21 / 47
第三夜
三たびの静寂
しおりを挟む
真夜中 23:30
ようやくのことで開いた扉は、秘密の中庭に続いている。シュゼット嬢が散ることを惜しんでいた、バラの花園がある庭園が。
転がるように外に出ると、激しい風雨に服や髪がはためく。叩きつける雨粒に一瞬息が止まる。風に煽られて、赤い花びらが舞い飛び手の中のランプがカラカラと音を立てた。雨風に抵抗するため壁伝いに背中をつけて扉から離れ、叩きつける雨に耐えながら先に進む。
「逃がさない…」
びくり、と肩が慄いた。背後で聞こえる、くぐもった声。雨音にも風の音にもかき消されず、その声は俺に届いた。
ゆっくりと目を上げて。その先に。ずぶ濡れの白い影は、壁沿いに俺を追い詰める形で迫って来ていた! 気まぐれに姿を現した月に照らされ、夜目にも鮮やかな長い髪を振り乱し、俺を捕らえようと手を伸ばしてくる! 男か女か、掠れてしわがれた声ではわからない。だが、ここにいるのは俺と執事さんと…後はただ一人しかいないじゃないか!
まさか…まさか…!
闇に浮かぶ、鮮やかな金髪。それは、間違いなく…。
「シュゼット…嬢…?」
今まで俺が見てきた彼女は、儚げで…無邪気な…。それがどうして、こんなボロボロの亡霊に成り果てて…?
一体、何が起きたというんだ? 何が起きたらここまで変わり果ててしまうのか?
伸ばされた手に目を向けて、俺は胸を突かれた。
全ての指先から、有るはずのものが失われていた。未だ流れる血は、苦痛が続いていることを示すかのよう。
そうだ、異端審問は…あらゆる拷問を受けるものだったはず…。身体中に針を刺され、無理やり大量の水を飲まされ沈められて爪を剥がされ…。彼女は死の間際、地獄以上の苦しみを味わったに違いない。どんなに辛かったか、苦しかったか想像を絶するものだろう。その挙句の死は、どんな絶望を伴っていたのだろう…!
「逃がさない…」
…しまった…! それは、致命的な隙に繋がった。
瞬間、俺の脇腹を見えない灼熱が切り裂く。
背にした壁もろともに深い傷を刻み、血煙が風に煽られて広がる。
「…か…はッ…!」
壁にもたれかかり、衝撃に耐える。どうやって斬られたのかはわからない。彼女の手には武器はなく爪すらないのだ。決して浅い傷ではないが、致命傷にはまだ遠い。とにかくここから離れなくては…第二撃から逃げなくては!
「もっと咲かせて…紅い花…」
ぞくり。
笑っている…嗤っている。
乱れた髪の間から、ちらりと覗く狂気じみた笑み。
彼女がゆっくりと手を伸ばしてくる。後退って避けるが、身体が思うように動かない。無視できない激痛と脇腹からの失血が、体を蝕む。
寒い…寒い。恐怖だけではない体の震えが止まらない。
「咲かせて…」
再び、見えない力が壁を穿つ。今度はなんとか直撃は避けられた。だが次は避けられないだろう。
容赦なく叩きつけてくる風雨で、体温は確実に奪われて行く…。
震える体に鞭打ち、気力を振り絞ると彼女から距離を取る。
そうだ、霊廟に…霊廟に逃げ込もう…。
この中庭にあるはず。どこに…?
暗闇に目を凝らしたその時…ふらつく足が、空を踏んだ。
「うわあああ!」
突然落ちた半地下の階段は、石造り独特のひんやりとした静謐を湛えていた。
もしかしたらここが、件の霊廟なのだろうか? 熱い傷を抑えつつ、幸い壊れていなかったランプのシャッターを再び開けて辺りを見回す。点々と赤い雫を垂らしながらようやく段を踏み、一番下に扉を見つけたのですぐ閉めて閉じこもる。これで…少しは時間を稼げる…。
壁に背中を預けて息を吐いたとき、閉じた扉の裏に何か書かれていることに気づいた。
『絶望は、本当の死を引き寄せる』
…これは…。
思い当たることはある。
前回、確かに俺は絶望しかけた。オルゴールの部品が揃わないことに。シュゼット嬢の想いを繋げないことに。その時は急に、立っていられないくらいに身体が重くなった。そしてじわりと息が苦しくなり…。あの時ティアラの写真がなければ、今頃どうなっていただろうか?
