84 / 96
IX 『ひとりよりふたりが良い』
084 起床
しおりを挟む
八四 起床
まだ暗い部屋で目を覚ます。朝だ。冬の朝は嫌いだ。そもそも冬の朝が好きなひとなどいるのだろうか。今朝はゴミ出しなのだが、この寒い朝に起きだし、捨てに行くなんて無理だろうと昨夜のうちに判断した。正解だった。真夜中の寒さなど、早朝の凍えるような冷気には到底及ばない。時計を見ると六時十五分。部屋は昨晩タイマーをしたエアコンの暖気ですでに暖まっている。起床時間である六時半まで十五分ほど、布団の中で昨夜のことを思い出していた。
――佐々木さん、今ごろはどこか遠くの留置場で起きだす頃だろうか、「あれ、あったかい」とでもつぶやきながら。
「まあ、どんな形であれ生きてるだけましってことだな。亡くなったら善くも悪くもなれないから。そのひとのこと、もう悪くはいえないもんな。聖子のやったことは無駄じゃなかったんだ――ただ風呂に入れただけなのに、ああ書いてたから。おれも、まあ、顔面押し付けて悪いことしたな」
LINEで高志とそんな会話をした。
「ごめん、高志。ここのところ朝がしんどくて。少しでいいから覚醒させたいの。朝起きたとき、五分くらい話し相手になってくれない?」
秋も深まるころ、高志にそう頼んだ。実際には電話をかけると高志はまだ夢の中、というのが常だった。アラームでなくわたしの着信で起こすのも気が引けたが、仕方がない。それにかれの朝の身支度はずいぶんと手早いもので、わたしとのモーニングコールに付き合うのもさしたる負担でもないようだった。
わたしの朝は年を追うごとに重くなっているように感じる。高志とのモーニングコールがなければ起き上がることすらしづらくなってきたのだ。
昨夜はいろいろあった。凍死しそうな路上生活者――佐々木さんを拾い、湯に入れてあげ、気づいたら佐々木さんはいなくなっていた。
高志は夜のうちに自分のアパートへと帰り、わたしはコンビニ必要最低限の酒を買った。
『亡くなったら善くも悪くもなれない』か。どこかで聞いたな――横山里美だ。『亡くなった人はみんな、愛されるよね』。かの女もそういっていた。頬のそばかすがコンプレックスだった。通信制高校から四年制大学に上がって、続けられないと悲観していた。が、その具体的な理由は話してはくれなかった。でも――当面は大丈夫だろう。それより今は、布団から手も足も顔を出せない亀のような現況を打破すべきだ、そう結論し、しかしわたしだけではどうにもならないことに歯噛みする。
六時四十五分ごろ、途方もない努力の末に起きだす。黒のタートルネック、濃紺のスキニーフィットジーンズ、ダークブラウンのチェスターコートをまとう。講義に必要なテキスト類は夜のうちにすべてバックパックに準備してある。一応中身を検める。スヌードを巻き付け、手袋をはめる。気を引き締めていこう。クリスマスコンサート――第六十四回冬季定期演奏会まで、あとわずか。
朝食をコンビニで買い、理化学実験棟の高橋ゼミ準備室へ階段を上る。
「あ、ショウちゃん。おはよ」モスグリーンのふんわりしたニット、ギンガムチェックのスカート、臙脂色のタイツ、暖かそうな裏ボアのモッズコートで先にコーヒーを飲んでいた。
「おはよう、横山さん」わたしがそういうと決まってかの女は「もう、里美かセシリアで呼んでっていってるのに」と頬を膨らませるのだ。年齢に見合わないところも可愛らしい。
「はいはい。それで、今日はなにするの?」わたしも笑いながら返す。
「なんだったっけかな、臨床分析と有機と免疫学と、あと、医療英語か。そんなもんだよ、二年の後期ってったって。ショウちゃんは?」
「こっちも似たような感じ。このあと生命計測で、有機と免疫学はいっしょのコマでしょ? その後は工学英語だから、ずいぶんと型にはまったカリキュラムだよね」
横山は「まあそうだよねえ」と相槌を打ちながら肩を撫でてくる。あの朝もこうして準備室で一緒だった――状況と環境と心境、わたしはこれら三要素で人は気持ちを構成されているとわたしはいったが、あのときのかの女は、(おそらくだが)心境の変化で自主退学をも考えるほどまでに悩んでいた。しかし目の前でおにぎり弁当を食べる横山は、本来の人懐っこさに戻ったように見える。
「大分ましになったみたいでよかったわ」準備室から講義棟へ並んで歩く。「内心、ひやひやしたけどね」とわたしはいう。
「ああ、あれはその、若さゆえってやつよ、ウェルテルみたいな」と、横山はカラータイツを突っ込んでいる辛子色のショートブーツを、わたしとは違う方へと向ける。「じゃ、またねえ」
「ええ、里美さんも」わたしは手を振る。
「え?」横山の顔の表情が停止する。「うち、なんかショウちゃんにいいことしたっけ?」
「いや、とくに何もしてないと思うよ。どうしたの?」
横山は口角を上げ、「ひひっ、ショウちゃんが名前で呼んでくれた、それも自発的に。うん、何か知らないけど好感度、ゲット! それじゃあ、また有機で、ね」
まだ暗い部屋で目を覚ます。朝だ。冬の朝は嫌いだ。そもそも冬の朝が好きなひとなどいるのだろうか。今朝はゴミ出しなのだが、この寒い朝に起きだし、捨てに行くなんて無理だろうと昨夜のうちに判断した。正解だった。真夜中の寒さなど、早朝の凍えるような冷気には到底及ばない。時計を見ると六時十五分。部屋は昨晩タイマーをしたエアコンの暖気ですでに暖まっている。起床時間である六時半まで十五分ほど、布団の中で昨夜のことを思い出していた。
――佐々木さん、今ごろはどこか遠くの留置場で起きだす頃だろうか、「あれ、あったかい」とでもつぶやきながら。
「まあ、どんな形であれ生きてるだけましってことだな。亡くなったら善くも悪くもなれないから。そのひとのこと、もう悪くはいえないもんな。聖子のやったことは無駄じゃなかったんだ――ただ風呂に入れただけなのに、ああ書いてたから。おれも、まあ、顔面押し付けて悪いことしたな」
LINEで高志とそんな会話をした。
「ごめん、高志。ここのところ朝がしんどくて。少しでいいから覚醒させたいの。朝起きたとき、五分くらい話し相手になってくれない?」
秋も深まるころ、高志にそう頼んだ。実際には電話をかけると高志はまだ夢の中、というのが常だった。アラームでなくわたしの着信で起こすのも気が引けたが、仕方がない。それにかれの朝の身支度はずいぶんと手早いもので、わたしとのモーニングコールに付き合うのもさしたる負担でもないようだった。
わたしの朝は年を追うごとに重くなっているように感じる。高志とのモーニングコールがなければ起き上がることすらしづらくなってきたのだ。
昨夜はいろいろあった。凍死しそうな路上生活者――佐々木さんを拾い、湯に入れてあげ、気づいたら佐々木さんはいなくなっていた。
高志は夜のうちに自分のアパートへと帰り、わたしはコンビニ必要最低限の酒を買った。
『亡くなったら善くも悪くもなれない』か。どこかで聞いたな――横山里美だ。『亡くなった人はみんな、愛されるよね』。かの女もそういっていた。頬のそばかすがコンプレックスだった。通信制高校から四年制大学に上がって、続けられないと悲観していた。が、その具体的な理由は話してはくれなかった。でも――当面は大丈夫だろう。それより今は、布団から手も足も顔を出せない亀のような現況を打破すべきだ、そう結論し、しかしわたしだけではどうにもならないことに歯噛みする。
六時四十五分ごろ、途方もない努力の末に起きだす。黒のタートルネック、濃紺のスキニーフィットジーンズ、ダークブラウンのチェスターコートをまとう。講義に必要なテキスト類は夜のうちにすべてバックパックに準備してある。一応中身を検める。スヌードを巻き付け、手袋をはめる。気を引き締めていこう。クリスマスコンサート――第六十四回冬季定期演奏会まで、あとわずか。
朝食をコンビニで買い、理化学実験棟の高橋ゼミ準備室へ階段を上る。
「あ、ショウちゃん。おはよ」モスグリーンのふんわりしたニット、ギンガムチェックのスカート、臙脂色のタイツ、暖かそうな裏ボアのモッズコートで先にコーヒーを飲んでいた。
「おはよう、横山さん」わたしがそういうと決まってかの女は「もう、里美かセシリアで呼んでっていってるのに」と頬を膨らませるのだ。年齢に見合わないところも可愛らしい。
「はいはい。それで、今日はなにするの?」わたしも笑いながら返す。
「なんだったっけかな、臨床分析と有機と免疫学と、あと、医療英語か。そんなもんだよ、二年の後期ってったって。ショウちゃんは?」
「こっちも似たような感じ。このあと生命計測で、有機と免疫学はいっしょのコマでしょ? その後は工学英語だから、ずいぶんと型にはまったカリキュラムだよね」
横山は「まあそうだよねえ」と相槌を打ちながら肩を撫でてくる。あの朝もこうして準備室で一緒だった――状況と環境と心境、わたしはこれら三要素で人は気持ちを構成されているとわたしはいったが、あのときのかの女は、(おそらくだが)心境の変化で自主退学をも考えるほどまでに悩んでいた。しかし目の前でおにぎり弁当を食べる横山は、本来の人懐っこさに戻ったように見える。
「大分ましになったみたいでよかったわ」準備室から講義棟へ並んで歩く。「内心、ひやひやしたけどね」とわたしはいう。
「ああ、あれはその、若さゆえってやつよ、ウェルテルみたいな」と、横山はカラータイツを突っ込んでいる辛子色のショートブーツを、わたしとは違う方へと向ける。「じゃ、またねえ」
「ええ、里美さんも」わたしは手を振る。
「え?」横山の顔の表情が停止する。「うち、なんかショウちゃんにいいことしたっけ?」
「いや、とくに何もしてないと思うよ。どうしたの?」
横山は口角を上げ、「ひひっ、ショウちゃんが名前で呼んでくれた、それも自発的に。うん、何か知らないけど好感度、ゲット! それじゃあ、また有機で、ね」
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる