未来樹 -Mirage-

詠月初香

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2章

11歳 -水の陽月4-

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思わず肩をビクッと竦めてしまう程の厳しい誰何の声に驚きはしたものの、同時にそんなに力強い声が聞こえた事に少し安堵しました。なにせ母上や叔父上たちはあの日以来意識が無く、ここ数日は三太郎さんと山吹以外の声をまともに聞けていないのです。

ところがその直後、ドサッという音と同時にガタガタンッ!と何かが床に落ちたような音が辺りに響きました。明らかに部屋の中で異常事態が起こっている様子に、一気に血の気が引いてしまいます。

茴香ういきょう殿下、櫻です。入りますね」

礼儀作法としては不合格間違いなしですが、そんな事を気にしている余裕はありません。私は慌てて濡れ縁を小走りで移動して中に入る為の妻戸つまどを探しますが、ようやく見つけた妻戸がどれだけ力を込めても動いてくれません。

「開かないぃ!!」

質実剛健を信条とするヤマト国の建物は、寝殿造と似ていながら装飾が少なく簡素な造りで、どちらかといえば武家造と呼ぶ方が近い建物です。特に茴香殿下がアスカ村で暮らしている邸は、殿下の実用性重視の性格や情報の漏洩を防ぐ意図もあって、蔀戸しとみどの数を減らして壁を作り、武家造と私の知る前世の和風建築の間のような建物になっています。

その数少ない部屋の入口の妻戸がしっかりと戸締りされていた事に、茴香殿下の几帳面さを褒めるべきか、こんな時にぃ!と苛立てば良いのか混乱してしまいますが、ともかく中に入らないといけない事に変わりはありません。

妻戸から入れないのならば、思いつく手段は1つだけ。礼儀作法の不合格ついでとばかりに蔀戸しとみどを順にチェックして、唯一開ける事が出来た蔀戸を浦さんに持ち上げてもらい、金さんに手伝ってもらって蔀戸を乗り越えて中に入りました。前世風に言えば部屋のドアが閉まっていたから窓枠乗り越えて室内に入ったというようなもので、礼儀以前に常識知らずな行動ではありますが背に腹は代えられません。

「殿下、櫻です!! 大丈夫ですか!」

いつも几帳面な殿下なのに、部屋のあちこちに書簡の山や脱ぎ散らかしたと思われる服の山が出来ていて唖然としてしまいました。それらを踏まないように跨ぎながら御帳台へと近づき、成人男性の寝所を覗いてしまう事に一瞬躊躇いつつも几帳をめくります。ですがそこに殿下の姿は無く……。

と、部屋にある山の一つが微かに動いたかと思ったら、呻き声を上げながらゴロンと雪崩落ちてきて、驚いてそちらへ振り返りました。殆どの蔀戸が閉じられている所為で部屋の中が薄暗くて気付かなかったのですが、どうやら人が居たようです。

「さ……櫻……じょ……」

その転げ落ちてきた人は当然といえば当然なのですが、部屋の主である茴香殿下でした。ただピシッと身だしなみを常に整えていた殿下しか知らない私にとって、無精髭が生えて髪も結われておらず、乱れている上に汗で張り付いた寝間着姿でぐったりとしている殿下は「誰?!」と思わず聞き返したくなる程に別人でした。

「うい……きょう殿下??
 茴香殿下?! 大丈夫ですか!!」

思わず疑問形で呼びかけてからハッとして、慌てて駆け寄って助け起こします。

……正確には助け起こそうとしたのですが、重たすぎて起こす事ができず。当然ながら私の腕力では殿下を御帳台に運ぶ事もできません。

「金さん、お願い。茴香殿下を御帳台へ寝かせて」

そう言いながら私は金さんが持って来ていた大きな背負い籠の中から柚子シロップと塩と水を取り出しました。呪詛の大元を探すのだから長旅になる可能性があります。なので食料等を当然持参しているのですが、色々な事態を想定して多めに持って来ていたのです。勿論多めとはいっても籠に入る程度ではありますが。

そうして取り出したモノを同じく持参したマグカップに一定の比率で入れて、スプーンでよくかき混ぜます。お風呂上りや汗をかいた後なら冷やした方が美味しく飲めると思うのですが、今の茴香殿下に冷たすぎるモノは逆に害になりそうなので常温のスポドリで我慢してもらいます。

「茴香殿下、少しずつ……飲めますか?」

最初はカップを手渡そうと思ったのですが、殿下の状態があまり良くなく。家族にもそうしていたように、殿下にもスプーンで少しずつスポドリを掬って口へ運びました。

そうしてマグカップ2杯のスポドリを殿下が飲み終えた頃、ようやく殿下も落ち着いてきたようで、

「櫻嬢、ありがとう。心よりの感謝を……。
 そしてすまないが、そのスポドリの材料を分けてもらえないだろうか?
 アスカ村の住人やこの邸や研究所の者にも飲ませてやりたいのだ」

何とか上半身を起こした茴香殿下はそう言って頭を下げました。私としても分けたい気持ちはあるのですが、アスカ村の全住人や殿下の配下の方々全員に満足してもらえるだけの量は持って来ていません。

「そうしたいのは山々なんだけど……」

普段ならもっと気を付ける口調に全く気を配れない程、スポドリに意識を集中させます。ひねり出せ、絞り出せとウンウンと唸りながら考えた結果、この際 味は二の次でも仕方ないんじゃない?という結論へと辿り着きました。

「殿下、塩と砂糖の備蓄はありますか?」

「塩と砂糖? それならどちらも備蓄があったはずだが……」

「なら、それを……場合によっては全部使っても良いですか?」

「全部?!
 あっ、いや櫻嬢が無駄遣いするとは思っていないが……。
 ヒノモト国でしか作れず、値崩れを殆どしない砂糖は一種の資産なんだ。
 この村に何かがあった時の為に……って今がその時なのか」

どうやら砂糖は使う為の備蓄というよりは、いざという時に換金する為の備蓄のようです。科学の発展した前世でも、農業や水産業は自然によって大打撃を受ける事がありました。科学どころか肥料すらろくに研究されていないこの世界では、ちょっとした日照りや長雨が深刻な飢饉に繋がります。

そんな時に出荷量がコントロールされていて値崩れしにくい砂糖を売って、必要な物資を買うんだそうで……。その為に常に備蓄している砂糖の8~9割が手つかずで保管されているのだとか。1~2割は殿下たちの口に入る事になるのですが、それも少し使っては新しいものを補充して、常に(買い取ってもらえる程度には)新しい物を備蓄する工夫なのだそうです。前世の上白糖と違い、この世界の砂糖は黒糖に近い為、上白糖ほど長期保存が出来ませんから。

熱で少し思考力が落ちていた茴香殿下でしたが、今がまさにである事に気付いて許可を出してくれました。

「私も行こう。今、この邸で動く事が出来るのは私ぐらいだ。
 それに櫻嬢一人だと色々と危険だからな」

山吹と同じで、今の殿下も寝ていてほしいぐらいの体調なのですが、私1人が厨に行って「砂糖と塩と水をください」と言ったところで不審者でしかなく。しかもその不審者が作った「しょっぱい甘い水」なんて誰も飲んでくれません。

対外的な信用度が0に等しい子供の私と、一国の王太子の息子の茴香殿下。
どちらの言葉の方が信頼されるかなんて、考えるまでもありません。




その後。何とか邸の人たち全員にスポドリ……と呼ぶには美味しくない、塩糖水を配り終えました。殿下がいなければ飲んでもらうどころか、見つかった時点で不審者として取り押さえられていたかもしれません。

早々に忍冬すいかずらさんを復活させられたのも幸いでした。何せ金さんも浦さんも「不特定多数の前に姿を現すつもりはない」と言って私の中に戻ってしまっていて、大量の塩糖水を作って配り歩くのは本当に大変だったのです。

しかし驚くべきは殿下を含めたこの世界の人々の回復力と体力です。

勿論、塩糖水を飲んだからといって完全回復している訳ではありません。ふらふらながらもとりあえず動けるようになったという程度です。ですが、先程まで寝込んでいた人がゆっくりとでも動けるようになる回復力や体力には驚いてしまいます。少なくとも私には無理です。


