ハッピーレクイエム

煙 亜月

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VI ドーピング

055 不安

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五五 不安

 がやがやした学生食堂で、弱々しい声で瀬戸が話しかける。「それで、朝野先輩」相手が手を組み祈っているのを見て、瀬戸は唇を結んで待つ。「あ、朝野先輩」
「いただきます。いいのに、先に食べててよかったのよ。それで、なんだっけ」と、わたしはタルタルソースが少しだけかけられたアジフライをかじる。瀬戸は小さな親子丼だけだ。これだけの食事量でブレスの難しいバスーンを吹きこなせるものだと感心する。瀬戸は箸をつけずに話し出した。「朝野先輩、わたし、オーボエ吹きたいんですけど、どうしたらいいですか」
 わたしは口もとをハンカチでぬぐう。「持ち替え?」
「とんでもないです。オーボエに転向したいんです。バスーンも好きですけど、先輩がオケに入ってから、なんていうか、うっとりしたんです(硬い表情から一転、夢見る少女のような顔だ)。バスーンも柔らかくて、あたたかい音色も出せるんですけど、先輩のオーボエと違って、蜜のような甘い音、バスーンでは高音域でしか出せなくて。オーボエのような全域の稠密な音、私も吹きたいんです。だから、その、弟子に入れてもらえないでしょうか」
「いいんじゃない」わたしは即答した。
「えっ」瀬戸は驚いて口を開ける。「でも、そんな簡単に」
「そんな簡単に吹ける楽器でも人員でもないけど、そんな簡単にあきらめることもないよ。パトリやコンマスとか、顧問には?」
「だれにもなにも話してないです」
 わたしはアジフライの尻尾近くの固い部分を食べてゆきながら「ヨッシーに話通して、もう少し上にも話を上げて、許可さえ出ればある程度、わたしも教えられると思うよ。あなたのバスーンだけど、一年生なのに問答無用にステージに上がれる実力があるんだし、オーボエに転向しても問題ないんじゃないかな。ダブルリードだし。と、ここまではオーボエの意見。団としては、たしかにオーボエのセカンドが欲しいところだけど、バスーンのセカンドが抜けるのも痛い。オーボエ吹きながらバスーン掛け持つのは負担も大きすぎるし、そもそも不可能だし。二者択一よね。いいんじゃない、パトリに掛け合ってみよう」といった。「ただひとつ注意しなきゃなんないのが」
 瀬戸は黙って聞いている。「オーボエのリード、高いからね。バスーンもそうだろうけど、やっぱりリードは自作になる。工具、よかったら貸すよ」といい、「それより、食べないの? 冷めるよ」と勧めた。
「す、すみません。ありがとうございます」そこで初めて瀬戸はいただきます、と親子丼に箸をつけた。

 十八時ごろ、大講堂にわたしと瀬戸のふたりは一番乗りで着いた。
「ショウちゃん、なんか探しもの?」
 ふたりで楽器庫を探っていると、吉川が気づいて近づいてきた。「あ、ヨッシー。ちょうどよかった」とわたしは振り向く。「備品のオーボエ、何番の倉庫?」
「高志のだな。サマコンで使ったプラ管ね。そりゃ、あるけど、向こうの四番だよ。どうした? 楽器、不調なの?」
「ううん、そういう訳じゃないけど、ちょっとね」わたしは持っていた鍵束からその倉庫の鍵を探し、楽器を取りに行く。「瀬戸ちゃんまで、どうしたの? いつもなら永遠にロングトーンやってるのに」
 瀬戸は(意を決したように)やや上ずった声で「あ、あの、わたし、オーボエ、吹きたいな、と思って」という(ただちに目を伏せる)。
「へえ、片手間にやるほど簡単でもないけどね」と髪をまとめながら吉川はそっけなくいう。
「いえ、そうではなく。その、持ち替えたい、って思って」
 吉川は髪を結わえていた手をだらりと下げ、「はあ?」と大きな声で威圧する。
「えっ」瀬戸は明らかに気おされ、「あ、そ、その」とたじろぐ。「あった、あったよ」わたしがオーボエのケースを抱えてふたりのところへ来る。即座に吉川の険しい形相に気づく。「どうしたの?」
 ほかの団員も練習に集まってきていた。音出しをする者もいる。なにごとかと見つめる者もあった。その中で吉川は「あのさ、瀬戸ちゃん。オケは音楽教室じゃないんだよ。あんた、確かにバスーンのスキルは評価するけど、オーボエのセカンドに鞍替えしてバスーンの欠員、どうすんの? オーボエ吹くにしても、朝野と同じくらいのレベル、あるの? この二点。プロを養成するわけじゃないけど、コンサートには賛助もつくんだよ? 最低限、今の水準でオケを存続させる必要があるの、分かる? それかあんた、オケの体制的にバスーンよりオーボエを拡充した方がいいって、管理運営のとこまで考えてるの? それ、越権行為」と淡々とした口調で畳みかけた。
 なにがどうなっているのかはよく分からないが、わたしはこんな吉川は見たこともなく、楽器を抱えて立ち尽くすしかなかった。「ヨッシー」
「黙ってて」と吉川は振り向きもせずいった。胃が締め付けられる。わたしは黙る。
「だがおれは黙っていない、といいたくなるね、この状況」そばにいた平松が練習の手を休め、クラリネットを椅子に置いて立ちあがる。団員は好奇の目で見る。火に油をそそぎに来たか。わたしのみぞおちの疝痛が強まる。
「あんたさあ、なんでそんなに楽しげなの? そういう趣味? 状況って、今の状況がどんな状況か分かってんの?」吉川はとげとげしく平松をねめつける。だれにも顔を見せることなく(両こぶしをきつく握り)うつむいていた瀬戸は初めて顔を上げ、平松の方を見た。
「反論はあとでぜんぶ聞こう。まず、この案件はヨッシーのいう通り、管理運営の話になる。だからヨッシーの裁量では決定できないよね。でもおそらくは、瀬戸ちゃんのオーボエがうちで普段やってるオーディションに合格できる水準にも達しないかもしれない、いや、達しないだろうね。一方で来年度、うちにオーボエなりバスーンなりが入学するかどうかも分からない。どっちにしても、だ。オーボエかバスーンかはセカンド不在となる。この二択。となれば団の運営にかかわると判断されるな。つまり各パトリとコンマスの合議による幹部案件になるってこと。どっちかを常に吹奏楽部とか、ほかの大学から借りてくるのを前提とすると、やっぱり音楽的にもオーボエはうちでやった方がいい、とおれは思うけどね。あくまでも私見だけど」
 黙って聞いていた吉川は長くため息をつき、髪をわしわしとかき上げ、「ごちゃごちゃうるさいんだから――それで、瀬戸ちゃん、そもそもあんたオーボエ吹けるの?」と、ゆっくりと訊いた。
「あの、中高といろいろ掛け持ちで吹いていたので、オーボエも練習すれば吹けます、短期間で吹けます。もちろん指も譜読みも。あとは表現力の問題で――でも、吹奏から借りてくる補欠よりは、吹けます」
 希望が見えたと思ったらしく、瀬戸は吉川に顔を向けて断言した。「あ、でも、バスーンもいつでもステージに上がれるレベルは維持します。それをクリアしたうえで朝野先輩に師事して、でも朝野先輩の邪魔にならないようにします。それで、その、お願いします!」
 深々と頭を下げる瀬戸に、「まあまあ、瀬戸ちゃん。ひとまずはこの場で決められないから、最終的には幹部の判断なんよ。でも幹部に持っていくな、どうしても駄目だ、ってヨッシーが思えば別だけど」と平松はいい「まあ、そもそもその権限だってヨッシーにはないのかもしれんけどね」と続ける。
 指導を安易に請け負ったのは軽率だったか、とわたしは反省する。吉川は周りに集まってきた団員を「ほらほら、練習、練習」と追い払う。
「ヨッシー、ごめん。わたしも考えが足りなかった。セカンドがいたらもっとファーストに専念できるかと思ってた。もちろん瀬戸さんをセカンド吹きに仕上げることには責任持つから」と、わたしは謝罪と懐柔をいっぺんに済ませる。吉川は舌打ちをして頭皮かき、「じゃあショウちゃん、冬までに瀬戸ちゃんをベト三のセカンド、吹けるようにできるの?」といった。
「え、もう決まってたの? 『英雄』?」と平松が驚いてみせる。周りの団員もすごい、とか、難しそう、などとそれぞれに反応を示す。「はいはい、もう、騒がない。ここではあたしが許可出すけど、幹部にも上げるから。で、最終的に冬に間に合わないって判断したら、それまでだからね。そうしたら夏と同じく、オーボエは吹奏から借りる。ショウちゃんも瀬戸ちゃんも、負担が増えるだろうけど本業の練習、手抜かりなく。あと高志、こっち来い」と吉川はいい、バッグを抱えて煙草をくわえる。平松を手招きして外へ出ていった。団員も団員で、ベートーヴェン交響曲第三番「英雄」の中で、知っているフレーズを練習する者もいた。

 屋外では虫の声のうるさいことだろうが、大講堂の中は団員が基礎練習を各個人で行なっているため、蝉の音ですら聞き取るのは難しい。各パートに分かれての練習をしている者もあったし、つまりはそれなりにやかましい大講堂だった。よって、瀬戸がオーボエ転向を希望した話のあと、吉川に連れられ煙草を吸ってきた平松が戻ってきたのに気づいた人数もわずかだっただろう。一緒に吸っていた吉川が戻ってこないことに気づいた者も、同じく少数だったとわたしは推察した。
 その時わたしは自分のオーボエの正確さと表現力を上げるために、瀬戸とは別にロングトーンやタンギング、スケールなど個人練習をしていた。
 なにもいわずクラリネットを組み立てている平松をみて、多少なりとも口出しへの注意を受けたのだろうとかんたんな推量を立てた。が、楽器を置いてため息をつき、自分の額を一打、殴りつけるさまは常ならぬもので、わたしはかれに駆け寄った。
「いい、放っといて」顔も上げず平板な口調でいった。不安に駆られ「でも高志」と近づく。
「いいっていってんだろ」
 その文言とは裏腹に静かな口調でわたしは言葉を失う。そばで練習していたファーストクラリネットの鈴谷が「ショウちゃん、ここは放っとき」というので「でも、先輩」と明らかに異様な高志と落ち着き払った鈴谷を交互に見た。「ええんや。事情を掘り下げて訊くのがええんか悪いんかも分からんのに、第三者が口を出すのはリスキーや」と静かにいう。「第三者って」
「聖子。あとで説明するから、今だけでも放っておいてほしい、っていうのはどうかな」
 じっと黙ってこちらに背を向ける高志に声をかける術すら知らず、わたしは沈黙する。「朝野先輩」と不安がった瀬戸が訊いてきたが、それにも応えられなかった。

 その日、吉川は指揮台に上がらず、大講堂にも戻ってこなかった。高志も高志で、わたしや瀬戸、鈴谷たちとのパート練習中、ミスを繰り返していた。
「やめ」
 鈴谷は楽器を膝に立て、ため息をつく。「平松、吹くのか吹かんのか。吹かれんのんなら、帰って寝ろ」と命じる。かれはその通りにする。荷物をまとめている高志を見ながら、「その、ごめんなさい。私のせい、ですよね」と瀬戸は申し訳なさそうにし、鈴谷は「今日は人が少ない。パー練やめとこか。個人で基礎練、時間まで」とパート練習の解散を宣言した。

「瀬戸さん」吉川も高志も途中で帰った。練習のあと掃除しながら、わたしは瀬戸になんとか安心させようと声をかけた。「あ、朝野先輩」
「たぶん複数の問題が同時に起こっただけだよ。それぞれ関連してるかもしれないけど、でも瀬戸さんが直接の原因でもないだろうから、大丈夫よ」自分への言い訳のようだな、そう感じながらわたしは続ける。「ヨッシーも、平松も、いろんな火種を抱えてるわけだし。わたしだって似たようなものよ。とにかく、そういうトラブルがあっても練習だけはしっかりやろう。わたしの高校時代も人間的にいやな子もいたけど、それでも組織的に音楽をする以上、音楽が第一でないと」
「でも、わたしがオーボエ吹きたいっていわなかったらこうはならなかったわけで」瀬戸を遮り、「はいはい、いまは原因究明ではなく掃除と自分自身のメンテナンス」と先輩風を吹かせた。
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