俺はそっと、その言葉のそばに赤い文字を書き加えた。苦痛に満ちた最期を具現化したような姿。ただの恐ろしい亡霊として片付けられるには、あまりに哀れではないか…。
『シュゼット嬢に、罪はない』
誰かがこれを見つけるだろうか? たとえ俺にこの先何かあっても、他の誰かが。せめて彼女のことを
理解してほしい。その一念で、勝手に体が動いた。
それから。俺は痛みに耐え脇腹を抑えながら、ふらつく足でさらに奥に…ランプの明かりを頼りに少しずつ進み続けた。棺が並ぶ霊廟の通路は整然としており、死者への深い敬意が見て取れた。執事さんはいい仕事をしている。
少しずつ赤い雫が床に落ちることに罪悪感を覚えたが、それでも歩みは止めなかった。力が入らなくなってきた足にぼやけ始める視界。失血が進んできたらしい。いよいよ『終わり』が近づいてきているということか…?
その時ふらりと寄りかかった壁際の棺に、見覚えのある名前を見つけた。
『明朗なる駒 オリバー・ワイルド、ここに眠る』
「…オリ…バー…?」
まさか、しばらく前に姿をくらませた…?
棺にすがりつくようにして俺はその文字を確かめる。確かに『オリバー・ワイルド』とある。
行方不明になった、同僚の名前だ。
「そんな…!」
彼も、ここに来ていたのか? そして…。
なんということだろう、それに何故こんな所で…?
そうだ、執事さんも言っていたじゃないか。『ここには、ご先祖様方と『大勢の方々』を祀っております』と。確かに間違いではなかった。今までにここに来た多くの『駒』達もここに眠っていたということだ。
執事さんは『嘘をつけない』のだから…!
そこで気力も尽きたようだ。足から一気に力が抜け、その場にへたり込む。なんとか壁際に背をつけて荒く息をつく俺の脳裏には、快活な笑みで同僚に声をかけて回る元気な姿が蘇った。俺自身も随分と世話になっている。それが何故こんな事に?
脇腹からの出血は止まらない。いつしか床に小さな流れが出来、傾斜に沿って赤い線が伸びて行く。失血に加え外で雨にさらされたことで、確実に体温が奪われていた。寒い…寒い…。
もう、これ以上動けそうになかった。
「お知り合いのお方がいらしたのですか?」
いつまで、そうしていたのだろう? 気づけばそばに、執事さんが短剣を手に現れていた。
「…オリバー・ワイルド…この名を…覚えているか?」
息が浅くなりつつある俺の問いに、彼は目を閉じ深く頷いた。
「よく存じております。彼だけではなく、ここにおられる全てのお方を。オリバー様は賢明なお方であり、如何なる時も気丈で明朗な振舞いをなさいました」
「彼も…殺したのか?」
俺の言葉には、全く感情が込められなかった。ただ、空虚な想いだけがそこにある。
身近な人の死…それも、おそらく今は俺しか知らないであろう死を。認めたくなかっただけかもしれない。
「ええ。私の…この手で」
「…これからも、多くの命を…手にかけるのか…?」
「貴方で…最後になることを祈るばかりです」
一歩。近づいてくる足音。
「ご覧になられたのですね…?」
無言で俺は頷く。何を、などという無粋な質問は無用だった。
「あれが…幾度も訪問者たちを殺し続けた理由か? 彼女を…救うために…?」
「…勘の鋭い方ですね…」
この屋敷では、延々と同じ一日が繰り返されていた。何をきっかけにそうなったのか…あの姿になった彼女を見て、なんとなく俺は気づいた気がする。
「訪問者…いや、この場合は…『駒』と言うべきか? その死をもって、時が戻っていた…?」
日付が変わるたびごとに、あの哀れな亡霊の姿になるシュゼット嬢。
それに伴って惨たらしい死に方の記憶も蘇り、壊れてしまったとしたら。
そしてかりそめであっても、元の穏やかな一日を取り戻すためには…。
俺の…『駒』の命と引き換えにする他なかった…?
だから執事さんは、泣く泣く俺を手にかけていた…。そういうことだと悟った。
『日付が変わった以上…速やかに貴方を亡き者にしなければ、お嬢様に仇なすことになる』
確かに、その言葉に間違いはなかったのだ。
「その答えにたどり着いた方は、貴方が二人目でございますよ…カシアン様」
彼は明確に答えない。何よりそれが、肯定の意思を表していた。
壁を背にもたれかかったまま、静かに赤い流れは続いている。暗くなりつつある視界に、死神の歩みは止まらない。近づきつつある終焉に少しでも抗おうと俺は言葉を綴る。
「…苦しむことなく…短剣で即死するように計らっていたのも…貴方の温情だった」
「買いかぶりですよ」
「さりげなく…小さな手掛かりを与えていたのは、俺に…苦痛を与えないため…」
「…同時にお嬢様も苦しむことになるからです。ただ…お嬢様を庇っていただいて、ありがとうございます…」
いつのまにか、執事さんの頰には光るものが流れていた。庇う…ああ、さっき扉の裏に書いた言葉のことか…。
「最後に。何処かに…この事象を見ている何者かが…居るんですか?」
誰かが、執事さんのこの様子を見続けている。もしくは見張っている。そういう存在がいるということで、彼の行動は説明できる。『第三者』によって、ここの繰り返しは管理されている。だとしたら…執事さんの望みは、ここからの解放ということになるのではないか?
その質問に彼は答えない。静かに抜き放たれる、『慈悲の短剣』。
こんな時でも美しい刀身だと感じてしまうのは、おかしいだろうか? これから俺の生命を刈り取る凶器だとしても、血に塗れることを惜しいと感じてしまうのは…学者の端くれとしての性だろうか?
「理由を知っても…多分、俺は…抵抗し続ける…。待っている…人がいるので…」
「…構いません。それこそが、生きる意思ですから…」
指先の感覚は、すでにない。脇腹の痛みすらも遠いものとなっている。それでも、俺は抵抗を諦めるわけにはいかなかった。たとえそれが、無駄な意志であろうとも…!
彼は俺のそばに膝をついて、祈るように頭を垂れる。切っ先は計ったようにたがわず、心臓の位置に当てられていた。
「申し訳ありません…おやすみなさい…!」
その言葉が終わらぬうちに深く、深く突き込まれる短剣。
ああ…これは、彼が持ってこその、『慈悲の短剣』だったんだな…。
そして、三たびの静寂が訪れた。
ようやくのことで開いた扉は、秘密の中庭に続いている。シュゼット嬢が散ることを惜しんでいた、バラの花園がある庭園が。
転がるように外に出ると、激しい風雨に服や髪がはためく。叩きつける雨粒に一瞬息が止まる。風に煽られて、赤い花びらが舞い飛び手の中のランプがカラカラと音を立てた。雨風に抵抗するため壁伝いに背中をつけて扉から離れ、叩きつける雨に耐えながら先に進む。
「逃がさない…」
びくり、と肩が慄いた。背後で聞こえる、くぐもった声。雨音にも風の音にもかき消されず、その声は俺に届いた。
ゆっくりと目を上げて。その先に。ずぶ濡れの白い影は、壁沿いに俺を追い詰める形で迫って来ていた! 気まぐれに姿を現した月に照らされ、夜目にも鮮やかな長い髪を振り乱し、俺を捕らえようと手を伸ばしてくる! 男か女か、掠れてしわがれた声ではわからない。だが、ここにいるのは俺と執事さんと…後はただ一人しかいないじゃないか!
まさか…まさか…!
闇に浮かぶ、鮮やかな金髪。それは、間違いなく…。
「シュゼット…嬢…?」
今まで俺が見てきた彼女は、儚げで…無邪気な…。それがどうして、こんなボロボロの亡霊に成り果てて…?
一体、何が起きたというんだ? 何が起きたらここまで変わり果ててしまうのか?
伸ばされた手に目を向けて、俺は胸を突かれた。
全ての指先から、有るはずのものが失われていた。未だ流れる血は、苦痛が続いていることを示すかのよう。
そうだ、異端審問は…あらゆる拷問を受けるものだったはず…。身体中に針を刺され、無理やり大量の水を飲まされ沈められて爪を剥がされ…。彼女は死の間際、地獄以上の苦しみを味わったに違いない。どんなに辛かったか、苦しかったか想像を絶するものだろう。その挙句の死は、どんな絶望を伴っていたのだろう…!
「逃がさない…」
…しまった…! それは、致命的な隙に繋がった。
瞬間、俺の脇腹を見えない灼熱が切り裂く。
背にした壁もろともに深い傷を刻み、血煙が風に煽られて広がる。
「…か…はッ…!」
壁にもたれかかり、衝撃に耐える。どうやって斬られたのかはわからない。彼女の手には武器はなく爪すらないのだ。決して浅い傷ではないが、致命傷にはまだ遠い。とにかくここから離れなくては…第二撃から逃げなくては!
「もっと咲かせて…紅い花…」
ぞくり。
笑っている…嗤っている。
乱れた髪の間から、ちらりと覗く狂気じみた笑み。
彼女がゆっくりと手を伸ばしてくる。後退って避けるが、身体が思うように動かない。無視できない激痛と脇腹からの失血が、体を蝕む。
寒い…寒い。恐怖だけではない体の震えが止まらない。
「咲かせて…」
再び、見えない力が壁を穿つ。今度はなんとか直撃は避けられた。だが次は避けられないだろう。
容赦なく叩きつけてくる風雨で、体温は確実に奪われて行く…。
震える体に鞭打ち、気力を振り絞ると彼女から距離を取る。
そうだ、霊廟に…霊廟に逃げ込もう…。
この中庭にあるはず。どこに…?
暗闇に目を凝らしたその時…ふらつく足が、空を踏んだ。
「うわあああ!」
突然落ちた半地下の階段は、石造り独特のひんやりとした静謐を湛えていた。
もしかしたらここが、件の霊廟なのだろうか? 熱い傷を抑えつつ、幸い壊れていなかったランプのシャッターを再び開けて辺りを見回す。点々と赤い雫を垂らしながらようやく段を踏み、一番下に扉を見つけたのですぐ閉めて閉じこもる。これで…少しは時間を稼げる…。
壁に背中を預けて息を吐いたとき、閉じた扉の裏に何か書かれていることに気づいた。
『絶望は、本当の死を引き寄せる』
…これは…。
思い当たることはある。
前回、確かに俺は絶望しかけた。オルゴールの部品が揃わないことに。シュゼット嬢の想いを繋げないことに。その時は急に、立っていられないくらいに身体が重くなった。そしてじわりと息が苦しくなり…。あの時ティアラの写真がなければ、今頃どうなっていただろうか?
俺はそっと、その言葉のそばに赤い文字を書き加えた。苦痛に満ちた最期を具現化したような姿。ただの恐ろしい亡霊として片付けられるには、あまりに哀れではないか…。
『シュゼット嬢に、罪はない』
誰かがこれを見つけるだろうか? たとえ俺にこの先何かあっても、他の誰かが。せめて彼女のことを
理解してほしい。その一念で、勝手に体が動いた。
それから。俺は痛みに耐え脇腹を抑えながら、ふらつく足でさらに奥に…ランプの明かりを頼りに少しずつ進み続けた。棺が並ぶ霊廟の通路は整然としており、死者への深い敬意が見て取れた。執事さんはいい仕事をしている。
少しずつ赤い雫が床に落ちることに罪悪感を覚えたが、それでも歩みは止めなかった。力が入らなくなってきた足にぼやけ始める視界。失血が進んできたらしい。いよいよ『終わり』が近づいてきているということか…?
その時ふらりと寄りかかった壁際の棺に、見覚えのある名前を見つけた。
『明朗なる駒 オリバー・ワイルド、ここに眠る』
「…オリ…バー…?」
まさか、しばらく前に姿をくらませた…?
棺にすがりつくようにして俺はその文字を確かめる。確かに『オリバー・ワイルド』とある。
行方不明になった、同僚の名前だ。
「そんな…!」
彼も、ここに来ていたのか? そして…。
なんということだろう、それに何故こんな所で…?
そうだ、執事さんも言っていたじゃないか。『ここには、ご先祖様方と『大勢の方々』を祀っております』と。確かに間違いではなかった。今までにここに来た多くの『駒』達もここに眠っていたということだ。
執事さんは『嘘をつけない』のだから…!
そこで気力も尽きたようだ。足から一気に力が抜け、その場にへたり込む。なんとか壁際に背をつけて荒く息をつく俺の脳裏には、快活な笑みで同僚に声をかけて回る元気な姿が蘇った。俺自身も随分と世話になっている。それが何故こんな事に?
脇腹からの出血は止まらない。いつしか床に小さな流れが出来、傾斜に沿って赤い線が伸びて行く。失血に加え外で雨にさらされたことで、確実に体温が奪われていた。寒い…寒い…。
もう、これ以上動けそうになかった。
「お知り合いのお方がいらしたのですか?」
いつまで、そうしていたのだろう? 気づけばそばに、執事さんが短剣を手に現れていた。
「…オリバー・ワイルド…この名を…覚えているか?」
息が浅くなりつつある俺の問いに、彼は目を閉じ深く頷いた。
「よく存じております。彼だけではなく、ここにおられる全てのお方を。オリバー様は賢明なお方であり、如何なる時も気丈で明朗な振舞いをなさいました」
「彼も…殺したのか?」
俺の言葉には、全く感情が込められなかった。ただ、空虚な想いだけがそこにある。
身近な人の死…それも、おそらく今は俺しか知らないであろう死を。認めたくなかっただけかもしれない。
「ええ。私の…この手で」
「…これからも、多くの命を…手にかけるのか…?」
「貴方で…最後になることを祈るばかりです」
一歩。近づいてくる足音。
「ご覧になられたのですね…?」
無言で俺は頷く。何を、などという無粋な質問は無用だった。
「あれが…幾度も訪問者たちを殺し続けた理由か? 彼女を…救うために…?」
「…勘の鋭い方ですね…」
この屋敷では、延々と同じ一日が繰り返されていた。何をきっかけにそうなったのか…あの姿になった彼女を見て、なんとなく俺は気づいた気がする。
「訪問者…いや、この場合は…『駒』と言うべきか? その死をもって、時が戻っていた…?」
日付が変わるたびごとに、あの哀れな亡霊の姿になるシュゼット嬢。
それに伴って惨たらしい死に方の記憶も蘇り、壊れてしまったとしたら。
そしてかりそめであっても、元の穏やかな一日を取り戻すためには…。
俺の…『駒』の命と引き換えにする他なかった…?
だから執事さんは、泣く泣く俺を手にかけていた…。そういうことだと悟った。
『日付が変わった以上…速やかに貴方を亡き者にしなければ、お嬢様に仇なすことになる』
確かに、その言葉に間違いはなかったのだ。
「その答えにたどり着いた方は、貴方が二人目でございますよ…カシアン様」
彼は明確に答えない。何よりそれが、肯定の意思を表していた。
壁を背にもたれかかったまま、静かに赤い流れは続いている。暗くなりつつある視界に、死神の歩みは止まらない。近づきつつある終焉に少しでも抗おうと俺は言葉を綴る。
「…苦しむことなく…短剣で即死するように計らっていたのも…貴方の温情だった」
「買いかぶりですよ」
「さりげなく…小さな手掛かりを与えていたのは、俺に…苦痛を与えないため…」
「…同時にお嬢様も苦しむことになるからです。ただ…お嬢様を庇っていただいて、ありがとうございます…」
いつのまにか、執事さんの頰には光るものが流れていた。庇う…ああ、さっき扉の裏に書いた言葉のことか…。
「最後に。何処かに…この事象を見ている何者かが…居るんですか?」
誰かが、執事さんのこの様子を見続けている。もしくは見張っている。そういう存在がいるということで、彼の行動は説明できる。『第三者』によって、ここの繰り返しは管理されている。だとしたら…執事さんの望みは、ここからの解放ということになるのではないか?
その質問に彼は答えない。静かに抜き放たれる、『慈悲の短剣』。
こんな時でも美しい刀身だと感じてしまうのは、おかしいだろうか? これから俺の生命を刈り取る凶器だとしても、血に塗れることを惜しいと感じてしまうのは…学者の端くれとしての性だろうか?
「理由を知っても…多分、俺は…抵抗し続ける…。待っている…人がいるので…」
「…構いません。それこそが、生きる意思ですから…」
指先の感覚は、すでにない。脇腹の痛みすらも遠いものとなっている。それでも、俺は抵抗を諦めるわけにはいかなかった。たとえそれが、無駄な意志であろうとも…!
彼は俺のそばに膝をついて、祈るように頭を垂れる。切っ先は計ったようにたがわず、心臓の位置に当てられていた。
「申し訳ありません…おやすみなさい…!」
その言葉が終わらぬうちに深く、深く突き込まれる短剣。
ああ…これは、彼が持ってこその、『慈悲の短剣』だったんだな…。
そして、三たびの静寂が訪れた。
0
あなたにおすすめの小説
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
現代文学
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
それなりに怖い話。
只野誠
ホラー
これは創作です。
実際に起きた出来事はございません。創作です。事実ではございません。創作です創作です創作です。
本当に、実際に起きた話ではございません。
なので、安心して読むことができます。
オムニバス形式なので、どの章から読んでも問題ありません。
不定期に章を追加していきます。
2026/1/13:『こえ』の章を追加。2026/1/20の朝4時頃より公開開始予定。
2026/1/12:『あけてはいけない』の章を追加。2026/1/19の朝4時頃より公開開始予定。
2026/1/11:『みきさー』の章を追加。2026/1/18の朝4時頃より公開開始予定。
2026/1/10:『つかまれる』の章を追加。2026/1/17の朝8時頃より公開開始予定。
2026/1/9:『ゆうじんのかお』の章を追加。2026/1/16の朝4時頃より公開開始予定。
2026/1/8:『ついてきたもの』の章を追加。2026/1/15の朝4時頃より公開開始予定。
2026/1/7:『かわぞいのみち』の章を追加。2026/1/14の朝4時頃より公開開始予定。
※こちらの作品は、小説家になろう、カクヨム、アルファポリスで同時に掲載しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百物語 厄災
嵐山ノキ
ホラー
怪談の百物語です。一話一話は長くありませんのでお好きなときにお読みください。渾身の仕掛けも盛り込んでおり、最後まで読むと驚くべき何かが提示されます。
小説家になろう、エブリスタにも投稿しています。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
【完結】百怪
アンミン
ホラー
【PV数100万突破】
第9回ネット小説大賞、一次選考通過、
第11回ネット小説大賞、一次選考通過、
マンガBANG×エイベックス・ピクチャーズ
第一回WEB小説大賞一次選考通過作品です。
百物語系のお話。
怖くない話の短編がメインです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる