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第一章
温泉に行こう!
◇ 匠 ◇
電車の窓から外をぼんやりと見ていたら、横からお茶を差し出された。
ん?と思って顔を向けたら白河 大門が大丈夫かという顔で匠を見ていた。
白河整体院の院長だ。
「痛むか?」
真面目な顔で聞かれ、いやと首を横に振る。お茶を受け取りながら、座りますか?と空いている隣の席を指したら座ってきた。ぎしりとシートが軋んで揺れる。この院長はガタイが良い。
背は百八十、体重は九十近くあるだろう。初めて会った時、ごつっ?!と一瞬、慄いた。別に鍛えているわけではないというが筋骨隆々だ。
「まだ、喧嘩中か」
本来ならここには竹内 涼風が座る予定だった。匠の恋人だが、只今、絶賛喧嘩中だ。
指定席だというのに、涼風の甥っ子の夏乃と外の景色が良く見える席を飛び回っている。
シーズンオフの平日という事もあり、電車の中はほぼ貸し切り状態だった。車両の後ろにまとめて席が取ってある。
大門の席も涼風の兄の瑞葵の隣にあるが、一人ぼっちの匠を気にしてくれたのだろう。
「瑞葵はいいんですか?」
首を捻り後ろを見ようとして、大丈夫だと大門が薄く笑う。一重の目がどこか冷たい印象を相手に与える。ごついうえに強面。思わず自分よりも年下だというのに、敬語を使ってしまう。
迫力がある。ぱっと見、堅気に見えないが、二十五で自分の整体院を開院し繁盛させている強者だ。
振り返ると瑞葵もぼんやりと外を眺めていた。どこか顔色が冴えない気がして大丈夫だろうかと思うと、大門が肩を竦める。
「寝不足だから、そのうち寝る」
その言葉で慌てて前に向き直った。
なるほど、寝不足。
寝不足かぁ……とじわじわ赤くなる額を押さえる。言った本人はあっさりしているが、なんで寝不足になったのか言われなくても分かってしまう自分がいやだ。
この大門と瑞葵も恋人同士だ。大門は式も挙げたから夫夫だなという。一体、いつ、どこで挙げたんだか……。どうやら竹内の秘書の有川が式を取り持ったらしいが、涼風に確かめられて、ものすごく困った顔をしていた。
はきはき物を言う有川が、あれがそうだと言えば、そうでございますねぇと言葉を濁らせる。思い当たる節はあるのだろう。
瑞葵は知らんぷりだ。だが、一時期、行方をくらませたりしてハラハラしたので、落ち着いてくれて何よりだと言うしかない。
「暇だから、愚痴ぐらいなら聞いてやる」
暇じゃなければ聞く気はないと言われた気がする自分にさらに嫌気がさす。
どうも、ひねくれている。
理由は分かっている。涼風ともめたからだ。
いや……もとは匠が自転車とぶつかったからだ。
先日、匠はながら運転をしていた自転車と交通事故を起こした。
夜だったこともあり、視界が悪かった。そこに匠は夏乃を抱き込み、しゃがみこんでいた。黒っぽい服を着ていた。
そこに、ながら運転をしていた自転車が突っ込んだ。
骨などには異常はなかったが、しばらくは涼風のマンションでお世話になった。
そして、当たり前だが、仕事を休むことになり……薬局長が困ると言ってきたのだ。
交通事故にあったのは気の毒だと思うが、この際、治療に専念したらどうだろうか。口にはしなかったが、やめてもらえないだろうかという意味だと、匠は取った。
まるで、匠にも事故にあう原因があったかのように薬局長は思っている。
なら、怪我してでも仕事しろってか!
頭を抱えた匠の隣で話を聞いた涼風が怒鳴り散らした。わかっている。涼風は匠の為に怒ってくれてた。
ふざけんな!こっちから、やめてしまえっ!
だが……その一言が、匠には重かった。簡単に言うなっ!と怒鳴り返して……喧嘩になった。
事情を知っている大門がビールを飲みながら顔をしかめる。
自分はビールかと横目で見ながら、匠はお茶を口にする。
「まぁ、世知辛いと言えば、世知辛い」
大門がしばらく考えて口を開く。大門は経営者側だからあり得ない話ではないという顔だ。
「使えない駒を持っておきたくないからな」
使えない駒と言われ、カチンとくる。そう言えば、涼風もそういう言い方をする。
喜屋の事を以前そう言った。
喜屋は、瑞葵と復縁……いや、ナンパしてきっちり振られたのに、偶然、再会したことをきっかけに、また、ちょっかいを出して騒動を起こした。
この大門を殴った。
その時はもう瑞葵は大門と恋人同士で喜屋に付け入る隙は無かったのだが、どういうわけか、軽さで定評がある喜屋がしつこく瑞葵に言い寄り、大門を殴り、瑞葵にも乱暴をしようとした。
その時に、匠は事故にあったのだ。
喜屋はその頃、竹内の専属の医者にならないかと誘われている最中だった。匠はもしかしてその話が白紙に戻るのではと思ったが、涼風は『使えるから』となんでもない事のように言い、結局、喜屋は竹内専属の医者に収まった。
まぁ、用事がある時だけ呼ばれるだけだと、憑き物が落ちたように落ち着いた喜屋は笑っていたが……。
