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明け易し夏 ミツキの疑惑
愛のカタチ【後編】
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新之助に園部三和子《そのべみわこ》を押し付けて、僕とミツキは退散した。新之助、あるいは園部三和子のいずれかが告白をして、付き合い始めるのも時間の問題だと感じていたのだが、意外にも二人とも苦戦しているようである。きっかけがない。その一言に尽きる。
僕とミツキは余計な口を挟まずに、ただ時の流れと二人のタイミングを見守ることにした。その後どうなったのかを、昼休みにでも聞いてみよう。
アダプターを介してミラーレスカメラに取り付けたライカのレンズ——ファーストズミルックス越しに見るミツキは、午後の晴れ間に少しだけ滲《にじ》んでいた。まさか、この写真をミツキノミコトの一枚として、使うことはできないけれど。だからと言って、写真を撮らないことは寂しすぎた。
紫陽花の前でレンズに背中を見せて、横顔だけをこちらに見せるミツキの表情は、すべてを貫くような真っ直ぐな瞳と何色にも染まらない無の表情で、周囲の空気を花神楽美月《はなかぐらみつき》の色に染め上げる。
ヴィンテージレンズで切り取った世界は、ミツキを中心に淡い光で霞《かす》んでいて、ブランドのルックブックの一枚のような仕上がりになっていた。貴婦人という二つ名で呼ばれるレンズで撮っただけのことはあるが、それに負けないミツキもさすがとしか言いようがない。
「もう溜息しかでない。なんだろう。こう……」
「え。わたし、そんなに写り悪い?」
僕の隣に立ち、カメラの背面液晶を覗き込むミツキに、違う、と言って慌てて弁解する。そうじゃない、そうじゃなくて、ミツキが美しすぎるのだ。
滲《にじ》んだフレームの中のキャンバスにパステルでミツキを描いたとすれば、途切れることなく線が像を結んでいて、しっとりとした質感と幻想的な色合いに、きっと溜息しか出ない。
雪のような肌は、薄桃色の頬が薄い濃淡で描かれていて、そもそも夏に似つかわしくない。明るい栗色の髪を黒いウィッグで覆い隠していたとしても。それが花神楽美月でも花山充希《はなやまみつき》でもなく、僕からしてみれば、ミツキに変わりはない。ミツキはいつでもミツキだ。
「可愛すぎて悶絶死《もんぜつし》するかもしれない」
ミツキは少し笑ってから、まてよ、と考え込んで訊ねる。大きな赤い縁の伊達メガネをきらりと光らせて、僕の顔を僅かに下から覗き込んだ。超新星爆発の輝きに満ちた瞳から生まれる、ブラックホールのような瞳孔《どうこう》が僕の魂を抜き取ろうとしているに違いない。いや、魂ならすでに、ミツキに盗まれているのだから気にすることなんてないのかも。
「それって、もしかして馬鹿にしてる?」
どこをどう捉えたら馬鹿にしているように聞こえるのか、僕が逆に質問をしたかったのだが、ミツキは口を尖らせて眉根を寄せると僕のカメラを奪い取る。
「可愛いって言ったらだめなの?」
「だって、悶絶死って、エッチな感じしない?」
「えぇ。そういう捉え方だったの。ありえない」
紫陽花と一体になった自分を確認するとカメラを僕に返して、もう一度よ、と言って小走りして紫陽花の前でポーズをとるミツキが、今度は少し笑って見せた。どこかのプロフォトグラファーの前で見せる職業的笑顔ではない。僕にはわかる。僕のために笑ってくれている。
「もうだめ。悶絶死確実」
「シュン君、まじめに撮ってる?」
未だに僕が写真家ミツキノミコトという事実を、ミツキは知らない。言っていないのだから当然なのだが、言うべきか迷っている。もし、事実を知れば、志桜里を未だに撮っていることをどう思うのか。もちろん、志桜里を撮ることについては仕事になっていて、彼女のマネジメント料金から報酬が僕に支払われている。それに、志桜里と二人きりでの撮影ということもあり得ない。でも、写真の中の志桜里は、僕に微笑みかけているのは確かである。それは、ミツキだって写真を見れば分かるようだ。
志桜里ちゃんって、ミツキノミコト様のこときっと好きなのよね。だって、恋している瞳だもの。
志桜里の誌上スナップを見て漏らしたミツキの感想に、僕は恐れおののいた。伊達にアイドルをしていないし、やはりその辺りの目利きはプロなのだと思った。
撮影の時間だけでも、志桜里ちゃんに恋させるなんて。ミツキノミコト様は何者、とミツキは訝しむ。
それと同時に、目標に駆けあがる意志の強さも持ち合わせているのだから、やはり、ミツキに真実を告げることを躊躇《ためら》ってしまう。
わたしもミツキノミコト様に撮ってもらいたいな。今度、高梨さんを脅して聞いてみようかな。
マネージャー高梨も、きっとタジタジなのだろう。花鳥風月プリズムZのメンバーは、みんな押しが強い。しかし、そうでなければ芸能界という亡者の池で生き残ることは難しいのかもしれない。
「撮っているよ。大真面目。でも、これ、何かに使うの?」
「インストグラムには使えないし、まさか宣材写真になんて使ったらきっと大炎上だし。うーん。そうね。決めた! 将来、子供に見せるの。パパが撮ってくれた写真だよ、って」
「お、重すぎ。そんな写真を撮ってるの僕? っていうか、気が早すぎると思うんだけど」
「だって、シュン君はそうやって捕まえておかないと、誰かに取られちゃいそうだし」
それは、僕が浮気性だと疑っているのだろうか。それとも、僕がミツキに飽きてしまって、誰かに目移りしてしまう、と危惧しているのだろうか。安心して、と言いたいところだけど、ミツキはきっとそんな言葉よりも、別の言葉を欲していることを知っている。
「ミツキ。おいで」
僕が両手を広げると、ミツキは嬉々として僕の中に飛び込んでくる。ドイツ空軍の猛攻からイギリス領空を守った、スピッドファイアのパイロットの帰還を待ち望んだ貴婦人のように。そして、強く僕を抱き締める。僅《わず》か数時間、接触がなかっただけで、これほど僕の体温を欲するのだから、もし、数日、数週間、会えなくなったとしたらミツキはどうなってしまうのだろう。やはり、貴婦人のように毎日窓から空を眺めて嘆くのだろうか。
「僕はどこにも行かないから。ずっと一緒にいるから」
「ほんと? 絶対に絶対?」
「うん。絶対」
まるで子供だった。でも、僕にしか見せないはにかむ笑顔と甘える仕草は僕だけの特権で、二人だけの時間ならどんなにミツキが甘えてきても構わないと思っていた。
「お前らさ。やっぱり付き合ってんじゃん。いつ声かけようかと思って待ってたんだけど、終わりそうにないから、その、————イチャつき」
二人だけの時間なら、どんなに甘えようが抱き合おうが、構わないと思っていた、のに。背後の紫陽花の茂みから新之助が、呆れながら顔を出した。僕とミツキは完全に涼森新之助と園部三和子の存在を忘れていた。これは不覚であって、まさかこの広大な敷地の中で再び出会うなんてことは思っていなかったのだ。ここは紫陽花の森の一番奥だというのに。いや、それ以前に、二人だけの時間だと思い込んでいて、のめり込んでしまっていた、というほうが自然かもしれない。
「し、新之助……。ああ、ええっと」
慌てて離れたミツキの表情が、真顔に変わり、今までの行動が嘘のように素知らぬ顔で冷静さを保つ——というより演じている。唇をきつく閉じて、僕からゆっくりと離れていく。今更だよ、ミツキ。
