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第七章
終章
◇ 綾芽 ◇
先日の総会を思い出して綾芽は溜息を吐いた。明史が消えた途端、人がいなくなった。
それで気が付いた。蘇芳を牛耳っていたのは明史だった。
綾芽など、最初から人形だった。明史の言う事だけを事実だと信じ込まされて、いいように明史は使った。
そして、その明史と結託して金を稼いでいた人間もいた。その人間達が消えた。
「竹内でもあったそうでございますよ」
駅に迎えに来てくれた有川という男が明るく言う。竹内の秘書をしているという。
「今の当主のおじい様だったそうです。外部とのやり取りを任せていた人間が金を持って逃げたそうで」
金……。その言葉を苦く思う。明史は蘇芳の金も奪おうとし……綾芽の家族の命も奪おうとした。
「竹内はそれから家族だけの術家になりました」
まあ、もともと家業ですしね。あっけらかんと有川が竹内の内情を話す。
綾芽は自分の隣に座る真央を見た。真央は物珍しそうに外を見ている。生まれて初めての長旅だ。
山に続く田舎道。周りは刈り取られた田んぼが続く。
自分達の所とはずいぶん違う。
「お疲れではありませんか?」
有川が真央に気を配ってくれる。真央は大丈夫ですと笑って答える。
『術を返されている奴がいるのも、気が付いていないのかっ?!』
綾芽の前髪を鷲掴みにし目を覗き込んで、『片目』かと気が付いた時、涼風と名乗った男は血相を変えた。綾芽は術を返されているという意味も分からなかった。
いや、その時は自分が……自分が術をかけたのが……十二歳の真央よりも小さい子供だったことにショックを受けていた。
嘘よ……嘘だわ。
明史が自分に嘘を吐くはずがない。ちゃんと見ていた。ちゃんと見て……転んで頭を掻いているって言った!
『夏乃は車道に突き飛ばされたんだぞっ!もう少しで、バスに轢かれるところだったんだ!お前がしたことは、人殺しだっ!』
涼風に怒鳴られて……初めて自分が恐ろしいことをしていたことに気が付いた。
だから、明史が消えたんだと……その時ようやくわかった。
人を……殺そうとしたの?
『だって!父様もそうだったもの!父様も見えなかった!片目だったって言ってたわ!』
その言葉に、涼風と夏乃がなぜか飛び上がった。そして、『お前の母ちゃんはどこだ?』と聞いた。
『死んだわ!』
そう、父を追いかけて死んだ!綾芽と真央を置いて!
『病気ばかりしてたのよ!生きてても一緒だった!死んだって何も変わらなかった!』
涼風が手を振り上げたのが分かった。殴られる!と身を竦めたが、夏乃がその腕にしがみついて、綾芽に叫んだ。
『病気の人がいるでしょうっ?!きっと、います!』
病気の人……と言われてすぐ、真央のことが浮かんだ。でも、言いたくなかった。
誰もかれも真央の事ばかり!
『お前の術のつけを……あ、くそっ!どこだっ?!』
涼風がいきなり部屋を飛び出した。夏乃が失礼しますっ!と綾芽に頭を下げてその後を追う。綾芽もがたがた震える膝でどうにか立ち上があり、後を追う。
『くそっ、でかいなっ!』
『広いです!』
二人がまっすぐに走る。蘇芳が人を集める時に使う講堂を抜け、狭い階段を下りる。そして、蘇芳の本家の仏壇を置いてある仏間を抜ける。
何かが教えているみたい。
奥に、奥に進んでいく。
『そっちはやめて!』
綾芽が叫んでも二人は先に進んだ。綾芽達の住居になる家に飛び込み階段を駆け下りる。
真央の部屋に向かう。
そして、つんのめるようにして足を止めた。目の前に真央の部屋がある。その部屋の扉を二人共信じられないと言う目で見た。
『……生きてんのか』
『変な事言わないでっ!』
なんてことを言うのっ?!だが、上から慌てた様子で下りてきた女中が、先程熱が下がらないと言っていたことも思い出す。
『たっ、体調が悪いの!真央は、母様と同じで、体がっ……』
『夏乃に術をかけた日からだろう』
涼風が馬鹿が……と呟き、それでも、どうしようと青ざめた顔で部屋を睨む。飛び込みたいけど、飛び込めないと言う顔だ。
『……なんで』
なぜ、真央が悲鳴を上げた後、熱を出した日を知っているんだろう。
『いやああっ!』
真央が部屋の中で叫んだ。やばい!と涼風が動こうとする前に、夏乃が部屋に飛び込んだ。
何かが、渦巻いていたのは分かった。
でも、綾芽には何も見えなかった。
部屋に飛び込んだ夏乃が床に敷かれた布団の上で、もがいていた真央を何かから庇うように身を伏せ、その上で何かをした。
ばんっ!という音だけは聞こえた。
綾芽もその音と衝撃は感じた。そして、急にあたりが静かになった。
『え……』
自分の耳を押さえる。うるさかったとは思わなかったのに、なぜ、急に静かになった気がするのだろう。
『夏乃っ?!』
ようやく入れると涼風が部屋に飛び込む。慌てて綾芽も入ろうとして……。
『……なに、これ』
真央の部屋の扉の内側に、おかしな札が張られていることに気が付いた。
人除けの札。
『……入られたくなかったからだろう』
涼風が布団にぐたりと横たわる真央の体を確かめている。入られたくない。誰が?
『誰かが、こいつを人に会わせたくなかった』
真央が、ではなく……真央を会わせたくなかった?
『……なぜ?』
夏乃が何かを真央の体の上でしている。くるくると右手を忙しそうに動かしている。真央の体から必死に何かを巻き取っているかのようだ。
『お前らが、へました術を全部この子が被っていたからだ』
あ、と涼風はその時、ようやく綾芽が見えないと思い出したらしい。どうしたもんかなと立ち上がり、綾芽の前に立つ。
『目を貸してやる。今、この部屋がどうなっているか見たらいい』
『目を?』
ん、と言い、涼風は夏乃を呼んだ。どうやら涼風はできないらしい。夏乃が手をくるくる動かしながらそばに来て、くるくる動かしている手の反対の手を綾芽の額に当てた。
額から何かが来る。
額の奥にスクリーンができる。広がる。
真央の部屋の中がそれに映し出された時、綾芽は喉が裂けるかと思うほど悲鳴を上げた。
◇
竹内の本宅自体は蘇芳とそう変わるものではなかった。
人が集まる講堂、仏間、住居。だいたい三軒家が並んでいる。
ただ、蘇芳と違うのは、その家が横に広かったと言う事だ。蘇芳は山肌にあるので、縦に並んでいる。
屋敷を案内してくれたのは、ふわりとした髪の女性だった。にこにこしている。有川の奥さんで、みどりだと名前を教えてくれた。
左半身が不自由なのか、少し歩き方がぎこちない。
講堂に続く狭い階段を上るのに手を貸すと、ありがとうと微笑まれた。
……それが少し、後ろめたい。
この竹内は皆、綾芽が何をしたか知っている。それなのに、綾芽に親切にしてくれる。自分が蘇芳で涼風達に取った態度がひどく恥ずかしい。
「お連れいたしました」
みどりがそう襖に声を掛けると、中で人が動く気配がした。
竹内の本当の当主がいる。
夏乃の父だ。
綾芽は板間の廊下に正座し、頭を床につけた。隣で真央も同じ事をする。
……知らなかったでは済まない。綾芽は当主の子供を殺そうとした。
がら、と襖があき、おや?という声が頭の上からした。朗らかな声。その声にそれでも震える。
怖い。
真央の部屋の中を思い出すだけで怖い。人でないものが溢れていた。そして、蘇芳が送ったはずの気も真央の部屋に溢れていた。竹内が跳ね返した蘇芳の気だ。
術を全て返すことができる人間だ。
「なんだ?どうした」
真央の手が先に引かれた。そして、同じ手で綾芽も起こされる。
どんな人だろうと思っていたが、自分の父親よりもずいぶん若い男に少し驚いた。なんとなく、有川と同じぐらいかと思っていた。
「見えなかったよ」
あははと笑われる。その笑い声にも身がすくむ。
「ご……ごめんなさい」
頭の中で幾度も謝罪の言葉を考えてきた。許してもらえるまで、頭を下げようと思っていたのに。
出てきた言葉は、小さい子供のようで自分でも頼りなげで悔しい。
「竹内様」
真央が、自分よりも二歳下の真央が、もう一度、床に膝をついた。
「ご迷惑をおかけしました」
私も謝りたいと真央を見るが、竹内の当主はうん、とだけ言い、みどりに真央を立たせるように言った。
綾芽の腕を軽く掴んだまま、良かった良かったと笑う。何が良かったのかもわからなかったが、広い講堂にもう一人、男がいた。
こちらは初老の男性だ。竹内の関係者だろうか。
「ようやく、顔を合わせることができた」
初老の男性はそう言うと、座らされた綾芽と真央に向かい、にこりと笑った。
「お初にお目にかかる。私は天叢、北の術家の者だ」
そう言われても綾芽にはピンとこなかった。紹介され、真央と共に西の蘇芳ですと常套句を述べる。
「うん」
東、西、北、南……。日本にいるとされる術家。その北の天叢が……なぜ、東の竹内に?
