ハッピーレクイエム

煙 亜月

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II Con amore è per te

019 不帰

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一九 不帰

 約束。
「それでね、神様は死んでいいひとしか死なせないの」
 ――ちょっと聖子、まだ酒浸り? と電話が気遣う。
「だから高志もあの日、よく生きるべき日と、ほらあの、よく死ぬべき日が約束どおりにきて、きっとよかったんだと思うの」
 ――ていうか、あんた、休学してるでしょ? 一体どうすんの? 電話は語気をやや強める。
「わたしも、いつか死んで、でも正しく死なないと高志のところには行けないのかも。でもね、もうそういうのはどうでもいいの。なんていうか、もう、どうでもいいのよ」
 ――聖子、アパート? 今から行くからどこにも行かずに待ってて、と電話がまくしたてたので、
「うるさい! わたしは! わたしがどこへ行くかは主が決められる!」と断言し、力任せにスマホを窓へ投げつけた。窓は大きな音を立てて割れた。
 わたしは落ち着いている。とても落ち着いていて、寒風の入る部屋を眺めている。ここに高志はいた。でも今はいない。この先ずっと、永遠にいない。
 ここのところカーテンは常に開け放しで照明もつけず、パソコンの液晶画面を除くほか、青い街灯に照らされているだけのワンルームだった。部屋に冬の風が入り込む。それは寒いとか、悲しいとか、痛いとか、生きるとか、死ぬとか、わたしがそういうことを気にしない存在になったことを、ただ思い起こさせただけだった。
「だって、高志はもういないんだよ」

 投げつけたスマホは冬の窓を破った挙句、ベランダか道路にでも落ちたのだろう。あんなくだらないものでも、思い切り投げればアルミサッシのガラス窓程度は割ってしまえるのだ。好都合だった。わたしはだれとも話したくなかったし、メールも来てほしくない。つまるところスマホを一切操作したくなかったのだ。電話もいらない。高志とはつながらないから。LINEもいらない。高志はもう、死んでいるから。

 電話口で吉川が闇に向かってなにか話しているかもしれない(スマホが壊れていなければ、の話だが)。かの女にはオーケストラでも、個人としても、世話になりっぱなしだった。不義理なことをしたと、今になってはそう思う(しかし、こうしてカーテンも引かれていない窓を割ったことで、わたしは自身の命を長らえさせる要因を作ったのだが)。

 パソコンでバウアー作曲『オーボエとクラリネットのための二重奏』の音源を流す。あの日、かれが置いていった楽譜を本棚から取り出して見つめる。その楽譜にはかれの汚い字でたくさんの書き込みがあった。アモロザメンテ、愛情をこめて。コン・アモーレ、愛情をもって。アモローゾ、愛情豊かに。最終楽章、最後の和音。これは——手書きだ。高志の字だ。コン・アモーレ・ペル・テ――この愛を君に

「う、ううう! あああ!」
 どんなに悔やんでも、
 唸りながら居室から風呂場、調理場、玄関と部屋じゅうを四つ這いになって這いずりまわる。
 どんなに改めても、
 かれの煙草、整髪料、歯ブラシ、サンダル、その他かれの痕跡となる品々を集め、ラグの上に証拠品のように整列させる。
 どんなに愛しても、
 照明をつけ、順番に色かたちをしげしげと見て回り、ひとつずつにおいを嗅ぐ。とくにサンダルはかれの匂いに近かった。サンダルを嗅ぐ。嗅いで、嗅いで、嗅ぎ続ける。
 今さら、絶対に、かれは帰ってこない。
 わたしの人生は、かれに初めて息吹を吹き込まれたといえた。この品々はわたしたちの思い出ばかりだ。――違う。思い出なんかじゃない。高志はまだ生きている。この胸に高志が脈打っている。あの夏の日々に戻りたい。スマホを投げて割れたガラスから冬が、冬の厳しい寒さが断罪するように流れ込む。雪が部屋の中を舞っている。冬の夜風はわたしを不幸な気分にさせた。夏が好きだ。かれが好きだ。かれもわたしも寒がりだ。冬なんて、いやだ。

 窓が割れているのだ、それも大きく。さらに外の雪も舞い込んでいる。すぐに寒さに耐えかねたわたしは酒を飲むことにした。
 高志を失った後、蒸留酒を覚えた。体が酎ハイ程度にしか慣れておらず、かつもともと酒に弱いこともあり、短時間で酔えて都合がよかった。
 ウィスキーをらっぱ飲みし、喉の奥から胃袋までを酒が焼灼する感覚に心地よさを覚える。ただちに強い吐き気に見舞われた。嘔吐を我慢していたら頭痛を覚え(胸やけによるものかもしれないが)、鎮痛薬を飲む。吐き気と同時にすこしふわふわとする感覚があって、酒をもうひと口、ふた口と飲んだら、さらに浮揚感が増した。それは天上的に心地よく、自分は酒に溺れているのだと気づく。聖書では酔いしれてはならない、とある。人を救うための聖書なら、高志をも救えたはずなのに、わたしを救う余地はない。それは唯一断言できる。だから、人を救うための聖書は、わたしには意味も必要もない。
 次に精神科で処方された抗不安薬や睡眠導入剤をすべて座卓に出し、そのすべてを飲む。必要があったからだ。そうだ、必要があるのだ。強い不安があり、それに耐えかねてさっさと寝てしまいたかったのだ。
 この程度の量がいわゆるオーバードーズ、薬物の大量摂取にはちっともならないはずだ。トイレに向かうまで、その自覚はつゆほどなかった。鎮痛薬、向精神薬と風邪薬、ほかに胃薬も酒で飲んだかもしれないし、そうでないかもしれない。よたよたとトイレに向かう途中で再度、急激に吐き気が強まったが、我慢した。もったいない。つまり嘔吐で排出しなかったらある程度の致死性のある薬物量であろう、と期待していたことになる。便座に座ったが、尿意はあるのになにも出なかった。先ほどの薬物がなんらかの功を奏していると実感した。気持ちの悪い尿意に耐えながらトイレから戻ったわたしは、座卓に出した薬をその後も飲み続けた。
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