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アダムとイヴの純愛(1)
しおりを挟む私がもしも男の子だったら迷わず去勢していたと、母はよく言っていました。
「いいかい? まゆみ。お前のお父さんはね、ペニスがあったからいけなかったんだ! ペニスは煩悩の元。お父さんはその汚れた器官のせいで姦淫を犯した。愚かしい!」
母は熱心な去勢教信者です。当時、中学生だった私は成る程と思いました。どうりで思春期の男の子たちは、あんなに気持ち悪かった訳です。すべてはペニスが原因だった。
通っていた中学校はたいへん校則が厳しく、制服に乱れがあれば校内へ入ることさえ許されませんでした。周りの子たちはそれに不平を並べていましたが、私は脚を隠してくれるロングスカートに安心感を覚えたものです。「女性はむやみに脚を晒すべきではない、野獣を誘ってしまうぞ!」と、母から教わっていたからです。そんな私は下品なことを平気で口にするクラスメートの男の子たちに嫌悪感、いえ吐き気すら感じていました。
母にそれを相談すると、こんな答えが返ってきます。
「おお、ぞっとする。やはりペニスのついている男は悪以外の何ものでもない……まゆみ、間違ってもそんな下衆たちと付き合うんじゃないよ! 去勢教を信じ、貞操を守り抜くのだ。すればいずれ、悟りは開ける!」
「はい、お母さん」
母はペニスの被害者です。故に、こんなに熱く教えを説いてくれるのでしょう。私が母と同じ目に遭わぬように。親の愛を感じて、私はうっすら涙を浮かべたものでした。
ある日リビングで夕食を取っていると、テレビでは母親が赤ちゃんのペニスを切断したというニュース。動機は醜い男に成長させたくなかったから、とのことでした。母は食事中だというのに去勢の歴史について記した本を持ち出して、その母親に激しく賛同していました。私も一緒になりました。
しかしペニスに嫌悪感を抱いているとはいえ、私は別に男の子自体が嫌いな訳ではなかったのです。それは、親友だった子からの影響でした。
彼女はつやつやの黒髪を長いみつあみに結って、眼鏡をかけた清楚な子。私と同じく周囲に気の合う子がいなかったらしい彼女とは、自然に仲良くなりました。
彼女は一昔前の少女漫画や純愛ものの映画、小説などを愛好していて、よくオススメしてくれたものです。
私は彼女からプラトニックラブというものを教わりました。それは彼女の部屋で一緒に見たビデオ。画面越しの、彫りが深い顔立ちをした金髪の王子様はお姫様に愛の言葉を囁き、フレンチキスしかしません。あまりの美しさにうっとりします。
そう、これが正しい男女交際の形です。互いの純潔さを尊重しあうこと。私は保健体育の授業中、教科書の生殖器が描かれた頁に向かって危うく嘔吐しそうになったことがありました。確かに性交は自然な行為なのでしょう。しかし、気持ち悪いものは気持ち悪いのです。
彼女が貸してくれた漫画と小説も素晴らしいものでした。清い恋愛。私は虚構と知りつつも作品に出てくる線の細い、穏和そうな、童貞の匂いがする男の子たちに焦がれました。
プラトニックラブについて語り合える彼女とは、大親友。残念ながら高校生まで、でしたけれど……。
私と彼女は同じ高校に入学しました。クラスも一緒……とはいかず離れてしまいましたが、この友情はずっと続くと思っていました。二人してセーラー服のスカートの丈は膝下まで下ろして、脚は黒いタイツで覆っていました。お揃いのハンカチーフを持っていました。
高校は中学校と比べれば校則が緩かったものですから、最初のうちは大人しかったクラスメートも段々と堕落していきます。スカートを短くして、平気で腿を晒す女の子。ズボンを腰で穿いて、下着が見えている男の子。私はそんな周囲に心の中で「この恥知らず共が」と、呟いていました。
学費が安いから仕方なく選んだこの頭の悪い高校に、一緒に入ってくれた彼女には感謝の念が止みません。彼女と過ごせるお昼休みと、下校時が一番楽しかった。なのに最悪です。
ある日のお昼休み、お弁当を手に屋上で彼女を待っていました。天気がよければいつもここで待ち合わせをしていたのです。やがて現れた彼女は、様子が違っていました。
みつあみを解いて、眼鏡を外しています。驚いて、いったいどうしたのかと聞いてみました。
「ああ、これ? クラスの子たちにこうした方が可愛いよって言われたから……」
「そ、そう。でも眼鏡がないと見えづらくないかしら?」
「コンタクトレンズしているの」
……確かに、彼女は可愛いです。ええ、私と比べればよほど。
コンタクトレンズをした彼女の目は前より大きく見えますし、長い髪はさらさらしていて触りたくなるほどでした。でもこの時はまだ、彼女は脚をスカートとタイツで隠していましたから何も不安はなかったのです。
それから次の日の下校中、彼女から少女漫画を借りました。表紙の絵がいやに現代的で疑問を抱きましたが、彼女いわく「面白い」とのことです。家についてから、自分の部屋で読みました。三頁めくって、ゴミ箱へ投げ捨てました。
だって……だって! 何なの、これは? いきなりヒロインがヒーローに押し倒されてそれで、レ、レイプされているじゃないの! この漫画の帯には「純愛」と書かれているのに! 愛に対する冒涜だ! 罰当たりめが!
喚いていると、母が何事だと部屋に入ってきて、私は母の胸に泣きつきました。漫画を捨てたゴミ箱を指差しながら、事情を説明しました。
母は険しい顔つきになって
「そんな友達とは縁を切りなさい!」
と言いましたが、私は泣きながら彼女をフォローしました。
「違うの! 彼女は純潔な子よ! これはきっとクラスメートの毒気に当てられて、気に迷いが生じてしまったのよ……ああ、彼女の迷いを消し去ってあげなければ。お母さん、ゴミ箱の中の悪しき物を早くかたづけて!」
母は即座にゴミ箱を持っていって、中身を処理してくれました。その夜、私は母の安定剤を分けてもらってから床につきました。彼女を説得して、清らかな道へ戻さなければと考えながら。
そしてお昼休み。屋上に現れた彼女はタイツを脱いで、代わりに紺色のハイソックスを穿いています。スカートを折り、少し短くしていました。
白い膝頭が目につきます。私はそれに悲しくなりつつ、切り出しました。
「貸してくれた漫画のことだけど……」
「ああ、あれどうだった?」
「捨てたわ」
彼女の口があんぐり開きます。しきりに瞬きをしています。構わずに続けました。
「あんなものを面白いだなんて……ハレンチにもほどがあるわ! 神経、どうかしてるんじゃないの!?」
「や、どうかしているのはあなたの方よ!? 人から借りたものを捨てるなんて、非常識だわ!」
「うるさい! ねえ、いったい何があったの? あんなに純潔だったあなたが……」
彼女は深くため息を吐くと、急に口調を変えました。
「私……あたし、気づいたの」
「え?」
「このままじゃ、ダメだって」
彼女は何を言っているのでしょう?
「クラスメートでね、一人話しかけてくれた子がいたの。あたしが寂しそうだったから、て。その子はとても明るくて、派手な子。あたし、目が覚めたわ。あんな時代遅れな映画や小説や漫画、もういらない」
「は? ……え?」
「あんたもいい加減、現実を知りな。もう中学生じゃないんだから」
彼女はくるっと背中を向けて、去っていきました。私は手に持っていたお弁当箱を落とし、膝をつきました。
「この、売女!」
と、消えた彼女の背中へ、叫んでいたような気がします。
そのまま彼女とは敬遠しあうようになってしまいました。お昼休みは一人で過ごすようになって、家への帰り道も一人です。
暫くの間、私の感情は憤怒に支配されていました。それが落ち着いてくると今度は、お弁当の卵焼きがしょっぱく感じるようになりました。
それは私の涙が原因です。もう一度ちゃんと話せばわかってくれると思って、私は彼女のクラスへ赴き、そっと扉を開いて中を覗いてみました。うるさい教室。
彼女を見つけるのは大変でした。だって、長い黒髪の子が見当たらなかったものですから。教室にはいないのかしら? ……と、首を傾げた途端、真ん中でかたまってお弁当を食べていたスカートの短い三人の女の子のうち一人が、ふいに私の方へ振り向きました。
その女の子の顔は明らかに彼女のものでした。でもあれはいったい誰なんでしょう? 私はあんな子、知りません。
髪を栗色に染めて化粧をして、スカートの丈を詰めて腿を恥ずかしげもなく晒し、おまけにセンスの悪いだぶだぶの靴下を穿いた子なんて!
私たちは少しの間、見つめあっていました。しかし彼女の向かいの席に座っていた、同じく髪を染めた女の子が彼女を呼ぶと、彼女はもう興味をなくしたそぶりで私から視線を外します。私は黙って去りました。
絶望です。もう、どうでもいい。彼女とは絶交です。彼女は精神的に薄弱だった。周囲の悪徳への誘惑にあっさり負けて、純潔を捨てた。売女に堕ちた。きっと、いつか天罰が下ります。
俗世間はあまりにも汚れている。それが当たり前になっているから、純潔が逆に異端扱いされてしまう間違った世の中。その証拠に現代では「処女」と「童貞」は恥とされているとんでもない事実があります。昔なら処女も童貞も汚れのない証しとして、尊敬の眼差しで見られていたものだったのに。
暗黒と化した高校生活中、コンピュータールームで去勢教について検索していたら「非性愛者」というものの存在を知りました。きっと、私はそれなのだ。
高校を卒業すると母子家庭で家計が苦しかったこともあり、私は家を出て、通販会社のコールセンターに就職しました。そして、今に至る訳です……。
「はい、××コールセンターです。お電話ありがとうございます。はい、ご注文でしたらまず品番を」
インカムから聞こえる甲高い、中年の女性のものだと思われる声が私の言葉を遮りました。
『知らないわよ! そんなモン!』
「カタログに記載されています。ご確認のほどっ……」
『んなモン、アンタの方で調べればわかるでしょ! ピンクのカットソーよ!』
わかりません。ピンクのカットソーと言ったって、同系色のカットソーが商品には沢山あります。ちゃんと指定してもらわなければ。
「ですから、カタログの品番を」
『もういい!』
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