、仮のはずだった番契約から始まる、運命以上の恋の物語。
アプリで都合のいい男になろうとした結果、彼氏がバグりました
あと
BL
「目指せ!都合のいい男!」
穏やか完璧モテ男(理性で執着を押さえつけてる)×親しみやすい人たらし可愛い系イケメン
攻めの両親からの別れろと圧力をかけられた受け。関係は秘密なので、友達に相談もできない。悩んでいる中、どうしても別れたくないため、愛人として、「都合のいい男」になることを決意。人生相談アプリを手に入れ、努力することにする。しかし、攻めに約束を破ったと言われ……?
攻め:深海霧矢
受け:清水奏
前にアンケート取ったら、すれ違い・勘違いものが1位だったのでそれ系です。
ハピエンです。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
自己判断で消しますので、悪しからず。
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