12 / 15
九、とんぼ返り
しおりを挟む
一に、大公の身を確保すること。
二に、第七公子アダレムの身を確保すること。
三に、第一公子ベネフォーリが州に戻っている間、奸計により命を落とすのを防ぐこと。
四に、第二公子アストファンの持つ武力をいなし、本人の動きを封じること。
五に、第四公子ハティルを説得すること。
それらの条件の過半を満たせれば、ある程度の安定は得られるはずだ。しかし果たせなかった場合、或いはそれでも流れが止まらなかった場合。
最後の手段で、私が大公に即位するしかないだろう。
そう言った青年の顔は――右頬の傷跡が威嚇に身を捻っているように見えるほど、苦かった。
________
定まった速度で進んでいた乗り物が急激に止まった。それゆえセリカは揺り起こされた。
(なになに)
重い瞼を開けると、覆面の人物が眼前で跪いていた。
(あれ、あたし一瞬ウトウトしてた?)
馬上で眠ってしまったとは我ながら恐ろしい。が、腕はしっかりと騎手の腰を捉えたままなので、とりあえずよしとする。
前方に乗っているその騎手が、地上で跪く人物を見下ろして何かを言っている。
大陸の共通語ではなくヌンディーク公国の言語だ。セリカは苦労して内容を聞き取った。
「宰相殿の密使か。信じさせてもらうぞ」
「偽りなき真意です。我が主から、殿下を探し出してお力になるように仰せつかりました。探し出すのに、少々手間取ってしまいましたが」
宰相の密使だという覆面の人物は中性的な声の持ち主だ。全身をくまなく黒い布で覆っているが(目の部分だけ細く網が張ってある。当然、声はくぐもっている)、胸周りの膨らみから女性と思われる。
「理由を、お前は宰相殿から聞いているのか」
「はい。主は我が国が貿易から繁栄するのが、最たる道だと考えておいでです。四国の間で突出したくとも、兵力・軍事力では帝国や隣国のゼテミアンに敵わないでしょうと」
「事実だな。ヤシュレに攻め入ろうにも、すぐに他二国をも同時に敵に回してしまう。綱渡りだ」
それでも渡り切れるだけの策を、ハティルなら考え付くかもしれないが――と、エランは使者に聴こえないような小声で呟いた。
「私が公都に戻ると、どうやって気付いた」
「殿下の従者という者から話を……それで公子方の中で最も意が合うのは、きっと第五公子殿下であると主は判断されました」
その返答に、セリカはエランと一緒になって息を呑んだ。そうか生きていたのか、という安堵と、転んでもただで起き上がらないどころか暗躍までするとは大した男だ、という感嘆が沸く。
曰く、陰に動き回っていたタバンヌスを、宰相の私兵が捕らえた――結果的には保護した――らしい。彼はしばらく口を割らなかったが、事前に宰相の立ち位置を理解していたためか、最終的に賭けに出たという。
「彼の者より伝言を預かっております」
「わかった。聞こう」
「では――『陛下は身辺に人が増えすぎて現状どうなっているか生死不明』、『並びにアダレム公子の生死と行方も不明』とのことでございます」
瞬間、エランの身が強張るのを衣服越しに感じた。
「我が主も手持ちの駒を動かしておりますが、殿下が戻られるまでに何がどこまで進展するか、保証いたしかねるそうです」
「了解した。力になってくれると言うが、お前は何ができる」
「陰より殿下の護衛を務めさせていただく心積もりでした。が、あなたさまは既に巧みに身を隠しておられるようで……。ご随意に」
密使の言う通り、今日まで追っ手に見つかることなく馬を進めていられるのは、入念な変装のおかげだった。幸いなことにヌンディーク公国は被り物を自由に着用していられる文化だ。
――目しか出さないほどに布を着込んでも、誰も呼び止めなければ振り返りもしない。
それは一般的に女性にのみ見られるスタイルだ。
エランの背格好なら、喋りさえしなければ十分に誤魔化せる。セリカのこの地域では珍しい赤髪も、こうして隠されたのである。
(覆面黒づくめの人間が三人も一同に会するのは、なんだかシュールだけど)
背に腹は代えられない、というわけである。
「なら、ムゥダ=ヴァハナにとんぼ返りしてもらっても構わないか」
「問題ありません」
彼女は指示の続きを求めるように、頭を下げたまま黙り込んだ。
「第六公子の動向を見張れ」
「第六公子殿下を、ですか?」
エランの言い渡した指示に対し、思わず、といった具合に彼女は復唱した。もしかしたら、その名が挙がったこと自体に驚いているのかもしれない。
「そうだ。特別な行動に出る必要はない。我々が到着したら、それまでに観察した一切を教えてくれればいい」
承りました、とその者は深く一礼する。
「ではこれにて失礼いたします」
「ああご苦労だったな」
黒づくめの女性が立ち上がると、思い出したように「ところで密使の者」とエランが呼びかけた。何でございましょう、と彼女が応じる。
「どうやって変装を見破った?」
「……見破ったというのは正確ではありません。私は一度聴いた声は忘れませんので」
つまり人が多く通りそうな場所に目星をつけて、通行人の中にそれらしい体格の人物を見つけて、当たり障りなく声をかけたという。
地道な作業だ。それを何でもなさそうにこなすとは、大したものである。
「なるほど、合点がいった」
「はい。ご帰還を心待ちにしております。どうか良き旅路を」
密使は颯爽とその場から立ち去った。
エランは無言で再び馬を走らせる。風景とも呼べない色の羅列が、うねりながら過ぎ去る。
(期待してた遠乗りじゃないなー)
密かに苦笑いした。滅多と経験しない馬の二人乗りだが、そこに心躍るような要素は何もなかった。
道行く人々をいちいち敵と疑いながら進める旅だ。目の前の青年にしがみつくのは甘い感情からではなく、そうしないと振り落されるから――否、不安に飲み込まれるからである。
やがて開けた場所に出た。
先の丘の上に廃屋が見える。そこで休憩を取ることになった。
エランが草むらでひと眠りしている間に、セリカは食料を探して回った。
まずは小屋の中を探す。残念ながらそこは人の気配がとうに失われた、文字通りの廃屋だった。キノコが少しばかり生えているが、セリカにはそれが食べられるものかどうか判断が付かない。
外に出ると柱に繋いだ馬と目が合った。艶やかな毛並と長距離走に耐えうる屈強な身体を誇る、上等な馬だ。扱いやすい気質で、あっという間に新しい乗り手に馴染んだ。
(そうだわ。毛づくろいをしてあげよう)
セリカは荷物の中からブラシを取り出し、おもむろに馬に近付いた。察したのか、嬉しそうに鼻息を漏らしている。
時たま優しく声をかけてやりながら、丁寧にブラシをかけた。それが終わると、馬は穏やかな息遣いに戻って草を食んだ。
タバンヌスに貰った賃金はこの馬と、兵を幾人か雇うことに費やされた。
兵が請け負った仕事はベネフォーリ公子への伝令だ。エランの推察では、第一公子がこの時期に州へ呼び戻されたのは、偶然ではなくおそらくアストファンの手回しだと言う。
彼を都から遠ざけて、なおかつ秘密裏に始末する為に。
実直なベネフォーリは何も疑わないだろう。
伝令を伝えるついでに、傭兵たちが少しでも彼の戦力の足しとなれれば幸いだ。
(間に合うかしら)
他に、果たされていない条件がまだ幾つも残っている。
草の上に寝そべるエランを見やった。
(あれくらい騒いでも起きないか……疲れてるのかもね)
疲れているのは自分も同じだ。思い出したように立つのがだるくなり、セリカは小屋の影に腰を下ろした。
瞼が下りかける。
遠くからは、鳥の鳴き声がする。鷹か――
――違う!
カッと目を見開いた。鷹の甲高く伸びやかな鳴き声に比べると、か細い印象を受ける鳴き方である。
「やばっ! 今度こそお兄さんの隼!?」
油断した、と遅れて気付く。人気が無いのをいいことに、被り物を脱いでいたのだ。暑苦しいのだから仕方ない。
そして隼は視力が良いが、嗅覚はそれほどでもない。身を隠していれば見つかることもなかったはずだ。
慌てて身を起こした間に、鳥影は消えていた。もしかして「止まり木」の方に戻ったのではないか。
(急かしたくないけど)
エランを起こして、そろそろ移動しようと提案したい。
草むらまで歩み寄って、ふと止まる。彼の方は被り物を脱がなかったので表情こそ見えないが、呻き声が聞こえた気がした。それに何度か寝返りを打っている。
(うなされてる?)
