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IX 『ひとりよりふたりが良い』
079 記憶
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七九 記憶
団の年間のプログラムは年度始まりには、すでにあらかた決まってあったが、そうでないものもあった。
「あのさ、木村」
練習の前、まだ学生指揮者に就いたばかりの吉川が、同じくフルートの首席奏者になりたてだった木村へ話しかける。「なに、ヨッシー?」(このころは『お嬢様方』としての連帯も弱く、吉川への敵意もなかった)
「冬のアンコールさ、あくまでも未定なんだけど――ジムノペディ、オケでできたらいいなって思うの」
「ああ、ドビュッシー?」といったのちに、木村はすこし考えこむしぐさをして「でも、ハープは?」と訊く。「あ、もしかして――うちの妹?」
吉川は少し悪びれたような顔をして「うん。二年生だったよね、たしか。楽器自体もどうにかしなきゃいけなんだけど、弾き手も声掛けられそうな筋には片っ端からあたってるんだ。風向き次第で謝礼なし、交通費だけのタダトラになるかもしれないんだけど、どう思う? コンサート経験も積めると思うし――」
木村はそこで頬笑んだ。
「ねえ、なんでヨッシーはそんなにオケが好きなの?」と訊いた。吉川は右の眉をぴくりと反応させたが、しかしゆっくり首を傾げて木村を見る。「そりゃあ、仲間と音楽やるのが好きだからであって――」
「ああ、でしょうね。まあ、そんなところだろうとは思ってたけど。音大っていうプロを養成する機関で勉強中の学生の手って、そんなに安いもんでもないよ、っていうか安く見ないで。頼むから。妹はわたしとでは、四歳の時から学費に決定的に差があるのよ。妹のハープにはあの子の将来もかかってる。それを学生だからとか、たまたまコネがあったからとかで気安く利用してほしくないのよね、姉としては」
だんだん大講堂に来た学生も増えている。きっと難しい――管理運営の話でもしているのだろう、そう見当をつけたのか、ほかの者たちはいつも通りの練習を始めだした。
「そりゃあ、その、重々承知の上だよ、もちろん。妹さんのレッスンや講義に充てる時間をうちのオケに分けてもらうってことは、妹さんが自身の理解の上で決めてほしい。たまたまクリスマスにほかのオケで――」
木村は右掌を吉川に向けて制止した。「もういい、ヨッシー。分かったから。わたしに限っていえば理解ができた、完全に理解した。安くて、なおかついい音でやりたいんでしょ、クリスマスの定演。結論からいうと、あらゆる面で音大生の妹にとってメリットはない。あるとしても多少ちやほやされるとか、その程度。だいたいさ、このオケで経験が積めるはずもないのよ。団員の自分でいうのも変だけど、こんな低レベルなオケじゃ、ね。だから、姉としては妹に『メリットは一切ないよ』と前置きしたうえでの依頼となる。それを『経験が積める』とか、まるでイーブンな依頼か何かのようにいわれちゃ、呆れるわ。っていうかむかつく、ほんと」
吉川はじっと木村を見、「——じゃあ、どういう条件なら呑めるの」と静かな声量で訊いた。
「条件? そうね――さしあたり、妹の十二月の予定を埋めることへの感謝の気持ち。謝礼の点でも少なくともレッスンプロに対してのものか、それに準ずるものじゃないと、ね」
さまざまな音が渦を巻く大講堂の階段型教室の中ほどの席、木村はゆったりとしたウェーブの髪をかき上げ、いった。「でもまあ、最初からプロかセミプロに頼む予定だったんでしょ?(吉川は無言でうなずく)その方がゲスト奏者ってことで箔も付くし。でも、同じ額であれば日程調整しやすい学生を狙うのも、ありかもね。それにあの子の大学、後期は後期で履修登録するとこだから、今のうち押さえられたら、押さえといてもいいんじゃない?」と茶髪の毛先をもてあそびながら笑って見せる。
そうして、木村の妹が冬季定期演奏会にエキストラ予定として抜擢された。しかし当時、木村が吹っ掛けようとしていたほどには高額なエキストラでもなかったという。
何年もあとになり、吉川と飲んでいるとかの女はこう話した。木村が値段を吊り上げ、それを妹が落とし、結局は一介の音大生の相場よりは高い報酬を得る、という作戦だったらしい――と。木村の思惑はその当時は知らなかった(年度初めの当時、わたしはオーケストラに属していなかったので知りようもなかったのだが)。しかしこのことを話す吉川は、酒も手伝ってか上機嫌だった。
「だってさ、聞いてよショウちゃん。木村、あんなこといったのは単純にがめついっていう理由なんだけど――いやあたしの言葉選びも悪かったけどさ。でも実際の練習とか、すごく楽しそうだったんだよ? とどのつまり、自分と妹ふたりでオケがやりたかったっていうんだよ。子どもの頃からずっと一緒に音楽やってたのに、だんだん妹と差がついてさ。木村は昔みたいに姉妹でステージに上がりたかった、ほんとにシンプルにそう思ってたらしいんだ。かわいいだろ? ああ、あたし木村のこと好きだわ。そのあと『お嬢様方』で連帯して嫌われてたのは、木村とあたしの個人的な、なんていうか痴情のもつれがどうのこうのなんだけど。あ、このこと木村には内緒ね。あいつも今じゃいいパートナー見つけたみたいだし」
今となっては思い出話である。しかし、吉川にしてもその思い出の一つ一つ、終生大事に抱えておきたくなるようなものなのだろう。木村の話を聞くたびに、わたしは少し寂しい気持ちになった。
高志との思い出は、今後一切生まれることがないから。あとはわたしが忘れないように、こうして書き留めておくだけなのだ。
団の年間のプログラムは年度始まりには、すでにあらかた決まってあったが、そうでないものもあった。
「あのさ、木村」
練習の前、まだ学生指揮者に就いたばかりの吉川が、同じくフルートの首席奏者になりたてだった木村へ話しかける。「なに、ヨッシー?」(このころは『お嬢様方』としての連帯も弱く、吉川への敵意もなかった)
「冬のアンコールさ、あくまでも未定なんだけど――ジムノペディ、オケでできたらいいなって思うの」
「ああ、ドビュッシー?」といったのちに、木村はすこし考えこむしぐさをして「でも、ハープは?」と訊く。「あ、もしかして――うちの妹?」
吉川は少し悪びれたような顔をして「うん。二年生だったよね、たしか。楽器自体もどうにかしなきゃいけなんだけど、弾き手も声掛けられそうな筋には片っ端からあたってるんだ。風向き次第で謝礼なし、交通費だけのタダトラになるかもしれないんだけど、どう思う? コンサート経験も積めると思うし――」
木村はそこで頬笑んだ。
「ねえ、なんでヨッシーはそんなにオケが好きなの?」と訊いた。吉川は右の眉をぴくりと反応させたが、しかしゆっくり首を傾げて木村を見る。「そりゃあ、仲間と音楽やるのが好きだからであって――」
「ああ、でしょうね。まあ、そんなところだろうとは思ってたけど。音大っていうプロを養成する機関で勉強中の学生の手って、そんなに安いもんでもないよ、っていうか安く見ないで。頼むから。妹はわたしとでは、四歳の時から学費に決定的に差があるのよ。妹のハープにはあの子の将来もかかってる。それを学生だからとか、たまたまコネがあったからとかで気安く利用してほしくないのよね、姉としては」
だんだん大講堂に来た学生も増えている。きっと難しい――管理運営の話でもしているのだろう、そう見当をつけたのか、ほかの者たちはいつも通りの練習を始めだした。
「そりゃあ、その、重々承知の上だよ、もちろん。妹さんのレッスンや講義に充てる時間をうちのオケに分けてもらうってことは、妹さんが自身の理解の上で決めてほしい。たまたまクリスマスにほかのオケで――」
木村は右掌を吉川に向けて制止した。「もういい、ヨッシー。分かったから。わたしに限っていえば理解ができた、完全に理解した。安くて、なおかついい音でやりたいんでしょ、クリスマスの定演。結論からいうと、あらゆる面で音大生の妹にとってメリットはない。あるとしても多少ちやほやされるとか、その程度。だいたいさ、このオケで経験が積めるはずもないのよ。団員の自分でいうのも変だけど、こんな低レベルなオケじゃ、ね。だから、姉としては妹に『メリットは一切ないよ』と前置きしたうえでの依頼となる。それを『経験が積める』とか、まるでイーブンな依頼か何かのようにいわれちゃ、呆れるわ。っていうかむかつく、ほんと」
吉川はじっと木村を見、「——じゃあ、どういう条件なら呑めるの」と静かな声量で訊いた。
「条件? そうね――さしあたり、妹の十二月の予定を埋めることへの感謝の気持ち。謝礼の点でも少なくともレッスンプロに対してのものか、それに準ずるものじゃないと、ね」
さまざまな音が渦を巻く大講堂の階段型教室の中ほどの席、木村はゆったりとしたウェーブの髪をかき上げ、いった。「でもまあ、最初からプロかセミプロに頼む予定だったんでしょ?(吉川は無言でうなずく)その方がゲスト奏者ってことで箔も付くし。でも、同じ額であれば日程調整しやすい学生を狙うのも、ありかもね。それにあの子の大学、後期は後期で履修登録するとこだから、今のうち押さえられたら、押さえといてもいいんじゃない?」と茶髪の毛先をもてあそびながら笑って見せる。
そうして、木村の妹が冬季定期演奏会にエキストラ予定として抜擢された。しかし当時、木村が吹っ掛けようとしていたほどには高額なエキストラでもなかったという。
何年もあとになり、吉川と飲んでいるとかの女はこう話した。木村が値段を吊り上げ、それを妹が落とし、結局は一介の音大生の相場よりは高い報酬を得る、という作戦だったらしい――と。木村の思惑はその当時は知らなかった(年度初めの当時、わたしはオーケストラに属していなかったので知りようもなかったのだが)。しかしこのことを話す吉川は、酒も手伝ってか上機嫌だった。
「だってさ、聞いてよショウちゃん。木村、あんなこといったのは単純にがめついっていう理由なんだけど――いやあたしの言葉選びも悪かったけどさ。でも実際の練習とか、すごく楽しそうだったんだよ? とどのつまり、自分と妹ふたりでオケがやりたかったっていうんだよ。子どもの頃からずっと一緒に音楽やってたのに、だんだん妹と差がついてさ。木村は昔みたいに姉妹でステージに上がりたかった、ほんとにシンプルにそう思ってたらしいんだ。かわいいだろ? ああ、あたし木村のこと好きだわ。そのあと『お嬢様方』で連帯して嫌われてたのは、木村とあたしの個人的な、なんていうか痴情のもつれがどうのこうのなんだけど。あ、このこと木村には内緒ね。あいつも今じゃいいパートナー見つけたみたいだし」
今となっては思い出話である。しかし、吉川にしてもその思い出の一つ一つ、終生大事に抱えておきたくなるようなものなのだろう。木村の話を聞くたびに、わたしは少し寂しい気持ちになった。
高志との思い出は、今後一切生まれることがないから。あとはわたしが忘れないように、こうして書き留めておくだけなのだ。
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