未来樹 -Mirage-

詠月初香

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2章

11歳 -水の陽月2-

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激しい耳鳴りを思わせる不快な音。
それが本当に私の鼓膜を震わせた音なのか、それとも私がそう感じただけなのかは解りません。でも、目を開けていられない程の激しい不快感が私を襲い、それを堪えて再び瞼を上げるまで……ほんの数秒。

その数秒で私の世界は変わってしまいました。




先程までは綺麗にテーブルの上に並べられていた家族各々のお気に入りの飲み物はテーブルや床へと撒き散らされ、沢山作られた料理はそれが乗せられた食器ごと散乱しています。視界に入ったそれらの情報は確かに脳に届いているはずなのに、何故か処理できなくて状況が全く理解できません。

(えっ? 何、なに……なんなの??)

呆然として指一つ動かせない私の前で家族全員が床に倒れ伏していて、今まで見た事のない苦悶の表情で呻き声を上げていました。叔父上が何かに縋りつこうとしたのか手を伸ばしますが、その手は空を切って再び床へと落ちてしまいます。その叔父上の腕が落ちる様子がまるでスローモーションのように見え、その時になって私はようやく現況が理解できました。

「お……叔父上! 母上!! 兄上もっ!! あっあああああぁっ!!!
 やだ、やだ、つるばみ、山吹!!!!」

慌てて母上の元へ向かおうとする私を、背後から伸びた腕が私を抱き留めて阻止してきます。

「やだ!! 離して! 母上が、皆が!!!」

「待て、動くな!! 周りを良く見やがれ!!」

無我夢中で腕から逃れようと藻掻く私の頭上から、厳しく叱る桃さんの声が落されました。しかもその声と同時に私を抱き留めていた腕の片方が私の顎へと延び、問答無用で横を向かされます

そこには険しい顔をした浦さんが居て、その浦さんを補助をするかのように金さんが寄り添っていました。

「櫻、そなたの家族を思う気持ちは良く分かるが、今は辛抱しろ。
 浦がそなたを軸に守りの力を展開している。
 そなたが動けばそれだけ浦の負担が増える」

そう言う金さんの向う側で、浦さんが身に纏っている領巾ひれが激しく波打っていました。領巾が波打つ光景は浦さんが精霊力を使う時には良く見かける光景ですが、あんなに激しく波打っている領巾は滅多に見ません。領巾の動き方に違いはありますが、激しさでいえば過去に土蜘蛛から私を守ってくれた時と同じぐらいです。

その領巾に時々不可思議な力が働いているようで、ピリッという小さな音がする度に領巾が少しずつ裂けていきます。こんな事はじゃんじゃん火や土蜘蛛に襲われた時や、山吹と一緒に谷底に落ちた時ですら起こりませんでした。

「何が……何が起こってるの?」

早く皆を助け起こしたい、安否を確認したいと焦る気持ちをぐっと堪えて現状把握に努めます。私を未だ抱き留めている桃さんの腕を震える手で掴むと、不安な気持ちを少しでも抑えたくて、安心できる要素欲しさに桃さんの顔を見上げました。

桃さんは金さんや浦さんとは違い表情豊かな精霊で、特に笑顔でいる事が多い精霊です。その笑顔も様々で、一番多いのは美味しいモノを食べた時の満面の笑みで、次は何がが上手くいった時の得意気な笑みです。そんな表情豊かな桃さんは三太郎さんの、いえ家族全員のムードメーカーなのです。その桃さんの顔から表情が一切消えて一点を見続けている様子は、浦さんの激しく波打つ領巾と同じかそれ以上に今が緊急事態である事を示していました。

「呪詛だ。それもかなり強い……。
 俺様の知る限り、こんなに強い呪詛は今まで一度も放たれた事はない」

「呪詛?!」

思いがけない言葉に、オウム返しのように同じ言葉を返してしまいました。
今、私は桃さんと会話をしていますが、これが心話だったとしても文字化けならぬ音声化けしないで、ちゃんと意思疎通が出来ていたはずです。何故なら呪詛という言葉は現代日本で生きていればまず縁の無い単語ですが、歴史を習えば呪詛や祟りという言葉を目にする事ができるからです。例えば藤原4兄弟が次々と疫病にかかって死亡した一件を、古代の人は「長屋王の祟り」として恐れました。他にも日本三大怨霊なんて言葉もあったりする程に、古代の人にとって疫病と祟りは切っても切れない関係でした。

