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英雄の条件
しおりを挟む緻密な刺繍をしてある優美なハンカチの角に噛みつき、限界まで下に伸ばし、血走った目でチェルシーは侍女に問いかけた。
「どういう事ですの。誰か説明を!」
「三角関係かと…」
「まぁ! まぁまぁまぁ!」
チェルシーの瞳孔が大きく広がった。
自分を鍛えあげるために騎士見習いから冒険者となり、先日王都を出たトールがモールド伯爵家の王都の邸宅に帰って来た。
噂によると辺境の村を襲った盗賊団を見事に打倒したらしい。
魔の森に近くなると、村の規模に関わらず冒険者ギルドがある。
魔の森浅層とはいえ、他の地域よりも強力な魔物を狩り、生活の糧としている強力な冒険者の存在は、王都の冒険者内でも常識だ。
本来冒険者ギルドは、盗賊の抑止力にもなっているのだが、今回は何故か冒険者ギルドの面々でも敵わない盗賊が出た。
そして、魔の森近くの村々を治めるモールド伯爵家の軍勢はロムスタ伯爵家との戦いで出向いている。
盗賊に襲われ壊滅するハズだった村を救ったのが、冒険者トール率いる、従者のマルト、そして変わった毛色の飼い犬エクレアの一行だった。
この件で冒険者ギルドの苦境を救ったトールは冒険者界隈から辺境の英雄と称えられ、王都への帰還はまさしく凱旋となっている。
「なんてこと。今の恋人を連れて、過去の恋人に合い来るなんて…」
チェルシーの瞳孔は開きっぱなしだ、少し怖い。
居並ぶチェルシーの侍女たちは、遠巻きに玄関の光景を見てごくりと喉を鳴らした。
「ボクは英雄なんかじゃありません」
「…英雄てのは本人がどうこう決めるもんじゃねぇ。お前に感謝している奴がそれだけたくさん居るって事だ」
伸び盛りとはいえ、まだ少年の域を出ない背の、緑のおかっぱ頭が下を向く。
デニムはあー、と言いながら頭をかき空を見上げた。
「つまり…全員救わなきゃ不満だったって事か?」
「ボクは結局、間に合いませんでした」
「…そうだな」
沈黙が辺りを包んだ。
ハッハッとエクレアの息だけが聞こえる。
「聞こえないわっ」
プルプルと手を震わせながら、チェルシーは侍女たちをキッと睨んだ。
片眼鏡をした一人の侍女が進み出る。
度の強いレンズは、遠くの物を自然に見るための物だ。
「僭越ながら…、モールド伯爵家から先日、読唇術を仕込まれた私が適任かと。完璧には程遠いですが、何も無いよりはマシかもしれません」
「読唇術…。良いわ。要約して伝えて」
他にとチェルシーは侍女の提案に深く頷いた。
読唇術。
口の動きを直接見ないと読み取れない等、使える場が著しく限定される上に、条件が仮に最高の状態でも読み取れるのは30%から40%前後までと正確性に欠ける、本来なら耳の聞こえ難い人が音声と合わせて使う技術である。
「浮気をしてすまなかった。戻ってきたのでやり直したいと」
「「きゃーっ」」
「…なんてこと。オラオラだなんて。トールきゅん」
モールド伯爵家の王都の邸宅の一角が途端にざわめく。
「難義なもんだな。もし、村が襲われる前に間に合っていれば、トール、お前の実力だ。死者は一人も出さずにすんだだろうさ。だが、そうなればお前は、けっして英雄呼ばわりなんてされてないぞ。功績とは、苦難の大きさ、犠牲の大きさに比例する物だからだ。だからこそ困難を克服した者が英雄と呼ばれる。苦難がなきゃ、英雄なんてもんは生まれないもんだ。そして、お前は間に合わず冒険者に犠牲が出た。それも一流の冒険者が死んだ。異様に練度の高い盗賊に殺された」
「皆さん知り合いの方々でした」
「良いじゃねえか? 仇は取れたんだろう? 胸を張れよ」
「ボクは…」
「なあ、トール。全部は救えねぇ」
デニスは下を向くトールの頭をグシャグシャと撫でた。
「お前の故郷の話。聞いた事あるぜ? 知ってるだろ? あのマリアお嬢様でさえ、両手じゃとても足りずに、溢してばかりなんだ。救った数より、救えなかった数の方が多いかもしれない。なんせウチは魔の森近くの領だからな。だが、マリアお嬢様は立ち止まったりしてないだろう?」
「トールの旦那は最善を尽くしましたぜ」
「ワン!」
従者のマルトがトールをフォローする。
精霊エクレアは元気に一つ吠えた。
トールの足下にポタポタと地面に水滴が落ちる。
「辺境に住む者の英雄ってのはな。そういう称号だ。何でも先に解決しちまう奴じゃえねぇ。救えないで溢してばかりの、それでもな。立ち向かい続ける奴が言われるような称号だ。だからな、トール。称号が笑われねぇように胸を張れ。王都に居た時よりマシな顔になって帰って来たぜ、英雄殿」
「…はいっ」
トールは小さく頷き返事をした。
片眼鏡に力をいれる侍女が震える声で言った。
「三人で一緒に故郷で暮らさないかとデニム様が。今はその条件を話しているのかと。そして、トール様ははいと答えましたわ」
「は、破廉恥なっ」
プシュと鼻血を吹き出して白目を剥いたチェルシーは後ろに倒れた。
慌てた侍女が支える。
「トールきゅんの攻めを解禁します。本を、本を書かなくては。今なら集大成を書ける」
うわ言のように呟くチェルシー。
チェルシーを支えながら侍女たちは潮の満干期のようにささっとケニー公爵の王都邸宅へと戻っていった。
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