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第七章 ついに最後の謎解きを 3
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居並ぶ高官たちの目が一斉に雪衣を見る。
雪衣は平然としていた。
薄化粧を施された卵形の顔が美しい人形のようだ。
高官たちが場合にもなくほうっとため息をつく。
国王がますます憎らしそうにその顔を睨みつける。
「判官、聞いておるぞ。そなたはたびたびわが正后を「あの忌々しい法狼機女」と嘲っておったそうだな?」
あ、これはまずいと月牙は狼狽した。
正后様が梨花殿を出ていってしまって以来、雪衣は実際「あの法狼機女」を嫌い抜いていたし、わりとどこでも平然とそのことを口にしていた。
――雪はそういうところ大雑把というか、根回しとか権謀術策とかには向かない気質だからな。
怒りを隠すのも苦手だし人に対する好悪もはっきりしている。雪衣が内々に正后様を罵倒していたという証言は、捜せばいくらでも見つかってしまうだろう。
――雪はどう弁明するんだろう?
はらはらしながら見守る。
雪衣は平然と答えた。
「はい主上。その通りでございます」
国王の顔が怒りにゆがむ。
「雌ギツネが。では認めるのな? そなたはジュヌヴィエーヴを嫌い抜いておった。文字一つ書けない法狼機女などより石楠花殿のほうがはるかに梨花殿のあるじに相応しかったと人ごとに言いふらしておった」
「ええ。事実でございますから。恐れながら主上よ、石楠花殿様は――いいえ、元の石楠花殿さまは、まこと正后の地位にふさわしい姫君でございました。あなた様はあの方を見変え、忠実で勤勉な他のお三方の貴妃さまがたも見変えて、荘の帳簿はおろか自らの宮の主計にさえ目をくれぬお方を正后にすえた」
「黙れ、この雌ギツネめが。ジュヌヴィエーヴは異邦の姫だ。この国の習わしに明るくなくとも致し方なかろう。分からぬことはそなたらが教えろ! なぜ教えてやらなかった! あれは日々泣いているのだ! 宮には誰も友がない、誰もが私を嫌うと!」
「――教えようにもあの方が宮を棄てられたのではありませんか。いないお方に何をどうお教えしろと?」
雪衣が静かな怒りを湛えた声で答え、玉座の右に並んだ高官の一人に目を向けた。でっぷりと太った小柄な男だ。鮮やかな緋色の袍をまとい、同じ色の組紐で頭巾の根元を結んで赤瑪瑙の環に通している。
「はばかりながら、当代の刑部尚書様とお見受けする」
声をかけられた男はびくりとした。
額に脂汗が浮かんでいる。ぎょどぎょどと泳ぐ目が恐ろしそうに玉座を見た。国王は鼻を鳴らした。
「いい度胸だな雌ギツネ。朕の面前で刑部を誑かそうとか?」
「いいえ。ただいくつかお訊きしたいことが」
「何だ。申してみろ」と、国王が顎で促す。「わが百官の見る前で、雌ギツネの手練手管をとくと見せるがいい」
国王の言葉に嘲笑があがる。
雪衣は平然とうなずき、蛇に睨まれた蛙みたいに首を縮めてビクビクしている緋色の高官に向けて訊ねた。
「卿は先の嶺西道節度使でいらせられたと聞きます。嶺西道の南部を襲った三年前の日旱を覚えておいでですか?」
雪衣の発した問いはその場の誰にとっても思いがけなかった。
刑部尚書が脂汗を浮かべながらも頷く。
「あ。ああ。覚えておるぞ?」
「あの地方の租税について、そのときどのような処置を?」
「あ、あ――」
刑部尚書が応えに窮すると、思いがけず、玉座の右から槙炎卿が答えた。
「三年間の租税の三割減免だろうな。日旱なら通例としてそうだろう」
「ええ。通例としてはそうです」と、雪衣が応じ、背筋を正して槙炎卿に向き直った。
「ですから、あの地方に属する梨花殿領の荘園も、本来ならば今年まで減免を受けられるはずでした」
「受けられるはず――とは、受けていないのか?」と、国王が咎めるように訊ねる。「後宮の荘園は、節度使には属さずおのおのに営むものであろう。主計所は何ら処置を講じてやらなかったのか?」
雪衣はきっと柳眉をつり上げて玉座を睨みつけた。
「講じましたとも。通例通りね。しかし、今年の減免は別です。例のパレ・ド・ラ・レーヌの――正后様の新梨花宮の建造費のために、梨花殿領に減免の余地はなくなりました。荘民たちはまだ生活に困っていたのでしょう。何度も哀訴の書状をよこしましたが、断らざるを得なかった。私もこの手で幾度も断りの手紙を書きましたよ」
雪衣は静かに言って、顔の前で両手を広げてじっと見た。
細い腕から華やかに垂れる白い長い袖には不似合いな、逃走のあいだにすっかりと荒れてしまった繊手だ。右手の中指に筆胼胝がある。
後宮の雌ギツネ――という響きにはあまりにも不似合いな、日々忙しなく勤めに追われてきた実務的な官吏の手だった。
月牙は高官たちの雪衣を見る目が変わっていくのを感じた。
国王は怯えた子供のような顔で左右を見回してから、はっと思いついた言い訳を口にするように言った。
「な、なぜそれをサッサと朕に伝えなかった!?」
「後宮の主計所の督に直訴の権限はありません。貴妃さまがたがいらせられない今、後宮から主上に直接奏上できるのは、桃果殿のあるじと梨花殿のあるじ、そのお二方のみです」
「ジュヌヴィエーヴは――」と、国王が顔をゆがめていう。「あれはよるべない孤児(みなしご)だったのだ。あれは怖いと言うておる。人が皆己を指さして嗤っているようで怖いと。だから安らげる宮を造ってやりたかったのだ。あれが怯えずに眠れる宮を、誰にも虐められずに笑っていられる宮を――」
「比翼連理のお二方として、まことに尊いお心であると思います」
雪衣が静かに言った。
「しかし、この世にはお二方の他にも人があるのです。正后様はもはやよるべない孤児ではなく、我らの貴い梨花殿様でいらせられるのですから、御身に属する諸々の人の生業(なりわい)に気を配る責務がございます。その責務さえ果たしてくだされば、我らはみな当代様の御為に己が職責を果たすでしょう。――そうだな、柘榴庭?」
いきなり話を振られた月牙はびくりとした。
「え、ええ無論!」
とっさにそれだけ答える。雪衣が眉をつり上げて睨みつけてくる。
もっと何か言えと無言で圧力をかけているようだ。
月牙は必死で頭を絞った。
「あ、ああ――その、我ら柘榴の妓官は、第四代黎明王の御代、カジャール三姫がはじめの誓いを立ててこの方、天が落ち、地が裂け、河が北へと流れようとも、桃梨を護るものなりと言い伝えております。いざことあれば命をかけてお救いする覚悟こそあれ、正后様を害する心など毛頭ございません。な、小蓮?」
「あ、ええムロン!」
と、小蓮がバネ仕掛けの人形みたいに跳ね上がる。
愛らしい姿に高官たちの口元がかすかに緩んだ。雪衣もちょっと笑ってから、槙炎卿の手前に立っている象牙色の袍の老人に向けて訊ねた。
「ところで御史大夫さま、ひとつ伺いたいのですが?」
「なにかの、紅梅殿の判官」
老人が落ち着いた声で応じる。
「わたくしは今、新梨花宮からの奏上によって、正后様毒殺未遂の罪を問われた結果、こうして捕縛されているのですよね?」
「いかにも」
「では、その捕縛された状態で、わたくしから別の人物を訴えることはできますか?」
「それは、そなたの考える毒殺未遂の真の咎人をということか?」
「いえ、それとはまた別口で」
雪衣が涼しい顔で答える。
「別口?」
興味深そうに応じたのは隣の槙炎卿だった。
「判官よ、手に縄をかけられたまま、どこのだれを何の咎で訴えるというのだ?」
「ご案じ召されるな宰相公よ。あなた様を訴えようとは思っておりません」
含み笑いで答えてにんまりと笑う。
槙炎卿が憮然とした顔をする。
玉座の国王が声を立てて笑った。
「炎卿、おぬしのそんな顔を初めてみたぞ! 判官、朕が許す。その訴えとやらこの場で申してみよ」
「お慈悲に感謝いたします。わたくしが罪を問いたいのは、竜騎兵のマスケット師範を務める法安徳なる法狼機人でございます」
「法安徳? リュザンベール人のアルマン・ル・フェーヴルのことか?」と、国王が大げさなほど舌を巻いてR音を発音しながら不愉快そうに問い返す。「そなた性懲りもなく、ジュヌヴィエーヴのたったひとりの身内を陥れようというのか?」
「恐れながら主上、ル・フェーヴルはただ同じリュザンベール人だというだけで、正后様のお身内ではございません」と、雪衣がこちらも大げさな発音で応じる。
「お疑いならば海都のリュザンベール領事館にお問い合わせを。方々お聞きください。この法狼機は卑劣な蛭のようなやつで、正后様のたった一人の外戚を装い、通詞の立場を悪用して、我ら主計所と海都の領事館から、新梨花宮の建設費用を二重に要求していたのです。我々が図らずもこの事実を知ることになったきっかけは、今年の夏の初め、一人の若い武芸妓官が、タゴール人のルーシャンなる胡乱な男に騙されて宮を出奔したことでした――」
雪衣はそんな具合に本題に持ち込み、問われるままに時折脇道にそれながらも、あの忘れがたい翠玉の出奔から今この場に至るまでの出来事を、時の流れに従ってそのまま語り尽くした。
「さて方々、ここまでお聞きになられて、何か疑問に思われたことがございますか?」
雪衣が居並ぶ高官たちを順々に眺めてゆく。
視線は最後に玉座の右で止まった。
月牙は唐突に場違いなことを思った。
――右側に座っているのにどうして左宰相なのだろう?
思ってしまってから自分で答えに気づく。こちらと対峙する主上にとっての左側なのだ。
――主上はいつもたったお独りで、臣とは逆の左右を見ていらせられるのだな。
それはずいぶん孤独なことではないかと月牙は思った。
玉座の右側の――主上にとっては左側の宰相たる瑠璃の衣の槙炎卿は、思いがけないほど真剣な表情で考え込んでいたが、じきに真っ白な歯をのぞかせて笑った。
「解したぞ判官。なるほど疑問だ。つまり、なぜ分かったかということであろう?」
「ええ宰相公。まさしくその通りでございます」
雪衣の話していることが途中までよく分からないのはいつものことである。月牙は特に気にせずに会話の続きを待った。小蓮もすっかり慣れた様子で、時々ちらちら上目遣いになって天井の画なんかを見ている。
妓官二人のみならず、居並ぶ他の高官たちもぽかんとしているところを見ると、二人の会話は純粋に二人にしか分かっていないようだった。
堪え性のない国王がじれた声で促す。
「炎卿、言葉を省くな。誰が、何を、なぜ分かったということなのだ?」
「法安徳が、逃亡女官三人が租界にいると、あのときなぜ分かったのかということでございますよ。そうだな判官?」
「仰せの通りでございます」と、雪衣が満足そうに頷く。
「先にもお話しした通り、我々は密かに租界に入り、敵が何か知れないあいだは事態を秘めたいと考えた用心深い領事の采配によって、詳しい名と身分は明かさず、租界に住まう通詞夫妻の縁戚と偽って身を潜めておりました。海都宿駅の駅長も、我々が租界にいることは、桃果殿様のご配慮により急を報せにきた妓官が着くまで、全く知らなかったと申しておりました」
「しかし、法狼機には法狼機同士の交際(つきあい)があるのでは?」と、刑部尚書が口を挟む。雪衣は眉をあげた。
「法狼機が自由に国内を移動することは禁じられていると聞きました。我々が租界に入ってから法安徳が訴えをおこすあいだ、国内を移動した法狼機が誰もいないことは、調べればすぐに分かるはず」
「しかし、領事は新梨花宮に手紙を送ったのであろう? それを運んだ法狼機がいたのではないか?」
「あいにくながらおりません。領事は京洛へ向かう海都商人の商船に託して手紙を送りました。返信も同様です。この時点で我々が租界にいることを海都商人は誰も知らなかったはずです。しかし――大変奇妙なことに――法安徳は、領事からの問い合わせの手紙を受け取った直後、間髪入れずに新梨花宮から王宮に奏上しました。海都の租界に逃亡女官三人が逃れて、領事と共謀していると。冤罪の証となりうるマスケットの製造番号を問い合わせる手紙を受け取っただけで、あの男はなぜその推測ができたのか? なぜあのマスケットと逃亡女官を即座に結びつけるという論理の飛躍が可能だったのか? 答えはたったひとつ。あの男は、その番号が冤罪の証拠だとはじめから知っていたのです。方々、ここまでで何か疑問は?」
「今のところ、何もない」
槙炎卿が静かに答えた。
「では、改めて、御史大夫さま。わたくしから訴えを申し上げます。まずは公金横領の疑いでアルマン・ル・フェーヴル、あるいは法安徳をお調べくださいますよう」
「し、しかし判官」と、緋色の衣の刑部尚書が脂汗を垂らしながら口を挟む。「そなたは知らぬかもしれぬが、法狼機には領事裁判権というものがあっての」
「双樹下の国法で法狼機人を裁くことはできないのでございますね? もちろん存じております。しかし、租界の外で罪を犯した法狼機人を捕縛する権限については? 何か規定がおありで?」
「そこについては何も定まっておらんな」と、槙炎卿が応じる。「租界の外に住むリュザンベール人など、正后様とル・フェーヴル、それに新梨花宮の雇い人の他には誰もいないからの。先例に倣おうにも先例がない」
「ではここでお作りなさいませ」
雪衣がにんまりと笑う。
槙炎卿は声を立てて笑った。
「そなた、なかなか後宮の雌ギツネらしいではないか! 主上よ、尚書省からも奏上いたす。領事裁判権にはじめのくさびを入れるに、確かにこれほど都合のいい事件もない。どうか御史台に命じてル・フェーヴルをお調べなさいませ」
「恐れながら主上よ、中書省からも」
左右から瑠璃の衣の高官が揃って頭を低める。
すると居並ぶ高官たちが一斉に倣った。
国王は怯えた子供の顔でそのさまを凝視していた。
やがて、震える唇を開いて誰にともなしに訊ねる。
「ル・フェーヴルを捕らえたとして、ジュヌヴィエーヴの身に類が及ぶことはないのだろうな? 同じリュザンベール人であるというだけで、あれまで憎まれ、嫌われて、皆に虐められることはないのであろうな?」
応えは返らなかった。
国王の顔がくしゃりと歪む。
悪夢に怯える幼い子供そのものの顔だった。
「主上、かの者をこのまま野放しにしては、正后さまのご評判はますます傷つきましょう。じきにお生まれになる御子のためにも、今ここで獅子身中の虫をお捕らえなさいませ」
槙炎卿が強く静かな口調で諭す。
国王は怯えた顔のままわずかに頷いた。
「分かった。命じる。ル・フェーヴルを捕らえろ」
「主上よ、御言葉のままに」
高官たちが一斉に膝をつき、床に頭を押しつけながら応える。雪衣も慌ててひれ伏しながら、月牙と小蓮にも倣うようにと目で促してくる。
ひれ伏しながら月牙は思った。
――主上は今も独りだ。皆が主上を仰ぐ中、あの方だけが何も仰がずお独りで立っていらせられる。
そう思うなり胸を切るような哀しみがこみ上げてきた。
――あの方は独りだ。空と地のあいだにたった独りで立っていらせられる。その傍らにただ独り並べるお方が、あのよるべない異邦の姫君だったのだ。
雪衣は平然としていた。
薄化粧を施された卵形の顔が美しい人形のようだ。
高官たちが場合にもなくほうっとため息をつく。
国王がますます憎らしそうにその顔を睨みつける。
「判官、聞いておるぞ。そなたはたびたびわが正后を「あの忌々しい法狼機女」と嘲っておったそうだな?」
あ、これはまずいと月牙は狼狽した。
正后様が梨花殿を出ていってしまって以来、雪衣は実際「あの法狼機女」を嫌い抜いていたし、わりとどこでも平然とそのことを口にしていた。
――雪はそういうところ大雑把というか、根回しとか権謀術策とかには向かない気質だからな。
怒りを隠すのも苦手だし人に対する好悪もはっきりしている。雪衣が内々に正后様を罵倒していたという証言は、捜せばいくらでも見つかってしまうだろう。
――雪はどう弁明するんだろう?
はらはらしながら見守る。
雪衣は平然と答えた。
「はい主上。その通りでございます」
国王の顔が怒りにゆがむ。
「雌ギツネが。では認めるのな? そなたはジュヌヴィエーヴを嫌い抜いておった。文字一つ書けない法狼機女などより石楠花殿のほうがはるかに梨花殿のあるじに相応しかったと人ごとに言いふらしておった」
「ええ。事実でございますから。恐れながら主上よ、石楠花殿様は――いいえ、元の石楠花殿さまは、まこと正后の地位にふさわしい姫君でございました。あなた様はあの方を見変え、忠実で勤勉な他のお三方の貴妃さまがたも見変えて、荘の帳簿はおろか自らの宮の主計にさえ目をくれぬお方を正后にすえた」
「黙れ、この雌ギツネめが。ジュヌヴィエーヴは異邦の姫だ。この国の習わしに明るくなくとも致し方なかろう。分からぬことはそなたらが教えろ! なぜ教えてやらなかった! あれは日々泣いているのだ! 宮には誰も友がない、誰もが私を嫌うと!」
「――教えようにもあの方が宮を棄てられたのではありませんか。いないお方に何をどうお教えしろと?」
雪衣が静かな怒りを湛えた声で答え、玉座の右に並んだ高官の一人に目を向けた。でっぷりと太った小柄な男だ。鮮やかな緋色の袍をまとい、同じ色の組紐で頭巾の根元を結んで赤瑪瑙の環に通している。
「はばかりながら、当代の刑部尚書様とお見受けする」
声をかけられた男はびくりとした。
額に脂汗が浮かんでいる。ぎょどぎょどと泳ぐ目が恐ろしそうに玉座を見た。国王は鼻を鳴らした。
「いい度胸だな雌ギツネ。朕の面前で刑部を誑かそうとか?」
「いいえ。ただいくつかお訊きしたいことが」
「何だ。申してみろ」と、国王が顎で促す。「わが百官の見る前で、雌ギツネの手練手管をとくと見せるがいい」
国王の言葉に嘲笑があがる。
雪衣は平然とうなずき、蛇に睨まれた蛙みたいに首を縮めてビクビクしている緋色の高官に向けて訊ねた。
「卿は先の嶺西道節度使でいらせられたと聞きます。嶺西道の南部を襲った三年前の日旱を覚えておいでですか?」
雪衣の発した問いはその場の誰にとっても思いがけなかった。
刑部尚書が脂汗を浮かべながらも頷く。
「あ。ああ。覚えておるぞ?」
「あの地方の租税について、そのときどのような処置を?」
「あ、あ――」
刑部尚書が応えに窮すると、思いがけず、玉座の右から槙炎卿が答えた。
「三年間の租税の三割減免だろうな。日旱なら通例としてそうだろう」
「ええ。通例としてはそうです」と、雪衣が応じ、背筋を正して槙炎卿に向き直った。
「ですから、あの地方に属する梨花殿領の荘園も、本来ならば今年まで減免を受けられるはずでした」
「受けられるはず――とは、受けていないのか?」と、国王が咎めるように訊ねる。「後宮の荘園は、節度使には属さずおのおのに営むものであろう。主計所は何ら処置を講じてやらなかったのか?」
雪衣はきっと柳眉をつり上げて玉座を睨みつけた。
「講じましたとも。通例通りね。しかし、今年の減免は別です。例のパレ・ド・ラ・レーヌの――正后様の新梨花宮の建造費のために、梨花殿領に減免の余地はなくなりました。荘民たちはまだ生活に困っていたのでしょう。何度も哀訴の書状をよこしましたが、断らざるを得なかった。私もこの手で幾度も断りの手紙を書きましたよ」
雪衣は静かに言って、顔の前で両手を広げてじっと見た。
細い腕から華やかに垂れる白い長い袖には不似合いな、逃走のあいだにすっかりと荒れてしまった繊手だ。右手の中指に筆胼胝がある。
後宮の雌ギツネ――という響きにはあまりにも不似合いな、日々忙しなく勤めに追われてきた実務的な官吏の手だった。
月牙は高官たちの雪衣を見る目が変わっていくのを感じた。
国王は怯えた子供のような顔で左右を見回してから、はっと思いついた言い訳を口にするように言った。
「な、なぜそれをサッサと朕に伝えなかった!?」
「後宮の主計所の督に直訴の権限はありません。貴妃さまがたがいらせられない今、後宮から主上に直接奏上できるのは、桃果殿のあるじと梨花殿のあるじ、そのお二方のみです」
「ジュヌヴィエーヴは――」と、国王が顔をゆがめていう。「あれはよるべない孤児(みなしご)だったのだ。あれは怖いと言うておる。人が皆己を指さして嗤っているようで怖いと。だから安らげる宮を造ってやりたかったのだ。あれが怯えずに眠れる宮を、誰にも虐められずに笑っていられる宮を――」
「比翼連理のお二方として、まことに尊いお心であると思います」
雪衣が静かに言った。
「しかし、この世にはお二方の他にも人があるのです。正后様はもはやよるべない孤児ではなく、我らの貴い梨花殿様でいらせられるのですから、御身に属する諸々の人の生業(なりわい)に気を配る責務がございます。その責務さえ果たしてくだされば、我らはみな当代様の御為に己が職責を果たすでしょう。――そうだな、柘榴庭?」
いきなり話を振られた月牙はびくりとした。
「え、ええ無論!」
とっさにそれだけ答える。雪衣が眉をつり上げて睨みつけてくる。
もっと何か言えと無言で圧力をかけているようだ。
月牙は必死で頭を絞った。
「あ、ああ――その、我ら柘榴の妓官は、第四代黎明王の御代、カジャール三姫がはじめの誓いを立ててこの方、天が落ち、地が裂け、河が北へと流れようとも、桃梨を護るものなりと言い伝えております。いざことあれば命をかけてお救いする覚悟こそあれ、正后様を害する心など毛頭ございません。な、小蓮?」
「あ、ええムロン!」
と、小蓮がバネ仕掛けの人形みたいに跳ね上がる。
愛らしい姿に高官たちの口元がかすかに緩んだ。雪衣もちょっと笑ってから、槙炎卿の手前に立っている象牙色の袍の老人に向けて訊ねた。
「ところで御史大夫さま、ひとつ伺いたいのですが?」
「なにかの、紅梅殿の判官」
老人が落ち着いた声で応じる。
「わたくしは今、新梨花宮からの奏上によって、正后様毒殺未遂の罪を問われた結果、こうして捕縛されているのですよね?」
「いかにも」
「では、その捕縛された状態で、わたくしから別の人物を訴えることはできますか?」
「それは、そなたの考える毒殺未遂の真の咎人をということか?」
「いえ、それとはまた別口で」
雪衣が涼しい顔で答える。
「別口?」
興味深そうに応じたのは隣の槙炎卿だった。
「判官よ、手に縄をかけられたまま、どこのだれを何の咎で訴えるというのだ?」
「ご案じ召されるな宰相公よ。あなた様を訴えようとは思っておりません」
含み笑いで答えてにんまりと笑う。
槙炎卿が憮然とした顔をする。
玉座の国王が声を立てて笑った。
「炎卿、おぬしのそんな顔を初めてみたぞ! 判官、朕が許す。その訴えとやらこの場で申してみよ」
「お慈悲に感謝いたします。わたくしが罪を問いたいのは、竜騎兵のマスケット師範を務める法安徳なる法狼機人でございます」
「法安徳? リュザンベール人のアルマン・ル・フェーヴルのことか?」と、国王が大げさなほど舌を巻いてR音を発音しながら不愉快そうに問い返す。「そなた性懲りもなく、ジュヌヴィエーヴのたったひとりの身内を陥れようというのか?」
「恐れながら主上、ル・フェーヴルはただ同じリュザンベール人だというだけで、正后様のお身内ではございません」と、雪衣がこちらも大げさな発音で応じる。
「お疑いならば海都のリュザンベール領事館にお問い合わせを。方々お聞きください。この法狼機は卑劣な蛭のようなやつで、正后様のたった一人の外戚を装い、通詞の立場を悪用して、我ら主計所と海都の領事館から、新梨花宮の建設費用を二重に要求していたのです。我々が図らずもこの事実を知ることになったきっかけは、今年の夏の初め、一人の若い武芸妓官が、タゴール人のルーシャンなる胡乱な男に騙されて宮を出奔したことでした――」
雪衣はそんな具合に本題に持ち込み、問われるままに時折脇道にそれながらも、あの忘れがたい翠玉の出奔から今この場に至るまでの出来事を、時の流れに従ってそのまま語り尽くした。
「さて方々、ここまでお聞きになられて、何か疑問に思われたことがございますか?」
雪衣が居並ぶ高官たちを順々に眺めてゆく。
視線は最後に玉座の右で止まった。
月牙は唐突に場違いなことを思った。
――右側に座っているのにどうして左宰相なのだろう?
思ってしまってから自分で答えに気づく。こちらと対峙する主上にとっての左側なのだ。
――主上はいつもたったお独りで、臣とは逆の左右を見ていらせられるのだな。
それはずいぶん孤独なことではないかと月牙は思った。
玉座の右側の――主上にとっては左側の宰相たる瑠璃の衣の槙炎卿は、思いがけないほど真剣な表情で考え込んでいたが、じきに真っ白な歯をのぞかせて笑った。
「解したぞ判官。なるほど疑問だ。つまり、なぜ分かったかということであろう?」
「ええ宰相公。まさしくその通りでございます」
雪衣の話していることが途中までよく分からないのはいつものことである。月牙は特に気にせずに会話の続きを待った。小蓮もすっかり慣れた様子で、時々ちらちら上目遣いになって天井の画なんかを見ている。
妓官二人のみならず、居並ぶ他の高官たちもぽかんとしているところを見ると、二人の会話は純粋に二人にしか分かっていないようだった。
堪え性のない国王がじれた声で促す。
「炎卿、言葉を省くな。誰が、何を、なぜ分かったということなのだ?」
「法安徳が、逃亡女官三人が租界にいると、あのときなぜ分かったのかということでございますよ。そうだな判官?」
「仰せの通りでございます」と、雪衣が満足そうに頷く。
「先にもお話しした通り、我々は密かに租界に入り、敵が何か知れないあいだは事態を秘めたいと考えた用心深い領事の采配によって、詳しい名と身分は明かさず、租界に住まう通詞夫妻の縁戚と偽って身を潜めておりました。海都宿駅の駅長も、我々が租界にいることは、桃果殿様のご配慮により急を報せにきた妓官が着くまで、全く知らなかったと申しておりました」
「しかし、法狼機には法狼機同士の交際(つきあい)があるのでは?」と、刑部尚書が口を挟む。雪衣は眉をあげた。
「法狼機が自由に国内を移動することは禁じられていると聞きました。我々が租界に入ってから法安徳が訴えをおこすあいだ、国内を移動した法狼機が誰もいないことは、調べればすぐに分かるはず」
「しかし、領事は新梨花宮に手紙を送ったのであろう? それを運んだ法狼機がいたのではないか?」
「あいにくながらおりません。領事は京洛へ向かう海都商人の商船に託して手紙を送りました。返信も同様です。この時点で我々が租界にいることを海都商人は誰も知らなかったはずです。しかし――大変奇妙なことに――法安徳は、領事からの問い合わせの手紙を受け取った直後、間髪入れずに新梨花宮から王宮に奏上しました。海都の租界に逃亡女官三人が逃れて、領事と共謀していると。冤罪の証となりうるマスケットの製造番号を問い合わせる手紙を受け取っただけで、あの男はなぜその推測ができたのか? なぜあのマスケットと逃亡女官を即座に結びつけるという論理の飛躍が可能だったのか? 答えはたったひとつ。あの男は、その番号が冤罪の証拠だとはじめから知っていたのです。方々、ここまでで何か疑問は?」
「今のところ、何もない」
槙炎卿が静かに答えた。
「では、改めて、御史大夫さま。わたくしから訴えを申し上げます。まずは公金横領の疑いでアルマン・ル・フェーヴル、あるいは法安徳をお調べくださいますよう」
「し、しかし判官」と、緋色の衣の刑部尚書が脂汗を垂らしながら口を挟む。「そなたは知らぬかもしれぬが、法狼機には領事裁判権というものがあっての」
「双樹下の国法で法狼機人を裁くことはできないのでございますね? もちろん存じております。しかし、租界の外で罪を犯した法狼機人を捕縛する権限については? 何か規定がおありで?」
「そこについては何も定まっておらんな」と、槙炎卿が応じる。「租界の外に住むリュザンベール人など、正后様とル・フェーヴル、それに新梨花宮の雇い人の他には誰もいないからの。先例に倣おうにも先例がない」
「ではここでお作りなさいませ」
雪衣がにんまりと笑う。
槙炎卿は声を立てて笑った。
「そなた、なかなか後宮の雌ギツネらしいではないか! 主上よ、尚書省からも奏上いたす。領事裁判権にはじめのくさびを入れるに、確かにこれほど都合のいい事件もない。どうか御史台に命じてル・フェーヴルをお調べなさいませ」
「恐れながら主上よ、中書省からも」
左右から瑠璃の衣の高官が揃って頭を低める。
すると居並ぶ高官たちが一斉に倣った。
国王は怯えた子供の顔でそのさまを凝視していた。
やがて、震える唇を開いて誰にともなしに訊ねる。
「ル・フェーヴルを捕らえたとして、ジュヌヴィエーヴの身に類が及ぶことはないのだろうな? 同じリュザンベール人であるというだけで、あれまで憎まれ、嫌われて、皆に虐められることはないのであろうな?」
応えは返らなかった。
国王の顔がくしゃりと歪む。
悪夢に怯える幼い子供そのものの顔だった。
「主上、かの者をこのまま野放しにしては、正后さまのご評判はますます傷つきましょう。じきにお生まれになる御子のためにも、今ここで獅子身中の虫をお捕らえなさいませ」
槙炎卿が強く静かな口調で諭す。
国王は怯えた顔のままわずかに頷いた。
「分かった。命じる。ル・フェーヴルを捕らえろ」
「主上よ、御言葉のままに」
高官たちが一斉に膝をつき、床に頭を押しつけながら応える。雪衣も慌ててひれ伏しながら、月牙と小蓮にも倣うようにと目で促してくる。
ひれ伏しながら月牙は思った。
――主上は今も独りだ。皆が主上を仰ぐ中、あの方だけが何も仰がずお独りで立っていらせられる。
そう思うなり胸を切るような哀しみがこみ上げてきた。
――あの方は独りだ。空と地のあいだにたった独りで立っていらせられる。その傍らにただ独り並べるお方が、あのよるべない異邦の姫君だったのだ。
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