執事物語

煙 亜月

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執事物語 後編

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「美波ー。おーい、美波? ああもう、小坂美波!」
 
 限りなく黒に近い紺のスリーピースの男が現れる。走るでもなく歩くでもなく、流麗な動きというべきか、ジャケットを脱いだその男はわたしの前で辞儀をする。柔らかな目のまま尋ねる。 

「お呼びでしょうか、お嬢様」ジレの背中部分、つまりジャケットの裏地部分は表地よりは明るい青で、汗染みひとつない。 
「呼んだから呼んだんでしょ――ん? いまわたし日本語おかしい?」 
 
 わたしはドレッサーの前で顔を作りながら鏡の奥の男――小坂に頬笑む。 
「滅相な。当たり前すぎて当たり前すぎます。わたしがもっと早く気づくべきでした」  小坂美波は、当家の執事である。 

 メイク動画で仕込んだ知識であれこれと試行錯誤を重ねるのはこの家の当主、わたしだ。とはいえ時代は令和、執事だの当主だのというのは名誉職、というか設定であって、今様にいうなら同棲中のコスプレイヤーだ。 

「美波」 
「はい」 
「もう、『はい』じゃないでしょ。わたしが卒業して、そんで状況によっては『おう』って応えるところでしょ?」 
「は、申し訳ございません。高校生時代のお嬢様のお姿があまりにその、衝撃的でして」 
 
 わたしはティントリップをしまい、脂取紙で余分なリップを取る。アップにしていた髪を下ろす。さしたる理由はないが、高校生の頃からずっと伸ばしていたら腰まで届くようになった。 
 今日はどうアレンジしようか。 
 まあ、てきとうでいいや。 
 後ろにひっつめる。戦国時代の女武将のように。 

「お嬢様」 
「なに?」 
「申し上げにくいのですが本日、朝食はお嬢様の当番です」 
「あ」 
 しまったな。第五セメスターのはじまりだからとメイクに気合が入りすぎたようだ。 

「ああ、その、美波さんよ」 
「ひとつ貸し、でございますね。フレンチトーストとお砂糖抜きのカフェオレ、ピカタ、キウイヨーグルトならご用意できます」 
「ああ――あんたって完璧よね。初めて会った時なんかもう最高に面白かったのに。わたしまだあの防犯カメラの映像、落ち込んだ時とかに観て爆笑してんのにさ」

 小坂は、わたしが高校生のころに我が家へ押し入った強盗だ。
 しかしながらもわたしが徹底的に論破して未遂どころか客人として扱い、さらには秘密とアリバイを相互に担保する、ちょっとふつうでない間柄に仕立て上げ、今日までに至った。

 まだふたりは雇い主と執事だが、その関係がこの先どれほど続くかは分からない。だが、当時二〇代の彼も三〇を越えた。十七だったわたしももう二十歳だ。小坂がここへ来て三年以上になるのだ。 

 そしてもう二年弱経過し、わたしが就活に失敗し、さらに院試にも落ちたら前述の通り、同棲するコスプレイヤーとなるだろう、とわたしは読んでいる。もっとも、小坂の方がなにやら忠誠心を抱いて本心からわたしへ仕えているのは読み違いだったが。 

「いただきます」 
 フレンチトースト、コーヒー、ピカタ、ヨーグルト。好みを完全に掌握している。 
「でも、なんかねえ」 
「はい、なんでしょう」 
「カロリー的にアレじゃない?」 
「七訂、と少し古いのですが食品成分表とお嬢様の基礎代謝量から算出して」 
「違う、そうじゃない」 
「と、申しますと」 
「ピカタ半分あげるから、一緒に食べよ?」 
「お口に合いませんでしたか?」 
「うんにゃ。滅法うまい。だから、その、一緒に食べるべきなのよ、ママも作ってくれた人に感謝を込めなさいっていってたし」 
 
「珍しいですね」 
 小坂はわたしの右斜め前に掛ける。カウンセリングの基本、九〇度法である。わたしは右利きなので小坂は正しい。その位置取りが意図したものなのか、あるいは別な意味がないのかはわからないが。
「なにが」 

「お母様のことをお話しされるのは」眼鏡の奥、小坂は目で微笑む。
 わたしは黙りこくってテーブルを睨め付ける。無音のためいきをひとつつく。心のなかで舌打ちをする。

「うーん、ゆっくり食べてたからお腹いっぱいなったかも。美波、あとはあなたが片付けるなり食べるなりしていいわ。バス、今日は一本早めるから。じゃ、ごちそうさま」

 わたしは頭の中のざわざわした感覚が嫌悪感なのか、それとも悔恨の念なのか判然としないまま食卓を立った。置いた箸の一本が床に落ちる。「あ、ごめん、拾っといて」  手早く歯を磨き、玄関へゆく。 

「帰り、遅くなるかもしれないから、あなたはてきとうに食べて寝ててね」そういい残しドアを閉める。 
 
  ――くそみたいなキャンパス。碌でもない連中。取るに足らない講義。そんなものを真面目に見たり聞いたりをする場所。でも、「そんなもの」しか出さないような大学とか、レストランとか、ホテルの客室にしか行けないのはひとえに自分のせいである。 

 くさくさした気分で電車を降り、バスを待つ。小坂美波と携帯電話でのつながりを一切禁じたのはわたしだ。一つ屋根の下とはいえ、泊まり込みの執事。家事も完璧にこなすし、顔もまあ、いい。実際にはかなり都合のよい男だが、まだ今以上の関係には入らせないでいた。
 
 季節も少しずつ春めいてきた。帰りも明るい。それでも小坂は門灯から玄関までずっと灯りを灯してくれている。ただ点けたり消したりが面倒なわけではない。点けっぱなしではなく、夕方から早朝までと決まって点けているのだ。そう、いつも、いつでも、わたしを待っている。

 理由? 分からない。 
 
 三年の年月は長いが、分からないことの方が多い。なぜ彼は夜遊びなどに出ないのか。なぜ彼はわたしに手を出そうとしないのか。なぜ彼はここから逃げないのか。他にもいろいろあるが、若く健康な小坂ならもっと楽しいことにだって首を突っ込んでもいいはずなのに、それを一切しようともしない。 
 
 わたしは高校生の時、ママを殺した。シャワーでその返り血を流し、脱衣場に戻るとナイフを握って震える強盗——小坂がいた。わたしは彼を舌先三寸で丸め込み、お互いの秘密を握り合う関係となった。  
 
 ママのことは、恨んではいない。でも、殺すことは望んでいた。 
 
 わたしは強盗に入った美波のアリバイや不法侵入を無かったことにする前提条件として、一緒にママを埋めた。その後、弁の立つわたしが口八丁手八丁で使っている。 

 家に着いた。門扉を開く。 
「こ――さか?」 
 
 知らず知らずのうちに革鞄のハンドルを強く握る。左前の半身になって近づく。喧嘩の経験はないけれど、家は古武道の名家である。訓練はしてきた。
 
「あ、お嬢様、お帰りなさいませ」 
「んな呑気に――こんな時間になにやってんの?」 
「ええ、なんと申しますか、庭師がいないのでガーデニングの真似事を少々」  彼がいたのは、母親の――。 

「き、貴様ッ! そ、そこをどけッ! そこは、マ、ママの――」  二の句が継げないまま、鞄を抱きしめる。 
「お嬢様?」 

「うるさい――うるさい! 黙れ! この、下郎、なに勝手にひとの、――お墓、いじってんの。そこがどれだけ大事な場所か分かってんの! わたしの、わたしの――」  
 
 小坂は立ち上がり、手についた泥をはたき落とす。 
「存じております」 
「存じ――って、はあ? 信じらんねえ。嘘、そんなの、嘘よ。嘘に決まってる! あんた、同じことされて平気でいられんの? まじで意味わかんねえ。あんた、そこに――なにをしたのさ」  
 
 小坂はわたしに近づく。 
 わたしは後ずさりしつつ、涙で視界が悪いことがこんなにも不利にはたらくのかと、歯を食いしばる。 
「ここに、かつてのお嬢様を埋めます。いえ、すでに埋めました、というべきでしょうか。――芳乃、國米芳乃お嬢様。今わたしが植えたのは、ソメイヨシノです。 

 これ以上のことを語る資格は、自分にはもはやありません。出て行けとおっしゃるなら、出て行きます。ご飯を炊けとおっしゃるなら、炊きます。ただ、お母様に花を手向けたり手を合わせたりすることが立場上、一切できないお嬢様の苦しみはいつも感じています。ひしひしと、強く感じています。それも毎日です―― お嬢様と、同じように」 

 わたしは眼鏡を外して涙を拭こうとする。 
「なりません」小坂が鋭くいう。「なぜならお嬢様、わたしたちの手は、もうこんなに汚れているんですから」 

「じゃあ、どうすればいいのよ」 
 わたしはぐしゃぐしゃになって涙も鼻水も流れるままにした。 
「こう、するんですよ」 

 驚くより先に小坂の手が自分の背中に回された。  彼のジレは汗ばんでおり、この汗でわたしの母親のために尽くしてくれたことに気づく。
 彼の、三年間も一緒にいた男の初めての抱擁はこんなにも優しかったというのか。ふわ、と男の匂いがする。 
 
 わたしは今まで、母のことを、母の良かったところを無視する義務があった。そうでもしないとわたしへの強烈な自己否定につながり、わたし自身への猛攻となるからだ。
 
 小坂のいっていることに間違いはなかった。花も、感謝の言葉も、母へ対するほんのわずかな苦労も、すべてわたしはわたし自身に禁じていたのだ。それらをいま、小坂が代わりにしてくれた。わたしが踏み出せない一歩を、小坂は代わりに歩んでくれた。

 小坂にはわたしの母へ恩も義理もない。ただわたしへの優しさだけで踏み出してくれた。 わたしがどれほど後悔していたのか知ったうえで、三年間、ともに過ごしてくれたのだ。 

「お嬢様。あともう何年か経てば、この枝にも小さな芽ができるでしょう。お母様への手向けの花が何年も、いえ、あるいはわたしたちが死したのち何十年と渡って咲きます。わたしたちも永遠に地の底で生きていくわけにはいかないんです。咲かなきゃ、花は花にはなれない」

 耳朶の充血を感じながら、わたしはそれを黙って聞いた。 
 その晩はまさにお通夜といった食卓だった。小坂美波はやはり九〇度法で座り、食事を一緒にしてくれた。 
「あの、美波」 
「なんでしょう、お嬢様」 
「わたしの――そばにいて」 
 
 翌朝、小坂美波は跡形もなく消えていた。スリーピースのスーツも、靴も櫛も鞄も、何もかも。 
 そのほぼ直後、彼はわたしの母親殺しを「雇用されなかった逆恨みで殺し、死体は海に捨てた」として警察署に出頭したらしい。わたしの家にも何度も何度も刑事が来、そういう経緯を知ったのだ。連日のように被害者家族として聴取を受けた。わたしは自責の念で押しつぶされそうになりながらも耐えた。わたしが母親殺しの罪を認めれば、小坂の強盗の事実が露呈する。わたしが拘留されていては、こうして三年前の防犯カメラの映像を削除することだって不可能となる。もちろん、小坂へ母親殺しの罪をなすりつける訳にはいかない。 
 
 結局、証拠不十分で送検もされなかった。事件として扱われることがなかった。つまり、捜査一課長の権限で立件ができない――事件自体なかったことにされたのだ。わたしの母は現在も、行方不明。 

 わたしは就活に失敗し、院試に落ちた。すべてカードで払っていた生活費も、このままでは底をつく。コンビニ店員をしながら、あの家の固定資産税がとんでもない額だということを知り、遠縁に譲渡するか、不動産屋に売却するかしないといけないと悟った。

  わたしが二十五歳の誕生日を迎える日だった。ソメイヨシノは順調に伸びていた。 
「ねえ、ママ」あれからずいぶん伸びた枝には小さな、ほんとうに小さな芽が出ていた。「わたし、やっぱ死のうかな。そうでもしないと責任、取れないよ。ママの枝で死にたかったけど、今はまだ折れちゃうね」 

「それは」 
 聞き覚えのある声に、ばねのように振り向く。「それはよくないですね、お嬢様」
 
 門扉を開け、スリーピースを着こなした男が近づいてくる。 
「いえ、ちょっと事業が当たったんです。しかも大当たり。で、しばらくはふたりで暮らせそうなんですが、どうかなと思いまして。あ、いや、だからってどうこうしたいわけじゃないんです。ただ、その、ふたりが対等な関係だったらどうなるのかな、なんて」 

 こんな小坂見たことがなかった。こんな、言葉を絞るようにしてもじもじとする小坂は。

「そんなの——決まってるでしょ!」わたしは小坂へ両手を広げながら走り寄る。 
「こうするんですよ、って教えてくれたのはあなたでしょ?」  頬を触れ合わせ、きつく抱擁する。 

「お嬢さ——芳乃さん、なんで僕に罪を着せなかったんです?」 
「わたし、ママを埋葬した夜も美波だけに汗かかせて、自分はママを見ることさえできなかった。でも、一生かけてでも、わたしはママに謝らなきゃいけない。それに、美波。わたしが警察に逮捕されたらあなたの方もいろんな罪がばれるじゃない。だから、余計にわたしは」

「芳乃さん、分かってます。あなたがお母様のことを隠蔽するのにかこつけて、僕の罪までひとりで抱えてるのが目に見えて辛かった。お母様のことと比べたらから僕なんて微罪も微罪、未遂です。そうして屋敷から逃げた。それから今度こそ、僕が罪を着ようと思った。でもあなたは黙っていた。もうどうにでもなれと始めた仕事が軌道に乗って、何もかも忘れてまっさらな人生を取り戻せるかもしれない、と期待さえ抱いた。
 反面、そんな自分が嫌で嫌で。芳乃さん、あなたに謝りたかった。受け入れてくれるかさえ不安もあった。
でも」 

「美波」 
「はい?」 
「しゃべりすぎ!」 
 わたしはうんと背を伸ばし、彼の口を封じた。 


執事物語——了
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