そうやって邸の人々の水分補給を行ったら、次は村の人たちです。まだ回復しきっていない邸の人たちにお願いするのは心苦しいのですが、塩糖水の作り方を教えて村の方は彼らにお願いしました。

それと同時に村の人たちにはアスカ村にある神社かむやしろに集まってもらう事にしました。これは金さんからの指示で、伝染性の病気なら絶対にやってはダメな手段ですが今回は呪詛である事、村人が全員集まっていた方が看護がしやすい事、神社なら呪詛に抗う力がある可能性がある事などを説明して、殿下に指示を出してもらいました。普段からどれぐらい信仰を集めているかによって神域の強度が変るらしいのですが、少なくとも普通の民家よりは呪詛を弱める事が出来るはずです。

幸いな事に茴香殿下が来た事でアスカ村の神社もかなり拡張されていて、礼拝するスペースは大きくなり、村の集会や様々な事に使える大小幾つもの個室も作られました。以前の小さなお社があるだけの頃に比べると、人が寝泊まりしても大丈夫な造りになっています。

夕方になると再び呪詛が発動する恐れがあり、その前に自分で移動できる人は自力で、そうでない人は助け合って神社に集まってもらいました。この3日間で村人たちも「夕方から夜にかけて一気に体調が悪化する」と気付いていたようで、夕方までに神社に来てほしいという指示には抵抗なく従ってくれました。更には動けるうちに動けとばかりに塩糖水の材料やお米も持ち込んで、邸の人も村の人も神職の人も関係なく、動ける人が交代で看病する体制を領主殿下の指示という形で進めてもらいます。




その間に私と殿下と忍冬さんは神社の一番奥にある個室へと移動しました。

「流行り病ではなく呪詛だとの事、
 金太郎様や浦島太郎様が仰られるのなら間違いないのでしょうが……。
 正直な所、産まれたばかりの赤子から年寄に至るまで、
 無差別にアスカ村を呪うような者に心当たりがなく……」

ここまでの移動でぐったりとしている殿下ですが、先程「喉を通らない」と渋るところを頑張って食べたお粥のおかげで、少し辛そうではありますが会話をする事に問題はなさそうです。

「この呪詛はアスカ村を狙ったものではありませんよ。
 大陸中全方位に向けて無差別の呪詛ですから、
 ここだけでなく全ての国で大なり小なり呪詛による問題が発生しているかと」

3人になった途端に現れた金さんと浦さんに、忍冬さんは目を見開いて驚いてしまいますが、殿下は流石に慣れたのかそれとも驚く気力も無かったのか黙って座りました。ただ浦さんの言葉は衝撃だったようで、殿下の顔色がどんどんと悪くなっていきます。そしてとうとうアスカ村だけでなく全ての場所で呪詛による被害が生じていると聞いて、急に立ち上がりました。途端にふらついてしまいますが歯を食いしばって耐えると、忍冬さんに指示を出して竹簡と墨を用意させ、さらさらと筆を走らせると忍冬さんへ渡します。

「呪詛の事、櫻嬢が教えてくれた塩糖水の事、大陸中に広まっている可能性。
 それらを王都や蒔蘿にも早急に知らせる必要がある。飛ばしてくれ」

「ハッ!」

殿下も忍冬さんも気力だけで動いているような状態ですが、それでも被害を少しでも抑える為に休むつもりは無いようです。書簡を持った忍冬さんは殿下の邸で飼っている鳥を使って王都とサホ町と連絡を取る為に、一礼をした後部屋を出ていきました。

鳥を使った書簡のやり取りは情報漏洩の心配があるために、あまり盛んには行われていないそうなのですが、茴香殿下と蒔蘿殿下は精霊語日本語を使う事でそれを防いでいて、おかげでサホ町とアスカ村間は頻繁に伝書鳥が行き来しているようです。ただ今回は伝達速度を重視した結果の選択で、精霊語ではなくこの世界の言葉で王都にも送ったようですが。


忍冬さんが立ち去った事をしっかりと確認して、更に少し間を置いた金さんは

「この呪詛の標的は碧宮家の者たち……その中でも特に沙羅と槐、櫻だ。
 そなたらはその余波を喰らったにすぎぬ」

と切り出しました。殿下たちや村の人、そして大陸中で今苦しんでいると思われる人たちは、全てとばっちりを喰らっているという事です。

「な?! 姫沙羅様たちのご容態は?!」

「今のところば無事だ。だが何時まで持つかは解らぬ」

無情すぎる金さんの返答に、気力だけで動いていた茴香殿下が力なく崩れ落ちてしまいました。それを冷静に見つめる金さんですが、その腕には直径30cm程の鏡が抱えられています。これはこの神社のご神体で、茴香殿下が神職の方に無理を言って借りた物です。

「王家の秘術で土の精霊力を籠めるから、ご神体を一時貸してほしい。
 ただし、決して覗いてはならない」

と、まるで昔ばなしのような注意をして借りたもので、今現在金さんが持ち続ける事で精霊力を少しでも籠められればと抱え込んでもらっています。アスカ村だけを特別扱いするのは他の町村に申し訳ないとは思いますが、手の届く範囲だけでもどうにかしたくて金さんにお願いしました。


「そしてこれは櫻にも初めて伝えますが、呪詛は天都あまつから放たれています。
 全方位に加えて無差別とあまり精度の良い呪詛ではありませんが、
 力だけはとても強く、このままでは大きな被害を産むことになるでしょう」

浦さんによって知らない情報をいきなり投下されて驚いてしまいましたが、呪詛の大元が天都だという事が解っているのなら、大陸中から探し出すよりもずっと早く見つけられそうで少し安心しました。

「だから今から私は呪詛を止めに行くの。
 母上や兄上、叔父上を助けたいから」

「だが櫻嬢、君はここに残った方が……」

「その場合、金さんや浦さんもここに残る事になるから……」

私の決意に水を差したい訳ではないのでしょうが、茴香殿下は心配そうな表情で私を引き留めました。まぁ確かに、私が行って何が出来るのかと言われたら、金さんや浦さんにお願いする事が出来るとしか言えないのですが。

「しかし……。いや、解った。
 ちょっと待ってくれ。これを持って行ってくれ」

私の返答にそれでも逡巡する様子を見せた殿下でしたが、ギュッと目を瞑ってから再び目を開けた時、殿下の眼差しは覚悟を決めたものになっていました。そして自分の首の後ろへと手を回すと、どうやら首から下げていたらしい飾りを外して私に手渡します。

それは六角形の金の板に紐が通されていて、表には句珠くしゅと呼ばれる勾玉とよく似た形状の黄翡翠が、裏面には様々な文字が刻まれたモノでした。

「これは?」

「ヤマト王家の意を受けた者や、王家が保護している者という証だ。
 これを持っていればヤマト国は元より、天都でも無下に扱われる事はない。
 また黄金宮家の保護も受けられる。万が一の場合は黄金宮家に逃げ込んでくれ」

「ありがとうございます」

「いや、この程度の力しか貸してやれなくてすまない……」

殿下の表情には心配の色しかなく、出来る事なら今でも引き留めたいと目が語っていました。ですがこの異常事態を解決できる可能性があるのが私達だけである事も理解していて、その上で自分に出来る援助をしてくれたようでした。

「一刻も早く呪詛を止めるために私達はもう出立しますが、
 あなた達は水の極日が終わるまではここに居てください。
 それまでに戻ってくることが出来れば良いのですが……」

「水の極日ですか?」

「えぇ、水の極日までに呪詛を破らねば……。
 その意味は言わずとも解るでしょう?」

水の呪詛は水の精霊力が人の身体から消えて行き、高熱・嘔吐・下痢といった水分が身体から無くなるような症状を出すのだそうです。水の陽月の時点でも日常生活がままならないのに、極日になってしまえば今までギリギリ耐えていた人たちだって耐えられなくなってしまう訳で……。

「本来ならば櫻嬢だけを守れば良い金太郎様や浦島太郎様が、
 こうして動いて下さる事に感謝しかありません。
 どうか……どうか…………宜しくお願い申し上げます」

それ以上は言葉にならないようで、殿下は額を床にこすりつけるようにして三太郎さんに頭を下げたのでした。
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