睡眠の妨害をする口実ができた――という邪な思考を頭の片隅に追いやり、セリカは手を伸ばした。
そっと、肩を揺すってやる。
「エラン。起きて。どしたの、嫌な夢でも見たの」
息を呑む気配があった。次いで、長いため息が吐かれる。
「……そうだな。これまでの人生にあった嫌なことがまとめて夢に凝縮された感じだ」
「わ、うわあ。オツカレサマです」
他に何て言ってやればいいのかわからない。気を揉んでいる間に、エランが口火を切った。
「顔の傷痕がどうやってできたか、聞きたいか」
不意打ちだ。セリカはどもって答える。
「き、そりゃ教えてくれるなら、もちろん知りたい……けど、あ、後の方がいいんじゃないかしら。移動が先決よね?」
言い終わってから、急かしているように聞こえただろうかと気がかりになった。
「それもそうだな」
ところがエランはあっさり同意した。ほっと胸を撫で下ろして、セリカも支度にかかる。
もっと休んでいたいと駄々をこねる馬を宥め、まさに騎乗しようと鐙に足をかけた瞬間。また、鳥の鳴き声が響いた。
無視して出発できれば良かったのだが、エランの首は既に声のした方を向いていた。渋々とセリカも同じ方向に注目する。
隼に猛追するのは、コンパクトな外観の白馬と、甲冑姿の騎手。その男は真っすぐにこちらを目指して駆ける。
馬蹄が土を散らすさまをぼんやりと見つめ、どうしたものかと一考する。ここまで迫られてはもう選択肢が限られている。
ある程度の距離を開けたまま、男が馬を降りた。その時を待っていたかのように、隼が彼の腕に華麗に降り立つ。
「ご婦人方。お訊ねしたいことがあるんですが」
男は会釈し、毅然とした態度で問いかけて来た。無意識にセリカはエランの背中側の裾を掴んだ。
(エランが答えたらご婦人じゃないってばれる)
敵意が無いとの表れだろう、男は鉄兜を脱いで見せた。
そこに、しばらく目にしていない類の顔立ちが現れた。四角い輪郭と太めの首、白い肌と色素の薄い唇。全体的に彫りの深い印象で、眉骨がやや吊り上がって見える。短く整えられた濃い茶色の髪は、巻き毛よりもくせ毛という表現が似合う。
ヘーゼルに彩られた目は直線を繋いだみたいな角ばった形で、そう、ちょうどセリカ自身のそれと雰囲気が似ている。
「イルッシオ」
しまった、と口元に手をやった時には遅かった。名を呼ばれた青年は複雑そうに目を眇める。
「面白い格好ですね、姉上」
「うっ、うるさいわね。これにはランディヴァ湖よりも深い理由があるの。それより何であんたがいるのよ、オクタヴィオが飛んでたからお兄さんが来たかと思ったじゃない」
身内だとわかった途端に互いに口調が崩れた。
ちなみにセリカに指をさされたオクタヴィオは、くりっと鳥類特有の動きで首を傾げてから、我関せずといった具合に嘴で羽を整えている。
「まさか。アウグロン兄上はご多忙の身っすよ、だから代わりに俺が迎えに来たんじゃねーですか」
「あんたひとりで?」
「他は離れた場所で待たせてるっす。ぞろぞろ大人数を連れて現れたら、姉上は話も聞かずに逃げ出すでしょ」
「さすが我が弟、よくわかってるじゃないの」
「姉上は我が強いですから、大抵の使者には聞き耳持たずに追い返してしまうからと、わざわざこの俺が出向いたわけです。愛されてるっすねー。兄上も人使いが荒いですよ。これじゃあいつまで経っても、遊んで暮らす夢が実現できない」
「またそんなこと言って……お兄さんにパシられるの楽しいくせに」
「楽しくなんてねーです、よっと」
イルッシオはふうとため息をついて、腕から隼を飛び立たせた。彼の視線が残る黒づくめの人物に流れる。
「『迎えに来た』……?」
呟きながら、その者は被り物を脱いだ。明らかになった面貌は、考え込んでいるように深刻だ。
「あ、エラン、帰るわけじゃないから」
反射的にセリカは弁明を試みる。
「『エラン』? では、貴殿が姉上の」
イルッシオがその名に鋭く反応を示した。あろうことか、腰の鉄剣をスラリと鞘から抜いて構えたのである。
「ちょっとイルッシオ!? どういうつもり!」
「バルバティアが帰国しまして」
剣先がエランの顎下に触れた。セリカは、ひゅっと心臓が縮まる想いがした。
当のエランは瞬きひとつせずに冷ややかに応じる。
「侍女殿は、何と?」
「バルバの話はどうも要領が得られなくて……それは置いといて。要するに、我が国の大公世子は頭より筋肉でものを考える傾向にありましてですね。姉上が体を張ってでも傍に居たかった御仁を――そうするに値する人間かどうか、見極めて来いと俺に命じたわけです」
「…………わかりやすくて何より」
気が付けばエランまで、あの曲がったナイフを抜き放っていた。
先にイルッシオが両手で長剣を振るう。
セリカは本能的に後退った。
あれは刃物としては鈍い分類で、敵に叩き付けるようにして切るのが主流だ。軽装備のエランにまともに当たったら、骨折はまず免れない。
「やめてよ!? ああもう、お兄さんのバカ! 脳筋!」
停止を呼びかける悲鳴、むなしく。セリカの目前で火花が散った。
(熱っ……!)
頬に、刹那的な熱が弾ける。それとひどく耳障りな音が響いている。
鉄と鉄が擦れる音だ。
左手に持ったナイフを長剣の側面に滑らせながら、エランがイルッシオの懐に飛び込む。
(左手?)
セリカが疑問に思った一瞬の内に、黒い衣がしなった。それは鞭のように甲冑の騎士の両腕に巻き付き、動きを封じる。剣先が地に突き刺さった。
すぐに布を手放して、エランは左足でイルッシオの腕を踏み台にし、右膝で顎下を蹴り上げた。衝撃音と共に、土埃が舞う。
(何今の!? すごっ! 超かっこいい!)
不謹慎ながらセリカは興奮した。弟の実力を知っている姉としては、イルッシオがこんなに早く倒されるのを見るのは新鮮である。
「あの体勢から飛び蹴りって、やりますね。隻眼も身長も体格も不利だとわかってて他で補うとか、潔くていいっすね」
と、イルッシオがのんびりと称賛する。立ち上がろうとする彼に、エランは手を貸した。
「まぐれです。膂力も体力もあなたに敵わないと踏んで、早々に奇策に出させていただきました。十回勝負すれば、九回はそちらが勝つでしょう」
「ご謙遜を、義兄上。今の一回が全てだったんすよ」
二人は何食わぬ顔で向かい合う。始まりと同じくらい唐突に、終わってしまった。
「あんたって右利きな気がしてたんだけど」
ふと思い出して、セリカは先ほどの疑問をエランに指摘した。
「生来そうだ。片目になってから不便で、左もある程度使えるようにした」
「へえ。努力家ね――……じゃなくて、もう決着でいいわけ?」
どうも二人ともこういったことの勝敗にこだわらない性分らしい。セリカの問いに、イルッシオは肩を竦めた。次に、エランが口を開く。
「ひとつ訊ねても」
「何すかね、義兄上」
「あなたの一行には武装した兵が何人いるのでしょうか」
「重装備の騎兵が八人、練度は上の下ってとこですかね。何故?」
「貸していただけないだろうかと」
イルッシオはゆっくりと瞬きだけを返した。セリカも、何言ってるの、と視線でエランに訴えかける。
「ルシャンフはともかく、私は公都に兵を置いていない。宰相の手助けにどれほど期待できるかわからない現状、選択肢は多く持った方が賢明だ」
と、エランはこちらを見て答えた。
「浅慮じゃないっすか。他国の人間だからと言って、貴殿のお家騒動に手を染めていないって言い切れないでしょう。俺が敵と手を結んでたらどうするんです」
「はて、姉の無事を確かめる為だけに馬を急がせた公子が、そんなことをしますか。あなた方にとっての『きょうだい』は、私の知るそれとは性質が違うように感じます」
「そうでしょーね」イルッシオは首を左右に巡らせて、バキボキと鳴らした。「でも他国の兵を引き連れて都に入るのは外聞悪そうですよ」
「落ちるほどの評判を持ってません」
今度はエランが肩を竦める。イルッシオは値踏みするように目を細めた。
「アウグロン兄上はかわいい妹姫が妙な輩に誑かされたと心配で気が気じゃないみたいですが、俺は人を見る目はあるつもりっす。姉上は、誑かされるようなお人じゃない。貴殿を随分と信頼しているようだ」
そう言って彼は右の籠手(ガントレット)を脱ぎ、指笛を吹いた。二分ほど経つと、複数の馬蹄の音が響いた。
「てことで、いいですよ。貸します」
「待ってイルッシオ、あんた自身は護衛どうするのよ」
「大丈夫ですよ。他に練度・上の上の精鋭が二人居ますんで」
彼は親指で背後を差した。なるほど、指笛の呼びかけに応じた騎兵の数は先ほど聞いた「八人」ではなく、十人だ。
そうだった、この男はこういうしたたかさを持ち合わせているのだった。最初からこの人数を連れて来たのにも、意図があったかもしれない。
話はあっという間にまとまり、別れの挨拶に移った。
「ご安心ください、姉上。父上たちは何も知らないままです。うまくごまかしますから」
「お兄さんによろしくね」
「はい。身の回りが落ち着いたら、ぜひ二人で挨拶に来てくださいよ。バルバも兄上も待ってます」
「必ず行きます。ありがとうございました」
と、エランが深く礼をした。
去りゆく三騎と一羽を見送った後に、セリカは大きく息を吐いた。すると隣の青年から気遣わしげな視線を受けた。
「目まぐるしくてちょっとついていけない。行き当たりばったりだわ……」
「臨機応変と言ってくれ」
「そうね。エランってリーダーとしては混乱の時代をうまく乗り切りそうだけど、平穏には向かないかもね」
「大公やってみたら? なんて言ったら、怒るぞ」
「言わない言わない」
否定に手を振る。エランは黒い布を頭から被り直し、目だけをこちらに向けた。青灰色の瞳に、深刻そうな光が宿っている。
「気が変わったか」
「え?」
訊き返すと、いつになく弱気な声で彼は「後悔しているか」と囁いた。
何を、と問おうとして、途中で考え直す。なんとなく心当たりがあった。
「怖いの?」
「……ひとりの人間が全てを捨ててまで寄り添う甲斐が、自分にあるとは思えない」
「それを決めるのは、あたしだからね」
エランから「結論」を言い渡された朝の記憶がまだ新しい。それは結論であり、申し込みだった。
――ゼテミアン公国第二公女、セリカラーサ・エイラクス姫。私がこれから歩もうとしている先に、希望があるのか破滅が待つのかは知れない。私の持ち札はあまりに少ない。与えてやれるものは何も無いし、幸せにしてみせるとも約束できない。
――それでも共に歩んではくれないだろうか。泥の中を這うような人生でも、お前が居てくれるなら、耐えられそうだ。
「手かして」
ありったけの威圧を込めて右の手の平を差し出した。エランは躊躇いがちに応じた。
重なる手の温かさに、ほっとした――時にそれはどんな不安や恐怖をも忘れさせ、時にごく平凡な風景をも輝かせる。セリカは被り物の下で頬を緩めた。
「なんにもないって、そればっかり……正直すぎよ。ま、好きだけどね。そうやってかっこつけないとこも」
指を絡めて、握る。捕まえた青年の指はまず強張った。次第に解れて、握り返してくる。
「あたしの気持ちは変わらないわ。後悔なんて、しない」
「…………」
「あ、今笑ったでしょ。見えなくて残念だわ」
目尻の雰囲気が柔らかくなったのは確かである。
「こんな顔で良ければ後でいくらでも見せてやる。飽きるまでな」
答えた声はいかにも可笑しそうだ。これから一生付き合うのに、飽きたら困るなあ――とセリカがポツリと漏らせば、エランは声に出して笑った。
________
ムゥダ=ヴァハナに連なる裏山にて夜を迎える。
セリカは手頃な樹木に片手をついて支えとし、これより向かう先を眺め下ろした。曇り空のため、日が暮れ切っていなくても辺りがやたら暗く感じられる。
都を守る強固そうな防壁は、思いのほか高くなさそうだ。角の物見やぐらにのみ明かりが灯っていて、壁際の通路は基本的に暗い。巡回する衛兵の装備や数を遠目に確認した。
「片手で数えられる程度しか居ないわよ」
振り返らずに、背後から現れた気配に向けて話しかける。
「ああ。ほとんど矢狭間が設置されていない。こちら側から攻め入られる可能性が極めて低いと認識されているからだ」(アローループまたはスリット=外敵に矢を射る為の隙間)
セリカの隣に並んで、青年はそう付け加えた。
全て想定した通りだ。都の裏手の山は険しく、遠回りとなったが、その代わり虚を突くことが叶う。エランはこの山を抜けた経験が何度もあるらしく、最も効率良く進む道を熟知していたのである。
第五公子は変装をやめて、以前の様相に戻っている。ターバンから垂らした布で顔の右半分を覆い、動きやすそうな服装に着替えていた。
――別れて行動する刻限が迫っている。
そのことを思うと、セリカは落ち着かない。気を紛らわせたくて肩にかけた弓を指先で撫でたりした。
「人を射たことはあるか」
ふいにエランが問いかけた。
「ない、と思う」
「そうか。これからもそうであれば、いいな」
「うん……」
労わるような優しい声にたまらなくなり、目頭に涙が滲んだ。
怖い。けれどそれ以上に、離れるのが嫌だった。別れたらそれが最後になるのではないか――。
ほどなくして暗い視界の端に一層黒いものが浮かび上がった。「彼女」はいつぞやのようにエランの前に跪いて、報告をする。大公、ハティル公子、それにアダレム公子についてわかったことを。
「アストファン公子に動きが見られませんが、監視に気付いて敢えてそうしているようにも解釈できます」
「……わかった。監視の目をかいくぐられるかもしれないのは気がかりだが、仕方ない」
エランは頷いて、踵を返す。イルッシオに借りた兵の方へ足を運び、支度をするように呼びかけた。
「お供いたしましょうか」
密使の申し出をエランは即座に断った。
「いや、必要ない。ハティルが父上の見舞いに行っているというなら、私がそこに向かうのも便宜上は問題ない。それよりお前は、セリカ公女を送ってくれ」
「承知しました」
黒づくめの女性がこちらに向いて頭を下げる。
セリカの胸の内に焦燥感が沸いた。ここ数日ですっかり見慣れてしまっていた横顔が、もはやこちらを見向きしない。
深い青の耳飾が揺れるのを目で追った。「待って」の一言が、喉でつっかえる。
腹の決まった者に向けて「行かないで」とも「連れてって」とも、ねだってはいけない。
足を引っ張りたいわけではないのだ。それでは、共に歩む伴侶たりえないだろう。
人々が遠ざかる。送ってくれるという密使の女性は離れた位置の木陰にいつの間にか身を潜めていて、セリカはその場に取り残されたように立ち尽くした。
言葉にできない、悶々とした想いを持て余している。急に頭を覆う布が暑苦しく感じられた。乱暴に脱いで、手癖で髪を解いて結い直す。
己の長い髪すら煩わしく思えてくる。それゆえか、ひとり戻ってきた青年が不満そうな顔をしているのを見て、セリカは彼が何を考えているのかすぐにはわからなかった。
「そんな風に引っ張ったら傷む」
「構わないわよ、傷んだら切ればいいし」
「そう言ってやるな」
なんとエランはどこからともなく大きめの櫛を取り出した。そんなもの持ち歩いてるの、と訊ねている間に背後に立たれた。
「髪、触っても」
「いいわ」
こちらが答えるが早く、軽やかな音が頭蓋に響いた。木製の櫛だ。くせだらけのセリカの髪を優しく梳く感触は心地良く、絡まった箇所を解く手付きは手慣れている。
――あのリューキネ公女と比べたら毛が太く扱いづらいだろうに。
「持ち歩いているというより、道中で買った」
今頃になって質問の答えが落ちてきた。
「髪短いのに櫛なんて使うんだ」
「使わない」
「え」
間があった。一方、セリカは首筋をくすぐる感覚に身震いしないように必死だった。
「お前の為に買った」
「そうなんですか……ありがとう……?」
またモヤモヤとした感情が胸の奥で渦巻く。嬉しいのに喜べない、その原因は知れているのに。
伝えなきゃと思えば思うほど、息が苦しくなる。
「って、ちょっと。編んでませんか」
気が付かない内に、梳く感覚が何か違うものになっていた。
「ついでだ」さすがに彼は手慣れている。三つ編み一本を作り上げると今度はそれをくるりと巻いてまとめ上げ、仕上げに櫛を挿して固定した。「これなら動きやすいだろう」
満足そうに笑んでいるエランに、セリカは苦笑交じりに礼を言った。それから深呼吸する。
「じゃ、気を付けて。また後で、ね」
後でどこで合流するかは、実は定まっていない。
次があるのかわからないという誰かとの別れに、こうも後ろ髪を引かれる想いをしたのは初めてだ。望めば腕が届くようなこの距離に、空気感に、浸るようにしてセリカは青灰色の瞳を見つめた。
「ああ。お前の方こそ気を付けてくれ」
絡まった眼差しは、ほどなくして切れた。
裾がたなびく。足音がする。数歩と歩き出した背中に、セリカは衝動的に呼びかけた。
振り返った顔には、これといった感情が映し出されていなかった。
「あ、あのね! あたし、嬉しかったよ」
つっかえそうになる言葉を頑張って押し出した。
宵闇の中、無表情に僅かな驚きが射しこむのが見える。
「あんたがあたしの運命で――うれしい」
その想いを口にした時、胸の中でたとえようのない温かさが広がった。次いで微笑んだのも、きっと衝動だった。
――伝わって欲しいのはこれだ。
巻き込んだと、彼は思わずにいられないのだろう。巻き込まれて、嫌な感情が全くなかったとセリカには断言できない。
けれどもそれを凌駕する何かがある。困難に一緒に立ち向かうことに、充足感のようなものが伴うのだ。他の誰でもない、この人の戦いに。果てまで付き合いたいと、今なら言い切れる。
瞬間、より深い驚きが青年の面差しを埋め尽くした。
かと思ったら、セリカの視界の中で布が動き、影が近付いた。
両肩を圧迫する力にハッとなる。抱き締められたのだと気付いて、呆気に取られたこと、数秒。
「あまりそういうことを言うな。離れがたくなる」
耳元で囁いた声は掠れていて熱っぽい。つられて熱に浮かされそうだ。
「……反省します」
寂しいのは自分だけじゃなかった、エランも何かを我慢していたのだ、と思い知った途端に肩の力が抜けた。セリカに同等の腕力は無いが、負けじと強く抱き締め返す。自然と瞼が下りた。
これ以上にないくらいに相手を近くに感じられる――
――これ以上は、ないのか?
脳裏に奇妙な疑問が沸き起こったのと「もっと触れても」の問いが耳朶に届いたのは、ほぼ同時だった。
セリカは自身がどう答えたのかを知らない。喋る為の器官が動いて何かを答えたらしいのは、わかる。
唇を閉じる寸前、そこに柔らかく温もりが重なるのを感じた。
強く押し付けられたのは刹那のことで、唇は間もなく離れた。
「必ず、帰る。私は果たせない約束はしない」
「うん」
それきり、幸せはするりと腕の中から抜けていった。もう少し、と望んでも、冷たい風が吹き抜けるだけだ。
去り行く者はやがて馬上の人となり、兵と共に一列に防壁の門に向かって降りていく。
(あは。これか、恋愛感情)
この局面で自覚してしまうとは、何と悲しく切ないことだろう。セリカは掌で額を押さえた。
(世の中の皆さんは、どうやってこれを抱えて生きていけるの)
女の一生は忍耐――母が昔そう言っていたのは、こういう意味だったのだろうか。よくわからない。
袖で目元を擦ると、セリカは顎を引き上げた。今は感傷に浸るべき時ではない。
「あの塔で間違いないのね」
未だ陰に潜む女性に向かって問いかける。女性は音も立てずにセリカの傍に来ると、頭を下げて答えた。
「はい。表向き、アダレム公子はご気分の優れない母君に付き添って部屋から出ていないという話になっておりますが、我が同胞が調べましたところ、塔にて幽閉されていると判明いたしました」
密使の彼女が革手袋に覆われた指を指す。塔は防壁の角に位置しており、門からもそう遠くないように見える。
「わかった、行きましょう。段取りはあなたに任せるわ」
御意にございます、と密使は小声になり、潜入する為の作戦を綴った。
――兄弟を嫌うのに深い理由は要らない。
自分よりもよくできた姉妹を少なからず妬みながら育ってきたセリカには、その言葉の意味が身に染みてよくわかっていた。しかし嫌う感情だけでは、相手を死に至らしめるまでに行動するには至らない。
その二つの事項は容易に結びつかないはずである。いわば、憎しみの進展が必要なのだと思われる。
ではハティル公子の、弟を害したいという感情のふり幅はどこにあるのか。少なくともアダレムが生きている限り、それが希望になる。
しかもアダレムはまだ柔軟な年頃だ、命まで奪わずとも如何様にも誘導・洗脳できうる。ハティルは、ただ一人の弟を飼い殺しにするつもりかもしれない。
(本人を誘導できても、背後にいるはずの母親や親族はどうだろ。アダレムとハティルは母親が同じだから、いざとなったら母親はどっちに味方するかしら)
人望がどうと言うには二人の公子はまだ幼い。逆に、傀儡化できそうな公子を担ぎ上げるのが妥当と考えられる。
(まあいいわ。誰が立ちはだかっても、あたしはやるべきことをやるだけよ)
セリカは密使の方を向き直った。互いに、一分の隙も無い黒衣に身を包んでいる。
「殿下が門を通る隙を狙って、潜入します。私に続いてくださいませ」
彼女の手にある道具はゼテミアンでは見たことのない類の物だ。武具、なのだろうか。腕にはめる何かのからくりのようで、先端に大きな三つ又のフックが付いている。
その道具と長い縄を持って彼女はすたすたと急勾配の方へ歩いた。大木に縄の端を縛り付け、残りを空いた腕で抱える。これらで防壁に至るまでの「橋」を架けるのだそうな。
後はエランが門番と話し込む頃合いを見計らうだけだ。その間に密使の横に立って、セリカは口を開いた。
「ところで、呼び名が無いとやりづらいわ」
「では私のことは、ハリャ、と。あとこちらをお持ちください」
無機質に言ってハリャは腕の仕掛けを解放した。フックが空を切り、遥か遠くの壁の縁に引っかかる。
かしゃん、とからくりが大きな音を立てた。かと思えば、ハリャは地を蹴っていた。
振り子の要領で彼女は山と防壁の間を見事に超えて見せた。
だが油断はできない。
セリカは視力が良い方だ。運悪く屋上通路を通りがかった兵士が気付いて駆け寄り、ぶら下がる彼女を蹴り落とそうとしているのが見える。
弓に矢を番えつつ、自分に射抜ける最長距離を思い浮かべる。正直ちゃんと届くのか、ちゃんと狙えるのか、ここからでは怪しい。
弓弦の張力を全身で感じる。手が微かに震えている――当然だ、人を狙うのだから。
束の間、瞑目した。
再びハリャの危機を視界に入れ時には、セリカは賭けに出る為の覚悟を決めていた。
狙い、放つ。矢が僅かな風切り音を背負って飛ぶ。
余韻に震えながら息を止めていた。警備兵が仰け反り、倒れるのを見届けるまで。
次に、人を殺したかもしれないという事実に怯え、狼狽した。
そんなセリカの葛藤などお構いなしにハリャは壁をサッサと登りきる。手頃な突起を見つけて縄を縛り付けると、こちらに向かって手招きしてきた。
戦々恐々と例の縄を見下ろした。
太くて頑丈そうだった。セリカ一人の体重くらい、支えるに足るかもしれない。
そして先ほど「お持ちください」と渡されたのは曲がった小さな鉄塊。両腕に嵌めて使うものだと、ハリャに教えられた。
心の中で神々と聖獣に短い祈りを捧げ、大きく息を吸い込む。
(こんなこと! 絶対! 二度としないからね!)
風が衣服を激しくはためかせる。手足がひどく重い。
落ちる。落ちる、そのことを意識したくなくて目を閉じたら余計に気分が悪くなり、空を仰ぐことにした。疎らに煌き始めている星々の輝きが慰めだった。
――味わった恐怖は度を越えすぎていて、状況を楽しむ余裕も無くて、後に思い出したり語ったりしたくないようなものだった。
転がり込むようにして着地した。打った後ろ首をさすりながら、セリカはなんとか起き上がった。
ハリャがひとりで数人倒したのだろう、そこには既に戦闘の痕跡があった。セリカが射た者含め、皆ぼそぼそと呻いている。誰も殺していなかったことに、こっそりと胸を撫で下ろした。
「こちらです!」
彼女が先導する方へ続く。二人でしばらく通路を進み、塔へ入り、階段を駆け上がった。カビの臭いがどんどん濃くなる。
(生きていてよ。無事でいて、お願い!)
果たして、最悪の結末を撥ね退けられるかは知れないが。
アダレムはエランが怖いと言った。だから彼を迎えに行く役目は、セリカが請け負うことになった。
息も切れ切れに、セリカは思い浮かべる――リスを追いかけていた天真爛漫な幼子のことを。
ただ一心に、あの元気な在り様が保たれていることを願った。
二に、第七公子アダレムの身を確保すること。
三に、第一公子ベネフォーリが州に戻っている間、奸計により命を落とすのを防ぐこと。
四に、第二公子アストファンの持つ武力をいなし、本人の動きを封じること。
五に、第四公子ハティルを説得すること。
それらの条件の過半を満たせれば、ある程度の安定は得られるはずだ。しかし果たせなかった場合、或いはそれでも流れが止まらなかった場合。
最後の手段で、私が大公に即位するしかないだろう。
そう言った青年の顔は――右頬の傷跡が威嚇に身を捻っているように見えるほど、苦かった。
________
定まった速度で進んでいた乗り物が急激に止まった。それゆえセリカは揺り起こされた。
(なになに)
重い瞼を開けると、覆面の人物が眼前で跪いていた。
(あれ、あたし一瞬ウトウトしてた?)