ですがそれは病原菌という肉眼で視認できない程に小さなモノがこの世のは存在していて、それが病気を引き起こすという事を古代の人が知らなったからです。もし奈良時代にも今と同じ文明レベルがあれば、当時の日本を襲った疫病も「長屋王の祟り」なんかではなく、「天然痘の大流行」と書き記されていたはずです。

確かに小説未来樹の第2部の冒頭で、主人公は祟り病によって家族を失ったとは書かれてはいました。ですがそれは感染力の極めて強い伝染病をそう呼んでいただけだと私は思っていましたし、考察サイトに寄せられた他の読者の意見でもそれが大多数を占めていました。精霊は居るのに魔法の無い世界で、呪詛だけがあるとは思えなかったのです。


「……まずいな」

無表情だった桃さんの顔に変化がありました。好ましいものではない変化が。
焦りや苛立ちを思わせるひそめられた眉、そして無意識なのか私を抱える腕にも少し力が入ります。

「えっ?
 だ、大丈夫だよね、みんな、大丈夫だよね??」

先程までは母上たちの心配でしたが、今度は浦さんたちも含めた家族全員が心配になってきました。ふと見れば浦さんの領巾が先程よりもずっと破けていて、浦さんもギリギリの戦いをしている事が解ります。

「チッ、仕方ない。
 桃、少しの間だけで良い、浦の補助を!」

「あぁ、解った!
 櫻、解っているとは思うが動くなよ?」

舌打ちをする金さんに、悪態一つ吐く事なく応じる桃さんという、とても珍しいやり取りが目の前で行われたというのに、驚く精神的な余裕なんてありません。ただ桃さんの言葉に何度も頷いて、せめて三太郎さんたちの邪魔にならないように……ただそれだけを思ってその場で固まり続けます。

私に念を押してから離れた桃さんが浦さんの傍に付いた途端に、浦さんの領巾が今までで一番大きく切り裂かれ、不快な音が一気に大きくなりました。

「桃太郎、貴方の力をもう少し下げてくだい。
 大丈夫です、ある程度なら私の方で合わせますから!」

「すまねぇ、頼む!!」

金さんとは違って微妙な精霊力の放出が出来ない桃さんの補助では先程までと同じようにはいかないようで、浦さんが焦ったように声を上げました。ですがその言葉には何時もの揶揄するよう色はなく、むしろ桃さんに対する気遣いすら感じ取れます。それに対し桃さんも直球極まりない素直な言葉で応じました。

三太郎さん全員が、他の事に気を回すほどの余裕が一切無い。
それ程までに切羽詰まった状況です。


先程よりも酷くなった耳障りな音に顔をしかめつつも、金さんは小走りで母上の元へと向かいました。そして母上の上半身を左腕で抱き起こすと、その額に右手の人差し指と中指の二本を当てます。ようやく見えた母上の顔はとても苦しそうで、呼吸も荒く意識が無いようでした。

「手荒になってしまうが緊急事態ゆえ許せ。
 目覚めよ!! そなたらの守護せし子の危急存亡のときぞ!!」

金さんが大声を出すと同時に、金さんの周りに浮かんでいた震鎮鉄しんちんてつの珠の幾つかが力を失ってポトポトと床へ落ちました。その落ちた震鎮鉄から浮かび上がった光がクルクルと宙を舞ったかと思うと、そのまま金さんの腕にそって移動して母上の額へと吸い込まれて行きます。

一拍後、母上の体がビクンッと大きく痙攣して思わず駆け寄りそうになりますが、手をグッと握り込み、歯を食いしばって駆け寄りたい衝動を必死に堪えます。握り込んだ掌に自分の爪が食い込んで凄く痛いのですが、その痛みが無ければ自制できそうにありません。

不安に苛まれながらも母上を見守っていたら、その母上からふわんっと二つの珠が浮かび上がりました。一つは浦さんよりも小さくて、色も薄めの水の玉。もう一つは珠というよりは三方二十面体のようにトンガリがある形状で、色も金色というよりは茶色に近い色をしています。

「目覚めたばかりだが、責務を果たせ。
 そなた達も沙羅の中で感じていたであろう、今すぐに動け!!」

「は、はい。承知致しました」

「わ……私は、土の精霊に指図を受ける覚えは……」

「そういう事は後に致せ!!!」

素直に応じる土の精霊とは違い、反抗的な態度をとる水の精霊にそう言い切ると、金さんは小さな水の玉を鷲掴みにして浦さんの方へと放り投げました。浦さんはそれを見ないままキャッチします。

「貴方には私の補助をしてもらいます。
 今ここで呪詛を防ぎきらなければ、貴方が守護する沙羅も無事では済みません。
 良いですね!!」

珍しく圧をかけて相手に反論の余地を与えない浦さんは、金さんと同じように自分の周りに浮いていた深棲璃瑠みすりるに溜め込んでいた自分の精霊力を分け与えると、再び呪詛を防ぐ事に集中します。

そんな浦さんの補助に金さんと母上を守護する土の精霊が入り、桃さんは万が一に備えて待機しておいてくれという金さんの言葉に従って再び私の所へと戻ってきました。そして私のすぐ傍にまで来た桃さんは、私の手が真っ白になるまで握り込まれている事に気付くと、床に膝をついてそっと私を抱きしめ

「馬鹿だな。そんなに力いっぱい手を握りしめていたら、手が傷つくだろ?
 お前の家族はお前が怪我をする事を喜ぶと思うか??」

そう言いながら背中をぽんぽんと優しく叩いてきて、その行為に思わず目頭が熱くなってしまいます。

「だって……だって……、みんなが…………」

そこから先は言葉になりません。また、また、また1人にされてしまう……そう思うと怖くて仕方がないのです。

「大丈夫だ……。俺様達が付いているだろ?」

今までなら桃さんにそう言ってもらえれば安心できたのに、今日ばかりは安心感より不安の方が勝ってしまい頷くことができません。




そうやって家族を失う恐怖に、どれぐらいの時間晒されたのか……。
体感では物凄く長い時間でしたが、実際にはそんなに長くは無かったのかもしれません。大きく息を吐く音に続いて浦さんの声が聞こえてきました。

「どうやら、波はやり過ごせたようです」

言われてみれば確かに先程まで聞こえていた耳障りな音が聞こえなくなっています。

「母上!!」

その事実に気付くと同時に、私は母上に向かって駆け寄り顔を覗き込みました。すっかり良くなっている事を期待していたのですが、そう上手くはいかず……。母上に触れた手には驚くほどの熱が伝わり、呼吸も顔色も何もかもが何時もの母上と違いすぎました。

倒れているみんなを順に確認すれば、全員が母上と同じような状態でした。母上に比べると体力のある叔父上や兄上が若干マシではありましたが、みんな高熱に魘され呼吸も荒く意識がありません。例外的に症状が軽かったのは山吹で、一応意識があり会話も辛そうではありますが可能でした。それでも自力で立ち上がろうとすると、ふらついて倒れてしまう程の熱を出しています。早くみんなを休ませなくてはと思うのに、身体が小さくて非力な私では兄上すら運ぶことが出来ません。なのでそれらを全て三太郎さんに任せて、私はタライに水を張ると外から雪を取ってきて水に混ぜて冷水を作り、それを使って水枕を作る事にしました。

何時もは常に三太郎さんの誰かが傍にいてくれるのですが、今は緊急時なのでそれぞれが何かしらの役目をもって拠点中で力を尽くしてくれていて傍に居ません。そんな訳で珍しく一人っきりなったのですが、そうなった途端に零れ落ちるのは弱音でした。

「呪詛って……呪詛ってなんなのよ……。
 どうして母上たちが恨まれるの? 何か悪い事したの??」

そんな事を呟きながらも溶けきらない程の量の雪を水に放り込むと、指どころか手全体が真っ赤になってしまう程に冷たい水を水枕に注いでは口を閉じていきます。ただ水枕を普段から使うのは私ぐらいなので数がそれ程多くなく、急遽水袋などで代用する事にしました。




全員に水枕を行き渡らせて額にも濡れた布を置いて、更には全部屋にスポドリを用意しました。お粥などの病人でも食べやすい食事もどうにか準備ができ、いつでも温め直すだけで食べられるようにしてあります。その間にも何度か耳障りな音が私達を襲ってきましたが、浦さんと金さんの手により守りの力が強化されていたので、耳を塞ぎたくなる以外には特に大きな変化は起こりませんでした。

ただ……

「このままでは埒が明かぬ。大元を叩いて呪詛の発動を止めねば、
 いくらこの10年で力が増強された我らといえど長くはもたぬ」

と金さんが渋い顔で言うように、此方から何かしら手を打たない限り現状打破は難しいようでした。常に守りの力を展開し続ける金さんと浦さんは他の事に手が回せず、そうなるといずれ水や衛生の確保、食料の維持すらままならなくなってしまいます。

「でも、浦さんと金さんが守りを解いたら、母上たちが……」

大元を叩く、それはつまり此処を出て呪詛を発動させている人を見付け、止めさせるなり倒すなりするという事です。当然その間、ここは無防備となってしまいます。そんな不安に顔を曇らせながら、私は桃さんの方を見ました。

私がまだよちよち歩きだった頃、桃さんが私に強く言い聞かせた事がありました。金さんや浦さんが居ない隙に、内緒話をするかのように

「もし、お前や家族に何かあった時。そんな時は真っ先に俺様に相談しろ。
 金や浦はお前を最優先にする。それは俺様も変らない。
 だが、あいつらは「お前のかすり傷」と「家族の命」という天秤ですら
 お前の方に傾く。でも、それじゃぁお前はツライだけだろ?
 俺様なら少なくともお前がかすり傷で済むのなら、家族の命も守ってやる。
 だから何かあったら真っ先に俺様に言え」

と、私に言うのです。その時は何故そんな事を言うのかと思ったのですが、精霊にとって守護する人間とそうでない人間には明確な差があり、家族と言えど守るという事はしないのだそうです。それは別の精霊の役目なので……。

だから桃さんのように、家族だからついでに守ってやるというような事を言う精霊は稀有どころか桃さん自身も他に知らないらしく、絶対に金さんや浦さんには言うなと釘を刺された覚えがあります。

ただ、今回のような状況だと桃さんに出来る事は本当に限られていて、私の視線を受けた桃さんは唸りながら黙り込んでしまいました。

「大丈夫ですよ、それに関してはちゃんと考えてあります。
 沙羅の守護精霊の二柱に、私と金太郎の代わりを務めてもらえば良いのです」

だからこそ私も桃さんも、浦さんが迷いなく言った返答に驚いてしまいました。出会ったばかりの頃の浦さんならこういう手段をとる事は無かったはずで、浦さんと私達の間に積み上がった10年分の絆が浦さんにこういう結論を出させたのだと思うと感慨深いものがあります。それは桃さんも同様だったようで、こっそりと私宛に心話で<良かったな>と送ってきた程でした。

私達と同様に驚き、そして私達とは別の感情を持ったのは、話の輪に入らずに部屋の隅でぷかぷかと浮かんでいた母上の精霊たちでした。

「私達ではとても浄水の先達せんだつのようにはいきません。
 どうかこのまま御力をお貸しください」

そう言いながら転がり出るようにして私達の輪の中に水の玉が入ってきます。そんな水の精霊に対し、

「本来であれば、私達が沙羅を守る理由も必要も無い事は解っていますよね?」

「そ……それは、そうなのですが……私達も目覚めたばかりで……」

浦さんがピシャリと叱りつけるように言えば、母上の守護精霊は決まりが悪そうに口ごもります。

目覚めたばかりの母上の精霊が本調子でない事は確かですが、それ以上に三太郎さんに比べると精霊力が弱い事や第4世代だという理由で腰が引けまくっているようでした。

「…………3日だ。
 3日でそなた達に守りの技を教え込む」

それまで目を瞑り腕を組んで無言を貫いていた金さんが、ゆっくりと目を開けるとそう言い切りました。そして水の精霊と同じく、腰が引けている三方二十面体の土の精霊にも言い聞かせるようにじっと見つめて話しかけます。

「今回の呪詛は水の精霊力によるものだ。
 なので水の精霊の力は不可欠で、それを補助する為の別種の力が居る。
 その役目をそなたがするのだ。沙羅を守りたくば反論は許さん」

「ですが、俺は先達のような力は無く……」

反論は許さないと言われても言わずにいられなかったようで、三方二十面体さんは食い下がります。そんな二柱のやりとりを他所に、浦さんが私の前に来たと思ったら屈んで視線を私に合わせてから

「櫻、貴女はその間にみなの看病を、特に山吹の看病を頼みます。
 彼が一番、呪詛の影響が低いようです。なので山吹の熱さえ下がれば、
 私達が留守の間の沙羅や槐たちの世話を頼むことが出来ます。
 看病は大変でしょうが出来ますか?」

と私を気遣いつつも、母上たちの看病を頼んできました。そんな事は言われるまでも無く、私に出来る事なら何でもしたいという気持ちでいっぱいです。

「うん、出来る。むしろ私にやらせて欲しい。」

何も出来なかった先程とは違い、今は私にも出来る事がある。そんな普通の事がこんなにも救いになるなんて、私は初めて知ったのでした。
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