「当主代わりをしたらね、顔を合わせていた方がなにかと便利な事があるからね」
当主代わりと言われ、真央が慌ててもう一度、深く頭を下げる。
そう……本当の当主は妹の真央だった。
「失礼をいたしました。私が今度、蘇芳の長になりました蘇芳真央でございます。どうぞ……お見知りおきを」
この家業に年齢は関係ない。子供だろうが関係ない。
だが、それは……子供でも、大人と同じ礼儀を求められる。
所作を求められる。
真央の横でカチカチと歯が鳴るのを止められない。本当の当主をさておき、姉の綾芽がしゃしゃり出た。自分が何をしているかもわからない片目だったくせに。
それも……命がかかわることに。
「いや、普通なら、先代が亡くなられた時に、亡くなったと連絡があるはずだが、それも無かったものだからね」
え、と真央も顔を上げた。そして、申し訳ございませんん……と呟いた。
父が亡くなり、後を母が追った。葬儀も慌ただしく、明史と綾芽が対応に追われた。
どちらを先代と言っていいのか、真央にも分からないのだろう。
表向きと事実が違う。
「まあ、色々あったが、どうにか当主同士、挨拶ができた。知らなかっただろうが、年に一度ほど当主会もあるんだよ」
「今度の当主会は昼間にしないとな。お嬢さんを夜連れ出すわけにはいかん」
そう言って笑い合う当主達を見て唇を噛む。
当主など気位の高い人間ばかりです。自分の縄張りを荒らされないかと言う事ばかり心配している。
嘘ばっかり。
本当は……明史も知らなかったのではないだろうか。
当主達がどんな人間かなんて、もしかしたら、父も母も知らなかったかもしれない。
俯いた綾芽を当主達がちらりと見る。真央がぎゅっと膝の上に揃えた拳を握る。
そして、もう一度、深く頭を下げた。
「この度は、蘇芳がとんでもないことをいたしました。蘇芳の不始末は、当主の私の責でございます」
頭を下げた真央の横で綾芽が飛び上がる。
「違います!私です!私がしました!」
何を言うの!と真央の肩に手をかけ、それでも動かないと分かり、綾芽は真央の前に体を投げ出し、身を伏せた。
「私がしました!夏乃……夏乃様が現当主だと!蘇芳の術を見せるだけだと!」
何を言っても、言い訳にしかならない。
当主代わりの挨拶さえきちんとしておけば!ちゃんと確認をしておけば!
「いも……真央は!真央は関係ありません!真央は閉じ込められてました!人除けの札が貼られた部屋に押し込められてました!」
同じ家にいたのに!綾芽がぐぅっと喉を鳴らして、嗚咽を堪える。
「真央の!真央が病気だと知っていたのに!私!顔すら見に行かなかった!」
行かなくていい。いつもの事だから。今は大事な時だから。
そんなことばかり考えていた。残された家族だったと言うのに!
「ごめんなさい!」
泣きじゃくる姉の綾芽とは裏腹に、妹の真央は泣きもしなかった。
気弱だが腹が座っている。こうと決めたら、やり遂げる強さがある。
当主達が顔を見合わせ軽く頷いた。蘇芳がどう出るか……試していたという雰囲気だ。
「まぁ、お家騒動だったが、ない話ではない」
「不思議な事にね、なぜか力が強い術師が現れると、それに反目するような輩も現れるんだよ」
力の強い術師を思うがまま操ろうとする者。最初から排除しようとする者。
明史は……それを蘇芳と竹内でしようとした。
「夏乃」
「はい」
隣の部屋にいたらしい。名前を呼ばれ、すっと襖が開く。
くりくりの髪をした子供が裃を付けて入ってくる。
見た瞬間、駄目だった。ひくっとしゃくりあげて、ごめんなさいと繰り返すしかできなくなる。
こんな小さな子を……自分は。
「夏乃。座れ」
竹内の長が静かに言い、夏乃は綾芽の隣に座った。
子供三人が並んで年長者を見る。
「真央、綾芽、夏乃」
名前を呼ばれ、綾芽だけが肩を震わせた。後の二人は静かに竹内の長を見る。天叢の長も軽く目を伏せている。
「お前達は私達の次の世代になる。子供だから、大人だからという世の理が通用しない世界だ」
「この術家に生まれた以上、否が応でも見えない世界と関わらざるを得ない。そして、見えない世界は綺麗な物でもなんでもない。恐ろしく思う事もあるだろ。難しいと思う事もあるだろう。だから、それぞれの当主と相談できるように当主会がある。皆、悩むからだ。どんな当主でも、術家でも」
真央が下を向いた。夏乃はまっすぐに父親を見ている。
「知識を偏らせてはならない。見る目を人に任してはならない。動くことをやめてはならない」
それぞれが、それぞれの事を考える。
「同じ過ちを繰り返すな。繰り返す者がいたら止めろ。知らない者がいたら、今日みたいに教えてやれ。それが、お前達の務めだ」
自分達の……次の世代に伝えろということなのだろう。
夏乃が元気よく、はい!と返事をした。綾芽と真央は頭を下げることしかできない。
特に綾芽は『片目』だ。見る目を人に任すなと言われても……。
「一人で抱え込まなくていい。まず、自分の所の長に相談する。それでも難しければ、また、二人でここにおいで」
竹内の長が口調を柔らかくして、綾芽に言ってくれた。二人でと言われ、なぜかほっとする。真央と顔を見合わせ、今度は「はい」と言うことができた。
さて、と天叢が竹内の長を見た。顔が渋い。
「うちにいるのはどうしたらいい」
竹内が目を伏せ、どこに?と聞いた。
「ああ……そうか。中か……外そう」
なんのことだろうと綾芽達が大人を窺う。天叢はちらりと子供達を見て、頭を掻いた。子供に見せたくはないと言う顔だ。だが、竹内は表情を変えない。
何も知らない子供がいいように使われる。今回はその典型だった。
「呪わば穴二つと言う意味を知っているか?」
天叢が聞いたことがある言葉を口にする。夏乃は知っていたらしい。
「誰かを呪ったら、墓穴が二ついる、ってことでしょう?」
「そう」
呪われた者と呪った者。
「共倒れなんだ。だから、術家は人を殺めることを許してはいない」
「まぁ、どんな形であれ、人を殺めてはならないし、本来なら害することもしてはならない」
「そして、術をかけるだけかけて、後はとんずらということもできない。一時は逃げられるかもしれないが、捻じ曲げた術を使えば、反動が来るのが当たり前だ」
「気は追えるからね」
天叢が何かを袖の中でした。夏乃が父に言われ綾芽の手を取る。
何が始まるというのだろう。
「因果応報という」
「さて、見えるかな」
びくっと真央が飛び上がった。驚いた綾芽の額の奥にも何かが見え、体を強張らせる。
真央の部屋を見た時と同じだ。綾芽が見ることができない世界だ。
額の奥にスクリーンが浮かぶ。ぐっと夏乃の手を握りしめてしまう。綾芽が見えないから、夏乃を通して見ているのだろう。
でも、何を?
「ここは、うちの道場だ」
天叢が何でもない事のように言う。綾芽が目を見開く。北の天叢の本宅から映像を飛ばしているのか。
「……あ」
綾芽がその道場に座り、何かを必死に祈っている痩せた背中を見つける。
痩せた背中。丸まった背中。
見覚えがある。明史だ。
きりっと綾芽の歯が鳴る。こんな所に……。
「この男は竹内が……ああ、夏乃達が蘇芳を訪れた日に天叢に来たんだ」
「え……」
「だが、うちには先に有川からこういう事があったと連絡を受けていてね」
天叢が少し口の端を上げて苦く笑う。
「北の方までは話は来てないだろうと思ったんだろうな……」
舐められたもんだと呟く。もしかしたら、明史は本当に当主達はあまり疎通がないと思っていたのかもしれない。
当主会があることも知らなかっただろう。
「うちは、あら、いらっしゃいで迎え入れた。よく来た、しばらくいたらどうだ」
そう言って、素知らぬ顔で当主討ちを仕掛けた当人を捕まえた。
明史は近くまで来たからと笑い、来たついでに、修行でもさせて頂こうかなと笑ったそうだ。
修行と言う名目で、天叢の守りの中に身を潜める。
「うちを隠れ蓑にするぐらいの度胸はある。それに、この男、面白いが恐ろしい術を使う」
明史が術を使うと聞いて、綾芽も真央も驚いた。それは二人共聞いたことがなかった。
「おじ様も術を使えるんですか?」
自分は見るだけで、何もできないと言っていた。
「淫気を捕らえ、縛ることができる。まぁ、力というより、どこかで手に入れた術だろう」
天叢が興味はあると顎を掻きながら空を睨む。その横で竹内が肩を竦める。
「そして、縛った淫気を使役する。縛られた淫気は自由になりたいがために、また、術師の命令を聞かざるを得ない。その淫気を狙った人間につけられるんだ」
綾芽がぽかんとする。そんなことができるのだろうか。そんな……人を操るようなことが。真央も目を丸くしている。二人共、聞いたことがない。
なぜ、明史はそんなことができるのだろう。
「本来ならどうこうできるものでもない。淫気は気ではなく、欲だから」
「欲?」
綾芽と真央が顔を見合わせる。淫気というものは術家にはタブーのはずだ。どこか不潔な物という認識がある。当主達が仕方がないと少し笑う。
「年頃の女の子達はそうだな。だが、淫気は欲なんだ。性欲」
性欲と言われても……綾芽は真央と目を交わして、やはり困った。
やはり話題にはしにくい。
「性欲がなければ子は生まれんよ。性欲とはっきり言ってしまえば、恰好が付かないから、淫気と呼ぶ」
「……はぁ」
まぁ、そうなのだろうが……。自分達より年下の夏乃は平気そうだ。男の子だからだろうか。
「だが、この男はたちが悪かった。使役した淫気を最後には狙った者に当たらせて、霧散するまじないをかけた」
霧散……綾芽が口の中で繰り返す。使うだけ使った後……証拠を残さないように消すことすらしたのか。
強く目を閉じる。
自分も……淫気と同じだったのだろう。使うだけ使い、最後は捨てるつもりだった。
悔しい。ただ、悔しい。
自分が真央を狙うように仕向けた。綾芽が知らなくても、綾芽のせいで真央が傷つくように明史は仕掛けた。
もし、それを……もし、真央になんかあった時に、綾芽がそれを知ったら。
自分のせいで誰かが傷ついているのを知ったら。
がくっ、と体が震えた。
今のは何?と体が震えた。
今、自分は……何にたどり着いた?
夏乃に握られていない手で口を覆う。もしかしてと、気が付き、目から涙が溢れる。
「父は……」
真央が顔を伏せた。その仕草に知っていたの?!と悲鳴を上げそうになる。
父は……母に自分がかけたまじないのつけを払わせていることに……気が付いた。
ぼろぼろと涙が溢れて膝に落ちる。父がどうして死んだかはわからないが、きっと、母がしていることを知って、どうかしようとしたのだ。そして、返ってきたまじないを受けて……。
「ひっ、どい……」
自分も、自分も同じことを真央にしていた。もし、あの時、夏乃達が来てくれなければ、綾芽は真央の事など気にせずに、術を放ち続けた。
自分は真央を……真央を役立たずだと思っていたから。蘇芳の術には関係していないと思っていたから。
講堂の中に綾芽の泣き声だけが響く。その声を苦く皆が思う。
そして、天叢の道場で自分が逃げ切る事だけを考えている明史がいる。
「下がるか?」
竹内が静かに聞いた。綾芽が首を大きく横に振る。自分が愚かだと、馬鹿だったとよくわかった。
何も知らなかった役立たずは自分だった。
「……ごめんなさい」
取り乱した。ぐすっと、手の甲で鼻を拭うと真央が綺麗に畳まれたハンカチを渡してくれる。それをありがたく受け取り、前歯で噛む。
くやしい。
綾芽が気を取り直したのが分かり、さてと竹内が襖を見た。
「淫気に手を出した者の末路を、そろそろ見ようか」
今度は「京香」と呼んだ。女性の名前。
綾芽も真央もてっきり女性が入ってくるのだとばかり思っていたが。
再び、襖が開き、涼風と……誰か背の高い若い男が入ってくる。背の高い、少し痩せた男。涼風が少し複雑そうな顔をしている。
一体、なんだろうと、二人を見るしかできない綾芽達の前で、その背の高い男はしなりと膝をついて、綺麗な所作で頭を下げた。
綾芽と真央がぎょっ?!とする。こう、なるのだろうか?
「いや、ちょっと違う……」
涼風がそうだよなぁと口を押えながら、これも一種の特殊例だと言った。
どうやら、この男は本当は男で、体の中に淫気がいるらしい。その淫気の名前が「京香」で女性らしいが……。
二重人格みたい。
涼風も、まぁ、そうだよなぁと額を押さえている。天叢も面白そうに床に座り、薄く笑っている男、京香を見ている。
「……ごめんなさい」
だが、真央が口を、いや、鼻を押さえた。え?と綾芽が真央を振り返る。真央は顔をしかめている。
「香りが、きつい……」
香り?綾芽が慌てて空気を嗅ぐが何も感じない。涼風が「お前もか」と肩を竦める。
「俺もわからないんだ。だが、分かる奴にはなんか……」
「バナナの香りがします」
夏乃が元気よく言い、真央が複雑な顔をした。バナナ……と首を傾げている。だが、綾芽は涼風が淫気の匂いを自分も分からないと言ったことに目を丸くした。
「そうなの?」
「悪かったな」
一気に機嫌が悪くなる。もしかして、気にしていたのかもしれないが、分からないのが自分一人ではないと知って、少しホッとしたのも事実だ。
「京香、説明を」
はい、と男にしては少し高い声で話し出す。
明史の術で縛られた淫気が、ある女性につけられていたこと。この淫気特有の香りが漏れないように淫気を術で包んだ上に、さらに陰気で包んであったこと。
その陰気饅頭がつけられていた女性が自分の母親を殺そうとしたこと。
それを竹内が女性からその陰気饅頭をはいだ後、京香がこの体に招き入れたこと。
そして、ゆっくりと育てている事。
「育てている?」
真央が不思議そうに聞き返した。その問いに京香は「私も淫気だから」と笑う。
何を育てているのだろうと考えて。急に分かった。
怒りだ。
綾芽が気が付いた。先程、綾芽も怒りを明史に対し感じた。
捕まえられ、使役され、最後には散れとまじないをかけられた淫気だって怒る。いや、怒り狂う。
天叢が再び袖の中で何かをした。その途端、明史の姿が先程よりもクリアにスクリーンに映し出される。
「解いた」
天叢が短く言い、竹内を見た。
それまで、優しく笑っていた竹内の長の顔がすっと冷たい物に変わった。
綾芽の背がぞくりとする。
竹内の長も……怒っている。いや、そんな言葉では言い表せない。
本気で明史に何かをする気だ。
「……返すだけだ」
竹内が目を伏せて小さく言う。
「だが、思い知る。……自分が今までどれだけの者に苦しみを与えたか」
悲しみを。怒りを。恨みを。
「つけは払ってもらおう」
そう言い、竹内は京香を見た。軽く頷く。
「熨斗をつけてお返ししよう。飛ばせ」
「はい」
京香が立ち上がり講堂の天井を見上げる。すっと両腕を上げ、綾芽には見えない大きなボールを、ぽん、と投げ上げた。
「お行き」
言い終わる前にどんんっ!!と屋敷が揺れた。地震かと一瞬思うほどの揺れだったが、すぐにおさまる。
んっ?!と天叢が慌てて袖の中で何かをする。竹内も両手を袖に入れ何かをしている。
ぱんっ!と今度は何かが張りつめる音がした気がした。
「戻ってくることはないとは思うけど……」
長達の動きに京香がころころと笑う。所作が完全に女性だ。この京香が入っている男は、普段は本当に男性として生活しているのだろうか……。
「あ」
真央が先に声を上げた。綾芽が慌てて目を閉じ、額の奥のスクリーンを見つめる。
スクリーンの中で明史が飛び上がった。
何かに気が付いた。道場から飛び出そうとして、扉が開かないらしい。
扉を両腕で叩き、何かを必死に叫んでいる。その体がおかしな具合にひねり出す。
片腕を上げ、片膝が落ち……床に崩れながらも、死に物狂いで道場から出ようとしている。
「……一体じゃない」
真央が強く顔をしかめる。京香がそうねと答える。
真央には明史の体を包む怒りに狂った淫気が見えているのだろう。
「一人の人間の性欲なんてちっぽけなものだもの。でも、欲は欲よ……。満たされなければ、気持ちは残るし、残って集まれば淫気になるわ」
満たされない。
「京香、もういいか?匠、大丈夫か?」
涼風が京香に近づき京香の顔を覗きこんんだ。大丈夫かと心配そうなのを見て、涼風は京香よりその体の持ち主と知り合いなのかと気が付く。京香が腕を伸ばし、涼風の体を抱きしめその頭を撫でた。涼風は嫌がる素振りも見せずに、京香にしがみつく。
不思議だ。術師と淫気が仲が良いなんて。
「またね」
京香がそう言い……がくんと崩れた。
その体を涼風が支える。どこから出てきたのか気が付かなかったが、有川も匠と涼風が呼んだ男を支える。
「うー……」
気持ちが悪いと言う顔で喘いでいる。驚くことに、さっきまでの女性らしさが綺麗に消えている。
綾芽も真央もぽかんとなる。
「吐きそうか?吐いていいぞ?」
「袋、持ってまいります」」
有川が講堂から飛び出し、洗面器と袋を持ってきた。
匠が、いや、吐くまではないと真っ青な顔で涼風の体を寄せ、先程の京香がしたように抱きしめる。
「うまく……やれたか?」
京香に体を使われている間の意識はないのだろう。不安そうな匠に大丈夫だと涼風が真面目に言い……。
驚くことに、匠の額にキスをした。
竹内の人間は皆、知っている事だったが、竹内の人間じゃない者がその場に幾人かいた。
気分が悪そうな匠を有川が連れていく。ぽかんと自分も見ている綾芽と真央に、涼風がなんだよと膨れる。
「えっ、と?」
綾芽が代表して聞いた。今のは、なんだ?
「俺と匠は魂が半分一緒なんだ」
ぶっきらぼうに言う涼風に、夏乃が横からそうですとと口を挟む。
「運命なんですよ。兄様達」
へぇ……となるが。あまり深く聞かない方が良い。綾芽と真央はちらと目を交わして、そう決めた。
◇
明史は天叢の所でしばらく預かってっくれることになった。
ここからは、当主会だと綾芽は涼風と一緒に外に出た。
いろんなことがありすぎて、頭がぼんやりする。涼風が講堂の外に置いてあったベンチに連れて行ってくれた。
「……干し柿」
人が集まる講堂だと言うのに、干し柿が一杯ぶら下がっている。涼風が肩を竦めた。
「うちじゃ、もう、人が集まることもないからな。ここが一番日当たりがいいって言って、有川と夏乃が干し柿作ったり、梅干し干したりしている。ああ、この間は椎茸も干したらしいぞ」
「梅干し……」
「ちまちますることが好きなんだよ。梅のヘタ取りしたことあるか?こう、竹串でちくちくって」
梅のヘタ取りで、ちくちくしていたら梅を傷つけているんじゃないだろうか。
「昔……おじい様がいた頃はしていたわ」
本当に昔……小さい頃。真央はいたかどうか。
「夏バテをしたら大変だからって、梅シロップを母様が作ってくれたの。その手伝いをしたわ」
青梅を拭いてガラス瓶に氷砂糖と梅を交互に入れて。
「カチカチって音がするの……氷砂糖が綺麗で……甘くて」
ひどく幸せだったっ気がする。いったい、いつの間に……こんなに壊れてしまったのだろう。
静かに泣き出した綾芽に、どうしたもんかと涼風が困る。
「うちでもあったって長が言ってた。うちの……俺の父ちゃんは、そのせいで人を信じることができなくなって、引きこもりになったって」
涼風が渋い顔で言う。そういえば、有川もそう言っていた。金を持って逃げたのがいる。
「でも……有川さんもみどりさんもいるじゃない」
「んー……そうだな」
涼風も不思議そうに干し柿を見上げる。
「有川もみどりさんも、体調を崩してここに来た。先に有川だな。んで、ここで働きだして……俺達の世話をしてくれて。そうしているうちに、みどりさんが来て夫婦になった」
ふーんと綾芽も干し柿を見上げる。
「あの匠さん?と言う人も?元々はここに来た人?」
淫気が中にいて、私生活に支障がでたのだろうか。それで竹内を訪れた?
「あー……あれは、俺が追っかけた」
ん?と綾芽が涼風を見る。
「追っかけた?」
「ん」
そう言って、涼風は少し懐かしそうな顔をした。
「見つけて、追っかけて、捕まえんのに一年以上だ」
「一年?!」
さすがにびっくりする。しかも、男?いや、別にない話ではないが……。それでも、なんか不思議だ。
「気が長いと言うか……なんていうか」
綾芽の言葉に涼風がくくっと笑う。
「俺もそう思う。短気が俺が、よくまぁ、粘った」
涼風が笑いながら、うーんと伸びをする。そして、ふっと真面目な顔をした。
「どうしても、手に入れたかった。どうしても欲しかった」
短気な涼風が粘るほど。
「いいわね」
少し羨ましい。恋だの愛だの綾芽の周りには今までなかった話だ。
「見つかるかしら……私も、魂が一緒って言う人」
涼風がん?と振り返る。その顔に、さっきそう言ったでしょうと聞き返す。
「……んー」
涼風が困ったと言う顔をした。
インキ、ヨウキ取り扱い注意 完
インキシリーズ 完
※本編はここまです。
お読みいただき、ありがとうございました。
本編では出てこなかったイチャイチャを番外編(Rー18)で二本続けます。
『インキ喰います』を始めたばかりの頃には、こんな長くなるとは思っていなかった……。 樫村 和
先日の総会を思い出して綾芽は溜息を吐いた。明史が消えた途端、人がいなくなった。
それで気が付いた。蘇芳を牛耳っていたのは明史だった。
綾芽など、最初から人形だった。明史の言う事だけを事実だと信じ込まされて、いいように明史は使った。
そして、その明史と結託して金を稼いでいた人間もいた。その人間達が消えた。
「竹内でもあったそうでございますよ」
駅に迎えに来てくれた有川という男が明るく言う。竹内の秘書をしているという。
「今の当主のおじい様だったそうです。外部とのやり取りを任せていた人間が金を持って逃げたそうで」
金……。その言葉を苦く思う。明史は蘇芳の金も奪おうとし……綾芽の家族の命も奪おうとした。
「竹内はそれから家族だけの術家になりました」
まあ、もともと家業ですしね。あっけらかんと有川が竹内の内情を話す。
綾芽は自分の隣に座る真央を見た。真央は物珍しそうに外を見ている。生まれて初めての長旅だ。
山に続く田舎道。周りは刈り取られた田んぼが続く。
自分達の所とはずいぶん違う。
「お疲れではありませんか?」
有川が真央に気を配ってくれる。真央は大丈夫ですと笑って答える。
『術を返されている奴がいるのも、気が付いていないのかっ?!』
綾芽の前髪を鷲掴みにし目を覗き込んで、『片目』かと気が付いた時、涼風と名乗った男は血相を変えた。綾芽は術を返されているという意味も分からなかった。
いや、その時は自分が……自分が術をかけたのが……十二歳の真央よりも小さい子供だったことにショックを受けていた。
嘘よ……嘘だわ。
明史が自分に嘘を吐くはずがない。ちゃんと見ていた。ちゃんと見て……転んで頭を掻いているって言った!
『夏乃は車道に突き飛ばされたんだぞっ!もう少しで、バスに轢かれるところだったんだ!お前がしたことは、人殺しだっ!』
涼風に怒鳴られて……初めて自分が恐ろしいことをしていたことに気が付いた。
だから、明史が消えたんだと……その時ようやくわかった。
人を……殺そうとしたの?
『だって!父様もそうだったもの!父様も見えなかった!片目だったって言ってたわ!』
その言葉に、涼風と夏乃がなぜか飛び上がった。そして、『お前の母ちゃんはどこだ?』と聞いた。
『死んだわ!』
そう、父を追いかけて死んだ!綾芽と真央を置いて!
『病気ばかりしてたのよ!生きてても一緒だった!死んだって何も変わらなかった!』
涼風が手を振り上げたのが分かった。殴られる!と身を竦めたが、夏乃がその腕にしがみついて、綾芽に叫んだ。
『病気の人がいるでしょうっ?!きっと、います!』
病気の人……と言われてすぐ、真央のことが浮かんだ。でも、言いたくなかった。
誰もかれも真央の事ばかり!
『お前の術のつけを……あ、くそっ!どこだっ?!』
涼風がいきなり部屋を飛び出した。夏乃が失礼しますっ!と綾芽に頭を下げてその後を追う。綾芽もがたがた震える膝でどうにか立ち上があり、後を追う。
『くそっ、でかいなっ!』
『広いです!』
二人がまっすぐに走る。蘇芳が人を集める時に使う講堂を抜け、狭い階段を下りる。そして、蘇芳の本家の仏壇を置いてある仏間を抜ける。
何かが教えているみたい。
奥に、奥に進んでいく。
『そっちはやめて!』
綾芽が叫んでも二人は先に進んだ。綾芽達の住居になる家に飛び込み階段を駆け下りる。
真央の部屋に向かう。
そして、つんのめるようにして足を止めた。目の前に真央の部屋がある。その部屋の扉を二人共信じられないと言う目で見た。
『……生きてんのか』
『変な事言わないでっ!』
なんてことを言うのっ?!だが、上から慌てた様子で下りてきた女中が、先程熱が下がらないと言っていたことも思い出す。
『たっ、体調が悪いの!真央は、母様と同じで、体がっ……』
『夏乃に術をかけた日からだろう』
涼風が馬鹿が……と呟き、それでも、どうしようと青ざめた顔で部屋を睨む。飛び込みたいけど、飛び込めないと言う顔だ。
『……なんで』
なぜ、真央が悲鳴を上げた後、熱を出した日を知っているんだろう。
『いやああっ!』
真央が部屋の中で叫んだ。やばい!と涼風が動こうとする前に、夏乃が部屋に飛び込んだ。
何かが、渦巻いていたのは分かった。
でも、綾芽には何も見えなかった。
部屋に飛び込んだ夏乃が床に敷かれた布団の上で、もがいていた真央を何かから庇うように身を伏せ、その上で何かをした。
ばんっ!という音だけは聞こえた。
綾芽もその音と衝撃は感じた。そして、急にあたりが静かになった。
『え……』
自分の耳を押さえる。うるさかったとは思わなかったのに、なぜ、急に静かになった気がするのだろう。
『夏乃っ?!』
ようやく入れると涼風が部屋に飛び込む。慌てて綾芽も入ろうとして……。
『……なに、これ』
真央の部屋の扉の内側に、おかしな札が張られていることに気が付いた。
人除けの札。
『……入られたくなかったからだろう』
涼風が布団にぐたりと横たわる真央の体を確かめている。入られたくない。誰が?
『誰かが、こいつを人に会わせたくなかった』
真央が、ではなく……真央を会わせたくなかった?
『……なぜ?』
夏乃が何かを真央の体の上でしている。くるくると右手を忙しそうに動かしている。真央の体から必死に何かを巻き取っているかのようだ。
『お前らが、へました術を全部この子が被っていたからだ』
あ、と涼風はその時、ようやく綾芽が見えないと思い出したらしい。どうしたもんかなと立ち上がり、綾芽の前に立つ。
『目を貸してやる。今、この部屋がどうなっているか見たらいい』
『目を?』
ん、と言い、涼風は夏乃を呼んだ。どうやら涼風はできないらしい。夏乃が手をくるくる動かしながらそばに来て、くるくる動かしている手の反対の手を綾芽の額に当てた。
額から何かが来る。
額の奥にスクリーンができる。広がる。
真央の部屋の中がそれに映し出された時、綾芽は喉が裂けるかと思うほど悲鳴を上げた。
◇
竹内の本宅自体は蘇芳とそう変わるものではなかった。
人が集まる講堂、仏間、住居。だいたい三軒家が並んでいる。
ただ、蘇芳と違うのは、その家が横に広かったと言う事だ。蘇芳は山肌にあるので、縦に並んでいる。
屋敷を案内してくれたのは、ふわりとした髪の女性だった。にこにこしている。有川の奥さんで、みどりだと名前を教えてくれた。
左半身が不自由なのか、少し歩き方がぎこちない。
講堂に続く狭い階段を上るのに手を貸すと、ありがとうと微笑まれた。
……それが少し、後ろめたい。
この竹内は皆、綾芽が何をしたか知っている。それなのに、綾芽に親切にしてくれる。自分が蘇芳で涼風達に取った態度がひどく恥ずかしい。
「お連れいたしました」
みどりがそう襖に声を掛けると、中で人が動く気配がした。
竹内の本当の当主がいる。
夏乃の父だ。
綾芽は板間の廊下に正座し、頭を床につけた。隣で真央も同じ事をする。
……知らなかったでは済まない。綾芽は当主の子供を殺そうとした。
がら、と襖があき、おや?という声が頭の上からした。朗らかな声。その声にそれでも震える。
怖い。
真央の部屋の中を思い出すだけで怖い。人でないものが溢れていた。そして、蘇芳が送ったはずの気も真央の部屋に溢れていた。竹内が跳ね返した蘇芳の気だ。
術を全て返すことができる人間だ。
「なんだ?どうした」
真央の手が先に引かれた。そして、同じ手で綾芽も起こされる。
どんな人だろうと思っていたが、自分の父親よりもずいぶん若い男に少し驚いた。なんとなく、有川と同じぐらいかと思っていた。
「見えなかったよ」
あははと笑われる。その笑い声にも身がすくむ。
「ご……ごめんなさい」
頭の中で幾度も謝罪の言葉を考えてきた。許してもらえるまで、頭を下げようと思っていたのに。
出てきた言葉は、小さい子供のようで自分でも頼りなげで悔しい。
「竹内様」
真央が、自分よりも二歳下の真央が、もう一度、床に膝をついた。
「ご迷惑をおかけしました」
私も謝りたいと真央を見るが、竹内の当主はうん、とだけ言い、みどりに真央を立たせるように言った。
綾芽の腕を軽く掴んだまま、良かった良かったと笑う。何が良かったのかもわからなかったが、広い講堂にもう一人、男がいた。
こちらは初老の男性だ。竹内の関係者だろうか。
「ようやく、顔を合わせることができた」
初老の男性はそう言うと、座らされた綾芽と真央に向かい、にこりと笑った。
「お初にお目にかかる。私は天叢、北の術家の者だ」
そう言われても綾芽にはピンとこなかった。紹介され、真央と共に西の蘇芳ですと常套句を述べる。
「うん」
東、西、北、南……。日本にいるとされる術家。その北の天叢が……なぜ、東の竹内に?