馬上で眠ってしまったとは我ながら恐ろしい。が、腕はしっかりと騎手の腰を捉えたままなので、とりあえずよしとする。
前方に乗っているその騎手が、地上で跪く人物を見下ろして何かを言っている。
大陸の共通語ではなくヌンディーク公国の言語だ。セリカは苦労して内容を聞き取った。
「宰相殿の密使か。信じさせてもらうぞ」
「偽りなき真意です。我が主から、殿下を探し出してお力になるように仰せつかりました。探し出すのに、少々手間取ってしまいましたが」
宰相の密使だという覆面の人物は中性的な声の持ち主だ。全身をくまなく黒い布で覆っているが(目の部分だけ細く網が張ってある。当然、声はくぐもっている)、胸周りの膨らみから女性と思われる。
「理由を、お前は宰相殿から聞いているのか」
「はい。主は我が国が貿易から繁栄するのが、最たる道だと考えておいでです。四国の間で突出したくとも、兵力・軍事力では帝国や隣国のゼテミアンに敵わないでしょうと」
「事実だな。ヤシュレに攻め入ろうにも、すぐに他二国をも同時に敵に回してしまう。綱渡りだ」
それでも渡り切れるだけの策を、ハティルなら考え付くかもしれないが――と、エランは使者に聴こえないような小声で呟いた。
「私が公都に戻ると、どうやって気付いた」
「殿下の従者という者から話を……それで公子方の中で最も意が合うのは、きっと第五公子殿下であると主は判断されました」
その返答に、セリカはエランと一緒になって息を呑んだ。そうか生きていたのか、という安堵と、転んでもただで起き上がらないどころか暗躍までするとは大した男だ、という感嘆が沸く。
曰く、陰に動き回っていたタバンヌスを、宰相の私兵が捕らえた――結果的には保護した――らしい。彼はしばらく口を割らなかったが、事前に宰相の立ち位置を理解していたためか、最終的に賭けに出たという。
「彼の者より伝言を預かっております」
「わかった。聞こう」
「では――『陛下は身辺に人が増えすぎて現状どうなっているか生死不明』、『並びにアダレム公子の生死と行方も不明』とのことでございます」
瞬間、エランの身が強張るのを衣服越しに感じた。
「我が主も手持ちの駒を動かしておりますが、殿下が戻られるまでに何がどこまで進展するか、保証いたしかねるそうです」
「了解した。力になってくれると言うが、お前は何ができる」
「陰より殿下の護衛を務めさせていただく心積もりでした。が、あなたさまは既に巧みに身を隠しておられるようで……。ご随意に」
密使の言う通り、今日まで追っ手に見つかることなく馬を進めていられるのは、入念な変装のおかげだった。幸いなことにヌンディーク公国は被り物を自由に着用していられる文化だ。
――目しか出さないほどに布を着込んでも、誰も呼び止めなければ振り返りもしない。
それは一般的に女性にのみ見られるスタイルだ。
エランの背格好なら、喋りさえしなければ十分に誤魔化せる。セリカのこの地域では珍しい赤髪も、こうして隠されたのである。
(覆面黒づくめの人間が三人も一同に会するのは、なんだかシュールだけど)
背に腹は代えられない、というわけである。
「なら、ムゥダ=ヴァハナにとんぼ返りしてもらっても構わないか」
「問題ありません」
彼女は指示の続きを求めるように、頭を下げたまま黙り込んだ。
「第六公子の動向を見張れ」
「第六公子殿下を、ですか?」
エランの言い渡した指示に対し、思わず、といった具合に彼女は復唱した。もしかしたら、その名が挙がったこと自体に驚いているのかもしれない。
「そうだ。特別な行動に出る必要はない。我々が到着したら、それまでに観察した一切を教えてくれればいい」
承りました、とその者は深く一礼する。
「ではこれにて失礼いたします」
「ああご苦労だったな」
黒づくめの女性が立ち上がると、思い出したように「ところで密使の者」とエランが呼びかけた。何でございましょう、と彼女が応じる。
「どうやって変装を見破った?」
「……見破ったというのは正確ではありません。私は一度聴いた声は忘れませんので」
つまり人が多く通りそうな場所に目星をつけて、通行人の中にそれらしい体格の人物を見つけて、当たり障りなく声をかけたという。
地道な作業だ。それを何でもなさそうにこなすとは、大したものである。
「なるほど、合点がいった」
「はい。ご帰還を心待ちにしております。どうか良き旅路を」
密使は颯爽とその場から立ち去った。
エランは無言で再び馬を走らせる。風景とも呼べない色の羅列が、うねりながら過ぎ去る。
(期待してた遠乗りじゃないなー)
密かに苦笑いした。滅多と経験しない馬の二人乗りだが、そこに心躍るような要素は何もなかった。
道行く人々をいちいち敵と疑いながら進める旅だ。目の前の青年にしがみつくのは甘い感情からではなく、そうしないと振り落されるから――否、不安に飲み込まれるからである。
やがて開けた場所に出た。
先の丘の上に廃屋が見える。そこで休憩を取ることになった。
エランが草むらでひと眠りしている間に、セリカは食料を探して回った。
まずは小屋の中を探す。残念ながらそこは人の気配がとうに失われた、文字通りの廃屋だった。キノコが少しばかり生えているが、セリカにはそれが食べられるものかどうか判断が付かない。
外に出ると柱に繋いだ馬と目が合った。艶やかな毛並と長距離走に耐えうる屈強な身体を誇る、上等な馬だ。扱いやすい気質で、あっという間に新しい乗り手に馴染んだ。
(そうだわ。毛づくろいをしてあげよう)
セリカは荷物の中からブラシを取り出し、おもむろに馬に近付いた。察したのか、嬉しそうに鼻息を漏らしている。
時たま優しく声をかけてやりながら、丁寧にブラシをかけた。それが終わると、馬は穏やかな息遣いに戻って草を食んだ。
タバンヌスに貰った賃金はこの馬と、兵を幾人か雇うことに費やされた。
兵が請け負った仕事はベネフォーリ公子への伝令だ。エランの推察では、第一公子がこの時期に州へ呼び戻されたのは、偶然ではなくおそらくアストファンの手回しだと言う。
彼を都から遠ざけて、なおかつ秘密裏に始末する為に。
実直なベネフォーリは何も疑わないだろう。
伝令を伝えるついでに、傭兵たちが少しでも彼の戦力の足しとなれれば幸いだ。
(間に合うかしら)
他に、果たされていない条件がまだ幾つも残っている。
草の上に寝そべるエランを見やった。
(あれくらい騒いでも起きないか……疲れてるのかもね)
疲れているのは自分も同じだ。思い出したように立つのがだるくなり、セリカは小屋の影に腰を下ろした。
瞼が下りかける。
遠くからは、鳥の鳴き声がする。鷹か――
――違う!
カッと目を見開いた。鷹の甲高く伸びやかな鳴き声に比べると、か細い印象を受ける鳴き方である。
「やばっ! 今度こそお兄さんの隼!?」
油断した、と遅れて気付く。人気が無いのをいいことに、被り物を脱いでいたのだ。暑苦しいのだから仕方ない。
そして隼は視力が良いが、嗅覚はそれほどでもない。身を隠していれば見つかることもなかったはずだ。
慌てて身を起こした間に、鳥影は消えていた。もしかして「止まり木」の方に戻ったのではないか。
(急かしたくないけど)
エランを起こして、そろそろ移動しようと提案したい。
草むらまで歩み寄って、ふと止まる。彼の方は被り物を脱がなかったので表情こそ見えないが、呻き声が聞こえた気がした。それに何度か寝返りを打っている。
(うなされてる?)
睡眠の妨害をする口実ができた――という邪な思考を頭の片隅に追いやり、セリカは手を伸ばした。
そっと、肩を揺すってやる。
「エラン。起きて。どしたの、嫌な夢でも見たの」
息を呑む気配があった。次いで、長いため息が吐かれる。
「……そうだな。これまでの人生にあった嫌なことがまとめて夢に凝縮された感じだ」
「わ、うわあ。オツカレサマです」
他に何て言ってやればいいのかわからない。気を揉んでいる間に、エランが口火を切った。
「顔の傷痕がどうやってできたか、聞きたいか」
不意打ちだ。セリカはどもって答える。
「き、そりゃ教えてくれるなら、もちろん知りたい……けど、あ、後の方がいいんじゃないかしら。移動が先決よね?」
言い終わってから、急かしているように聞こえただろうかと気がかりになった。
「それもそうだな」
ところがエランはあっさり同意した。ほっと胸を撫で下ろして、セリカも支度にかかる。
もっと休んでいたいと駄々をこねる馬を宥め、まさに騎乗しようと鐙に足をかけた瞬間。また、鳥の鳴き声が響いた。
無視して出発できれば良かったのだが、エランの首は既に声のした方を向いていた。渋々とセリカも同じ方向に注目する。
隼に猛追するのは、コンパクトな外観の白馬と、甲冑姿の騎手。その男は真っすぐにこちらを目指して駆ける。
馬蹄が土を散らすさまをぼんやりと見つめ、どうしたものかと一考する。ここまで迫られてはもう選択肢が限られている。
ある程度の距離を開けたまま、男が馬を降りた。その時を待っていたかのように、隼が彼の腕に華麗に降り立つ。
「ご婦人方。お訊ねしたいことがあるんですが」
男は会釈し、毅然とした態度で問いかけて来た。無意識にセリカはエランの背中側の裾を掴んだ。
(エランが答えたらご婦人じゃないってばれる)
敵意が無いとの表れだろう、男は鉄兜を脱いで見せた。
そこに、しばらく目にしていない類の顔立ちが現れた。四角い輪郭と太めの首、白い肌と色素の薄い唇。全体的に彫りの深い印象で、眉骨がやや吊り上がって見える。短く整えられた濃い茶色の髪は、巻き毛よりもくせ毛という表現が似合う。
ヘーゼルに彩られた目は直線を繋いだみたいな角ばった形で、そう、ちょうどセリカ自身のそれと雰囲気が似ている。
「イルッシオ」
しまった、と口元に手をやった時には遅かった。名を呼ばれた青年は複雑そうに目を眇める。
「面白い格好ですね、姉上」
「うっ、うるさいわね。これにはランディヴァ湖よりも深い理由があるの。それより何であんたがいるのよ、オクタヴィオが飛んでたからお兄さんが来たかと思ったじゃない」
身内だとわかった途端に互いに口調が崩れた。
ちなみにセリカに指をさされたオクタヴィオは、くりっと鳥類特有の動きで首を傾げてから、我関せずといった具合に嘴で羽を整えている。
「まさか。アウグロン兄上はご多忙の身っすよ、だから代わりに俺が迎えに来たんじゃねーですか」
「あんたひとりで?」
「他は離れた場所で待たせてるっす。ぞろぞろ大人数を連れて現れたら、姉上は話も聞かずに逃げ出すでしょ」
「さすが我が弟、よくわかってるじゃないの」
「姉上は我が強いですから、大抵の使者には聞き耳持たずに追い返してしまうからと、わざわざこの俺が出向いたわけです。愛されてるっすねー。兄上も人使いが荒いですよ。これじゃあいつまで経っても、遊んで暮らす夢が実現できない」
「またそんなこと言って……お兄さんにパシられるの楽しいくせに」
「楽しくなんてねーです、よっと」
イルッシオはふうとため息をついて、腕から隼を飛び立たせた。彼の視線が残る黒づくめの人物に流れる。
「『迎えに来た』……?」
呟きながら、その者は被り物を脱いだ。明らかになった面貌は、考え込んでいるように深刻だ。
「あ、エラン、帰るわけじゃないから」
反射的にセリカは弁明を試みる。
「『エラン』? では、貴殿が姉上の」
イルッシオがその名に鋭く反応を示した。あろうことか、腰の鉄剣をスラリと鞘から抜いて構えたのである。
「ちょっとイルッシオ!? どういうつもり!」
「バルバティアが帰国しまして」
剣先がエランの顎下に触れた。セリカは、ひゅっと心臓が縮まる想いがした。
当のエランは瞬きひとつせずに冷ややかに応じる。
「侍女殿は、何と?」
「バルバの話はどうも要領が得られなくて……それは置いといて。要するに、我が国の大公世子は頭より筋肉でものを考える傾向にありましてですね。姉上が体を張ってでも傍に居たかった御仁を――そうするに値する人間かどうか、見極めて来いと俺に命じたわけです」
「…………わかりやすくて何より」
気が付けばエランまで、あの曲がったナイフを抜き放っていた。
先にイルッシオが両手で長剣を振るう。
セリカは本能的に後退った。
あれは刃物としては鈍い分類で、敵に叩き付けるようにして切るのが主流だ。軽装備のエランにまともに当たったら、骨折はまず免れない。
「やめてよ!? ああもう、お兄さんのバカ! 脳筋!」
停止を呼びかける悲鳴、むなしく。セリカの目前で火花が散った。
(熱っ……!)
頬に、刹那的な熱が弾ける。それとひどく耳障りな音が響いている。
鉄と鉄が擦れる音だ。
左手に持ったナイフを長剣の側面に滑らせながら、エランがイルッシオの懐に飛び込む。
(左手?)
セリカが疑問に思った一瞬の内に、黒い衣がしなった。それは鞭のように甲冑の騎士の両腕に巻き付き、動きを封じる。剣先が地に突き刺さった。
すぐに布を手放して、エランは左足でイルッシオの腕を踏み台にし、右膝で顎下を蹴り上げた。衝撃音と共に、土埃が舞う。
(何今の!? すごっ! 超かっこいい!)
不謹慎ながらセリカは興奮した。弟の実力を知っている姉としては、イルッシオがこんなに早く倒されるのを見るのは新鮮である。
「あの体勢から飛び蹴りって、やりますね。隻眼も身長も体格も不利だとわかってて他で補うとか、潔くていいっすね」
と、イルッシオがのんびりと称賛する。立ち上がろうとする彼に、エランは手を貸した。
「まぐれです。膂力も体力もあなたに敵わないと踏んで、早々に奇策に出させていただきました。十回勝負すれば、九回はそちらが勝つでしょう」
「ご謙遜を、義兄上。今の一回が全てだったんすよ」
二人は何食わぬ顔で向かい合う。始まりと同じくらい唐突に、終わってしまった。
「あんたって右利きな気がしてたんだけど」
ふと思い出して、セリカは先ほどの疑問をエランに指摘した。
「生来そうだ。片目になってから不便で、左もある程度使えるようにした」
「へえ。努力家ね――……じゃなくて、もう決着でいいわけ?」
どうも二人ともこういったことの勝敗にこだわらない性分らしい。セリカの問いに、イルッシオは肩を竦めた。次に、エランが口を開く。
「ひとつ訊ねても」
「何すかね、義兄上」
「あなたの一行には武装した兵が何人いるのでしょうか」
「重装備の騎兵が八人、練度は上の下ってとこですかね。何故?」
「貸していただけないだろうかと」
イルッシオはゆっくりと瞬きだけを返した。セリカも、何言ってるの、と視線でエランに訴えかける。
「ルシャンフはともかく、私は公都に兵を置いていない。宰相の手助けにどれほど期待できるかわからない現状、選択肢は多く持った方が賢明だ」
と、エランはこちらを見て答えた。
「浅慮じゃないっすか。他国の人間だからと言って、貴殿のお家騒動に手を染めていないって言い切れないでしょう。俺が敵と手を結んでたらどうするんです」
「はて、姉の無事を確かめる為だけに馬を急がせた公子が、そんなことをしますか。あなた方にとっての『きょうだい』は、私の知るそれとは性質が違うように感じます」
「そうでしょーね」イルッシオは首を左右に巡らせて、バキボキと鳴らした。「でも他国の兵を引き連れて都に入るのは外聞悪そうですよ」
「落ちるほどの評判を持ってません」
今度はエランが肩を竦める。イルッシオは値踏みするように目を細めた。
「アウグロン兄上はかわいい妹姫が妙な輩に誑かされたと心配で気が気じゃないみたいですが、俺は人を見る目はあるつもりっす。姉上は、誑かされるようなお人じゃない。貴殿を随分と信頼しているようだ」
そう言って彼は右の籠手(ガントレット)を脱ぎ、指笛を吹いた。二分ほど経つと、複数の馬蹄の音が響いた。
「てことで、いいですよ。貸します」
「待ってイルッシオ、あんた自身は護衛どうするのよ」
「大丈夫ですよ。他に練度・上の上の精鋭が二人居ますんで」
彼は親指で背後を差した。なるほど、指笛の呼びかけに応じた騎兵の数は先ほど聞いた「八人」ではなく、十人だ。
そうだった、この男はこういうしたたかさを持ち合わせているのだった。最初からこの人数を連れて来たのにも、意図があったかもしれない。
話はあっという間にまとまり、別れの挨拶に移った。
「ご安心ください、姉上。父上たちは何も知らないままです。うまくごまかしますから」
「お兄さんによろしくね」
「はい。身の回りが落ち着いたら、ぜひ二人で挨拶に来てくださいよ。バルバも兄上も待ってます」
「必ず行きます。ありがとうございました」
と、エランが深く礼をした。
去りゆく三騎と一羽を見送った後に、セリカは大きく息を吐いた。すると隣の青年から気遣わしげな視線を受けた。
「目まぐるしくてちょっとついていけない。行き当たりばったりだわ……」
「臨機応変と言ってくれ」
「そうね。エランってリーダーとしては混乱の時代をうまく乗り切りそうだけど、平穏には向かないかもね」
「大公やってみたら? なんて言ったら、怒るぞ」
「言わない言わない」
否定に手を振る。エランは黒い布を頭から被り直し、目だけをこちらに向けた。青灰色の瞳に、深刻そうな光が宿っている。
「気が変わったか」
「え?」
訊き返すと、いつになく弱気な声で彼は「後悔しているか」と囁いた。
何を、と問おうとして、途中で考え直す。なんとなく心当たりがあった。
「怖いの?」
「……ひとりの人間が全てを捨ててまで寄り添う甲斐が、自分にあるとは思えない」
「それを決めるのは、あたしだからね」
エランから「結論」を言い渡された朝の記憶がまだ新しい。それは結論であり、申し込みだった。
――ゼテミアン公国第二公女、セリカラーサ・エイラクス姫。私がこれから歩もうとしている先に、希望があるのか破滅が待つのかは知れない。私の持ち札はあまりに少ない。与えてやれるものは何も無いし、幸せにしてみせるとも約束できない。
――それでも共に歩んではくれないだろうか。泥の中を這うような人生でも、お前が居てくれるなら、耐えられそうだ。
「手かして」
ありったけの威圧を込めて右の手の平を差し出した。エランは躊躇いがちに応じた。
重なる手の温かさに、ほっとした――時にそれはどんな不安や恐怖をも忘れさせ、時にごく平凡な風景をも輝かせる。セリカは被り物の下で頬を緩めた。
「なんにもないって、そればっかり……正直すぎよ。ま、好きだけどね。そうやってかっこつけないとこも」
指を絡めて、握る。捕まえた青年の指はまず強張った。次第に解れて、握り返してくる。
「あたしの気持ちは変わらないわ。後悔なんて、しない」
「…………」
「あ、今笑ったでしょ。見えなくて残念だわ」
目尻の雰囲気が柔らかくなったのは確かである。
「こんな顔で良ければ後でいくらでも見せてやる。飽きるまでな」
答えた声はいかにも可笑しそうだ。これから一生付き合うのに、飽きたら困るなあ――とセリカがポツリと漏らせば、エランは声に出して笑った。
________
ムゥダ=ヴァハナに連なる裏山にて夜を迎える。
セリカは手頃な樹木に片手をついて支えとし、これより向かう先を眺め下ろした。曇り空のため、日が暮れ切っていなくても辺りがやたら暗く感じられる。
都を守る強固そうな防壁は、思いのほか高くなさそうだ。角の物見やぐらにのみ明かりが灯っていて、壁際の通路は基本的に暗い。巡回する衛兵の装備や数を遠目に確認した。
「片手で数えられる程度しか居ないわよ」
振り返らずに、背後から現れた気配に向けて話しかける。
「ああ。ほとんど矢狭間が設置されていない。こちら側から攻め入られる可能性が極めて低いと認識されているからだ」(アローループまたはスリット=外敵に矢を射る為の隙間)
セリカの隣に並んで、青年はそう付け加えた。
全て想定した通りだ。都の裏手の山は険しく、遠回りとなったが、その代わり虚を突くことが叶う。エランはこの山を抜けた経験が何度もあるらしく、最も効率良く進む道を熟知していたのである。
第五公子は変装をやめて、以前の様相に戻っている。ターバンから垂らした布で顔の右半分を覆い、動きやすそうな服装に着替えていた。
――別れて行動する刻限が迫っている。
そのことを思うと、セリカは落ち着かない。気を紛らわせたくて肩にかけた弓を指先で撫でたりした。
「人を射たことはあるか」
ふいにエランが問いかけた。
「ない、と思う」
「そうか。これからもそうであれば、いいな」
「うん……」
労わるような優しい声にたまらなくなり、目頭に涙が滲んだ。
怖い。けれどそれ以上に、離れるのが嫌だった。別れたらそれが最後になるのではないか――。
ほどなくして暗い視界の端に一層黒いものが浮かび上がった。「彼女」はいつぞやのようにエランの前に跪いて、報告をする。大公、ハティル公子、それにアダレム公子についてわかったことを。
「アストファン公子に動きが見られませんが、監視に気付いて敢えてそうしているようにも解釈できます」
「……わかった。監視の目をかいくぐられるかもしれないのは気がかりだが、仕方ない」
エランは頷いて、踵を返す。イルッシオに借りた兵の方へ足を運び、支度をするように呼びかけた。
「お供いたしましょうか」
密使の申し出をエランは即座に断った。
「いや、必要ない。ハティルが父上の見舞いに行っているというなら、私がそこに向かうのも便宜上は問題ない。それよりお前は、セリカ公女を送ってくれ」
「承知しました」
黒づくめの女性がこちらに向いて頭を下げる。
セリカの胸の内に焦燥感が沸いた。ここ数日ですっかり見慣れてしまっていた横顔が、もはやこちらを見向きしない。
深い青の耳飾が揺れるのを目で追った。「待って」の一言が、喉でつっかえる。
腹の決まった者に向けて「行かないで」とも「連れてって」とも、ねだってはいけない。
足を引っ張りたいわけではないのだ。それでは、共に歩む伴侶たりえないだろう。
人々が遠ざかる。送ってくれるという密使の女性は離れた位置の木陰にいつの間にか身を潜めていて、セリカはその場に取り残されたように立ち尽くした。
言葉にできない、悶々とした想いを持て余している。急に頭を覆う布が暑苦しく感じられた。乱暴に脱いで、手癖で髪を解いて結い直す。
己の長い髪すら煩わしく思えてくる。それゆえか、ひとり戻ってきた青年が不満そうな顔をしているのを見て、セリカは彼が何を考えているのかすぐにはわからなかった。
「そんな風に引っ張ったら傷む」
「構わないわよ、傷んだら切ればいいし」
「そう言ってやるな」
なんとエランはどこからともなく大きめの櫛を取り出した。そんなもの持ち歩いてるの、と訊ねている間に背後に立たれた。
「髪、触っても」
「いいわ」
こちらが答えるが早く、軽やかな音が頭蓋に響いた。木製の櫛だ。くせだらけのセリカの髪を優しく梳く感触は心地良く、絡まった箇所を解く手付きは手慣れている。
――あのリューキネ公女と比べたら毛が太く扱いづらいだろうに。
「持ち歩いているというより、道中で買った」
今頃になって質問の答えが落ちてきた。
「髪短いのに櫛なんて使うんだ」
「使わない」
「え」
間があった。一方、セリカは首筋をくすぐる感覚に身震いしないように必死だった。
「お前の為に買った」
「そうなんですか……ありがとう……?」
またモヤモヤとした感情が胸の奥で渦巻く。嬉しいのに喜べない、その原因は知れているのに。
伝えなきゃと思えば思うほど、息が苦しくなる。
「って、ちょっと。編んでませんか」
気が付かない内に、梳く感覚が何か違うものになっていた。
「ついでだ」さすがに彼は手慣れている。三つ編み一本を作り上げると今度はそれをくるりと巻いてまとめ上げ、仕上げに櫛を挿して固定した。「これなら動きやすいだろう」
満足そうに笑んでいるエランに、セリカは苦笑交じりに礼を言った。それから深呼吸する。
「じゃ、気を付けて。また後で、ね」
後でどこで合流するかは、実は定まっていない。
次があるのかわからないという誰かとの別れに、こうも後ろ髪を引かれる想いをしたのは初めてだ。望めば腕が届くようなこの距離に、空気感に、浸るようにしてセリカは青灰色の瞳を見つめた。
「ああ。お前の方こそ気を付けてくれ」
絡まった眼差しは、ほどなくして切れた。
裾がたなびく。足音がする。数歩と歩き出した背中に、セリカは衝動的に呼びかけた。
振り返った顔には、これといった感情が映し出されていなかった。
「あ、あのね! あたし、嬉しかったよ」
つっかえそうになる言葉を頑張って押し出した。
宵闇の中、無表情に僅かな驚きが射しこむのが見える。
「あんたがあたしの運命で――うれしい」
その想いを口にした時、胸の中でたとえようのない温かさが広がった。次いで微笑んだのも、きっと衝動だった。
――伝わって欲しいのはこれだ。
巻き込んだと、彼は思わずにいられないのだろう。巻き込まれて、嫌な感情が全くなかったとセリカには断言できない。
けれどもそれを凌駕する何かがある。困難に一緒に立ち向かうことに、充足感のようなものが伴うのだ。他の誰でもない、この人の戦いに。果てまで付き合いたいと、今なら言い切れる。
瞬間、より深い驚きが青年の面差しを埋め尽くした。
かと思ったら、セリカの視界の中で布が動き、影が近付いた。
両肩を圧迫する力にハッとなる。抱き締められたのだと気付いて、呆気に取られたこと、数秒。
「あまりそういうことを言うな。離れがたくなる」
耳元で囁いた声は掠れていて熱っぽい。つられて熱に浮かされそうだ。
「……反省します」
寂しいのは自分だけじゃなかった、エランも何かを我慢していたのだ、と思い知った途端に肩の力が抜けた。セリカに同等の腕力は無いが、負けじと強く抱き締め返す。自然と瞼が下りた。
これ以上にないくらいに相手を近くに感じられる――
――これ以上は、ないのか?
脳裏に奇妙な疑問が沸き起こったのと「もっと触れても」の問いが耳朶に届いたのは、ほぼ同時だった。
セリカは自身がどう答えたのかを知らない。喋る為の器官が動いて何かを答えたらしいのは、わかる。
唇を閉じる寸前、そこに柔らかく温もりが重なるのを感じた。
強く押し付けられたのは刹那のことで、唇は間もなく離れた。
「必ず、帰る。私は果たせない約束はしない」
「うん」
それきり、幸せはするりと腕の中から抜けていった。もう少し、と望んでも、冷たい風が吹き抜けるだけだ。
去り行く者はやがて馬上の人となり、兵と共に一列に防壁の門に向かって降りていく。
(あは。これか、恋愛感情)
この局面で自覚してしまうとは、何と悲しく切ないことだろう。セリカは掌で額を押さえた。
(世の中の皆さんは、どうやってこれを抱えて生きていけるの)
女の一生は忍耐――母が昔そう言っていたのは、こういう意味だったのだろうか。よくわからない。
袖で目元を擦ると、セリカは顎を引き上げた。今は感傷に浸るべき時ではない。
「あの塔で間違いないのね」
未だ陰に潜む女性に向かって問いかける。女性は音も立てずにセリカの傍に来ると、頭を下げて答えた。
「はい。表向き、アダレム公子はご気分の優れない母君に付き添って部屋から出ていないという話になっておりますが、我が同胞が調べましたところ、塔にて幽閉されていると判明いたしました」
密使の彼女が革手袋に覆われた指を指す。塔は防壁の角に位置しており、門からもそう遠くないように見える。
「わかった、行きましょう。段取りはあなたに任せるわ」
御意にございます、と密使は小声になり、潜入する為の作戦を綴った。
――兄弟を嫌うのに深い理由は要らない。
自分よりもよくできた姉妹を少なからず妬みながら育ってきたセリカには、その言葉の意味が身に染みてよくわかっていた。しかし嫌う感情だけでは、相手を死に至らしめるまでに行動するには至らない。
その二つの事項は容易に結びつかないはずである。いわば、憎しみの進展が必要なのだと思われる。
ではハティル公子の、弟を害したいという感情のふり幅はどこにあるのか。少なくともアダレムが生きている限り、それが希望になる。
しかもアダレムはまだ柔軟な年頃だ、命まで奪わずとも如何様にも誘導・洗脳できうる。ハティルは、ただ一人の弟を飼い殺しにするつもりかもしれない。
(本人を誘導できても、背後にいるはずの母親や親族はどうだろ。アダレムとハティルは母親が同じだから、いざとなったら母親はどっちに味方するかしら)
人望がどうと言うには二人の公子はまだ幼い。逆に、傀儡化できそうな公子を担ぎ上げるのが妥当と考えられる。
(まあいいわ。誰が立ちはだかっても、あたしはやるべきことをやるだけよ)
セリカは密使の方を向き直った。互いに、一分の隙も無い黒衣に身を包んでいる。
「殿下が門を通る隙を狙って、潜入します。私に続いてくださいませ」
彼女の手にある道具はゼテミアンでは見たことのない類の物だ。武具、なのだろうか。腕にはめる何かのからくりのようで、先端に大きな三つ又のフックが付いている。
その道具と長い縄を持って彼女はすたすたと急勾配の方へ歩いた。大木に縄の端を縛り付け、残りを空いた腕で抱える。これらで防壁に至るまでの「橋」を架けるのだそうな。
後はエランが門番と話し込む頃合いを見計らうだけだ。その間に密使の横に立って、セリカは口を開いた。
「ところで、呼び名が無いとやりづらいわ」
「では私のことは、ハリャ、と。あとこちらをお持ちください」
無機質に言ってハリャは腕の仕掛けを解放した。フックが空を切り、遥か遠くの壁の縁に引っかかる。
かしゃん、とからくりが大きな音を立てた。かと思えば、ハリャは地を蹴っていた。
振り子の要領で彼女は山と防壁の間を見事に超えて見せた。
だが油断はできない。
セリカは視力が良い方だ。運悪く屋上通路を通りがかった兵士が気付いて駆け寄り、ぶら下がる彼女を蹴り落とそうとしているのが見える。
弓に矢を番えつつ、自分に射抜ける最長距離を思い浮かべる。正直ちゃんと届くのか、ちゃんと狙えるのか、ここからでは怪しい。
弓弦の張力を全身で感じる。手が微かに震えている――当然だ、人を狙うのだから。
束の間、瞑目した。
再びハリャの危機を視界に入れ時には、セリカは賭けに出る為の覚悟を決めていた。
狙い、放つ。矢が僅かな風切り音を背負って飛ぶ。
余韻に震えながら息を止めていた。警備兵が仰け反り、倒れるのを見届けるまで。
次に、人を殺したかもしれないという事実に怯え、狼狽した。
そんなセリカの葛藤などお構いなしにハリャは壁をサッサと登りきる。手頃な突起を見つけて縄を縛り付けると、こちらに向かって手招きしてきた。
戦々恐々と例の縄を見下ろした。
太くて頑丈そうだった。セリカ一人の体重くらい、支えるに足るかもしれない。
そして先ほど「お持ちください」と渡されたのは曲がった小さな鉄塊。両腕に嵌めて使うものだと、ハリャに教えられた。
心の中で神々と聖獣に短い祈りを捧げ、大きく息を吸い込む。
(こんなこと! 絶対! 二度としないからね!)
風が衣服を激しくはためかせる。手足がひどく重い。
落ちる。落ちる、そのことを意識したくなくて目を閉じたら余計に気分が悪くなり、空を仰ぐことにした。疎らに煌き始めている星々の輝きが慰めだった。
――味わった恐怖は度を越えすぎていて、状況を楽しむ余裕も無くて、後に思い出したり語ったりしたくないようなものだった。
転がり込むようにして着地した。打った後ろ首をさすりながら、セリカはなんとか起き上がった。
ハリャがひとりで数人倒したのだろう、そこには既に戦闘の痕跡があった。セリカが射た者含め、皆ぼそぼそと呻いている。誰も殺していなかったことに、こっそりと胸を撫で下ろした。
「こちらです!」
彼女が先導する方へ続く。二人でしばらく通路を進み、塔へ入り、階段を駆け上がった。カビの臭いがどんどん濃くなる。
(生きていてよ。無事でいて、お願い!)
果たして、最悪の結末を撥ね退けられるかは知れないが。
アダレムはエランが怖いと言った。だから彼を迎えに行く役目は、セリカが請け負うことになった。
息も切れ切れに、セリカは思い浮かべる――リスを追いかけていた天真爛漫な幼子のことを。
ただ一心に、あの元気な在り様が保たれていることを願った。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました
しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、
「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。
――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。
試験会場を間違え、隣の建物で行われていた
特級厨師試験に合格してしまったのだ。
気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの
“超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。
一方、学院首席で一級魔法使いとなった
ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに――
「なんで料理で一番になってるのよ!?
あの女、魔法より料理の方が強くない!?」
すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
さようなら、お別れしましょう
椿蛍
恋愛
「紹介しよう。新しい妻だ」――夫が『新しい妻』を連れてきた。
妻に新しいも古いもありますか?
愛人を通り越して、突然、夫が連れてきたのは『妻』!?
私に興味のない夫は、邪魔な私を遠ざけた。
――つまり、別居。
夫と父に命を握られた【契約】で縛られた政略結婚。
――あなたにお礼を言いますわ。
【契約】を無効にする方法を探し出し、夫と父から自由になってみせる!
※他サイトにも掲載しております。
※表紙はお借りしたものです。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
押しつけられた身代わり婚のはずが、最上級の溺愛生活が待っていました
cheeery
恋愛
名家・御堂家の次女・澪は、一卵性双生の双子の姉・零と常に比較され、冷遇されて育った。社交界で華やかに振る舞う姉とは対照的に、澪は人前に出されることもなく、ひっそりと生きてきた。
そんなある日、姉の零のもとに日本有数の財閥・凰条一真との縁談が舞い込む。しかし凰条一真の悪いウワサを聞きつけた零は、「ブサイクとの結婚なんて嫌」と当日に逃亡。
双子の妹、澪に縁談を押し付ける。
両親はこんな機会を逃すわけにはいかないと、顔が同じ澪に姉の代わりになるよう言って送り出す。
「はじめまして」
そうして出会った凰条一真は、冷徹で金に汚いという噂とは異なり、端正な顔立ちで品位のある落ち着いた物腰の男性だった。
なんてカッコイイ人なの……。
戸惑いながらも、澪は姉の零として振る舞うが……澪は一真を好きになってしまって──。
「澪、キミを探していたんだ」
「キミ以外はいらない」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる