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V 「ばーか」
039 落涙
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三九 落涙
夏の夜の空気は歩いていれば生ぬるいが、スクーターに乗っているとひんやりと感じられる。幹線道路から少し入るとすぐに住宅街だ。治安も調べもせず、現物さえ確認せずに契約したアパートの周辺には、華僑の営むなんらかの店(軒先にぶら下げられた売り物を見ても、それがなんなのかわからなかった)、インド系の料理店、そこかしこに飲み屋とコインランドリーがあった。今日も側溝のあたりで嘔吐している者があり、痴話喧嘩の只中といった水商売風の女があり、当初怖かった無秩序もだんだんと楽しくなってきた。
わたしが手を回している吉川の腰に、かれもまた手を触れたのだろうか。まるきり想像もできなくて、それもなんだかおかしかった。
平松も吉川も、わたしと同じだった。人の子だった。嫉妬、不安、虚勢。動揺すれば泣くし、満たされなくても泣く。
運転しながら吉川がなにか大声でいっているが聞き取れない。ミラーにジェスチャーしようにもスピードをかなり出しており、腰に回した手も離せない。わたしはかの女の背中にヘルメットを寄せてもたれかかった。そういえば今日、お化粧もしていたのだった。ヘルメットの額のところが白くなるかな、と考える。でも多分、わたしの頭に付く金髪の抜け毛のほうが多いだろう、そんなことにも気づく。
アパートに着き、アイドリングしたまま吉川が下りる。「おつかれ!」と吉川がわたしのヘルメットの頭頂部をグローブで撫でる。
わたしはヘルメットを脱ぎながら「いえ、ありがとうございます。でも、今日は、そうですね、疲れちゃいました」と文章もうまく構成できずに、ため息をつく。呼気を吐ききったあとで空気を吸い込もうとすると、横隔膜がびりびりして呼吸が波打つ。浅い呼吸を繰り返し、気持ちが高まって泣き出してしまう。わたしは泣きたくない。なんの効力もない抵抗が頭の中で反響する。
吉川はエンジンを切り、「あんたさあ」と自分のヘルメットを取る。「そういうときにはぎゅうってするの、ぎゅうって」といってわたしを抱きしめる。なんとかこらえようと息を止めてみたが、我慢できれずに嗚咽を上げてしまう。
そのまましばらくいて、わたしが吉川の胸から顔を離す。「あ、リップ」
「うん? ああ。その前に鼻水どうにかしようって話だよね。っていうかあんたが化粧してるの見んの、初めてだったわ、今日。話すタイミングなかったけどね。さすがのあたしでもここで脱ぐからあした洗って返せ、ってわけにもいかないもんな。いいよ、これくらい」
と吉川は朗らかに笑って、「感情の高ぶりだよ、聖子。なんか今日あんた、いろいろありすぎて脳みそ疲れたんだわ、普段使わない部位が、ね。そういうとき泣いたり笑ったりする、人間は。ロボットじゃないからね」と明るく断じた。
わたしがまだぐずっているので吉川も困ったのだろう、煙草に百円ライターで火を点けた。バイクのハンドルに取り付けた灰皿に灰を落とす。「あ、ごめん。ひと言あったほうがよかったね」と、火を消そうとする。
「あの」
「ん?」
「一本、いいですか?」
ややあって吉川はにっこり笑い、「死んでもあげない」と一蹴する。「でも、なんでまた」
「そんな気分だから、かな」と答え、「どのみちコンビニで買うと思います」と重ねた。
「ふふ、あたしの十代を思い出すわ。とりあえず煙草はやらない。あんたが吸いたきゃ、あんたの思うようにして。ただ、死ぬほど金がかかるからね、これは」といい、わたしからヘルメットをかすめ取るとシートの下に放りこみ、自分のヘルメットをかぶり、顎紐のラチェットをかちかちと締める。エンジンをかけ、「じゃあな」と走ってゆく。
もう夜の一〇時だろうか。きょう一日、わたしはかの女より秀でたところもなにもなく、あまつさえ泣いているところを慰められた。
煙草の煙とバイクの排気ガスのにおいが入り混じり、凪の時間なので風も吹かずわたしにまとわりつく。吉川、か。ちょっとだけ、こんな女性になりたい、とも思えた。エンジン音も遠くなり、もうミラーからも見えないだろう。わたしはバイクのポジションランプへ頭を下げる。
さあ、どうしようか。だがこの自問はネガティブな性格のそれではない。泣きすぎて一転、気持ちが空っぽになった。酒でも煙草でも、なんでも飲めそうだった。やや遠いが道中の街灯が多い、いつものコンビニへ歩いてゆく。化粧も崩れ、洟をすすり上げながら、平松のハンカチを取り出す。わたしのハンカチがいい匂いだと話していた。わたしもハンカチに鼻を近づけてかいでみる。――煙い。あまりの臭さにとっさに投げて捨てたくなった。これで自分の目元を拭いたと思うと顔に石鹸をこすり付けて洗いたくなる。ひとのものでなければとっくに投げて捨てているようなにおいだ。煙草を吸うと、わたしのハンカチもこのにおいになるということか。幻滅して、チョコレートとカフェオレを二四四円で買って帰る。
部屋に戻ってカーテンを閉め、灯りをつける。楽しいこと、疲れること、無力なこと、すべてがないまぜで、お腹が空いたのかどうかも分からない。十二粒入っていたチョコの三粒を食べ、お洒落だがかさばるパッケージのカフェオレを飲む。もうなにもする気が起きない。チョコを食べる。思い出したかのような空腹感が出てくる。おにぎりでも買えばよかったと、ぼんやりと悔やむ。億劫だなと思いながら、冷凍してあったご飯を温め、楽器と一緒に送られた野菜、それから底値の豚肉とを適当に炒めておいたものを冷蔵から出し、ご飯と入れ違いで電子レンジにかける。結局いつも通りのご飯だ。レンジが回っている間もカフェオレは減ってゆくし、チョコの残りは五粒程度だろう。面倒だ。やはりお弁当の方が(今日に限っていえば)楽だった。ご飯と炒め物をそれぞれタッパーごと座卓に並べ、夕食とする。半分ほど残した。また冷蔵庫にしまう。
夏の夜の空気は歩いていれば生ぬるいが、スクーターに乗っているとひんやりと感じられる。幹線道路から少し入るとすぐに住宅街だ。治安も調べもせず、現物さえ確認せずに契約したアパートの周辺には、華僑の営むなんらかの店(軒先にぶら下げられた売り物を見ても、それがなんなのかわからなかった)、インド系の料理店、そこかしこに飲み屋とコインランドリーがあった。今日も側溝のあたりで嘔吐している者があり、痴話喧嘩の只中といった水商売風の女があり、当初怖かった無秩序もだんだんと楽しくなってきた。
わたしが手を回している吉川の腰に、かれもまた手を触れたのだろうか。まるきり想像もできなくて、それもなんだかおかしかった。
平松も吉川も、わたしと同じだった。人の子だった。嫉妬、不安、虚勢。動揺すれば泣くし、満たされなくても泣く。
運転しながら吉川がなにか大声でいっているが聞き取れない。ミラーにジェスチャーしようにもスピードをかなり出しており、腰に回した手も離せない。わたしはかの女の背中にヘルメットを寄せてもたれかかった。そういえば今日、お化粧もしていたのだった。ヘルメットの額のところが白くなるかな、と考える。でも多分、わたしの頭に付く金髪の抜け毛のほうが多いだろう、そんなことにも気づく。
アパートに着き、アイドリングしたまま吉川が下りる。「おつかれ!」と吉川がわたしのヘルメットの頭頂部をグローブで撫でる。
わたしはヘルメットを脱ぎながら「いえ、ありがとうございます。でも、今日は、そうですね、疲れちゃいました」と文章もうまく構成できずに、ため息をつく。呼気を吐ききったあとで空気を吸い込もうとすると、横隔膜がびりびりして呼吸が波打つ。浅い呼吸を繰り返し、気持ちが高まって泣き出してしまう。わたしは泣きたくない。なんの効力もない抵抗が頭の中で反響する。
吉川はエンジンを切り、「あんたさあ」と自分のヘルメットを取る。「そういうときにはぎゅうってするの、ぎゅうって」といってわたしを抱きしめる。なんとかこらえようと息を止めてみたが、我慢できれずに嗚咽を上げてしまう。
そのまましばらくいて、わたしが吉川の胸から顔を離す。「あ、リップ」
「うん? ああ。その前に鼻水どうにかしようって話だよね。っていうかあんたが化粧してるの見んの、初めてだったわ、今日。話すタイミングなかったけどね。さすがのあたしでもここで脱ぐからあした洗って返せ、ってわけにもいかないもんな。いいよ、これくらい」
と吉川は朗らかに笑って、「感情の高ぶりだよ、聖子。なんか今日あんた、いろいろありすぎて脳みそ疲れたんだわ、普段使わない部位が、ね。そういうとき泣いたり笑ったりする、人間は。ロボットじゃないからね」と明るく断じた。
わたしがまだぐずっているので吉川も困ったのだろう、煙草に百円ライターで火を点けた。バイクのハンドルに取り付けた灰皿に灰を落とす。「あ、ごめん。ひと言あったほうがよかったね」と、火を消そうとする。
「あの」
「ん?」
「一本、いいですか?」
ややあって吉川はにっこり笑い、「死んでもあげない」と一蹴する。「でも、なんでまた」
「そんな気分だから、かな」と答え、「どのみちコンビニで買うと思います」と重ねた。
「ふふ、あたしの十代を思い出すわ。とりあえず煙草はやらない。あんたが吸いたきゃ、あんたの思うようにして。ただ、死ぬほど金がかかるからね、これは」といい、わたしからヘルメットをかすめ取るとシートの下に放りこみ、自分のヘルメットをかぶり、顎紐のラチェットをかちかちと締める。エンジンをかけ、「じゃあな」と走ってゆく。
もう夜の一〇時だろうか。きょう一日、わたしはかの女より秀でたところもなにもなく、あまつさえ泣いているところを慰められた。
煙草の煙とバイクの排気ガスのにおいが入り混じり、凪の時間なので風も吹かずわたしにまとわりつく。吉川、か。ちょっとだけ、こんな女性になりたい、とも思えた。エンジン音も遠くなり、もうミラーからも見えないだろう。わたしはバイクのポジションランプへ頭を下げる。
さあ、どうしようか。だがこの自問はネガティブな性格のそれではない。泣きすぎて一転、気持ちが空っぽになった。酒でも煙草でも、なんでも飲めそうだった。やや遠いが道中の街灯が多い、いつものコンビニへ歩いてゆく。化粧も崩れ、洟をすすり上げながら、平松のハンカチを取り出す。わたしのハンカチがいい匂いだと話していた。わたしもハンカチに鼻を近づけてかいでみる。――煙い。あまりの臭さにとっさに投げて捨てたくなった。これで自分の目元を拭いたと思うと顔に石鹸をこすり付けて洗いたくなる。ひとのものでなければとっくに投げて捨てているようなにおいだ。煙草を吸うと、わたしのハンカチもこのにおいになるということか。幻滅して、チョコレートとカフェオレを二四四円で買って帰る。
部屋に戻ってカーテンを閉め、灯りをつける。楽しいこと、疲れること、無力なこと、すべてがないまぜで、お腹が空いたのかどうかも分からない。十二粒入っていたチョコの三粒を食べ、お洒落だがかさばるパッケージのカフェオレを飲む。もうなにもする気が起きない。チョコを食べる。思い出したかのような空腹感が出てくる。おにぎりでも買えばよかったと、ぼんやりと悔やむ。億劫だなと思いながら、冷凍してあったご飯を温め、楽器と一緒に送られた野菜、それから底値の豚肉とを適当に炒めておいたものを冷蔵から出し、ご飯と入れ違いで電子レンジにかける。結局いつも通りのご飯だ。レンジが回っている間もカフェオレは減ってゆくし、チョコの残りは五粒程度だろう。面倒だ。やはりお弁当の方が(今日に限っていえば)楽だった。ご飯と炒め物をそれぞれタッパーごと座卓に並べ、夕食とする。半分ほど残した。また冷蔵庫にしまう。
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