後宮生活困窮中

真魚

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第二章 にっくき法狼機女 3

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 ――あれからたった半年で、外宮がこれほど荒れ果てるとはなあ。

 柘榴庭の東門を出ながら月牙は嘆息した。

 目の前をよぎる南大路が文字通り草原と化している。
 向かいに伸びる築地の真ん中に杏樹庭の門が見えるものの、扉は開けっ放しで、敷居の向こうにまで茫々と青草が生い茂っている。
 庭内に併設されたあの手入れのよかった薬草園が今どんな有様になっているのか、想像するだけで気が滅入ってくる。
 杏樹庭が今あんな悲惨な有様を晒しているのは、薬師の頭領の胡文姫が三か月前に突然宿下がりを申し出て故郷の西域に帰ってしまったからだ。

 驚くべきことに理由は婚姻だ。

 外宮の女官が結婚のために宿下がりすることは慣習的に認められているため、桃梨花宮が困窮し始めてから、年頃の女官から順にどんどんやめていった。限界まで体を使うため全体に齢の若い柘榴庭の妓官が激減したのもそのためである。
 しかし、二十年来奉職してもはや杏樹庭の体現のように思われていた胡文姫が、まさか今更婚儀のために職を辞そうとは誰しも想像さえしていなかった。



 そもそものきっかけは、年が明けてすぐ、薬師の頭領が洛中の新梨花宮へと呼び出されたことだった。月牙は護衛として同行した。

 新宮は洛中右京区にあった。
 かつて近衛の右の馬場のあった一画がチーク材の逆茂木で囲まれ、真ん中に架けられた歩廊を、見慣れない細い碧い上衣と幅の狭い白い袴姿の武官がひっきりなしに哨戒していた。武官たちはみな奇妙な武具を持っていた。穂先のない槍のような筒状の長い武具だ。
 護衛の妓官は門の番小屋で待機を命じられたため、宮の内部は知らない。そうした務めが三度重なったとき、月牙は堪えきれず、帰路で胡文姫に訊ねてしまった。


 ――杏樹庭さま、正后様は、よもやご懐妊ですか?

 ――ああそうだ。内宮にももう申し上げたから、話してしまってもいいだろう。

 薬師の頭領はあっさりと答え、まるで優しい乳母みたいな口調で頼んできた。


 ――なあ柘榴庭どの、あの方をあまり悪く思わないでくれ。あの方は遠い、遠い国から来たのだ。

 ――悪くなど思ってはいませんよ。正后様がお戻りにさえなってくだされば、われら柘榴の妓官はみな命を賭してお守り申し上げるでしょう。

 ――しかし、あの方は戻りたくないのだよ。


 会話はそこで終わってしまった。
 あの時期、誰もが「あの法狼機女」と罵倒する中で、一人胡文姫だけが正后様の味方を
していた。
 博識で快活な薬師の頭領を慕う者の多い外宮の女官たちは、「杏樹庭さまがそう仰るなら」と、表立って正后様を罵るのだけは控えていた。
 その胡文姫が、よりにもよって身重の正后様を放って、洛中で再会した昔馴染みの薬種商人の求婚に応じて故郷へ帰るというのだ。
 胡文姫本人の口からざっと成り行きを聞かされているものの、正直なところ月牙は今もって信じられなかった。


 ――もしかしたら、これもあの法狼機女のはかりごとなのかも。


 ついつい恨みがましくそんなことを考えてしまう。
 どうもよくない考えだと月牙は自分を戒めた。この世の悪いことすべてをあの法狼機女のせいだと考えて憎むのはよくない。杏樹庭さまが思いもかけない宿下がりをなさったのは――


 ――単にこの荒れ果てた外宮にうんざりなさっただけかもしれないなあ。


 そう思うとますます気が滅入ってくる。




 夏草を分けてたどり着いた内宮南門の扉は開けっ放しだった。
 内に入ると媽祖堂の前に内宮妓官が一人だけ門に背を向けて立っている。
 白い短い筒袖の上衣と濃紺のくくり袴。背に白鷺の羽矢を収めた籐の箙と小型の弓を負い、幅広の黒い帯に刀を吊るしている。櫛目の通った小さな髷に結い上げられた髪は白髪交じりだ。根元に青い常緑樹の葉を挿している。

 月牙は愕いた。
 中背ながらも鍛え抜かれていると一目で分かる体つきといい、背筋に尺でも入れたようにまっすぐな立ち姿といい、遠目にも明らかに見覚えのある後ろ姿だったのだ。


 ――まさか飛燕様か?


 近づいてみると、相手はまさしく安飛燕だった。
 武芸妓官すべてを束ねる橘庭の次官だ。

 飛燕は先代の柘榴庭の頭領である。
 大体が三十半ばまでに宿下がりをするか、あるいは内宮へ上がるかする者の多い柘榴庭の妓官としては例外的に四十過ぎまで頭領職を務め、四年前に月牙に職を譲ったあとは、現場に立てないならばきっぱり職を辞すると申し出て内宮を慌てさせた人物である。
 その結果、

 ――当代の柘榴庭は百年に一度の逸材。手放すなど持ってのほかじゃ。いっそこの老いぼれの職を譲ってもよい。

 と、橘庭の督たる宋金蝉が言い出し、北院をあげての協議の果てに、伝統的にカジャールの氏族長の裔だけが任じられてきた橘庭の次官となった。
 まさに実力と研鑽だけですべてを勝ち取った安飛燕を、月牙はこの世の誰よりも尊敬している。
 飛燕は赤銅色に日に焼けた頬骨の高い顔にいつもの厳しい表情を浮かべ、胸の前で軽く腕を組んで、媽祖堂の縁の下のあたりを注視しているようだった。


 ――まさか、縁の下に不審者が?


 足音をひそめて近づくと、飛燕が視線を下方に向けたまま低く命じてきた。

「月牙か。静かに並べ」

 飛燕の命令は月牙には天の声だ。
 なぜと問い返すことを思いつきもせずに命じられるまま左に並ぶ。

 待つこと数秒にして、ふいに飛燕が叫んだ。
「そっちか! 月牙、捕らえろ!」 
 声と同時に縁の下から白っぽい塊が飛び出してくる。
 月牙は咄嗟に両腕を拡げて受け止めた。
「でかした!」
 飛燕が讃嘆する。

「飛燕様、これは」
「猫だ」
 飛燕が断言する。
 なるほどそれは猫だった。
 フワフワとした白い毛と澄んだ碧い眸。鼻がつぶれて足の短い、可愛いのだが不細工なのだかよく分からない顔をしたかなり大型の猫である。
 猫は月牙の腕の中でしばらくもがいていたが、どうあっても腕の力が緩まないのを悟ったのか、やがてやる気なくダランと垂れ下がった。
 こちらは餓えているというのに、忌々しいほどよく肥えた猫だ。

「この生き物は、どこから入り込んだのですか?」
「西院の壁を越えてきたんだ。何しろ猫だからな」
 飛燕がげんなりとした声で言う。「西院の貴妃がたのうちお三方がすでにお宿下がりなさったのは知っているか?」
「ええ。石楠花殿様だけがお残りと聞きました」
「その石楠花殿様も先日東院へ移られたのだ」
「では、西院は今もぬけの殻で?」
「言うな。わびしくなる」飛燕がため息をつきながら白猫を受け取った。「この連中は貴妃様がたの置き土産よ。犬は先だって内宮妓官総動員で巻き狩りをして捕らえたが、肥えたりとはいえ猫は猫だからな。壁を越えて宮中あちこちをほっつき歩いている」
「それをわざわざお捕まえに?」
「ああ」
 飛燕が嫌そうに頷く。「主計所からのお達しでな。こういう白い毛で碧い目の猫は、隣国の香波あたりでは双樹下猫と呼ばれて持てはやされて結構な高値が付くのだそうだ。もとの持ち主である貴妃様がた――いや、元貴妃様がたか、ともかくそのお三方のご生家にお知らせしたら、置いていったものは好きに処分してよいとのことだから、売れそうな猫を掛け合わせて子猫を産ませる算段らしい」
「そんな商売に手を出すほど宮は困窮しているのですか?」
「大きな声ではいえんが、非常に困窮している。売れる猫を増やすというのは悪い手段ではないと思うのだが、いかんせん餌代がな。鼠を食い尽くされたらどうしたらいいかと、この頃毎日評定をしているらしい」
「はあ」
 月牙は物悲しくなった。

 間違いなくこれはあの法狼機女のせいだ。
 主上が他の貴妃様のもとへお通いになるのを許さないというのは、異邦生まれのお若い正后様なら無理もないことかもしれない。しかし、だからといって元からいらした貴妃様がたを追い出すのは酷すぎる。数年経っても世継ぎの王子が生まれなかったらどうするおつもりなのだろう。

「どうした月牙。顔色が悪いようだが」
 猫を垂らしながら飛燕が訊ねてくる。
「何かあったのか?」

「そうでした。実は翠玉が――」

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