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執事物語 前編
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――きゅ。
実際は音もなく適度なトルク感で摺動するのだが、寒さに縮こまった冬の身体を熱いシャワーでほぐすのだ、それの最後にコックを締める時くらいメリハリがあってもよかろう。
わたしはヘアパックを施した髪をソフトクリームのようにタオルで包んで巻き付け、そのタオルの端が顔に触れさせないよう注意しつつ、浴室の扉を開けて脱衣所へ出る。
知らない男がいた。
わたしはいう。
「あ、ねえあなた、わたしの執事にならない? つまり、その、召使いっていうか、下僕っていうか」
その男――ダークスーツにダークグレーのコートを着込み、濃緑のマフラーを巻き付け、黒い革靴を履き、両手にはめた黒のレザーグローブには短いナイフとライトを握った――は、一瞬の虚を突かれつつもナイフを構え直し、ジジジジと蝉の鳴くような音を発し(吃音があるのだろう)、ようやく
「――さ、騒ぐな! お、脅しじゃないぞ。し、し、死にたくなかったら」と脅した。
「だから、わたし死にたくないから。そんなことひとこともいってないから。ふつうにお話ししましょう? あなたも無益な殺生、リスキーでしょ。そこで提案してるのよ、わたしはね。あなた、わたしに雇われてくれない?」と、わたしはバスタオルで身体を拭き、おだやかな口調で話す。
「寒いから隠すのやめるけど、いい?」
わたしは身体を拭き終えたバスタオルをハンガーにかけ、かごの着替えを取る。「おっ、わっ、あっ、見、俺、見てないから」男は大いに照れたのか、背中を向けて縮こまってしまう。
「はいはい。あのさ、そこの戸、閉めてくんない? せっかく暖房してるのに冷気が入るのよ」と指示する。男は従う。さんきゅ、とわたしは背中越しにいった。
「あ、あ、あんた」
「それくらいわかるわよ、今がどういう状況で、自分が刺されるか乱暴されるかわからない、っていう程度は。でも残念、この家はとある古武術の一派一流を築く血筋なの。そんなナイフ一本、わたしにとってなんの効力もないわ――っていうとたいていの道場破りは刺し違えたり歯で食いちぎったりする覚悟で挑んでくるらしいのよね、昔の話だけど。そうなるとわたしも無傷では済まない。だから、ここでは停戦交渉を結びましょう、ってこと。Got it?」
男もさすがに戦意喪失したのか、面倒くさいと思ったのか、先ほど自分で閉めた脱衣所から廊下へ向かう戸へ走ろうとする。「無駄よ」
「えっ?」
「ああ、もう。だってあなた、わたしのうちに入ったじゃない。金持ちそうに見えたんでしょ? ホームセキュリティに加入するお金、なさそうに見える?」
「じゃっ、じゃあなんであんた、俺をかばうんだ。い、意味分かんねえ」 脱衣所の暖房も再び効いてきて、男の眼鏡が曇り始める。
「あはは、分かるわ、眼鏡っ子ってこのご時世つらいのよね。曇り止め塗ってもすぐ結露するし。ああ、つまりその、わたし裸眼だとほとんどなんにも見えてないからね。まあでも、素人の太刀筋くらいは見えるけど、あなたの人相までは、ね。マスクしてるし」
そこの赤い眼鏡とって、とわたしがいうとやはり男は素直に渡した。
「ありがと。やっぱりあなた、強盗には向いてないわよ。わたしに仕えるのがいいって。あなた、甲斐甲斐しい感じするし」
男は眼鏡を外し、棚からティッシュを取ってレンズを拭きながら「だ、だから、なんで俺が――そ、そんなラノベみたいなことになるんだよ」と苦情を申し立てる。「あれ、見えなかったの? ほら、そこから、ここ、見て、ずっと――血が点々と垂れてるでしょ」わたしは床を指し示す。
男は少し顎を引き「お、女の子の日なのか」と、しごく真っ当だが、状況からいってこの場にたいへん似つかわしくない質問を投げかける。パジャマ姿で化粧水や美容液、乳液をタップする手を止めて大いに笑ってしまう。
「な、なにがおかしい。っていうか笑いすぎじゃないか? お、俺も一応、強盗なんだぞ」
「一応もなにも――あなた、強盗じゃないじゃない、未遂――っていうか、あなたは善良な市民なのよね。今日あなたはうちに面接に来た。わたしの家に執事として雇ってもらおうとしてね。でも、ほんとになにかを盗んじゃったり、ここでわたしを殺しちゃったりすると――わたしが母を殺した嫌疑も当然、かかってくるでしょうね」
もし男が後ろから刺してきても、シャンプードレッサーの三面鏡で刃筋も見える。やろうと思えばタオル一枚で返り討ちにできるし、ホームセキュリティの警備員が来るのも時間の問題だ。わたしは手にI字剃刀を隠し持つ。
「はあ? お、親を殺したって、な、なんだよそれ。俺、知らねえ、なにも見てないから、帰る。俺、か、帰る、帰りたい!」
男は後ずさりしながら、恐怖に固まった眼差しをわたしに向ける。男のナイフもライトも床に落ちる。わたしは立ち上がり、男へゆっくり近づく。
「無駄よ、ぜんぶ無駄。これから取るあなたの行動は何もかも無駄なのよ。——この家にだっていくつもの監視カメラがあるし、そろそろ警備員も来る。あなたがもし仮に自分の利益だけを優先しようものなら、わたしは全力であなたへ母親殺しの罪を着せる。
わたしがママを殺したのは――その、なんていうか、昔から苦手だったんだよね、ママのこと。今日も学校からの帰りが遅いってあんまりにヒステリックにいうもんだから、つい、カッとなって。でもね、遅かれ早かれそうなるべきだったのよ、わたしたち母娘は」
そういってわたしは手の内に隠したI字剃刀をすっと出し、男の頬にあてがう。
「手首の動脈って、皮膚から一cmも奥にあるんですってね。頚動脈ならもっと深い――けど、何度も何度も切って切って、ズタズタに切り刻めば、この剃刀でも切れるかもね。それとも――ふつうに髭、剃ってあげようか?」
男の頬を剃刀で撫でまわしながら、襟元から胸が少しだけ見えるように上目遣いをする。
「く、狂ってる――あんた、狂ってるとしかいいようがない。じゃ、じゃあ、今、風呂で返り血流してたのかよ」と目に涙を浮かべながら男はいう。
「当たり前じゃない(わたしは男に背を向け、洗面台の椅子にすとんと座る)。この寒いなか川で流せっていうの? いまどき禊なんて流行らないわよ。――それにしても、人間の身体ってすごい量の血が入ってるのよね。わたしびっくりしちゃった。
ともあれ、母とはふたり暮らしだったし、そうそう露呈するもんでもないと思うし。もしどこかからぼろが出そうになっても、あなたはわたしのいうとおりにすればいいの。あなたが――今より早めの時間に面接に来たってことにしてくれれば、面接をしたのはわたしではなく、母。あなたは母を殺す動機もないし、わたしも学校に行っててアリバイが作れる。
たとえば、そうね、母はひとりのときに死んだことにすれば、誰も疑われることもないわね。あなたが家に入った合理性も立証できる。そう、すべてよ。ふたりの罪も、すべて隠蔽できる。ぜんぶぜんぶ、なかったことになる。
ホームセキュリティにしたって、わたしが誤動作だって警備員に説明して、あなたも死体を埋めるのを手伝って、何日かして心配そうな、不安そうな顔して交番に行方不明の届を出す。わたしたちね、今お互いの利害が完全一致してるのよ。ね、かんたんでしょ、執事さん? あ、ただし――」
——体の関係だけは、我慢するのよ?
男は顔を完全に弛緩させ、壁に寄り掛かかる。自分が生きているうちに抗うべきものがあっても、結局はなにひとつできやしないのだ、そんな事実を悟った人間の顔だ。それを見たわたしは、
「じゃ、採用だから。よろしくね」
と、心の底からの笑みを浮かべた。
よいではないか、花嫁修業の一環だと思えば。たまにはこの男にご飯でも作ってあげよう。週に五日か六日くらいは男が作ってくれるはずだ。母がご飯を作れなくなったのだから、ちょうどいい。
体も、わたしがいいというまでは禁じておけばいいだけだ。母亡きこの家ではわたしがルールなのだから
実際は音もなく適度なトルク感で摺動するのだが、寒さに縮こまった冬の身体を熱いシャワーでほぐすのだ、それの最後にコックを締める時くらいメリハリがあってもよかろう。
わたしはヘアパックを施した髪をソフトクリームのようにタオルで包んで巻き付け、そのタオルの端が顔に触れさせないよう注意しつつ、浴室の扉を開けて脱衣所へ出る。
知らない男がいた。
わたしはいう。
「あ、ねえあなた、わたしの執事にならない? つまり、その、召使いっていうか、下僕っていうか」
その男――ダークスーツにダークグレーのコートを着込み、濃緑のマフラーを巻き付け、黒い革靴を履き、両手にはめた黒のレザーグローブには短いナイフとライトを握った――は、一瞬の虚を突かれつつもナイフを構え直し、ジジジジと蝉の鳴くような音を発し(吃音があるのだろう)、ようやく
「――さ、騒ぐな! お、脅しじゃないぞ。し、し、死にたくなかったら」と脅した。
「だから、わたし死にたくないから。そんなことひとこともいってないから。ふつうにお話ししましょう? あなたも無益な殺生、リスキーでしょ。そこで提案してるのよ、わたしはね。あなた、わたしに雇われてくれない?」と、わたしはバスタオルで身体を拭き、おだやかな口調で話す。
「寒いから隠すのやめるけど、いい?」
わたしは身体を拭き終えたバスタオルをハンガーにかけ、かごの着替えを取る。「おっ、わっ、あっ、見、俺、見てないから」男は大いに照れたのか、背中を向けて縮こまってしまう。
「はいはい。あのさ、そこの戸、閉めてくんない? せっかく暖房してるのに冷気が入るのよ」と指示する。男は従う。さんきゅ、とわたしは背中越しにいった。
「あ、あ、あんた」
「それくらいわかるわよ、今がどういう状況で、自分が刺されるか乱暴されるかわからない、っていう程度は。でも残念、この家はとある古武術の一派一流を築く血筋なの。そんなナイフ一本、わたしにとってなんの効力もないわ――っていうとたいていの道場破りは刺し違えたり歯で食いちぎったりする覚悟で挑んでくるらしいのよね、昔の話だけど。そうなるとわたしも無傷では済まない。だから、ここでは停戦交渉を結びましょう、ってこと。Got it?」
男もさすがに戦意喪失したのか、面倒くさいと思ったのか、先ほど自分で閉めた脱衣所から廊下へ向かう戸へ走ろうとする。「無駄よ」
「えっ?」
「ああ、もう。だってあなた、わたしのうちに入ったじゃない。金持ちそうに見えたんでしょ? ホームセキュリティに加入するお金、なさそうに見える?」
「じゃっ、じゃあなんであんた、俺をかばうんだ。い、意味分かんねえ」 脱衣所の暖房も再び効いてきて、男の眼鏡が曇り始める。
「あはは、分かるわ、眼鏡っ子ってこのご時世つらいのよね。曇り止め塗ってもすぐ結露するし。ああ、つまりその、わたし裸眼だとほとんどなんにも見えてないからね。まあでも、素人の太刀筋くらいは見えるけど、あなたの人相までは、ね。マスクしてるし」
そこの赤い眼鏡とって、とわたしがいうとやはり男は素直に渡した。
「ありがと。やっぱりあなた、強盗には向いてないわよ。わたしに仕えるのがいいって。あなた、甲斐甲斐しい感じするし」
男は眼鏡を外し、棚からティッシュを取ってレンズを拭きながら「だ、だから、なんで俺が――そ、そんなラノベみたいなことになるんだよ」と苦情を申し立てる。「あれ、見えなかったの? ほら、そこから、ここ、見て、ずっと――血が点々と垂れてるでしょ」わたしは床を指し示す。
男は少し顎を引き「お、女の子の日なのか」と、しごく真っ当だが、状況からいってこの場にたいへん似つかわしくない質問を投げかける。パジャマ姿で化粧水や美容液、乳液をタップする手を止めて大いに笑ってしまう。
「な、なにがおかしい。っていうか笑いすぎじゃないか? お、俺も一応、強盗なんだぞ」
「一応もなにも――あなた、強盗じゃないじゃない、未遂――っていうか、あなたは善良な市民なのよね。今日あなたはうちに面接に来た。わたしの家に執事として雇ってもらおうとしてね。でも、ほんとになにかを盗んじゃったり、ここでわたしを殺しちゃったりすると――わたしが母を殺した嫌疑も当然、かかってくるでしょうね」
もし男が後ろから刺してきても、シャンプードレッサーの三面鏡で刃筋も見える。やろうと思えばタオル一枚で返り討ちにできるし、ホームセキュリティの警備員が来るのも時間の問題だ。わたしは手にI字剃刀を隠し持つ。
「はあ? お、親を殺したって、な、なんだよそれ。俺、知らねえ、なにも見てないから、帰る。俺、か、帰る、帰りたい!」
男は後ずさりしながら、恐怖に固まった眼差しをわたしに向ける。男のナイフもライトも床に落ちる。わたしは立ち上がり、男へゆっくり近づく。
「無駄よ、ぜんぶ無駄。これから取るあなたの行動は何もかも無駄なのよ。——この家にだっていくつもの監視カメラがあるし、そろそろ警備員も来る。あなたがもし仮に自分の利益だけを優先しようものなら、わたしは全力であなたへ母親殺しの罪を着せる。
わたしがママを殺したのは――その、なんていうか、昔から苦手だったんだよね、ママのこと。今日も学校からの帰りが遅いってあんまりにヒステリックにいうもんだから、つい、カッとなって。でもね、遅かれ早かれそうなるべきだったのよ、わたしたち母娘は」
そういってわたしは手の内に隠したI字剃刀をすっと出し、男の頬にあてがう。
「手首の動脈って、皮膚から一cmも奥にあるんですってね。頚動脈ならもっと深い――けど、何度も何度も切って切って、ズタズタに切り刻めば、この剃刀でも切れるかもね。それとも――ふつうに髭、剃ってあげようか?」
男の頬を剃刀で撫でまわしながら、襟元から胸が少しだけ見えるように上目遣いをする。
「く、狂ってる――あんた、狂ってるとしかいいようがない。じゃ、じゃあ、今、風呂で返り血流してたのかよ」と目に涙を浮かべながら男はいう。
「当たり前じゃない(わたしは男に背を向け、洗面台の椅子にすとんと座る)。この寒いなか川で流せっていうの? いまどき禊なんて流行らないわよ。――それにしても、人間の身体ってすごい量の血が入ってるのよね。わたしびっくりしちゃった。
ともあれ、母とはふたり暮らしだったし、そうそう露呈するもんでもないと思うし。もしどこかからぼろが出そうになっても、あなたはわたしのいうとおりにすればいいの。あなたが――今より早めの時間に面接に来たってことにしてくれれば、面接をしたのはわたしではなく、母。あなたは母を殺す動機もないし、わたしも学校に行っててアリバイが作れる。
たとえば、そうね、母はひとりのときに死んだことにすれば、誰も疑われることもないわね。あなたが家に入った合理性も立証できる。そう、すべてよ。ふたりの罪も、すべて隠蔽できる。ぜんぶぜんぶ、なかったことになる。
ホームセキュリティにしたって、わたしが誤動作だって警備員に説明して、あなたも死体を埋めるのを手伝って、何日かして心配そうな、不安そうな顔して交番に行方不明の届を出す。わたしたちね、今お互いの利害が完全一致してるのよ。ね、かんたんでしょ、執事さん? あ、ただし――」
——体の関係だけは、我慢するのよ?
男は顔を完全に弛緩させ、壁に寄り掛かかる。自分が生きているうちに抗うべきものがあっても、結局はなにひとつできやしないのだ、そんな事実を悟った人間の顔だ。それを見たわたしは、
「じゃ、採用だから。よろしくね」
と、心の底からの笑みを浮かべた。
よいではないか、花嫁修業の一環だと思えば。たまにはこの男にご飯でも作ってあげよう。週に五日か六日くらいは男が作ってくれるはずだ。母がご飯を作れなくなったのだから、ちょうどいい。
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