きみの黒土に沃ぐ赤

甲姫

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七、善意のかがやき

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 助けてくれ、と御者が叫んだ。悪いが前金だけでずらからせてもらうぜ、分が悪い戦いはしない主義だからな、と用心棒は叫び返した。宣言した通り、彼は魔物の一体を切り伏せてから即座に退散した。
 なんとかセリカは起き上がることができたが、足がその場に凍り付いてしまっていて動けない。
(分が悪いって……)
 或いはセリカが認識した二体以外にも魔物が居るのか。周囲を見渡そうにも、できない。御者の男が四本腕の魔物に喰われている、その惨劇から目が離せないのである。
(逃げなきゃ)
 魔物が弓なりに仰け反った。腕が多い点を除けば人に似ていなくもない形状だ。首の付け根辺りから垂れる大きな舌らしき器官が、気味悪く宙をうねった。
 異形のモノの次の獲物に選ばれるのも時間の問題だ。そう思うと手が勝手に動き出した。視線で敵影を捉えたまま、指だけで近くをまさぐってみる。
 そうしてセリカの指が枝と似た手触りのものを探り当てたのと、魔物が捕食行為を再開したのは、ほぼ同時だった。
 その隙に手の中の物を確認する。
(ああ、逃げるなんて選択肢は、取れないわよね)
 弓矢を構える。
(任されたんだから)
 小さく笑みを零した。初対面で「生き物を狙ったことがないだろう」とエランに言われたのを思い出す。
 実際のところ、生き物を狙ったことはある。ところが魔物を狙ったことは――。
(どこに狙いを付ければいいのよ。あんなのに弱点なんてある!?)
 視界の中心で、矢頭が激しく震えている。弦を緩めて一度深呼吸をしてから、再び引く。
 頭部らしき箇所に向けて矢を放った。一瞬後に矢は的中し、耳障りな絶叫が響いた。
 魔物はこちらに向かって四本の腕を伸ばした。そして、跳んだ。
「ひっ!?」
 恐怖に喉が引きつった。それでもかろうじて手は動く。
 ――次の矢を番えて放つ――!
 放った矢がアレの胴体らしき部分に当たったのは、奇跡としか思えない。魔物は身をよじり、セリカからは十歩離れた地点に落ちた。
 そこでほっと胸を撫で下ろしたのがいけなかった。
 生ゴミのような臭いが鼻を突いたため、反射的に、左に首を巡らせたら。新手のけだもののかぎ爪がすぐそこにあった。
 骨の髄までしゃぶり尽くされるイメージに支配される――が、目を瞑った間に、甲高い衝撃音が弾けた。
(どうして? どこも痛くない……)
 疑問に思って目を開ける。
 目の前に人影があった。地べたに腰を抜かしたままのセリカを庇うようにして、魔物の前に立ちはだかっている。湾曲した長いナイフでかぎ爪を止めたのだ。
「え――エラン!?」
「おまえ、は……さ、がれ……!」
 途切れ途切れながら、返事があった。瞬間的に意識が浮上してきたのだろうか。
 いつかのように、腰が抜けて立てないですなんて返せる雰囲気ではない。セリカは這って後ずさり、脅威との間に距離を開けた。
 魔物と応戦するエランの援護をしてやりたいけれど、双方の立ち位置が目まぐるしく入れ替わっていて狙いを付けられない。
 やがて魔物は倒れ、肩で息をする青年だけが残った。その時点でセリカはもう、立てるまでに回復していた。
「エラン!」
 駆け寄り、顔を覗き込む。青ざめた唇から鮮血が溢れているのを見つけて、セリカは顔から血の気が引くのを感じる。
 続く言葉が見つからずにあたふたした。
 すると瞬く間に彼は倒れ込んできた。対するセリカは抱き抱えて尻もちをつくしかできない。
 濡れた感触が胸に伝わる。
 血の臭いに眩暈がした。動悸が速まり、頭が真っ白になる。
 そんなタイミングで、道の脇から物音がした。
 また魔物だろうか。嗚咽を堪えて、セリカは抱き締める腕に力を込めた。無駄な足掻きだとわかっていても、守りたい、その想いだけは強固だった。
 ――がさり。
 草を踏みしめる音が軽い。虚を突かれ、つい顔を上げた。
(……女の子?)
 あどけなさの残る柔らかそうな頬っぺたと栗色の髪が特徴的な小柄な少女が、大きな茶色の双眸を限界までに見開いた。
「大変! その方、どうされたんですか!?」
 南の共通語だ。少女は脇目もふらずにこちらに駆け寄る。瞬間、彼女めがけて地面から歪な影が飛び上がった。
「だめ、逃げて!」
 セリカは必死に警告した。
 しかし少女は足を止めない。ふわりと長い髪を風になびかせ、微笑を浮かべて、「だいじょうぶですよ」と唇を動かす――
 また新たな物音がした。少女の通った後を追うように、長身の男が現れた。
 その男は成人男性の身長と同等の丈をした大剣を、信じられない速さで振るった。
 魔物が一刀両断される。切り口から飛び出す体液が、なんとも美しい弧を描いた。
 痛快な光景であった。剣圧から生じた風ですら気持ち良いくらいだ。自分を脅かしていたモノがこうしてあっさりと無に帰すさまを眺めるのは、気分が良かった。
(って、いけない。見とれてる場合じゃない)
 己にもたれかかる重みを思い出して、セリカはハッとなった。そっと草の上に寝かせてから、呼びかける。
「エラン!」
 ふと人の気配が近付いた。警戒して思わず身じろぎした。
「安心してください。私は聖女です」
 例の少女が膝を付き、銀色の鎖に繋がったペンダントを取り出して見せた。ペンダントの部分は銀細工に紫色の水晶が左右に一つずつついている、左右対称的な形だった。十字にも似た紋様は、この大陸で生活する人間ならばほとんどが見知っている象徴だ。
「教団の聖女が……どうしてこんなところに……?」
「お話は後にしましょう」
 浮かべている微笑みと裏腹に、聖女の声音は厳しかった。何かの呪文を小声で唱えてから彼女は慣れた様子で手をかざした。「どこが悪いのか、わかりますか?」
「胸――肺を多分、さっきやられて……それからお腹にも内出血、かな」
 指で示しながら教える。先ほどはだけさせた服がそのままになっているため、患部が露わになっている。
「わかりました。胸とお腹ですね」
 少女の手の中に握られたペンダントが、金色の光を発している。光は淡く伸びて帯のような形になり、エランを包み込む。
 セリカは目を凝らして一部始終を見つめていた。その上で、目を疑った。
 胸の皮膚を抉った傷や腹部の痣が、忽ち治っていったのである。服に付いた血痕は変わらないが、ほんの数秒前まではそこにあったはずの痛々しい生傷がすっかり消えてしまった。唇も元の色に戻っているし、顎にまで流れていたはずの血の痕も無い。
 幻覚かと思ってセリカは何度も目を擦った。手を伸ばして、触れてみたりもした。
 ――この弾力、感触。何の仕掛けもない、まごうことなきただの肌だった。
 仰天した。セリカとて聖人や聖女が摩訶不思議な力を施すのを見たことも経験したこともあったはずだが、せいぜい擦り傷や頭痛を治したという程度の話だ。
「すごっ! 『聖気』ってこんなことができるの!?」
 感嘆して聖女の方を振り向く。一方で彼女はとても息苦しそうに答えた。
「これで、彼はもう、大丈夫でしょう。後は頼みましたよ、ゲズゥ……」
 どうしたのと訊ける間もなく、ふらりと小さな聖女は前のめりに倒れかける。横合いから伸びた腕がその肩を支えた。魔物はもう倒し尽くしたのか、長身の男がいつの間にかすぐ傍にいた。
 一拍置いて、彼はこちらに首を巡らせた。不気味なほどに無表情な男は、やはり不気味な、真っ白な左目と真っ黒な右目をしている。
「…………女」
 低い声だった。威圧感に竦み上がりそうになる。セリカはぐっと顎を引いて、視線を返した。
「何よ」
 この男には命を助けてもらった――更に言えば彼の連れにエランを助けてもらった――のだから、なるべく好意的に応じたい。そう思っていても、一体何を要求されるのか、恐ろしい想像をせずにはいられない。
「体力に自信は」
「体力? なくはないけど、何で」
 男は大きな布の袋を投げてきた。二本のストラップが付いていて、おそらくこれは背負って運べるデザインなのだろう。
「街道沿いは夜盗が出る。野宿できる場所を探す」
 そう言って彼はエランを左肩に担ぎ、少女を右脇に抱えた。ちなみに先ほど振り回していたあの大剣は、背中側の鞘に収まっている。
「えっと、あなたは手いっぱいだからあたしに荷物を運べってことね」
 男は答えずに走り出した。
(言葉が足りない奴……)
 呆れて、セリカはため息をついた。置いて行かれても困るから、急いで荷物を背負って走り出す。
 森の中を駆けるも早くもはぐれそうになり、男の背中に向けて叫ぶ。
「足の長さを考えて速度調整してよ!」
 そもそもあの男、人間を二人も抱えていながらどうやってこうも巧く森の中を走っていられるのか。狭いし、地面は石や枝ばかりで踏みづらいし――天性のセンスなのか、そうなのか。
「こっちは旅装じゃないし、サンダルなんですけど!」
 そこで、ちょっとだけ速度を落としてくれた気がした。
 なんだかんだ文句を垂らしながらも、セリカは必死に男の後ろについて行った。
 ――きっとそうした先に、安全な場所があると信じて。

_______

 しゃーり、しゃーり、と硬いものが鉄に擦れる音にいちいち鳥肌が立った。いつになったら終わるんだ――焚き火の傍で腰を丸めていたセリカは、チラリと黒髪の男を盗み見た。
 森の中のいい感じの広場で野営地を組んでしばらく経った頃、あの長身の男が刃物を研ぎ出したのである。あれだけ大きな剣だ、表面の汚れを落とすだけでも手間なのに、男はなんともなさそうに手順を次々と踏んでいった。
 やっと音が止んだかと思えば、今度は男はエランの所持する武器を手に取った。剣とも呼べそうな、長いナイフとも呼べそうな刃物を鞘から抜いた途端、男は不服そうに眉を吊り上げる。
(そういえばエランって武器の取り扱いが雑だったような)
 もしかしたら手入れも怠っていたのかもしれない。現に男は、錆を落としたり石で研いだりして、自分の剣にかけた以上の時間を費やしてそれを整備した。
 ありがたい気遣いである。しかし頭ではわかっていても、セリカがその音にぞわりとするのは不可抗力だった。
「あの。先に横になってもいいかしら」
 静かに問いかけた。男は振り返らずに頷く。
 セリカはたまらずに安堵した。正直、二人きりでいるのが気まずかったのである。
 他の二人は今夜はもう起きそうにないから、この変な空気から逃れるためには自分が寝るしかない。水筒の水を一口飲み込んでからタバンヌスに借りた外套を敷き、荷物入れの袋を枕代わりにして、寝転がった。
「隣、失礼しますよー」
 不慣れな環境でせめて少しでも慣れ親しんだものの傍に居たいと思うのは自然だろう。枕元に愛用の弓、腕の長さほど離れた距離にはエランディーク公子。
(顔色良くなってる……安らかそうな寝顔……)
 視界が点滅する。瞼がひとりでに下りて来たらしい。
 色々と気を揉んで眠れないのではないかと心配していたのだが、肉体の疲労の方が勝ったようだ。泥沼に沈むような深くてねっとりとした眠りに落ちるまでに、大した時間はかからなかった。

 話し声によって、実のない夢から覚めた。
 始めはただ身じろぎした。尾を引く倦怠感と陽の光の暖かさが相まって、セリカは起き上がるどころか目を開けることすらしたくない。
「――――お礼は要りませんよ。その時その場に居合わせて、できることがあったから、したまでです。私は本心から、貴方の元気な姿が見れただけで満足です」
 うら若い女子の可愛らしい声が聞こえる。誰の声だろうか、聞き覚えがある気がする。
「そう思っていただけるのは幸いですが……」
「あっ! でも、お顔の傷痕は古いのでしょうか、聖気では治せませんでしたね」
「ああ、はい。幼少の頃の古傷です。お気に病まないでください」
 気になる単語に、セリカの重い瞼が持ち上がる。
 ――顔のきずあと? 幼少の頃の古傷――
 今度こそ目が開いた。地に横たわっているため視線の位置は低い。ぐるりと目を動かして、少女の立ち姿を見つけた。栗色の髪を首元で一束に括りつけ、いかにも動きやすそうな麻ズボンを履いている。
 少女と向かい合って立つ青年を認め、セリカは胸が狭まるのを感じた。
 たったの一日だったはずなのに。その間ずっと話ができなかったのを思い返すと、何故だか目頭が熱くなる。
「聖女さまに助けていただき、私は死の淵から戻って来れました。感謝してもしきれません。口頭でいくら伝えても足りません。私にできることがあれば、どうぞなんなりと」
「うーん、そうですね」小さな聖女が考え込んだ。「私は貴方がたがどんな身の上なのか知りませんし、他人様の人生に願いを押し付けるのは違う気がするんです……だからこれは私のわがままだと思って聞き流してくださっても構いません」
「はい」
「……せっかく助かった命です。いつか貴方にも人を助けられる機会が訪れた際は、活かして――やっぱり、こんなお願いは尊大すぎますよね、すみません」
 慌てて聖女は頭を下げる。エランはしばらく無言だったが、やがて地に片膝をついて彼女を見上げた。
「いいえ。この身に生ある限り、世のため人のために尽くすことを誓います。それが聖女さまへの恩返しとなるならば」
 彼は彼女の小さな手を取って、指の関節に唇を寄せた。
「ありがとうございます。十分すぎる恩返しですよ」
 ――彼らのあずかり知らぬところで、セリカは目を見開く。
「ふふ、エランさんってなんだか騎士さまみたいですね。もしくは王子さまでしょうか?」
「そう感じていただけて光栄です」
 と、生まれついての公子は優しい笑顔で答えた。
 俄かに芽生えた感情を、セリカは隅に押しやった。話を続ける二人を邪魔しないように、静かに寝床から抜け出る。
 唯一、枝に刺した小動物を焼いているらしいあの不気味な男だけが、気付いてこちらを一瞥した。けれど何も言わなかった。
 それからセリカは、特に当ても用も無く森の中をねり歩いた。
(何よ。そりゃあ聖女さまに出会わなかったらやばかったけど……あたしだってすっごく頑張ったのに。あの子ばっかり)
 ぱしゃん! と勢いよく水を踏んだ音で、我に返る。
 この感情と思考。これではまるで、妬み嫉みだ。
(ち、ちがっ、別にあたしは、あいつに褒めて欲しくて助け出したんじゃないのよ)
 自己嫌悪が込み上がる。知らない人の為に躊躇いなく飛び出したあの聖女に比べると、今の自分はあまりにも情けないのではないか。
 そうは言っても、堪えられないものは仕方がない。
(なんで…………)
 優しい眼差しの先にいるのが、「顔の傷跡」に関して気楽に話せる相手が自分ではないのが、どうしてこんなにも悔しいのだろう。
 セリカはその場でしゃがんで、先ほど踏んだ水を見つめた。
 湧き水みたいだった。まばらに水たまりができていて、飲めそうなほどに澄んでいる。
 それにしても、頭上から聞こえる鳥の鳴き声が明るい。のどかな風景の中にあって、自身のささくれ立った心は滑稽に思えた。
 ――みじめだ。
「なんか、疲れた」
 家に帰りたかった。できれば兄弟を捕まえて稽古に付きあわせて、休憩にはバルバが淹れてくれるお茶を飲んで、夜は母の小言を聞き流しながらキタラーを弾いて月を眺めたい。一生、結婚できないままでも気にすまい。
(もういいじゃない、人のことなんて。あたしには荷が重いわ)
 膝の上に揃えた両手の甲に顔を埋めた。故郷の自室のベッドの匂いを思い出そうとするも、うまく思い浮かべられない。
 枝の折れる音がした。パッと音のした方へ顔を上げる。
 数歩離れたところに、黒染めの革の長靴があった。初めて目にした時に比べて、それは随分と汚れてしまっていた。
「……こんなところで何をしている?」
 呆れた顔で、エランディーク・ユオンが訊ねた。
「別に。物思いに耽ってたの。悪い?」
 思わず顔を逸らした。見るほどの何かがあるわけでもないのに、水たまりをじっと見つめる。
「悪いということはないが、あまり一人で遠くに――……泉か、ちょうどいい」
「ちょうどいいってどういう」
「セリカ。そこの石に座ってくれ」
「は?」
 刺々しい声で答えてしまった。
「いいから座れ」
「ちょっとあんた、元気になった途端に何でそんな偉そうなのよ!」
 睨み付けるつもりで振り仰いで、しかしそこで呆気に取られた。思いもよらなかった光景に、言葉が出ない。
「へ、あの、エラン、ねえ」
 彼は右手でターバンを解きながら、左手でセリカの腕を引いた。されるがままに、近くの石に腰をかける。
「足、触ってもいいか」
「足……? あ、はい……」
 呆然と答える。エランが目の前でしゃがんでいる間も、セリカの目は解かれる被り物に釘付けになっていた。しゅるしゅると、頭上の布が減り、手の中の布が増えていく。
「なに、やってんの」
 かろうじて呟いた。青年はすぐには答えず、左手を伸ばした。
 足首に触れた急な感触に、セリカは無意識に息を止めた。
 紐が解かれ、終いにはサンダルを脱がされた。まずは右足、それから左足。その感覚は温かくてくすぐったくて――そして痛かった。
「だいぶ擦れているな。マメもできてる。聖女さまに治してもらえばいいだろうに」
「うっ、気付かなかったのよ。あちこち痛くて麻痺しちゃったというか」
「だからって放置するなよ」
「ほっといてよ! あんたには関係ないでしょ」
 足を取り返そうとして、失敗した。それより早く掴まれたのである。
 掌の熱に、掴む力の強さに、驚く。
「放っておけるか。関係なら、ある」
 エランはターバンから布を破いて、端を湧き水に濡らした。それでセリカの足を拭うようにして洗っている。冷たくて痛いが、嫌な感じはしない。
(なにこれ)
 心臓がおかしくなりそうだ。なんとなくドレスの裾を握り締めた。目線をどこへやればいいのかわからないので、ラピスマトリクスの耳飾を鑑賞する。それも思いのほか汚れているのがもったいない。
「お前がどれほどの犠牲を払ったのか、真に理解できるとは思っていない。感謝している、それだけはわかって欲しい」
 目が合った。青灰色の瞳は真剣そのものだ。
 息が詰まった。これも嫌な感じではなく、むしろ感極まったのかもしれない。
「出会って三日と経たないお前は、命を賭して私をあそこから連れ出してくれた。出会って数秒としない聖女さまは、見返りを求めずに私の命を救ってくださった。一の善意は千の悪意をも上回る輝きを放つものなのだと、実感している。こんな想いは初めてだ。常に謀略を巡らせる人間ばかりの世の中だと思っていた」
「……そう」
 耐えかねて、息を吐く。
「ねえ、すごくいい話をしてるのに悪いんだけど」――ひと呼吸を挟んでから続ける――「気になってしょうがないのよ。顔……隠さなくていいの」
 黙っていようと思っていたのについに言ってしまった。微かな後悔に、目を逸らす。
 視界の端で青い宝石が揺れるのが見えた。
「牢を駆け回れるような勇敢な姫が、こんなものを怖がるのか」
 その声は、落胆しているようにも聞こえた。慌てて否定する。
「平気! 全っ然余裕ですね!」
 再び目が合った時、そこには悪戯っぽい笑みがあった。
 ――はめられた。
「誘導するみたいな言い方しなくても……叫んだりしないわ。勇敢って何よ、嫌味?」
「まさか」
 洗う作業を終えたらしいエランが、残った布を引き裂いて包帯を作る。まだむず痒さが続くことにセリカは内心で呻いた。これ以上、我慢せよというのか。
(やだもう。反射で蹴っちゃいそう)
 公子をうっかり足蹴にしては大問題だ。いや、相手が公子でなくても結構な問題である。
 こうして悶々としている内に片足の処置が終わって結び目がこしらえられた。残る足に移ったところで、エランはこちらを見ずに口を開いた。
「毒にやられてた間のことは、断片ながら後になって徐々に思い出せた」
「……うん」
 まるで溺れていたようだったと、彼は語った。諦めて流されればその度にまた息継ぎができてしまい、遠ざかっていた五感が恨めしい激しさで戻った――痛い、苦しい、いっそ死んでしまえたらいい、そこまでして生きる価値なんて無い――かわるがわるそう感じたと。
「価値が無いって、そんな」
「ああいう状態では心の澱が浮かび上がるものだ。きっと自分がいなくなっても誰も悲しまない、あがくまでもない、と」
「やめてよ。あんたがどんな闇を抱えてるかなんて知らないけど、冗談でもそういうこと言わないで!」
 身を乗り出して怒鳴った。
「そんな感じだ」
「なっ、何が」
 妙な反応をされて、セリカは怯んだ。
「激励する声を聴いた。腕を引っ張る手の温かさを感じた。不確かなものしかない世界の中に、お前の気配を捉えられた。いわばその熱量が、私を生かしたのだろう」
 打ち明けられた想いの深さに戸惑った。何やら胸の奥がこそばゆい気がする。
 彼の挙げたものに、心当たりは当然ながらある。それでも、この瞬間にどんな言葉が見合うのか、セリカにはわからなかった。褒めてもらいたかったのは認めるが、いくらなんでもこの言い方は大げさではないか――。
 ふたつ目の結び目が完成した。足が解放された機に、早速石の上で座り直す。
 エランは俯きがちに、依然としてしゃがんでいる。
「話戻すけど、もう隠さないの」
 青年の額の右側から頬まで、眉骨や右目を巻き込んだ縦長の傷痕を、控えめに指さして訊ねる。
「ルシャンフに帰っている間などは特に隠してないが……この際、率直な感想を聞こう。――醜いか」
 男でもそういうことを気にするんだとセリカは意外に思い、しかし反省する。周りの目が気になるのに老若男女の違いなんてないはずだ。
「率直って、本当の本当に言っちゃっていいの」
「頼む。取り繕われるよりは、その方がわだかまりなく付き合っていける」
 当人がそこまでの覚悟なら仕方がない、じゃあ、とセリカは切り出した。
「強いて言うなら、でっかいムカデが這ってるみたいよ」
 直後、顔を上げたエランの口元が引きつっていた。
 ――傷付いたのか。どんなに前置きがあっても傷付いてしまうものなのか!
「だって率直な感想が欲しいっつったのそっちでしょ!?」
「その通りだ。なるほど、そうか……虫。セリカは、虫は平気か」
 まだ表情筋が引きつっている。
「気持ち悪いし触るのも嫌よ。でも怖いというよりは敬意を払うべき強靭な生命体だと思っているわ、特にムカデ級ともなるとね、うん」
 論点がずれた気がしなくもないが、問われたので答えた。
 微妙な静寂が降りる。セリカは虫から話題を逸らす術を探した。
「ね、触れてみてもいい……?」
 気が付けば大胆な質問を口にしていた。何故そんなことを望んだのか、後になって考えてみても、衝動だったとしか言い表せない。
「どうぞ……? 面白くも何ともないぞ」
 意外そうな返答があった。
「縫った痕っぽいわね」
 まずはじっくり眺めてみる。瞼まで縫い付けられているため、右目は開かないようになっている。
「刃物でざっくり斬られたそうだ。昔のことだ」
「うわあ、痛そう」
 顔を歪めて言うと、実はよく憶えてない、と彼は肩を竦めた。どこか他人事のように語るのもそこに起因しているのだろう。幼い頃の記憶とはそんなものだ。
「あ、ごめん。憐れまれるのが嫌なんだっけ」
 セリカは宙に浮かせた手を止める。
「遠巻きに憐れまれるのは鬱陶しいが、この近距離なら別にいい」
「あんたって、つつけば変な理屈ばっか出るわね」
「何とでも言え。……――痛かったかは憶えてないが、声が出なくなるまで泣き喚いたのは憶えている」
「じゃあ今は?」
 訊きながらもセリカは左手を伸ばした。中指と薬指の先で、肌の盛り上がっている部分を遠慮がちになぞってみる。
「痛くは、ない」
「それはよかった」
 なんとなく継続して指先で触れる。
 傷痕を形成する組織はデリケートなはずだ。これだけ大きい傷ながら、痛くないのには安心した――
 ふいにエランが身じろぎした。まるで撫でる指先から逃れたがっているみたいに。
(あれ。この反応)
 存外に面白いではないか。セリカの中に、おかしな欲求がふつふつと沸き上がる。
「もしかしてくすぐったいのを我慢してた感じ」
「…………」
 無言で身を引いたのが肯定の証。逃げられると追いたくなるのが人の性か、両手を伸ばした。耳の下から包み込むようにして捕らえる。
「やめろ」
 手首を掴まれた。引き剥がそうとしているらしい。セリカは全力で抵抗した。
「いいじゃない、さっきの仕返しよ。足触られるのすっごくくすぐったかったんだからね!」
「それは手当てだっただろうが! 同列にするな!」
「問答無用!」
 腕力が何故か拮抗している状態で、左手の親指を動かす。今度は指の腹で、じっくりと撫でてやる。
「ん……や、め……」
 顔を背けながらエランはまた身じろぎした。その振動が掌を伝わり、肘まで上り詰めた。
 ――唐突に、意識する。
 こうと汗と埃の匂い。爪先に触れる、黒茶色の巻き毛の感触。両手の中にある温もり、頬の柔らかさや顎骨の形、昨日から生え出したのであろう顎髭のざらつき、手の甲に当たっている耳飾の冷たさと硬さ。
 目の前の「男」の存在感を。
 それらへの認識は土砂降りのように降り注ぎ、未知の意欲を突き動かす。
 しかもたった今の一瞬で見え隠れした表情を、敢えて世間の言葉で形容するなら「色っぽい」でいいのだろうか。これが適当な表現かは、よくわからない。誰かにそんな主観を強く抱いたことが無いのだから。
 とにかく背筋がゾッとした。手を放し、次いで委縮した。
「はいあたしが全面的に悪かったですごめんなさい」
 石の上で背中を丸めて頭を下げる。
「急にどうした」
 訝しげな声が聞こえた。
「総評――い、いい顔だと思うわ。断じて醜くなんてないです」
 一方で、こちらはうわずってしまった。
「それはどうも……? いや本当にどうした。無理するな」
 直視できない。どうしたんでしょうね何を口走ってるんでしょうね、とは声に出さずに「さあ戻ろうきっと聖女さまたちが心配してる!」と早口で応じる。
「……裸足でか」
 石から降り立とうとするセリカの眼前に、一対のサンダルがぶらんと見せ付けられる。受け取ろうとして手を伸ばす。
 が、サッと取り上げられた。
「返してくれませんか」
「包帯巻いてる足では履きづらいだろう。背負って行ってやる」
「それはイヤ! ヤメテ!」
 負ぶさるともなると接触する面積が広すぎる。ありがたいけれども、今この時に限っては迷惑としか感じられない提案であった。
「拒否できると思っているのか」
 青年は眉間に皺を寄せて高圧的に言う。右手の指からサンダルがこれ見よがしに揺れている。
「じ、自分で歩けるわよ」
「却下。細かい傷が増える」
 もはや言い返せないと判断し、セリカは肩を落とした。差し出された背中に渋々ながら掴まる。
 体格が近いゆえに重心を安定させるのはきっと難しいと見越して、これまた渋々とエランの首に腕を回す。脚もしっかりと腰に巻き付けて、こうして、来た道を引き返すこととなった。
(無心になれ……無心に……)
 接触している各部位のことは気にしてはいけない。太ももに触れている腕など、そんなものは存在しない。
 会話が途切れているので、気を紛らわせる為にセリカは脳内で祖国の国歌を再現した。曲を半分ほど進めたところで、割り込む音があった。
 咳だった。悪寒が、背骨を駆け抜ける。
「大丈夫?」
 完治したと思い込んでいたが、後遺症があるのだろうか。腰にかけている圧力は、実は身体に障るのだろうか。
「喉が渇いただけだ」
「……そっか」
 明らかに安堵して、強張らせていた手足から力が抜けた。自分がこんなに神経質になっているとは知らなかった。
 咳の音で、昨日のあらゆる出来事を思い出してしまったのだ。どんな風に恐怖し、苦しみ、思い悩んだのかを。同時に、今の状況を改めて見つめ直せた。
 この男を変に意識し出したせいで気持ちが逸れたが、本来抱いていた感情が呼び起こされる。
「さっきのあんたと聖女さまとの会話、少し聞こえてたの」
「聞こえてたのか」
 これといった感情が付随していない返事だった。意に介さずにセリカは続けた。
「聖女さまの真似じゃないけど、あたしもね。あんたが元気になって、こうしてまた話ができて……すごく満足してる。恩返しとか犠牲を払っただとか、気にしなくていいからね」
 ――伝えた。伝わった、だろうか。
 求めていた見返りは単純だ。会いたかった、ただそれだけだ。
 そのことを思えば、こうして触れている温もりも髪の匂いも、心地良いものに感じられた。自然と目を瞑る。しばしそうしていたが、沈黙がいつまで経っても破られないことを不審に思い、目を開けた。
「ちょっと聞いてたの、エラン。さっきから静かじゃない」
 勇気を出して胸の内を吐露したのに、無反応とはあんまりではないか。首を伸ばし、表情を窺おうとする。
「……聞いてる」
「ならいいのよ。相槌が欲しかっただけ」
 唇を噛んでいるのが見えた。この仕草には覚えがある――
「嬉しくて、思考が止まった」
 ――不意打ちだった。
 よく見れば耳も赤くなっているようだ。
「え、えー。そういうこと言う? あたしまで照れるんですけど」
 セリカは上体を仰け反らせる。多分だけれども自分もつられて体温が高くなっている気がして、気付かれるのを避けたくなった。この状況では、他に距離の取りようが無い。
「元はと言えば誰のせいだ」
「何も変なこと言ってないわよ、『元気なあなたに会えて幸せだ』とかそんなんでしょ」
 あれ、とセリカは口を開けたまま視線をさまよわせた。簡略化して言い換えると、まるで想いを募らせた恋人同士の逢瀬の挨拶だ。
 会えなかった期間は短かったのに、大層な言い様である。かなり恥ずかしい。
(でも、生死を彷徨ってたのを見守るのはキツかったわ)
 青くなっていた唇や溢れ出した鮮血を思い出すと、照れて暴れる気も失せた。
「……本気でそう思ったのよ」
 ふと、エランが笑った気配があった。
「ありがとう。私も元気なセリカに会えて、幸せだ」

_______

 ――ええ全く、殿方には呆れますわ。乙女の機微を読み取る努力をもっとしていただきたいですわね。
 ――簡単に見せないから機微と呼ぶんじゃないのか。
 ――いいえ兄さま! 隠したいから隠しているものは別でして、気付いていただきたいから隠す感情というのがありますのよ。
 ――ややこしい。お前にもそんなものがあるのか、リュー。
 ――ありますとも。この気持ちを知って欲しい、けれど自分から言うのが悔しい、だから言えない! なんて想いが。
 ――なんだそれは……。言わなければ伝わらないだろう。
 ――ええまあ、わたくしと兄さまほどの仲なら、思った傍から何でも話しますけれど。
 ――なら何も問題がない。
 ――そう思いますでしょう? でもいつかお妃さまを娶る時が来ましたら、こうはうまく行きませんわよ。わたくしはエラン兄さまを心配しているのです。ちゃんとお妃さまを、見ていて差し上げなさいな――

 野営地に戻った頃には姫君の機嫌もすっかり直っていた。
 不機嫌が一過性ならば、原因を突き止める必要がないというのがエランディークの意見だ。要するに下手に蒸し返したくないのである。
 森で声をかけた際にセリカが垣間見せた攻撃性は何だったのか。言動が随所で尖っているのは元からだが、知り合って数日、これまでにも彼女が度々表してきた「拒絶」とは一線を画したものだった。
 ――突き放すようで、不貞腐れているようだった。
 そこまで感じ取っていながら、エランには理由がさっぱりわからない。
 命を助けてくれた上に、また会えて嬉しいとも言ってくれた。悪くない感情を抱かれている印象だ。後は「乙女の機微」とやらが、これ以上わかり合うことを阻んでいるのだろうか。
(訊いても、明かしてくれないだろうな)
 言葉にされていない想いをあれこれ勘繰るのは無意味だと判じ、エランは思考を中断した。
 背中からセリカを下ろしてから、聖女とその護衛だという男に向けて順に会釈する。
 黒髪の男は無機質な眼差しでこちらを見上げた。服装も総じて色が暗い――そう観察したところでエランは開口した。
「着替えをいただけないでしょうか。上だけで十分です」
 血に汚れてしまった自身のチュニックを示す。男は考えるように数度瞬き、やがて荷物を引き寄せる。中から灰色の衣服を掴み出し、こちらに向けて投げて来た。
「ありがとうございます」
 替えの服を手に、エランは木陰に向かう。汚れた方のチュニックを勢いよく脱ぎ捨てて――何故かいつの間にかはだけていたため脱ぐのは容易だった――男にもらった方のそれを着る。身長差から予想はできていたが、裾と袖の丈が余っている。
「お茶どうぞ」
 聖女が、セリカに座るようにと笑顔で促している。
 エランも輪に加わり、皆で焚き火を囲う形になった。四人が一堂に会するのも初めてだからと、改めて自己紹介を始めた。
「私は教団に属する聖女、ミスリア・ノイラートと申します。彼は護衛を務めてくださっているスディル氏です」
「二人だけで巡礼ですか?」
 エランはつい口を挟んで訊ねた。
「いいえ。私たちは帝都ルフナマーリからカルロンギィ渓谷へと向かっていまして……他の仲間が道中にヤシュレ公国に所用あるそうなので、彼らと再び合流するまではのんびり二人で進んでいます」
 エランは脳内に大陸の地図を思い浮かべて、納得した。現在地は聖女ミスリアが挙げた二つの地点の中途にある。そして少々の寄り道になるものの、ヤシュレ公国も行路上に位置している。
「ご存知の通り、私はエランと言います。こちらは……」
 隣に目配せする。「セリカです」「よろしくお願いしますセリカさん」と、女性同士で微笑みが交わされた。
「詳しい事情は話せませんが、我々は逃亡中の身です」
 エランは我知らず声を潜める。
「そうなんですね。私たちを巻き込みたくないから詳しくは話せないのですね」
「察しが良くて助かります。それから、昨夜は本当にありがとうございました」
 改まってセリカが深い礼をした。彼女に倣い、エランも頭を下げる。
「どういたしまして。貴方がたはこれからどうするんですか?」
 聖女の問いかけで隣のセリカが不安そうな顔をしたかもしれない。その辺りを見極めてから喋るべきだという発想を、エランは持たなかった。
「身を寄せられそうな町を知っています。セリカとはそこで別れて……今後の身の振り方を検討します」
 自分が思い描いている段取りを包み隠さず語る。聖女は頷きながら相槌を打った。
 隣から、息を呑んだような音がした。
 失言をしたのかと思ってエランは己の言動を振り返ったが、引っかかる箇所は無かった。
 隣を瞥見する。
 セリカが刺すような視線で見つめ返してきた。どうした、と無音で唇を動かしてみたが答えは得られず、公女の表情が余計に険しくなっただけだった。
(言葉にしなければ伝わらない。或いは言うべきか否か迷っているのか)
 物申したいような顔をして、何故口を噤んでいるのか。一向にわからない。
「では、そろそろ朝食にしましょう」
 聖女ミスリアはそれ以上の込み入った質問をせずに、食事の準備に取り掛かった。炒った木の実と、小型げっ歯類の丸焼きが全員に行き渡る。
「ねえこの小動物、鼠に見えるんだけど」
 不快感を隠さずにセリカが呟いた。
「鼠だ」
 スディルという男が無表情に肯定する。
「えっ。鼠って、た、食べられるの? 食用に向かない気が」
「旅をしていて、そういつも『当たり』に遭遇できない。肉が獲れるだけ運が良い、大体は鼠でなければリスかアライグマだ」
 男は容赦ない現実について淡々と述べた。言い終わるなり、手持ちの丸焼きに無遠慮に前歯を沈めている。
「リスね……アダレム公子が聞いたら泣くかな……」
 セリカは尚も気の進まない顔で丸焼きを見つめている。
 公宮育ちなのだ、食べる物は概ね上等で、狩る獲物の選別にも美学があると教え込まれているのだろう。気持ちはわからなくもない。エランもルシャンフ領に行かなければ、似たような拒否感を持ったかもしれない。
「アダレムは、泣きそうだな」
 セリカはそれには反応しなかった。手元を凝視し、覚悟を決めたように鼠に齧りついている。
 やむを得ない。そっけない姫君に話しかけるのはひとまず諦めて、こちらも食事に専念した。
「移動をするなら魔物が現れない昼間が適していますよね。すぐに発ちますか?」
 聖女の問いに、エランは首肯した。
「そうですね。追っ手が居ても居なくても、猶予があまり無いでしょう。こうして出逢えたからには、もっとご一緒できれば良かったのですが」
「ありがとうございます、私も同じ気持ちです。でも貴方には重要な差し迫った用事があるようですし、そちらを優先した方がいいです」
 人のさそうな小さな聖女が破顔する。相手を、奥深くまで温めてくれるような笑顔だ。つられて笑い返した。
 それから世情に関する話をしたり、旅に関する助言を受けたりした。
 結局、朝食を終えて旅支度を済ませるまで、セリカは一度たりとも目を合わせてくれなかった。
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