後宮生活困窮中

真魚

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第二章 にっくき法狼機女 2

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 法狼機フランキ――という国がどこにあるのか月牙はよくは知らない。

 外宮随一の博識を謳われた西域生まれの薬師の頭領の話では、彼女自身の故郷たる西域よりもさらに西なのだという。
 西域のさらに西!
 それはもうこの世の外だ。


 
 月牙が初めて法狼機という国の名を聞いたのは、ちょうど一年前の今頃のことだ。

 その日は朝から忙しなかった。
 まだろくすっぽ夜も開けない頃に、武芸妓官すべてを束ねる内宮北院橘庭に仕える女儒が泡をくってお召しを報せてきたのだ。

「柘榴庭どの、今すぐ礼装で媽祖堂の前へ集えと西院からの達しだ!」
「え、今すぐ?」たたき起こされた月牙は耳を疑った。「今日は何かの祭でしたか?」
「知らぬ! ともかくもお呼びなのだ!」
「それになぜ西院? 北院の間違いでは?」
「西院といったら西院だ! 急いでくれ! 私はこれから他の庭にも触れに回らなければならない!」
 女儒はそのままバタバタと走り去っていった。
 月牙は狐につままれたような気分だった。

 公文所や主計所といった実務的な役所が所在するのは内宮北院である。西院には主上の妻たる四人の貴妃と、今は空席の正后が住まう計五つの殿がある。警備は内宮妓官の管轄だ。

 その西院から何故じかに呼び出しがかかるのだろう?

 考えてもさっぱり分からなかったが、ともかくも急いで身支度をしなければならない。婢たちに手伝わせて大急ぎで髪を編んでから、文机の上に円い鏡を据えて化粧にとりかかる。
 顔全体に薄く水白粉をはき、眉を引き、唇に紅を挿す。眦にカジャール風の文様を施そうかと思ったが、やはりと思い直してやめる。
 装身具と武具を身に着けて外へ出ると、階の下で麗明が待ち受けていた。
 手にした水鉢に瑞々しい柘榴の生花が何輪も浮かんでいる。

「頭領、髪の花だ」
「ありがとう」
 生花を耳元に挿していると、麗明が眩しげに目を細めて見つめているのが分かった。
「やはり頭領の黒髪は美しいなあ。まさしく烏の濡れ羽色だ」
「ありがとう。急いでいたからだいぶ乱雑な編みなんだけれどね」
「呼んでくれれば手伝ったのに」
「早朝からそんな雑用で呼び出せないよ」
「その見事な黒髪を見事に編み上げる以上に大切な用事など私には思いつけないね。しかし、朝から何があるんだ? 今日は何かの祭りだっただろうか?」
「いや、たぶん何もなかったと思うよ。西院からの急な呼び出しなのだけれど」
「西院? 北院ではなく?」
「私も間違えのような気がするのだけれど。とにかく行ってくるよ」
「ああ。気を付けてな」


 麗明に見送られて東の木戸を出ると、目の前に幅十丈の土の道が広がっている。


 外宮の中央を貫く南大路だ。向かい側に長い築地が伸びている。
 薬師たちの住まいの杏樹庭の西壁である。
 朝日がそちらから射していた。ふと目をむけると、はす向かいの門の扉が開いて、中から白い裳衣をまとった長身の姿が出てくるところだった。

 薬師の頭領の胡文姫である。
 こちらも朝からきっちりと髪を結い上げ、珍しくも白いつまみ細工の杏子の造花を飾っている。
 妓官に比べるとえらくあっさりしているが、あちらも礼装なのだろう。

 月牙は安堵しながら大路を駆けてよぎった。
「杏樹庭さま!」
「これは柘榴庭どの。朝から麗々しいなあ」
 西域渡りの薬師の頭領はいつもの気さくな調子で応じた。
 胡文姫の外見はなかなか人目に立つ。
 月牙ほどではないがかなりの長身で、全体に骨太でがっしりとしている。膚は明るいとび色で、黒髪には癖が強い。鷲鼻ぎみの面長の顔は理知的で朗らかで、世の中のあらゆることを常に微かに面白がっているような微笑が浮かんでいる。
 月牙はこの聡い年長の隣人が大好きだった。
「我々は名目上は歌舞の徒ですからね。朝からひと騒動でした。今朝は何の集まりかご存じですか?」
「いや、何も知らぬよ」
「杏樹庭さまも? 一体何事なのでしょう」
 南大路を北へと歩む間に、厨女を束ねる柿樹庭の頭領や針女を束ねる芭蕉庭の頭領もぼつぼつと姿を現した。挨拶をして訊ね合っても、やはり誰も用件は知らないようだ。皆でいぶかりながら内宮南門へ急ぐ。



 早朝だというのに内宮南門の扉が開け放たれていた。
 通れば目の前は石畳の前庭だ。正面に赤褐色の瓦で葺かれた六角屋根の媽祖堂がある。
 前にもう三十名近くの女官が集まっていた。

「おや、みな内宮北院の方々だね。督や次官はいらせられないようだが」
 胡文姫が訝しそうに言う。
「内宮の方々は何か聞いているのだろうか?」
「いいえ杏樹庭どの、生憎ながら何も」
 横合いから鈴を転がすような声が答える。
 薬師の頭領が慌てて顔を向ける。
「これは紅梅殿の判官どの!」
「杏樹庭どのにはお久しゅう」
 にこやかに笑いながら告げるのは、袖をゆったりと仕立てた白い上衣と薄紅色の裳裾で装った華やかな装束の女官だった。睫が濃く唇のふっくらとした美貌にその色目がよく似合っている。円い額を縁取るのは紅梅の造花を連ねた一対の飾り櫛だ。
 女官の名は趙雪衣。
 「紅梅殿」と通称される内宮北院主計所の三番手である。この場では最高位の一人だ。


「主計判官どのさえ何もお聞きではないのか?」
「ええ、全く何も。身支度をするだけで朝から大わらわでした」
 趙雪衣が口惜しげに応じ、月牙に目を向けるなり、柳眉をよせてひそひそ声で話しかけてくる。

「ねえ月、よっぽど急いでいたの? 右側の花が今にも落っこちそうだよ」
 今しがたとは打って変わった砕けた口調である。
 雪衣は月牙とはかなり身分が異なるが、同年代で経歴が似通っているためか、内々では気安い朋友づきあいをしている。月牙が慌てて右の耳の上に挿した柘榴の花を直そうとすると、雪衣がひょいと爪先立って直してくれた。
「あれ、雪の櫛も左右ずれている」
「え、嘘。直して」
 飾り櫛を引き抜いて挿しなおしてやっていると、胡文姫がクツクツと喉を鳴らして笑った。
「なんとまあ目に華やかな。なにやら上等の双樹下猫二匹が戯れているようだなあ!」
「判官様はまだしも、私まで猫ですか?」月牙は眉をしかめた。「武辺一辺倒の妓官の長に、それはあまりに可愛らしすぎる喩えでは?」
「何言っているのさ月」と、雪衣が肩を竦める。「月は自分をあんまり荒々しいものだと思い込みすぎだよ。一度落ち着いて鏡を見てみたら?」
「妓官に可愛らしさなんて必要ないね」
「それをいうなら主計官にだってないよ」 
 まさしく二匹のフワフワした猫みたいに二人が睨みあう。
 胡文姫が忍び笑いを漏らしたとき、左手から銅鑼の音が響き渡った。



 音の源は内宮西院に設けられた中門、梨花門の前だった。
 白髪に橘の葉を飾った橘庭の督の宋金蝉が手ずから打ち鳴らしている。
 銅鑼の音が三度響いた後で、梨花門の朱塗りの扉が内側から開いて、すらりと背の高い紫色の人影が現れた。
 紫なのは袴の色だ。白い短い上着をまとって深紫の袴を胸高にはいている。つややかな黒髪を無造作に束ねた細身の姿が現れたとき、月牙は一瞬見知らぬ若い内宮妓官が男装しているのかと思った。
 しかし、即座に気付いた。

 深紫は禁色だ。
 国王しか着られない。

「判官どの、主上はいつのまにお渡りに?」
 胡文姫が遠い姿を仰ぎながら訊ねる。
 雪衣が心底悔しげに首を横に振った。
「残念ながら、私も今まで知りませんでした」
 内宮西院は大環濠を挟んで王宮と隣接しているため、屋根付きの長い橋を渡れば国王はじかに入れる。しかし、お渡りがあった場合には媽祖堂の鐘を大々的に打ち鳴らして報せるのが常なのだ。
「もしかしたらお渡りが気恥ずかしかったのかもしれんのう。子供のころのお渡りとは意味合いが異なるからな」
やや離れた位置にいた柿樹庭の頭領が袖で目頭を押さえながら囁く。「夕べのうちにいらしたのなら、貴妃様がたのいずれかの御殿にお泊りだろう。どなたであれ目出度い。ようやっとこの日がのう」
 後宮仕えの長い大膳所の頭領が、婚期の遅れた甥っ子の成婚を喜ぶ親戚の大叔母さんみたいな台詞を吐きながらしきりと目頭をぬぐっている。
 見れば、そこでもかしこでも、女官たちが似たような仕草を見せているのだった。

 実務に携わる女官の殆どは先代様の頃から仕えている。
 彼女らにとっては、七歳まで後宮で育った国王は、今でも可愛い若様なのかもしれなかった。
 中では若い部類に入る雪衣が、居心地悪そうにまた月牙の脇腹を肘で突いてくる。
「ねえ月、何方だと思う?」
「四貴妃様のうちの? そりゃやっぱり石楠花殿の紅貴妃様じゃ」
「同い年の幼友達? ご身分からして申し分ないし、誰もが期待していた定め通りではあるけど、もう少し何かこうさ」

 下級武官の家系の月牙と商家の生まれの雪衣に閨閥政治は関係ない。縁故で役職を得たのなら庇護者の家の盛衰に敏感にならざるをえないが、二人はそこも似たもの同士、文武の違いはあれど、生まれ持っての実力と任官以来の研鑽で今の地位をもぎ取った自負を抱いているから、こういうときは気楽なものだ。

十八の小娘に戻ったような気分でヒソヒソ話を交わしているとき、妓官の督がまたしても銅鑼を打ち鳴らした。
 一同の目が再び集まる。
 国王は前庭を見渡し、大きく息を吸い込んでから云った。

「桃梨花宮の百華たちよ、朕は汝らの新たな女主人を連れてきた! 遥かに西方の大国、法狼機フランキの貴族の姫で、名をジュヌヴィエーヴという。この姫こそが朕の正后だ! 心して仕えるように!」

 国王の声は涼やかで実によく通った。

 一同はポカンとしていた。

 やがて果敢な胡文姫が口を開いた。

「……ジュ?」

 そのとき百華たちの心は一つだった。


 ジュ……?


 一年前の出来事である。
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