「駒扱いですか」
匠の口調がきついことに気が付いたのか、お?と大門が横目で見る。その口端が上がる。
笑っている。
「戻りたきゃ、戻りゃいい」
あっさり言われ、顔をしかめる。大門が今度はきちんと顔を匠に向け、目を細めて笑う。それでも、笑っていないように見えるのはなぜだろう。目が鋭い。
「そこで、顔をしかめるぐらいの場所、ということだろう?」
痛い所をつつかれ、さらに顔をしかめようとして、ふぅと息を吐いた。
そうだとも思う。涼風は匠の勤め先の内情を知っているから匠の為に怒った。
薬局長は匠の事を個人的に嫌っている。何かトラブルがあり嫌いになった、というわけではない。最初から嫌いなのだ。おそらく、存在すら嫌いだろう。
嫌いな人間を平気でいたぶる。そして、上がそうだと他の人間もそういう目で匠を見る。陰で匠は自分が『うかつ君』と呼ばれている事を知っている。
匠の上司がそういう人間だと、匠がいる職場がそういう職場だと涼風は知っているから、辞めちまえと言った。
「まぁ、ごねるだけごねてもいいさ」
ん?と顔を上げると大門が裂きイカを渡してくれた。お茶に裂きイカ?と思いながらも一本引き抜き、口に入れる。
「会社は交通事故にあったからといって、勤めている人間をすぐには解雇はできない」
何かを読んでいるかのように大門が言う。
「解雇の理由にならないんだ」
「え?そうなんですか?」
「そう。で、今、あんたが受けているのは退職勧奨」
聞きなれない言葉に首を傾げる。
「あんたから、辞めたいんですがと言うように仕向けている」
イカがぽろりと口から落ちる。
「え?ちょっ、だって……」
だってと、口を押える。いや……そうなんだろうか。
「よくある手口だ。事故にあった人間はどこかしら体調を崩すことがある。だが、労働基準法で解雇することはできない。不当解雇になってしまう。なら、どうする。怪我に差しさわりがない部署に回す。短い勤務時間に変更する」
怪我をした人間にとって、優しい言葉のようにも聞こえるが……匠は顔をしかめた。
「……暇な部署に回される、正社員からパートに変わる?」
大門が肩を竦める。その通りなのだろう。
「……そのまま、いたたまれなくなって、辞める?」
「そう仕向ける会社もある」
匠が今度は心置きなく思い切り顔をしかめる。なんで、そんなことを知っているんだ?と思ったが、あ、と気が付いた。
大門は整体院の院長だ。交通事故よる体調不良も保険でできるようにしていると言っていた。
今までにも、そういう話は聞いたことがあるのかもしれない。
いきなり、席がドカッと揺れた。大門がじろりと後ろを振り返り睨むと、涼風が睨み返した。
「そこ、俺の席だろうが」
「空席だった」
「俺の席なんだよ!」
どけっ!とまた大門が座っているシートを後ろから蹴る。今まで、帰ってこなかったくせに、大門が座っていると気になるらしい。
だが、大門もふん、と鼻で笑う。この二人、不思議な事に気が合う。
「俺の席と交換してやる」
「やだよ!」
瑞葵の隣に行けと言われて涼風が噛みつく。だが、その声で気が付いたのか、瑞葵がふとこちらに顔を向けた。
どうやら、寝るほどまではなかったらしい。
瑞葵と目が合ったのか、大門が物も言わずに立ち上がる。
自分の横を通る大門を涼風が睨み上げると、大門がその頭を軽く小突いた。身長差は二十センチほどだ。
「やきもち妬くぐらいなら、喧嘩をするな」
やきもちと言われ、涼風が何かを怒鳴り返そうとして、ぐっと飲み込んだ。複雑そうな顔になる。
べぇ!と舌を出し、どすんと匠の隣に座る。匠は見るともなしに瑞葵の隣に戻る大門を見ていたが、大門はシートに座る前に、瑞葵の頬に手を当て……。
慌てて前を向いた。
「……うーん」
公衆の面前って思わないのだろうか。大門は本当にさりげなく瑞葵に触れる。あまりにさりげないので、瑞葵も何も考えずに、大門の好きなように触れられている。
堂々といちゃついている。
「……イカ?」
涼風が自分のシートに何かが落ちているのに気が付き、それを拾い上げた。匠が慌ててそれを摘まみ上げる。
「悪い、さっき、落とした」
「……俺のは?」
俺のと言われても……大門は袋ごと持って行ってしまった。ビールのつまみだったのだろう。匠が仕方がないかと自分のをさらに裂いて涼風に渡してやる。
「……大門、なんだって?」
むちゃくちゃとイカを噛みながら涼風が聞いてくる。匠はあまり話したくなく、うーんごまかした。涼風も、それ以上は聞かなかったが、そのまま匠の隣に座っていた。
◇
レトロな駅から車で一時間ほどの場所に温泉宿があった。有川が手配してくれたが、どうやら老舗の旅館らしい。
三部屋用意されていたが、有川が、まあお茶でも皆で飲みましょうという事で、一つの部屋に集まった。
和室が二間続きの部屋だ。この部屋だけでも良かったんじゃなかろうかと思うが、そう言えば部屋割りの事を聞いていない。涼風に聞いても、首を傾げられた。
今から決めるのだろうか?
お茶を飲んだ後、大門と瑞葵は先に風呂に行った。川沿いの露天風呂が名物らしい。涼風は夏乃と一緒に行くと畳の上でサイコロで遊んでいた。
最近、いつも持ち歩いている。
もらった頃は、手の中でただ、握りしめているばかりだったが、最近、カチカチと音を出せるようになった。
サイコロはいつの間にか黒っぽく手垢がついている。そのうち角も取れそうだと瑞葵が肩を竦める。
学校にも持っていくらしい。リハビリ用の小さなボールを買い与えたそうだが、涼風はやはりサイコロがいいと言ってポケットの中に入れている。
何か考え事をしている時など、カチカチと音が聞こえてくる。
今もそうだ。
「音、出るようになったな」
匠が言うと、別の事を考えていたらしい涼風がん?と振り返った。
「……ああ」
有川と夏乃は一緒にどこかに行った。広い畳の部屋に二人だと何か落ち着かない。
「……涼風」
「ん?」
匠は言おうか、言うまいかと考えていたことをようやく口にした。
「あの喜屋についていたモノは……一体なんだ?」
カチ……。サイコロが手の中で動かなくなる。
涼風が難しい顔で畳を睨む。
以前、涼風と知り合ったばかりの頃に、『陰気』の事について聞いた。
『陰気』『陽気』もともと人間の体にあるエネルギーみたいなもの。バランスが取れなければ、体調を崩すこともある。そして、妬み、怒りか、悲しみなど負の感情も『陰気』となる。
『陰気』が多ければ、不運が重なる。だが、逆に『陰気』が多ければ多いほど、集まる『陽気』も大きくなる。
大きな政党の党首だった老人が亡くなる時に、匠は竹内の『仕事』という物を見せてもらうことができた。
だが、それは瑞葵が事前に教えてくれていた通り、綺麗な仕事でも、普通の仕事でもなかった。
匠はその仕事で人間のひどく醜い部分を垣間見た。
「あれは……『妖気』が混じってた」
ようき?と聞き直し、妖怪の『妖』と教えてもらう。また、物騒な単語が出てきたなと顔をしかめると、珍しいと涼風も言う。
「西ではよく見る。西は古いからな。あちらの術師は妖気の扱う仕事の方が多い」
「西?」
涼風が畳にひっくり返り、東、西と指さした。東、西……。
「京都とかか?」
「まあ……あそこらへん」
涼風も良く分かっていないのかもしれない。だが、そう考えれば、昔の都は関西にあった。
「夏乃が術は大陸から来たと言ってたろ?いきなり、ここには来ないわな。竹内は戦国かそこらへんで西の方から東に移ったらしい」
「戦国?」
「戦国……安土桃山……」
つい最近の事のように言うが、匠の目が丸くなる。結構、昔じゃなかろうか。
「別に不思議な事じゃない。寺なんて、その前からのが山ほどあるだろう」
ふーんと言うしかできない。日本史など高校の時で匠の歴史から消えた。涼風が良く分かってないなと鼻で笑う。
「まぁ、密教みたいなもんだからな……。本宅はあるが、寺はない」
また、ふーんだ。いや、それよりも、と涼風に話を戻させる。なぜ、喜屋に妖気がついたのか気になる。
「陰気はついていた奴を覚えるだろ?血が呼ぶって言ったよな?」
涼風が頷く。天井を睨んでいる顔が険しい。
「あの陰気……妖気?喜屋から剥がされた後、まっすぐに夏乃に飛んできたように見えたぞ」
そうなのだ。涼風は陰気を人から剥がすことができる。だが、普通の陰気なら、湿気た焼き海苔のように、だらりと動かなくなる。また、人から押っ付けられた陰気は亡くなる時に同じ血筋の者を追いかけて張りつく。
夏乃は喜屋の血縁者ではない。
匠は夏乃に向かって飛んできたモノに吹っ飛ばされた。
「……術だと思う」
涼風がぽつりという。「術?」と匠が聞き返す。涼風の手の中でまたカチカチと言う音がし始める。
「大門の所がもともと人じゃないモノが歩いている霊道だったんだ。瑞葵がその霊道を人の邪魔をしないようにする装置をつけたんだけど……出来が良すぎた」
「またか……」
匠がうんざりしたような声を上げる。以前、涼風も匠に人除けのまじないをかけ、それが強すぎてバリアみたいになったことがあると言っていた。強すぎたり、出来が良すぎたり……。
「久しぶりに行ってみたら、妖怪が踊りながら歩いてたんだ」
真面目に涼風が言う。そう言えば、前も言ったな。お祭りでもしてたんだろうか。
「見えない奴ってすごいよな」
なぜか涼風が手を止め、顔をしかめた。何かを思い出している。
「妖怪が自分の周りを踊りながら回ってんのに、平気で踏むんだぜ……」
ぶふっ!と吹き出してしまう。大門のことだろう。大門はそっちはさっぱりだと断言していた。
「妖怪が踏まれてギャーギャー叫ぶのに、平然としてんの。ありゃ、すごかった」
「私は怖いですが……」
部屋に入れないという顔で有川が入り口で固まっている。なんの話か分からないのだろうが、不穏な話と言う事はわかるのだろう。有川は耳が良すぎると以前聞いた。涼風が喰う陰気の断末魔が聞こえるらしい。
夏乃がすごかったですよとしみじみ言う。
「おかえり」
一体どこに行っていたんだろうと首を傾げながら聞くと、他の部屋を見てきたと言った。涼風がどうだった?と聞く。何をしに行っていたのか涼風は知っていたのだろう。
「大丈夫です。何もありませんでした」
夏乃の言葉に、有川も頷く。ようやくそこで匠は夏乃が部屋に何か仕掛けられていないか確かめに行ったことに気が付いた。
「え……」
匠が涼風を見て、夏乃を見る。そう言えば、先日、清掃業者が涼風達のマンションに入り、大門のビルもネズミ駆除の会社が入ったと言っていたが。
「……ん?」
そこまで考えて、結局分からなくて、匠は風呂に行く涼風に飯の後でなと手を振られた。
◇
夕食の前に、と大門が匠を風呂に誘った。皆が集まっている部屋とは別の部屋だったが、そこには驚くことに露天風呂がついていた。
「すげぇ……」
大門が、匠に服を脱げという。
「せっかく温泉に来ているのに、入れないんじゃかわいそうだ」
「自分で……」
シャワーはもう入れるようになったから、自分でできると言おうとしたが、首を横に振られた。
「ふらつくかもしれん」
そうか……と匠も庭で揺れる湯面を見る。もともと、あまり湯船に入る習慣がない。シャワーで済ますことが多い。匠は大門の言葉に甘え、服を脱いだ。それを慣れた手つきで、大門が畳んでくれる。
そういうところを見ると、ガタイに似合わず、細やかな所があるんだなと思う。
「ひえ」
外気が持ったより冷たく感じ、肩を竦めると大門がこちらにと椅子に腰かけるように言った。
「足を湯につけて」
足先を湯につけると熱さにじぐっとする。大門が桶でゆっくりと体にお湯をかけてくれる。
「寒くないか」
「いや……」
大きめのタオルを体にかけ、その上から幾度もお湯をかけてくれる。こうやって、お湯に慣れさせるのだろうか。あまり、体験したことがないことに、大門を振り返る。
「……整体院ではしないですよね?」
「昔からの湯治の知恵だ。湯治、聞いたことないか?」
湯治……聞いたことがあるような、ないような。首を傾げていると、見るぞと言われて、左半身のタオルを持ち上げられた。
ひやりとするが、気持ちが良い。
「……だいぶ薄くなったな」
大門に言われ、匠も自分の左脇腹を覗き込む。事故の後は自分でも見るのが恐ろしいぐらいのどす黒さだったが、それが黄色と緑のマーブルに変わりつつある。
まぁ、それでも見ていい気持ちの物じゃない。
「痺れとか、頭痛とかはでなかったか」
大門がタオルをかけ直し、また、お湯をかけてくれる。今日一日動き回ったが、痛みも不調も感じなかったので、大丈夫だと答えた。
「ふん」
その『ふん』は一体なんだ?と思っていると、ようやく浸かっていいと言われ、湯に入る。ふぅと溜息を吐くと、大門が部屋に入って行った。しばらくして、水を持ってきてくれる。
「五分ぐらいだけな」
せっかくとも思うが、湯が熱い。五分も入ってられるか?とぼんやりと空を見上げていると、どたばたと音がした。
「大門、なんだ」
「ん?」
涼風の声がする。大門が来たかと窓から部屋を覗き込み、こちらだと招いた。涼風がおおっ、と驚いた顔で露天風呂を見る。
「すごいな」
三部屋で露天風呂があるのはこの部屋だけらしい。
「涼風、抜いてやれ」
大門が自分の横に並んでいた涼風の頭を叩いて、なんでもない事のように言った。
抜いてやれ?
涼風と匠が大門を見る。涼風は真面目に露天風呂を見て、大門を見上げる。
「風呂の栓を勝手に抜いていいのか?」
いや、駄目だろうと思って、匠は分かった。思わず、風呂から飛び上がる。
「しっ、白河さんっ?!」
大門の目が匠のそこを見、目をまん丸にした。先程まで、タオルで隠していたから気が付かなかったのだろう。匠が慌ててまた湯に戻る。涼風はいまいちよく分かっていない。
「どした?」
「……いや、そうか」
うん、とよくわからない事を呟きながら大門が涼風に言う。
「いちゃついていい」
いちゃ……匠は頭を抱え、涼風はしばらくきょとんとなる。だが、ようやく意味が分かったのか、ひえっ?!と飛び上がった。
「だっ、大門っ?!」
「白河さん、あんたねぇっ!」
一体何をそそのかしているんだ?!と匠が怒鳴るが、大門は顔を真っ赤にして自分を見上げている涼風に真面目に言った。
「まだ、セックスは駄目だ。左半身に体重をかけるな。O.K?」
O.Kもくそもあるかぁっ!と怒鳴ろうとした匠に、ちらと大門が視線を向ける。
「いちゃつけなかったろ?イライラすんのは溜まっているからだ。俺が抜いてやってもいいが、殺されたくない」
匠と涼風がぎょっ?!とする。大門は言うだけ言ったかと首を傾げたが、あ、と腕時計を見た。
「出ろ。五分、経った」
「出れるかっ!」
そばにあったタオルを投げようとしてしまう。だが、大門はじゃっと手を上げて部屋に戻って行ってしまった。
じゃっ!じゃねぇっ!
「い、てて」
急に上半身を曲げたからか、痛みが走った脇腹を押さえる。涼風が慌てて、手を伸ばしてきた。
「匠、のぼせる。とにかく、出ろ」
涼風の手を借りてどうにか風呂から上がり、外気の冷たさにふぅと息を吐く。全く、なんつぅ院長だ。涼風が部屋から乾いたバスタオルを持ってきてくれる。
「……大丈夫か?」
真面目な顔で匠を覗き込む涼風の髪がまだ湿っている。
大門がとんでもないことを言ったからか目元が赤い。その目元を……少し濡れた目を見たら駄目だった。
ずくっと腰に疼くような痛みが走り熱が溜まる。
久しぶりの……いや、涼風のマンションでも幾度か溜まった熱だ。涼風は匠の横にずっといてくれた。体の痛みでそれどころじゃなかった頃は気にならなかったが、痛みが治まるにつれ違う熱に困った。
そばにいるのに手が出せない。
夏乃も瑞葵いる。手が出せるはずがない。
「涼風、夏乃のとこ戻れ」
だからと言って、今、お膳立てされてもな!
バスタオルでさりげなく隠してそう言うと、涼風は困った顔をした。
「……いたら、駄目か?」
あ、と匠が手で顔を覆う。今の声すら、熱に変わる。涼風もどうやらあっさりと欲情したらしい。
あのくそ院長め……。
「……家じゃ、いちゃいちゃもできなかった」
唇を尖らせて涼風が言う。どうやら悶々としたのは匠だけではなかったらしいと気が付いて、匠も顔を上げる。
そういえば……キスもしてなかった。
涼風がねだる様に目を上げてくる。その目に勝てるわけがない。
匠は立ち上がりながら、涼風を連れて部屋の中に戻った。
電車の窓から外をぼんやりと見ていたら、横からお茶を差し出された。
ん?と思って顔を向けたら白河 大門が大丈夫かという顔で匠を見ていた。
白河整体院の院長だ。
「痛むか?」
真面目な顔で聞かれ、いやと首を横に振る。お茶を受け取りながら、座りますか?と空いている隣の席を指したら座ってきた。ぎしりとシートが軋んで揺れる。この院長はガタイが良い。
背は百八十、体重は九十近くあるだろう。初めて会った時、ごつっ?!と一瞬、慄いた。別に鍛えているわけではないというが筋骨隆々だ。
「まだ、喧嘩中か」
本来ならここには竹内 涼風が座る予定だった。匠の恋人だが、只今、絶賛喧嘩中だ。
指定席だというのに、涼風の甥っ子の夏乃と外の景色が良く見える席を飛び回っている。
シーズンオフの平日という事もあり、電車の中はほぼ貸し切り状態だった。車両の後ろにまとめて席が取ってある。
大門の席も涼風の兄の瑞葵の隣にあるが、一人ぼっちの匠を気にしてくれたのだろう。
「瑞葵はいいんですか?」
首を捻り後ろを見ようとして、大丈夫だと大門が薄く笑う。一重の目がどこか冷たい印象を相手に与える。ごついうえに強面。思わず自分よりも年下だというのに、敬語を使ってしまう。
迫力がある。ぱっと見、堅気に見えないが、二十五で自分の整体院を開院し繁盛させている強者だ。
振り返ると瑞葵もぼんやりと外を眺めていた。どこか顔色が冴えない気がして大丈夫だろうかと思うと、大門が肩を竦める。
「寝不足だから、そのうち寝る」
その言葉で慌てて前に向き直った。
なるほど、寝不足。
寝不足かぁ……とじわじわ赤くなる額を押さえる。言った本人はあっさりしているが、なんで寝不足になったのか言われなくても分かってしまう自分がいやだ。
この大門と瑞葵も恋人同士だ。大門は式も挙げたから夫夫だなという。一体、いつ、どこで挙げたんだか……。どうやら竹内の秘書の有川が式を取り持ったらしいが、涼風に確かめられて、ものすごく困った顔をしていた。
はきはき物を言う有川が、あれがそうだと言えば、そうでございますねぇと言葉を濁らせる。思い当たる節はあるのだろう。
瑞葵は知らんぷりだ。だが、一時期、行方をくらませたりしてハラハラしたので、落ち着いてくれて何よりだと言うしかない。
「暇だから、愚痴ぐらいなら聞いてやる」
暇じゃなければ聞く気はないと言われた気がする自分にさらに嫌気がさす。
どうも、ひねくれている。
理由は分かっている。涼風ともめたからだ。
いや……もとは匠が自転車とぶつかったからだ。
先日、匠はながら運転をしていた自転車と交通事故を起こした。
夜だったこともあり、視界が悪かった。そこに匠は夏乃を抱き込み、しゃがみこんでいた。黒っぽい服を着ていた。
そこに、ながら運転をしていた自転車が突っ込んだ。
骨などには異常はなかったが、しばらくは涼風のマンションでお世話になった。
そして、当たり前だが、仕事を休むことになり……薬局長が困ると言ってきたのだ。
交通事故にあったのは気の毒だと思うが、この際、治療に専念したらどうだろうか。口にはしなかったが、やめてもらえないだろうかという意味だと、匠は取った。
まるで、匠にも事故にあう原因があったかのように薬局長は思っている。
なら、怪我してでも仕事しろってか!
頭を抱えた匠の隣で話を聞いた涼風が怒鳴り散らした。わかっている。涼風は匠の為に怒ってくれてた。
ふざけんな!こっちから、やめてしまえっ!
だが……その一言が、匠には重かった。簡単に言うなっ!と怒鳴り返して……喧嘩になった。
事情を知っている大門がビールを飲みながら顔をしかめる。
自分はビールかと横目で見ながら、匠はお茶を口にする。
「まぁ、世知辛いと言えば、世知辛い」
大門がしばらく考えて口を開く。大門は経営者側だからあり得ない話ではないという顔だ。
「使えない駒を持っておきたくないからな」
使えない駒と言われ、カチンとくる。そう言えば、涼風もそういう言い方をする。
喜屋の事を以前そう言った。
喜屋は、瑞葵と復縁……いや、ナンパしてきっちり振られたのに、偶然、再会したことをきっかけに、また、ちょっかいを出して騒動を起こした。
この大門を殴った。
その時はもう瑞葵は大門と恋人同士で喜屋に付け入る隙は無かったのだが、どういうわけか、軽さで定評がある喜屋がしつこく瑞葵に言い寄り、大門を殴り、瑞葵にも乱暴をしようとした。
その時に、匠は事故にあったのだ。
喜屋はその頃、竹内の専属の医者にならないかと誘われている最中だった。匠はもしかしてその話が白紙に戻るのではと思ったが、涼風は『使えるから』となんでもない事のように言い、結局、喜屋は竹内専属の医者に収まった。
まぁ、用事がある時だけ呼ばれるだけだと、憑き物が落ちたように落ち着いた喜屋は笑っていたが……。
「駒扱いですか」
匠の口調がきついことに気が付いたのか、お?と大門が横目で見る。その口端が上がる。
笑っている。
「戻りたきゃ、戻りゃいい」
あっさり言われ、顔をしかめる。大門が今度はきちんと顔を匠に向け、目を細めて笑う。それでも、笑っていないように見えるのはなぜだろう。目が鋭い。
「そこで、顔をしかめるぐらいの場所、ということだろう?」
痛い所をつつかれ、さらに顔をしかめようとして、ふぅと息を吐いた。
そうだとも思う。涼風は匠の勤め先の内情を知っているから匠の為に怒った。
薬局長は匠の事を個人的に嫌っている。何かトラブルがあり嫌いになった、というわけではない。最初から嫌いなのだ。おそらく、存在すら嫌いだろう。
嫌いな人間を平気でいたぶる。そして、上がそうだと他の人間もそういう目で匠を見る。陰で匠は自分が『うかつ君』と呼ばれている事を知っている。
匠の上司がそういう人間だと、匠がいる職場がそういう職場だと涼風は知っているから、辞めちまえと言った。
「まぁ、ごねるだけごねてもいいさ」
ん?と顔を上げると大門が裂きイカを渡してくれた。お茶に裂きイカ?と思いながらも一本引き抜き、口に入れる。
「会社は交通事故にあったからといって、勤めている人間をすぐには解雇はできない」
何かを読んでいるかのように大門が言う。
「解雇の理由にならないんだ」
「え?そうなんですか?」
「そう。で、今、あんたが受けているのは退職勧奨」
聞きなれない言葉に首を傾げる。
「あんたから、辞めたいんですがと言うように仕向けている」
イカがぽろりと口から落ちる。
「え?ちょっ、だって……」
だってと、口を押える。いや……そうなんだろうか。
「よくある手口だ。事故にあった人間はどこかしら体調を崩すことがある。だが、労働基準法で解雇することはできない。不当解雇になってしまう。なら、どうする。怪我に差しさわりがない部署に回す。短い勤務時間に変更する」
怪我をした人間にとって、優しい言葉のようにも聞こえるが……匠は顔をしかめた。
「……暇な部署に回される、正社員からパートに変わる?」
大門が肩を竦める。その通りなのだろう。
「……そのまま、いたたまれなくなって、辞める?」
「そう仕向ける会社もある」
匠が今度は心置きなく思い切り顔をしかめる。なんで、そんなことを知っているんだ?と思ったが、あ、と気が付いた。
大門は整体院の院長だ。交通事故よる体調不良も保険でできるようにしていると言っていた。
今までにも、そういう話は聞いたことがあるのかもしれない。
いきなり、席がドカッと揺れた。大門がじろりと後ろを振り返り睨むと、涼風が睨み返した。
「そこ、俺の席だろうが」
「空席だった」
「俺の席なんだよ!」
どけっ!とまた大門が座っているシートを後ろから蹴る。今まで、帰ってこなかったくせに、大門が座っていると気になるらしい。
だが、大門もふん、と鼻で笑う。この二人、不思議な事に気が合う。
「俺の席と交換してやる」
「やだよ!」
瑞葵の隣に行けと言われて涼風が噛みつく。だが、その声で気が付いたのか、瑞葵がふとこちらに顔を向けた。
どうやら、寝るほどまではなかったらしい。
瑞葵と目が合ったのか、大門が物も言わずに立ち上がる。
自分の横を通る大門を涼風が睨み上げると、大門がその頭を軽く小突いた。身長差は二十センチほどだ。
「やきもち妬くぐらいなら、喧嘩をするな」
やきもちと言われ、涼風が何かを怒鳴り返そうとして、ぐっと飲み込んだ。複雑そうな顔になる。
べぇ!と舌を出し、どすんと匠の隣に座る。匠は見るともなしに瑞葵の隣に戻る大門を見ていたが、大門はシートに座る前に、瑞葵の頬に手を当て……。
慌てて前を向いた。
「……うーん」
公衆の面前って思わないのだろうか。大門は本当にさりげなく瑞葵に触れる。あまりにさりげないので、瑞葵も何も考えずに、大門の好きなように触れられている。
堂々といちゃついている。
「……イカ?」
涼風が自分のシートに何かが落ちているのに気が付き、それを拾い上げた。匠が慌ててそれを摘まみ上げる。
「悪い、さっき、落とした」
「……俺のは?」
俺のと言われても……大門は袋ごと持って行ってしまった。ビールのつまみだったのだろう。匠が仕方がないかと自分のをさらに裂いて涼風に渡してやる。
「……大門、なんだって?」
むちゃくちゃとイカを噛みながら涼風が聞いてくる。匠はあまり話したくなく、うーんごまかした。涼風も、それ以上は聞かなかったが、そのまま匠の隣に座っていた。
◇
レトロな駅から車で一時間ほどの場所に温泉宿があった。有川が手配してくれたが、どうやら老舗の旅館らしい。
三部屋用意されていたが、有川が、まあお茶でも皆で飲みましょうという事で、一つの部屋に集まった。
和室が二間続きの部屋だ。この部屋だけでも良かったんじゃなかろうかと思うが、そう言えば部屋割りの事を聞いていない。涼風に聞いても、首を傾げられた。
今から決めるのだろうか?
お茶を飲んだ後、大門と瑞葵は先に風呂に行った。川沿いの露天風呂が名物らしい。涼風は夏乃と一緒に行くと畳の上でサイコロで遊んでいた。
最近、いつも持ち歩いている。
もらった頃は、手の中でただ、握りしめているばかりだったが、最近、カチカチと音を出せるようになった。
サイコロはいつの間にか黒っぽく手垢がついている。そのうち角も取れそうだと瑞葵が肩を竦める。
学校にも持っていくらしい。リハビリ用の小さなボールを買い与えたそうだが、涼風はやはりサイコロがいいと言ってポケットの中に入れている。
何か考え事をしている時など、カチカチと音が聞こえてくる。
今もそうだ。
「音、出るようになったな」
匠が言うと、別の事を考えていたらしい涼風がん?と振り返った。
「……ああ」
有川と夏乃は一緒にどこかに行った。広い畳の部屋に二人だと何か落ち着かない。
「……涼風」
「ん?」
匠は言おうか、言うまいかと考えていたことをようやく口にした。
「あの喜屋についていたモノは……一体なんだ?」
カチ……。サイコロが手の中で動かなくなる。
涼風が難しい顔で畳を睨む。
以前、涼風と知り合ったばかりの頃に、『陰気』の事について聞いた。
『陰気』『陽気』もともと人間の体にあるエネルギーみたいなもの。バランスが取れなければ、体調を崩すこともある。そして、妬み、怒りか、悲しみなど負の感情も『陰気』となる。
『陰気』が多ければ、不運が重なる。だが、逆に『陰気』が多ければ多いほど、集まる『陽気』も大きくなる。
大きな政党の党首だった老人が亡くなる時に、匠は竹内の『仕事』という物を見せてもらうことができた。
だが、それは瑞葵が事前に教えてくれていた通り、綺麗な仕事でも、普通の仕事でもなかった。
匠はその仕事で人間のひどく醜い部分を垣間見た。
「あれは……『妖気』が混じってた」
ようき?と聞き直し、妖怪の『妖』と教えてもらう。また、物騒な単語が出てきたなと顔をしかめると、珍しいと涼風も言う。
「西ではよく見る。西は古いからな。あちらの術師は妖気の扱う仕事の方が多い」
「西?」
涼風が畳にひっくり返り、東、西と指さした。東、西……。
「京都とかか?」
「まあ……あそこらへん」
涼風も良く分かっていないのかもしれない。だが、そう考えれば、昔の都は関西にあった。
「夏乃が術は大陸から来たと言ってたろ?いきなり、ここには来ないわな。竹内は戦国かそこらへんで西の方から東に移ったらしい」
「戦国?」
「戦国……安土桃山……」
つい最近の事のように言うが、匠の目が丸くなる。結構、昔じゃなかろうか。
「別に不思議な事じゃない。寺なんて、その前からのが山ほどあるだろう」
ふーんと言うしかできない。日本史など高校の時で匠の歴史から消えた。涼風が良く分かってないなと鼻で笑う。
「まぁ、密教みたいなもんだからな……。本宅はあるが、寺はない」
また、ふーんだ。いや、それよりも、と涼風に話を戻させる。なぜ、喜屋に妖気がついたのか気になる。
「陰気はついていた奴を覚えるだろ?血が呼ぶって言ったよな?」
涼風が頷く。天井を睨んでいる顔が険しい。
「あの陰気……妖気?喜屋から剥がされた後、まっすぐに夏乃に飛んできたように見えたぞ」
そうなのだ。涼風は陰気を人から剥がすことができる。だが、普通の陰気なら、湿気た焼き海苔のように、だらりと動かなくなる。また、人から押っ付けられた陰気は亡くなる時に同じ血筋の者を追いかけて張りつく。
夏乃は喜屋の血縁者ではない。
匠は夏乃に向かって飛んできたモノに吹っ飛ばされた。
「……術だと思う」
涼風がぽつりという。「術?」と匠が聞き返す。涼風の手の中でまたカチカチと言う音がし始める。
「大門の所がもともと人じゃないモノが歩いている霊道だったんだ。瑞葵がその霊道を人の邪魔をしないようにする装置をつけたんだけど……出来が良すぎた」
「またか……」
匠がうんざりしたような声を上げる。以前、涼風も匠に人除けのまじないをかけ、それが強すぎてバリアみたいになったことがあると言っていた。強すぎたり、出来が良すぎたり……。
「久しぶりに行ってみたら、妖怪が踊りながら歩いてたんだ」
真面目に涼風が言う。そう言えば、前も言ったな。お祭りでもしてたんだろうか。
「見えない奴ってすごいよな」
なぜか涼風が手を止め、顔をしかめた。何かを思い出している。
「妖怪が自分の周りを踊りながら回ってんのに、平気で踏むんだぜ……」
ぶふっ!と吹き出してしまう。大門のことだろう。大門はそっちはさっぱりだと断言していた。
「妖怪が踏まれてギャーギャー叫ぶのに、平然としてんの。ありゃ、すごかった」
「私は怖いですが……」
部屋に入れないという顔で有川が入り口で固まっている。なんの話か分からないのだろうが、不穏な話と言う事はわかるのだろう。有川は耳が良すぎると以前聞いた。涼風が喰う陰気の断末魔が聞こえるらしい。
夏乃がすごかったですよとしみじみ言う。
「おかえり」
一体どこに行っていたんだろうと首を傾げながら聞くと、他の部屋を見てきたと言った。涼風がどうだった?と聞く。何をしに行っていたのか涼風は知っていたのだろう。
「大丈夫です。何もありませんでした」
夏乃の言葉に、有川も頷く。ようやくそこで匠は夏乃が部屋に何か仕掛けられていないか確かめに行ったことに気が付いた。
「え……」
匠が涼風を見て、夏乃を見る。そう言えば、先日、清掃業者が涼風達のマンションに入り、大門のビルもネズミ駆除の会社が入ったと言っていたが。
「……ん?」
そこまで考えて、結局分からなくて、匠は風呂に行く涼風に飯の後でなと手を振られた。
◇
夕食の前に、と大門が匠を風呂に誘った。皆が集まっている部屋とは別の部屋だったが、そこには驚くことに露天風呂がついていた。
「すげぇ……」
大門が、匠に服を脱げという。
「せっかく温泉に来ているのに、入れないんじゃかわいそうだ」
「自分で……」
シャワーはもう入れるようになったから、自分でできると言おうとしたが、首を横に振られた。
「ふらつくかもしれん」
そうか……と匠も庭で揺れる湯面を見る。もともと、あまり湯船に入る習慣がない。シャワーで済ますことが多い。匠は大門の言葉に甘え、服を脱いだ。それを慣れた手つきで、大門が畳んでくれる。
そういうところを見ると、ガタイに似合わず、細やかな所があるんだなと思う。
「ひえ」
外気が持ったより冷たく感じ、肩を竦めると大門がこちらにと椅子に腰かけるように言った。
「足を湯につけて」
足先を湯につけると熱さにじぐっとする。大門が桶でゆっくりと体にお湯をかけてくれる。
「寒くないか」
「いや……」
大きめのタオルを体にかけ、その上から幾度もお湯をかけてくれる。こうやって、お湯に慣れさせるのだろうか。あまり、体験したことがないことに、大門を振り返る。
「……整体院ではしないですよね?」
「昔からの湯治の知恵だ。湯治、聞いたことないか?」
湯治……聞いたことがあるような、ないような。首を傾げていると、見るぞと言われて、左半身のタオルを持ち上げられた。
ひやりとするが、気持ちが良い。
「……だいぶ薄くなったな」
大門に言われ、匠も自分の左脇腹を覗き込む。事故の後は自分でも見るのが恐ろしいぐらいのどす黒さだったが、それが黄色と緑のマーブルに変わりつつある。
まぁ、それでも見ていい気持ちの物じゃない。
「痺れとか、頭痛とかはでなかったか」
大門がタオルをかけ直し、また、お湯をかけてくれる。今日一日動き回ったが、痛みも不調も感じなかったので、大丈夫だと答えた。
「ふん」
その『ふん』は一体なんだ?と思っていると、ようやく浸かっていいと言われ、湯に入る。ふぅと溜息を吐くと、大門が部屋に入って行った。しばらくして、水を持ってきてくれる。
「五分ぐらいだけな」
せっかくとも思うが、湯が熱い。五分も入ってられるか?とぼんやりと空を見上げていると、どたばたと音がした。
「大門、なんだ」
「ん?」
涼風の声がする。大門が来たかと窓から部屋を覗き込み、こちらだと招いた。涼風がおおっ、と驚いた顔で露天風呂を見る。
「すごいな」
三部屋で露天風呂があるのはこの部屋だけらしい。
「涼風、抜いてやれ」
大門が自分の横に並んでいた涼風の頭を叩いて、なんでもない事のように言った。
抜いてやれ?
涼風と匠が大門を見る。涼風は真面目に露天風呂を見て、大門を見上げる。
「風呂の栓を勝手に抜いていいのか?」
いや、駄目だろうと思って、匠は分かった。思わず、風呂から飛び上がる。
「しっ、白河さんっ?!」
大門の目が匠のそこを見、目をまん丸にした。先程まで、タオルで隠していたから気が付かなかったのだろう。匠が慌ててまた湯に戻る。涼風はいまいちよく分かっていない。
「どした?」
「……いや、そうか」
うん、とよくわからない事を呟きながら大門が涼風に言う。
「いちゃついていい」
いちゃ……匠は頭を抱え、涼風はしばらくきょとんとなる。だが、ようやく意味が分かったのか、ひえっ?!と飛び上がった。
「だっ、大門っ?!」
「白河さん、あんたねぇっ!」
一体何をそそのかしているんだ?!と匠が怒鳴るが、大門は顔を真っ赤にして自分を見上げている涼風に真面目に言った。
「まだ、セックスは駄目だ。左半身に体重をかけるな。O.K?」
O.Kもくそもあるかぁっ!と怒鳴ろうとした匠に、ちらと大門が視線を向ける。
「いちゃつけなかったろ?イライラすんのは溜まっているからだ。俺が抜いてやってもいいが、殺されたくない」
匠と涼風がぎょっ?!とする。大門は言うだけ言ったかと首を傾げたが、あ、と腕時計を見た。
「出ろ。五分、経った」
「出れるかっ!」
そばにあったタオルを投げようとしてしまう。だが、大門はじゃっと手を上げて部屋に戻って行ってしまった。
じゃっ!じゃねぇっ!
「い、てて」
急に上半身を曲げたからか、痛みが走った脇腹を押さえる。涼風が慌てて、手を伸ばしてきた。
「匠、のぼせる。とにかく、出ろ」
涼風の手を借りてどうにか風呂から上がり、外気の冷たさにふぅと息を吐く。全く、なんつぅ院長だ。涼風が部屋から乾いたバスタオルを持ってきてくれる。
「……大丈夫か?」
真面目な顔で匠を覗き込む涼風の髪がまだ湿っている。
大門がとんでもないことを言ったからか目元が赤い。その目元を……少し濡れた目を見たら駄目だった。
ずくっと腰に疼くような痛みが走り熱が溜まる。
久しぶりの……いや、涼風のマンションでも幾度か溜まった熱だ。涼風は匠の横にずっといてくれた。体の痛みでそれどころじゃなかった頃は気にならなかったが、痛みが治まるにつれ違う熱に困った。
そばにいるのに手が出せない。
夏乃も瑞葵いる。手が出せるはずがない。
「涼風、夏乃のとこ戻れ」
だからと言って、今、お膳立てされてもな!
バスタオルでさりげなく隠してそう言うと、涼風は困った顔をした。
「……いたら、駄目か?」
あ、と匠が手で顔を覆う。今の声すら、熱に変わる。涼風もどうやらあっさりと欲情したらしい。
あのくそ院長め……。
「……家じゃ、いちゃいちゃもできなかった」
唇を尖らせて涼風が言う。どうやら悶々としたのは匠だけではなかったらしいと気が付いて、匠も顔を上げる。
そういえば……キスもしてなかった。
涼風がねだる様に目を上げてくる。その目に勝てるわけがない。
匠は立ち上がりながら、涼風を連れて部屋の中に戻った。
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