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IX 『ひとりよりふたりが良い』
086 満足
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八六 満足
かつて、吉川に対してそうした気持ちを抱いたこともあった。一本の数直線がある。その両端にわたしと吉川とを置き、平松高志という点をわたしの方へと引き寄せた。結果的に吉川から高志を奪ったといういい方もできようが、それにしても高志という個人の意思をないがしろにした表現だ。恋愛は自由で、無節操だ。横山にしてみても、かの女は悪くない。自然現象のようなものなのだ。タブーなどありはしないはず――そう結論する。しかしどうにも不機嫌というか、釈然としない思いを抱えて最終時限ののち、練習には出ずまっすぐアパートへ帰る。ただちに冷蔵庫の酎ハイを飲む。
「ふ、う」
よくも悪くもない気分。やはり一日は酒で終わらせるべきだ。
せめて着替えだけはしようか。
ベッドに座ってニットを脱ぎ、さらにジーンズもブラも、ショーツ以外はすべて脱ぎ去り、分厚いスウェットスーツを着て、さらにフリース地の大きなポンチョのような服にくるまる。文机のパソコンの前に陣取る。立ち上げたパソコンからそのアプリにログインすると、アプリは全画面表示に切り替わり、『The Doubted Justice』の文字が躍る。その画面は中央と端から紙が燃えるような演出でブラックアウトし、キャラクターの選択ののち、装備確認画面に移行する。パソコンでオンライン対戦のできる、対人ガンシューティングゲームだ。わたしはその画面をぼんやりと眺めながら、マウスとキーボードでキルレートを稼いでいく。
「聖子、ただいま。きょうもサボり? 出撃中?」
高志が帰ってきた。ということはもう九時を回ったのか。ヘッドホンの外の声に、うん、おかえり、と小さく返事をする(自分の大きな声は密閉型ヘッドホンの中で響いてしまうからだ)。
「ごめん、高志。いま、手が、離せない」短く返事をし、モニタの向こうにいる敵兵士へ警戒しつつ接近する。
ここのところ、練習は行ったり行かなかったりだ。こうした怠惰なわたしを見ることが多くなった高志からの声掛けも、次第に減っていった。冬季定演まで一週間を切るころから、わたしの現実逃避は増え続けている。
「んー!」わたしは高い音域で唸り声を上げ、それから放心したようにキーボードを緩慢に打つ。
「なんて打ってるの?」
「ああ、味方にGJ、全体にGGとか、そんな挨拶打ってただけだよ」高志は買ってきた夜食を食べながら「ジージェイ? ジージー?」と訊く。
「グッド・ジョブ、グッド・ゲーム」
「まあ、そんなもんだろうとは思ったけどね」といい、「で、ご飯は? なんか食ったの?」と訊く。
「ううん、これから。これから高志を食ってやるつもり」わたしは文机から離れ、かれの夜食の入ったコンビニ袋に手を伸ばす。「なによ、おつまみばっかりじゃん。ちゃんとしたのはないの? またおにぎりだけ? 体壊すよう」と文句をいいながら、かれの前であーん、と口を開ける。
「やらねえって。聖子、自分の家だろ。買い置きでも食ってろよ」
「けち」
「どっちがだ」
冷凍ご飯と賞味期限が若干超過した惣菜をあたため、ふたりで食べる。
「高志も、ひとのこといえないじゃん。これ、わたしの家のご飯よ?」
「そういうのがみみっちいんだよ。それで、ああ、今週は何日サボったんだ?」
「今週? さあ、八日か九日くらいかな」
食事を終え、かれは立ち上がって座卓のものを片付けながら、「聖子もとうとうその領域に入ったか」とぼやく。「ただのサボりじゃないのに、ただのサボりかのように見せかけてる理由、そろそろ教えてよ」とかれは水道を出し、食器類を洗いながら訊く。「うお、水が冷たい」
わたしはうつむく。そんなの――。
「そんなの――(わたしは下を向いて頭を小さく振る)理由なんてないよ。このまえ二カ月ぶりの生理で三日くらい休んで、休み始めたら自然と足が遠のいた。たぶん、適性がないのよ、音楽に。好きなのは好きだけど。サマコンにしてみても、演奏会より打ち上げの方が楽しかったし。高志も、その、抱いてくれたし。ということはつまり」
「つまり、もう満足しちゃったってことか」
「まあ、そうなるかも、ね」目線を逸らす。
「こっち向いていえよ。聖子、音楽がつまんなくなったの?」
「――元からよ。元からつまんなかったわよ、あんなの」
「元から?」
「そう。高校二年生のときからよ。思い出のアンサンブルコンテスト。今となってはね。高二のとき、アンコンの木五に出たのよ。わたしだけ二年で、あとは三年。結果、負けた。顧問はみんなに何ていったと思う? 『実力ある三年生主体のアンサンブルに二年生を入れた、自分の判断がミスだった』っていって、みんなの前で謝ったの。一瞬にして冷めたよ。三年生からの票集めのためにわたしは切り捨てられたってこと。だから、人間の音楽には適性ないのよ、わたし。CD聴いてる方がずっとまし」
「それにしちゃあいい演奏だったのにな、支部大会」あたためすぎた春巻きをビールで流し込み、高志はいう。
かつて、吉川に対してそうした気持ちを抱いたこともあった。一本の数直線がある。その両端にわたしと吉川とを置き、平松高志という点をわたしの方へと引き寄せた。結果的に吉川から高志を奪ったといういい方もできようが、それにしても高志という個人の意思をないがしろにした表現だ。恋愛は自由で、無節操だ。横山にしてみても、かの女は悪くない。自然現象のようなものなのだ。タブーなどありはしないはず――そう結論する。しかしどうにも不機嫌というか、釈然としない思いを抱えて最終時限ののち、練習には出ずまっすぐアパートへ帰る。ただちに冷蔵庫の酎ハイを飲む。
「ふ、う」
よくも悪くもない気分。やはり一日は酒で終わらせるべきだ。
せめて着替えだけはしようか。
ベッドに座ってニットを脱ぎ、さらにジーンズもブラも、ショーツ以外はすべて脱ぎ去り、分厚いスウェットスーツを着て、さらにフリース地の大きなポンチョのような服にくるまる。文机のパソコンの前に陣取る。立ち上げたパソコンからそのアプリにログインすると、アプリは全画面表示に切り替わり、『The Doubted Justice』の文字が躍る。その画面は中央と端から紙が燃えるような演出でブラックアウトし、キャラクターの選択ののち、装備確認画面に移行する。パソコンでオンライン対戦のできる、対人ガンシューティングゲームだ。わたしはその画面をぼんやりと眺めながら、マウスとキーボードでキルレートを稼いでいく。
「聖子、ただいま。きょうもサボり? 出撃中?」
高志が帰ってきた。ということはもう九時を回ったのか。ヘッドホンの外の声に、うん、おかえり、と小さく返事をする(自分の大きな声は密閉型ヘッドホンの中で響いてしまうからだ)。
「ごめん、高志。いま、手が、離せない」短く返事をし、モニタの向こうにいる敵兵士へ警戒しつつ接近する。
ここのところ、練習は行ったり行かなかったりだ。こうした怠惰なわたしを見ることが多くなった高志からの声掛けも、次第に減っていった。冬季定演まで一週間を切るころから、わたしの現実逃避は増え続けている。
「んー!」わたしは高い音域で唸り声を上げ、それから放心したようにキーボードを緩慢に打つ。
「なんて打ってるの?」
「ああ、味方にGJ、全体にGGとか、そんな挨拶打ってただけだよ」高志は買ってきた夜食を食べながら「ジージェイ? ジージー?」と訊く。
「グッド・ジョブ、グッド・ゲーム」
「まあ、そんなもんだろうとは思ったけどね」といい、「で、ご飯は? なんか食ったの?」と訊く。
「ううん、これから。これから高志を食ってやるつもり」わたしは文机から離れ、かれの夜食の入ったコンビニ袋に手を伸ばす。「なによ、おつまみばっかりじゃん。ちゃんとしたのはないの? またおにぎりだけ? 体壊すよう」と文句をいいながら、かれの前であーん、と口を開ける。
「やらねえって。聖子、自分の家だろ。買い置きでも食ってろよ」
「けち」
「どっちがだ」
冷凍ご飯と賞味期限が若干超過した惣菜をあたため、ふたりで食べる。
「高志も、ひとのこといえないじゃん。これ、わたしの家のご飯よ?」
「そういうのがみみっちいんだよ。それで、ああ、今週は何日サボったんだ?」
「今週? さあ、八日か九日くらいかな」
食事を終え、かれは立ち上がって座卓のものを片付けながら、「聖子もとうとうその領域に入ったか」とぼやく。「ただのサボりじゃないのに、ただのサボりかのように見せかけてる理由、そろそろ教えてよ」とかれは水道を出し、食器類を洗いながら訊く。「うお、水が冷たい」
わたしはうつむく。そんなの――。
「そんなの――(わたしは下を向いて頭を小さく振る)理由なんてないよ。このまえ二カ月ぶりの生理で三日くらい休んで、休み始めたら自然と足が遠のいた。たぶん、適性がないのよ、音楽に。好きなのは好きだけど。サマコンにしてみても、演奏会より打ち上げの方が楽しかったし。高志も、その、抱いてくれたし。ということはつまり」
「つまり、もう満足しちゃったってことか」
「まあ、そうなるかも、ね」目線を逸らす。
「こっち向いていえよ。聖子、音楽がつまんなくなったの?」
「――元からよ。元からつまんなかったわよ、あんなの」
「元から?」
「そう。高校二年生のときからよ。思い出のアンサンブルコンテスト。今となってはね。高二のとき、アンコンの木五に出たのよ。わたしだけ二年で、あとは三年。結果、負けた。顧問はみんなに何ていったと思う? 『実力ある三年生主体のアンサンブルに二年生を入れた、自分の判断がミスだった』っていって、みんなの前で謝ったの。一瞬にして冷めたよ。三年生からの票集めのためにわたしは切り捨てられたってこと。だから、人間の音楽には適性ないのよ、わたし。CD聴いてる方がずっとまし」
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