「当主代わりをしたらね、顔を合わせていた方がなにかと便利な事があるからね」
当主代わりと言われ、真央が慌ててもう一度、深く頭を下げる。
そう……本当の当主は妹の真央だった。
「失礼をいたしました。私が今度、蘇芳の長になりました蘇芳真央でございます。どうぞ……お見知りおきを」
この家業に年齢は関係ない。子供だろうが関係ない。
だが、それは……子供でも、大人と同じ礼儀を求められる。
所作を求められる。
真央の横でカチカチと歯が鳴るのを止められない。本当の当主をさておき、姉の綾芽がしゃしゃり出た。自分が何をしているかもわからない片目だったくせに。
それも……命がかかわることに。
「いや、普通なら、先代が亡くなられた時に、亡くなったと連絡があるはずだが、それも無かったものだからね」
え、と真央も顔を上げた。そして、申し訳ございませんん……と呟いた。
父が亡くなり、後を母が追った。葬儀も慌ただしく、明史と綾芽が対応に追われた。
どちらを先代と言っていいのか、真央にも分からないのだろう。
表向きと事実が違う。
「まあ、色々あったが、どうにか当主同士、挨拶ができた。知らなかっただろうが、年に一度ほど当主会もあるんだよ」
「今度の当主会は昼間にしないとな。お嬢さんを夜連れ出すわけにはいかん」
そう言って笑い合う当主達を見て唇を噛む。
当主など気位の高い人間ばかりです。自分の縄張りを荒らされないかと言う事ばかり心配している。
嘘ばっかり。
本当は……明史も知らなかったのではないだろうか。
当主達がどんな人間かなんて、もしかしたら、父も母も知らなかったかもしれない。
俯いた綾芽を当主達がちらりと見る。真央がぎゅっと膝の上に揃えた拳を握る。
そして、もう一度、深く頭を下げた。
「この度は、蘇芳がとんでもないことをいたしました。蘇芳の不始末は、当主の私の責でございます」
頭を下げた真央の横で綾芽が飛び上がる。
「違います!私です!私がしました!」
何を言うの!と真央の肩に手をかけ、それでも動かないと分かり、綾芽は真央の前に体を投げ出し、身を伏せた。
「私がしました!夏乃……夏乃様が現当主だと!蘇芳の術を見せるだけだと!」
何を言っても、言い訳にしかならない。
当主代わりの挨拶さえきちんとしておけば!ちゃんと確認をしておけば!
「いも……真央は!真央は関係ありません!真央は閉じ込められてました!人除けの札が貼られた部屋に押し込められてました!」
同じ家にいたのに!綾芽がぐぅっと喉を鳴らして、嗚咽を堪える。
「真央の!真央が病気だと知っていたのに!私!顔すら見に行かなかった!」
行かなくていい。いつもの事だから。今は大事な時だから。
そんなことばかり考えていた。残された家族だったと言うのに!
「ごめんなさい!」
泣きじゃくる姉の綾芽とは裏腹に、妹の真央は泣きもしなかった。
気弱だが腹が座っている。こうと決めたら、やり遂げる強さがある。
当主達が顔を見合わせ軽く頷いた。蘇芳がどう出るか……試していたという雰囲気だ。
「まぁ、お家騒動だったが、ない話ではない」
「不思議な事にね、なぜか力が強い術師が現れると、それに反目するような輩も現れるんだよ」
力の強い術師を思うがまま操ろうとする者。最初から排除しようとする者。
明史は……それを蘇芳と竹内でしようとした。
「夏乃」
「はい」
隣の部屋にいたらしい。名前を呼ばれ、すっと襖が開く。
くりくりの髪をした子供が裃を付けて入ってくる。
見た瞬間、駄目だった。ひくっとしゃくりあげて、ごめんなさいと繰り返すしかできなくなる。
こんな小さな子を……自分は。
「夏乃。座れ」
竹内の長が静かに言い、夏乃は綾芽の隣に座った。
子供三人が並んで年長者を見る。
「真央、綾芽、夏乃」
名前を呼ばれ、綾芽だけが肩を震わせた。後の二人は静かに竹内の長を見る。天叢の長も軽く目を伏せている。
「お前達は私達の次の世代になる。子供だから、大人だからという世の理が通用しない世界だ」
「この術家に生まれた以上、否が応でも見えない世界と関わらざるを得ない。そして、見えない世界は綺麗な物でもなんでもない。恐ろしく思う事もあるだろ。難しいと思う事もあるだろう。だから、それぞれの当主と相談できるように当主会がある。皆、悩むからだ。どんな当主でも、術家でも」
真央が下を向いた。夏乃はまっすぐに父親を見ている。
「知識を偏らせてはならない。見る目を人に任してはならない。動くことをやめてはならない」
それぞれが、それぞれの事を考える。
「同じ過ちを繰り返すな。繰り返す者がいたら止めろ。知らない者がいたら、今日みたいに教えてやれ。それが、お前達の務めだ」
自分達の……次の世代に伝えろということなのだろう。
夏乃が元気よく、はい!と返事をした。綾芽と真央は頭を下げることしかできない。
特に綾芽は『片目』だ。見る目を人に任すなと言われても……。
「一人で抱え込まなくていい。まず、自分の所の長に相談する。それでも難しければ、また、二人でここにおいで」
竹内の長が口調を柔らかくして、綾芽に言ってくれた。二人でと言われ、なぜかほっとする。真央と顔を見合わせ、今度は「はい」と言うことができた。
さて、と天叢が竹内の長を見た。顔が渋い。
「うちにいるのはどうしたらいい」
竹内が目を伏せ、どこに?と聞いた。
「ああ……そうか。中か……外そう」
なんのことだろうと綾芽達が大人を窺う。天叢はちらりと子供達を見て、頭を掻いた。子供に見せたくはないと言う顔だ。だが、竹内は表情を変えない。
何も知らない子供がいいように使われる。今回はその典型だった。
「呪わば穴二つと言う意味を知っているか?」
天叢が聞いたことがある言葉を口にする。夏乃は知っていたらしい。
「誰かを呪ったら、墓穴が二ついる、ってことでしょう?」
「そう」
呪われた者と呪った者。
「共倒れなんだ。だから、術家は人を殺めることを許してはいない」
「まぁ、どんな形であれ、人を殺めてはならないし、本来なら害することもしてはならない」
「そして、術をかけるだけかけて、後はとんずらということもできない。一時は逃げられるかもしれないが、捻じ曲げた術を使えば、反動が来るのが当たり前だ」
「気は追えるからね」
天叢が何かを袖の中でした。夏乃が父に言われ綾芽の手を取る。
何が始まるというのだろう。
「因果応報という」
「さて、見えるかな」
びくっと真央が飛び上がった。驚いた綾芽の額の奥にも何かが見え、体を強張らせる。
真央の部屋を見た時と同じだ。綾芽が見ることができない世界だ。
額の奥にスクリーンが浮かぶ。ぐっと夏乃の手を握りしめてしまう。綾芽が見えないから、夏乃を通して見ているのだろう。
でも、何を?
「ここは、うちの道場だ」
天叢が何でもない事のように言う。綾芽が目を見開く。北の天叢の本宅から映像を飛ばしているのか。
「……あ」
綾芽がその道場に座り、何かを必死に祈っている痩せた背中を見つける。
痩せた背中。丸まった背中。
見覚えがある。明史だ。
きりっと綾芽の歯が鳴る。こんな所に……。
「この男は竹内が……ああ、夏乃達が蘇芳を訪れた日に天叢に来たんだ」
「え……」
「だが、うちには先に有川からこういう事があったと連絡を受けていてね」
天叢が少し口の端を上げて苦く笑う。
「北の方までは話は来てないだろうと思ったんだろうな……」
舐められたもんだと呟く。もしかしたら、明史は本当に当主達はあまり疎通がないと思っていたのかもしれない。
当主会があることも知らなかっただろう。
「うちは、あら、いらっしゃいで迎え入れた。よく来た、しばらくいたらどうだ」
そう言って、素知らぬ顔で当主討ちを仕掛けた当人を捕まえた。
明史は近くまで来たからと笑い、来たついでに、修行でもさせて頂こうかなと笑ったそうだ。
修行と言う名目で、天叢の守りの中に身を潜める。
「うちを隠れ蓑にするぐらいの度胸はある。それに、この男、面白いが恐ろしい術を使う」
明史が術を使うと聞いて、綾芽も真央も驚いた。それは二人共聞いたことがなかった。
「おじ様も術を使えるんですか?」
自分は見るだけで、何もできないと言っていた。
「淫気を捕らえ、縛ることができる。まぁ、力というより、どこかで手に入れた術だろう」
天叢が興味はあると顎を掻きながら空を睨む。その横で竹内が肩を竦める。
「そして、縛った淫気を使役する。縛られた淫気は自由になりたいがために、また、術師の命令を聞かざるを得ない。その淫気を狙った人間につけられるんだ」
綾芽がぽかんとする。そんなことができるのだろうか。そんな……人を操るようなことが。真央も目を丸くしている。二人共、聞いたことがない。
なぜ、明史はそんなことができるのだろう。
「本来ならどうこうできるものでもない。淫気は気ではなく、欲だから」
「欲?」
綾芽と真央が顔を見合わせる。淫気というものは術家にはタブーのはずだ。どこか不潔な物という認識がある。当主達が仕方がないと少し笑う。
「年頃の女の子達はそうだな。だが、淫気は欲なんだ。性欲」
性欲と言われても……綾芽は真央と目を交わして、やはり困った。
やはり話題にはしにくい。
「性欲がなければ子は生まれんよ。性欲とはっきり言ってしまえば、恰好が付かないから、淫気と呼ぶ」
「……はぁ」
まぁ、そうなのだろうが……。自分達より年下の夏乃は平気そうだ。男の子だからだろうか。
「だが、この男はたちが悪かった。使役した淫気を最後には狙った者に当たらせて、霧散するまじないをかけた」
霧散……綾芽が口の中で繰り返す。使うだけ使った後……証拠を残さないように消すことすらしたのか。
強く目を閉じる。
自分も……淫気と同じだったのだろう。使うだけ使い、最後は捨てるつもりだった。
悔しい。ただ、悔しい。
自分が真央を狙うように仕向けた。綾芽が知らなくても、綾芽のせいで真央が傷つくように明史は仕掛けた。
もし、それを……もし、真央になんかあった時に、綾芽がそれを知ったら。
自分のせいで誰かが傷ついているのを知ったら。
がくっ、と体が震えた。
今のは何?と体が震えた。
今、自分は……何にたどり着いた?
夏乃に握られていない手で口を覆う。もしかしてと、気が付き、目から涙が溢れる。
「父は……」
真央が顔を伏せた。その仕草に知っていたの?!と悲鳴を上げそうになる。
父は……母に自分がかけたまじないのつけを払わせていることに……気が付いた。
ぼろぼろと涙が溢れて膝に落ちる。父がどうして死んだかはわからないが、きっと、母がしていることを知って、どうかしようとしたのだ。そして、返ってきたまじないを受けて……。
「ひっ、どい……」
自分も、自分も同じことを真央にしていた。もし、あの時、夏乃達が来てくれなければ、綾芽は真央の事など気にせずに、術を放ち続けた。
自分は真央を……真央を役立たずだと思っていたから。蘇芳の術には関係していないと思っていたから。
講堂の中に綾芽の泣き声だけが響く。その声を苦く皆が思う。
そして、天叢の道場で自分が逃げ切る事だけを考えている明史がいる。
「下がるか?」
竹内が静かに聞いた。綾芽が首を大きく横に振る。自分が愚かだと、馬鹿だったとよくわかった。
何も知らなかった役立たずは自分だった。
「……ごめんなさい」
取り乱した。ぐすっと、手の甲で鼻を拭うと真央が綺麗に畳まれたハンカチを渡してくれる。それをありがたく受け取り、前歯で噛む。
くやしい。
綾芽が気を取り直したのが分かり、さてと竹内が襖を見た。
「淫気に手を出した者の末路を、そろそろ見ようか」
今度は「京香」と呼んだ。女性の名前。
綾芽も真央もてっきり女性が入ってくるのだとばかり思っていたが。
再び、襖が開き、涼風と……誰か背の高い若い男が入ってくる。背の高い、少し痩せた男。涼風が少し複雑そうな顔をしている。
一体、なんだろうと、二人を見るしかできない綾芽達の前で、その背の高い男はしなりと膝をついて、綺麗な所作で頭を下げた。
綾芽と真央がぎょっ?!とする。こう、なるのだろうか?
「いや、ちょっと違う……」
涼風がそうだよなぁと口を押えながら、これも一種の特殊例だと言った。
どうやら、この男は本当は男で、体の中に淫気がいるらしい。その淫気の名前が「京香」で女性らしいが……。
二重人格みたい。
涼風も、まぁ、そうだよなぁと額を押さえている。天叢も面白そうに床に座り、薄く笑っている男、京香を見ている。
「……ごめんなさい」
だが、真央が口を、いや、鼻を押さえた。え?と綾芽が真央を振り返る。真央は顔をしかめている。
「香りが、きつい……」
香り?綾芽が慌てて空気を嗅ぐが何も感じない。涼風が「お前もか」と肩を竦める。
「俺もわからないんだ。だが、分かる奴にはなんか……」
「バナナの香りがします」
夏乃が元気よく言い、真央が複雑な顔をした。バナナ……と首を傾げている。だが、綾芽は涼風が淫気の匂いを自分も分からないと言ったことに目を丸くした。
「そうなの?」
「悪かったな」
一気に機嫌が悪くなる。もしかして、気にしていたのかもしれないが、分からないのが自分一人ではないと知って、少しホッとしたのも事実だ。
「京香、説明を」
はい、と男にしては少し高い声で話し出す。
明史の術で縛られた淫気が、ある女性につけられていたこと。この淫気特有の香りが漏れないように淫気を術で包んだ上に、さらに陰気で包んであったこと。
その陰気饅頭がつけられていた女性が自分の母親を殺そうとしたこと。
それを竹内が女性からその陰気饅頭をはいだ後、京香がこの体に招き入れたこと。
そして、ゆっくりと育てている事。
「育てている?」
真央が不思議そうに聞き返した。その問いに京香は「私も淫気だから」と笑う。
何を育てているのだろうと考えて。急に分かった。
怒りだ。
綾芽が気が付いた。先程、綾芽も怒りを明史に対し感じた。
捕まえられ、使役され、最後には散れとまじないをかけられた淫気だって怒る。いや、怒り狂う。
天叢が再び袖の中で何かをした。その途端、明史の姿が先程よりもクリアにスクリーンに映し出される。
「解いた」
天叢が短く言い、竹内を見た。
それまで、優しく笑っていた竹内の長の顔がすっと冷たい物に変わった。
綾芽の背がぞくりとする。
竹内の長も……怒っている。いや、そんな言葉では言い表せない。
本気で明史に何かをする気だ。
「……返すだけだ」
竹内が目を伏せて小さく言う。
「だが、思い知る。……自分が今までどれだけの者に苦しみを与えたか」
悲しみを。怒りを。恨みを。
「つけは払ってもらおう」
そう言い、竹内は京香を見た。軽く頷く。
「熨斗をつけてお返ししよう。飛ばせ」
「はい」
京香が立ち上がり講堂の天井を見上げる。すっと両腕を上げ、綾芽には見えない大きなボールを、ぽん、と投げ上げた。
「お行き」
言い終わる前にどんんっ!!と屋敷が揺れた。地震かと一瞬思うほどの揺れだったが、すぐにおさまる。
んっ?!と天叢が慌てて袖の中で何かをする。竹内も両手を袖に入れ何かをしている。
ぱんっ!と今度は何かが張りつめる音がした気がした。
「戻ってくることはないとは思うけど……」
長達の動きに京香がころころと笑う。所作が完全に女性だ。この京香が入っている男は、普段は本当に男性として生活しているのだろうか……。
「あ」
真央が先に声を上げた。綾芽が慌てて目を閉じ、額の奥のスクリーンを見つめる。
スクリーンの中で明史が飛び上がった。
何かに気が付いた。道場から飛び出そうとして、扉が開かないらしい。
扉を両腕で叩き、何かを必死に叫んでいる。その体がおかしな具合にひねり出す。
片腕を上げ、片膝が落ち……床に崩れながらも、死に物狂いで道場から出ようとしている。
「……一体じゃない」
真央が強く顔をしかめる。京香がそうねと答える。
真央には明史の体を包む怒りに狂った淫気が見えているのだろう。
「一人の人間の性欲なんてちっぽけなものだもの。でも、欲は欲よ……。満たされなければ、気持ちは残るし、残って集まれば淫気になるわ」
満たされない。
「京香、もういいか?匠、大丈夫か?」
涼風が京香に近づき京香の顔を覗きこんんだ。大丈夫かと心配そうなのを見て、涼風は京香よりその体の持ち主と知り合いなのかと気が付く。京香が腕を伸ばし、涼風の体を抱きしめその頭を撫でた。涼風は嫌がる素振りも見せずに、京香にしがみつく。
不思議だ。術師と淫気が仲が良いなんて。
「またね」
京香がそう言い……がくんと崩れた。
その体を涼風が支える。どこから出てきたのか気が付かなかったが、有川も匠と涼風が呼んだ男を支える。
「うー……」
気持ちが悪いと言う顔で喘いでいる。驚くことに、さっきまでの女性らしさが綺麗に消えている。
綾芽も真央もぽかんとなる。
「吐きそうか?吐いていいぞ?」
「袋、持ってまいります」」
有川が講堂から飛び出し、洗面器と袋を持ってきた。
匠が、いや、吐くまではないと真っ青な顔で涼風の体を寄せ、先程の京香がしたように抱きしめる。
「うまく……やれたか?」
京香に体を使われている間の意識はないのだろう。不安そうな匠に大丈夫だと涼風が真面目に言い……。
驚くことに、匠の額にキスをした。
竹内の人間は皆、知っている事だったが、竹内の人間じゃない者がその場に幾人かいた。
気分が悪そうな匠を有川が連れていく。ぽかんと自分も見ている綾芽と真央に、涼風がなんだよと膨れる。
「えっ、と?」
綾芽が代表して聞いた。今のは、なんだ?
「俺と匠は魂が半分一緒なんだ」
ぶっきらぼうに言う涼風に、夏乃が横からそうですとと口を挟む。
「運命なんですよ。兄様達」
へぇ……となるが。あまり深く聞かない方が良い。綾芽と真央はちらと目を交わして、そう決めた。
◇
明史は天叢の所でしばらく預かってっくれることになった。
ここからは、当主会だと綾芽は涼風と一緒に外に出た。
いろんなことがありすぎて、頭がぼんやりする。涼風が講堂の外に置いてあったベンチに連れて行ってくれた。
「……干し柿」
人が集まる講堂だと言うのに、干し柿が一杯ぶら下がっている。涼風が肩を竦めた。
「うちじゃ、もう、人が集まることもないからな。ここが一番日当たりがいいって言って、有川と夏乃が干し柿作ったり、梅干し干したりしている。ああ、この間は椎茸も干したらしいぞ」
「梅干し……」
「ちまちますることが好きなんだよ。梅のヘタ取りしたことあるか?こう、竹串でちくちくって」
梅のヘタ取りで、ちくちくしていたら梅を傷つけているんじゃないだろうか。
「昔……おじい様がいた頃はしていたわ」
本当に昔……小さい頃。真央はいたかどうか。
「夏バテをしたら大変だからって、梅シロップを母様が作ってくれたの。その手伝いをしたわ」
青梅を拭いてガラス瓶に氷砂糖と梅を交互に入れて。
「カチカチって音がするの……氷砂糖が綺麗で……甘くて」
ひどく幸せだったっ気がする。いったい、いつの間に……こんなに壊れてしまったのだろう。
静かに泣き出した綾芽に、どうしたもんかと涼風が困る。
「うちでもあったって長が言ってた。うちの……俺の父ちゃんは、そのせいで人を信じることができなくなって、引きこもりになったって」
涼風が渋い顔で言う。そういえば、有川もそう言っていた。金を持って逃げたのがいる。
「でも……有川さんもみどりさんもいるじゃない」
「んー……そうだな」
涼風も不思議そうに干し柿を見上げる。
「有川もみどりさんも、体調を崩してここに来た。先に有川だな。んで、ここで働きだして……俺達の世話をしてくれて。そうしているうちに、みどりさんが来て夫婦になった」
ふーんと綾芽も干し柿を見上げる。
「あの匠さん?と言う人も?元々はここに来た人?」
淫気が中にいて、私生活に支障がでたのだろうか。それで竹内を訪れた?
「あー……あれは、俺が追っかけた」
ん?と綾芽が涼風を見る。
「追っかけた?」
「ん」
そう言って、涼風は少し懐かしそうな顔をした。
「見つけて、追っかけて、捕まえんのに一年以上だ」
「一年?!」
さすがにびっくりする。しかも、男?いや、別にない話ではないが……。それでも、なんか不思議だ。
「気が長いと言うか……なんていうか」
綾芽の言葉に涼風がくくっと笑う。
「俺もそう思う。短気が俺が、よくまぁ、粘った」
涼風が笑いながら、うーんと伸びをする。そして、ふっと真面目な顔をした。
「どうしても、手に入れたかった。どうしても欲しかった」
短気な涼風が粘るほど。
「いいわね」
少し羨ましい。恋だの愛だの綾芽の周りには今までなかった話だ。
「見つかるかしら……私も、魂が一緒って言う人」
涼風がん?と振り返る。その顔に、さっきそう言ったでしょうと聞き返す。
「……んー」
涼風が困ったと言う顔をした。
インキ、ヨウキ取り扱い注意 完
インキシリーズ 完
※本編はここまです。
お読みいただき、ありがとうございました。
本編では出てこなかったイチャイチャを番外編(Rー18)で二本続けます。
『インキ喰います』を始めたばかりの頃には、こんな長くなるとは思っていなかった……。 樫村 和
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