おかえり

煙 亜月

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おかえり

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 よい朝だ。パンプスを履いてドアを開ける。わたしは仄暗い部屋に向かって「おかえり」といい、鍵を締める。

「おかえり」
「ただいまです」
「先輩、おかえりです」コートを脱いでいると後輩が寄ってくる。「廣珍軒?」
「よく分かるわね。で、あの帯だけど――いや、あなたもご飯、今のうちに行った方がいいよ」と、先輩風を吹かす。後輩はコートを着て「あ、はい。行ってきます」と出てゆく。

 がちゃん、と主任が受話器を置く。
「編集一課。早く上げろってさ。それならあの先生にいえってんだよな、装丁室としては」
 ぶつくさいいながら主任はキーボードを叩く。わたしも朝からずっとリストとにらめっこだ。作家でも女優でも脳科学者でもなんでもいい、推薦文を帯に書ける人間を探す。

 午後六時四十五分。なんとか帯に書くべき文言が埋まる。残務を終え、電車に乗る。アパートのドアを開けると、朝に残しておいた「おかえり」がまだ漂っている気がして、「ただいま」と、真っ暗な部屋に返事をする。

 就職までは実家暮らしだった。上京のときも、家を出られる嬉しさであふれていた。里帰りも新幹線や空路を使わねばならず、正月も雪でめったに帰れない。それでもいい。毎日が忙しかった。

 三年目の春だった。仕事帰り、自分の部屋の灯りがカーテンから漏れているのが道路から見えた。――空き巣か、ストーカーか。鼓動が一挙に高鳴る。いつでも一一〇番をかけられるようスマホを取り出す。でも、下手に入ったら乱暴されるかもしれない。どうしたらいい。
 ヒールを鳴らさないようにして階段を上る。でも、おかしい。なぜかは知らないが換気扇が回っており、いい匂いがしている。腋の下に汗をかき、口で息をしながら、防犯ブザーとスマホを握りしめ、ドアを開ける。

「あら、おかえり。遅かったじゃない」
 母だった。
 わたしは口をだらしなく開け、壁に寄り掛かった。「やあねえ。もうお母さんの顔、忘れちゃったの?」
 コンロでは肉じゃがが煮込まれていた。それで換気扇が回っていたのだ。「ちょっと、なんで泣くのよ」
「お母さん」涙があふれ、実家に置いてきたはずの郷愁が押し寄せてくる。靴を脱ぎ捨て、バッグを放り、母の前でかがみ込む。「もう、そこじゃま。なんかが散ったら火傷するよ」
「うん」
「それで? おかえりっていわれたら、なんていうの?」
「あ――ただいま」そこで母は相好を崩し、「あーあ、もう。大きな子どもだこと。器、出して。残った分はタッパーに入れるから」
 そこでようやく、炊飯器が湯気をもくもくと立ち上らせていることに気づく。「ご飯、冷凍庫に」
「ああ。さっき見たけど、やっぱり炊き立てが一番。ほらほら、スーツで着てご飯食べるの? はい、着替えて着替えて」

「それでね、あんたも二十四だし、彼氏のひとりやふたり、捕まえてもいいのよ。少しは遊びなさいよ。だから部屋も掃除してよね(と、母は自分で掃除した部屋を眺める)。あと、仕事に行くときは部屋にちゃんと“おかえり”っていっておくのよ」
 あつあつの男爵いもに目を白黒させていても、母は頬笑んで待っている。ようやく口の中のものを飲み込んで「え、なんで」と訊く。
「“おかえり”っていったら、その言霊が出ていかないうちに鍵を閉めるの。そう、言霊よ、言霊。あんたも編集者ならわかるでしょ。そうしたら帰ってきたとき、部屋があんたにおかえり、っていってくれるじゃない」

 わたしが食べ終えるのを見計らって母は帰ろうとする。「彼氏なんかいらない、泊まってって」
 母はわたしを振りほどきながら「こんな狭いとこでどうやって泊まるのよ。帰りの切符、どうすんの? あ、でも(思い出したかのように顔を輝かせる)ちょっといい縁談があるんだけど、それオッケーしてくれたら切符、なかったことにする」といった。
「縁談?」
「そう。中高で一緒だった西崎君」
「に、西崎? それは、なんか、きらいじゃないけど」
 母は手をひらひらと振って「はいはい、贅沢いうんならここでいい男、見つけてよね。お母さん帰るから。戸締りよろしくね」
「お母さん」母は靴を履きながら「なあに」と肩越しに訊いた。
「どうやって入ったの?」
 ふふ、と笑い、ドアにある新聞受けをぱかっと開けた。「この中、見えないようにフックで合鍵、吊るしてあるでしょ。手が細いひとは、外からでもぎりぎり届くところの。お母さんと同じことやってるから笑っちゃったよ」

 母は帰った。
 ご飯も肉じゃがも、冷蔵庫に入りきる量だけ作っていた。
 でももし、わたしが合鍵を吊るしていなかったり、あるいは男と寝ていたりしたら、どうするのだろう。「でも、お母さんだもんなあ」とわたしは納得する。母なら、わたしがどうあれ、わたしの母でいてくれるから。
 
 よい朝だ。パンプスを履く。おかえり、と部屋にいい置き、鍵を締める。帰ったら、ちゃんとおかえり、っていうのよ。お母さんによく似たわたしの声で。
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