「いや、別にいいよ。誰にも言わないし。それよりか、俺たち付き合うことになったんだ。それで礼を言おうと……」
「お二人のおかげです。本当にありがとうございました。倉美月くん、花山さん」
新之助と園部三和子が、すでに手と手を取り合って繋いでいる姿を、僕は素直に祝福した。やはり友人が幸せになる姿は、心が晴れやかになる。でも、こんな簡単に相思相愛の奇跡が降り立つものなの、と胸中で怪訝《けげん》に呟いた言葉が自分自身に返ってくる。ミツキと僕も、か。
「涼森君と園部さんも、本当良かったですね。あの、何度も言うのは、本当に恐縮なのですが」
俯き加減で静かに吐き出す言葉を、園部三和子はあらかじめ知っていたように遮った。花山充希——花神楽美月が気に病む事象は一つだけだ。僕とミツキの関係は、絶対に漏らしてはいけないというもの。
「花山さん、それは大丈夫よ。涼森君にも説明しておくから。ね?」
「あ、ああ。絶対に言わないから安心しろよ。でも、春夜、それとは別に後で説教だからな」
そんなこと言われても、と捨て台詞のように言葉を置いて、僕とミツキはその場を離れた。脇目使いで新之助と園部三和子を確認すると、手を繋いで歩いていて、少しだけその立ち位置が羨《うらや》ましかった。人の目を気にする必要もなく、自分たちの立場が誰かのせいで危うくなることもない。やろうと思えばなんでもできる、例えば変装無しで人の多いテーマパークにだって行くことだって可能だ——テーマパークに固執しているわけではないが。
帰りのバスの中で、ミツキは珍しく僕から離れていた。いつもなら腕を絡みつけてくるのに、ミツキの肌を感じられないと僕も少しだけ——いやかなり——寂しい。どうしたの、と訊いてみると、よほど涼森新之助と園部三和子に見られてしまったことがショックだったようだった。
「じゃあ、外ではもう知らない人のように、接するしか——ないね」
僕がそう言うと、ミツキは首がもげるのではないかと思うほど、急激に僕に顔を向けて、そんなの嫌だ、と主張する。しかし、人に見られる危険性が少しでもあるなら、そうするしかないと思うのだが。
「もっと、もっと変装勉強する。だから、今のままがいいの。いいのいいのいいの。シュン君も変装しよ。ね?」
「え? 僕も変装するの? 無茶じゃないかな。メイクとかしたくないし」
「勉強する。だから、知らないふり——とかそういうこと言わないで。怖いの。離れちゃうと怖いの」
結局、ミツキはその後、僕の腕にしがみついて眠りについた。僕はその肩を抱き寄せて、繋いだミツキの手を弄ぶ。どこかの水に溢れた惑星のようなマーブルカラーのネイルは、ミツキのストロベリーの香ばしい匂いも相成《あいな》って、とてもおいしそうだった。気付くと、ミツキの寝顔——頬——にキスをしていて、彼女の睫毛《まつげ》が少しだけ動く。バスの冷房が少し効きすぎたので、ミツキに自分の着ていたシャツを掛けて再び密着した。冷たくなったミツキの肩を摩りながら、可愛らしい唇をいたずらに指で触れると、ミツキは僕の指を食べた。獲物に食らい付くティラノサウルスのように。パクっと。無論、唇で咥えただけなのだけれども。
「起きてたの?」
「ふふ。今起きたの。なにやら、シュン君が構ってほしそうだったから」
瞳を閉じながらミツキは、僕の肩に頭を置いて、僕の指先を一本一本優しく触れていく。車窓の外の閃光が、レーザービームのように流れていって、ぼんやりとその手前の硝子《がらす》に視線を戻す。僕の肩に寄りかかるミツキを見つめる僕は、どこか侘しそうで——実際にはそんなことはないのだけれども——ミツキにしてあげられることを考えていた。
そろそろ、花神楽美月を撮るべきだ。ミツキノミコトのインストグラムのサムネイルを花神楽美月で満たすべきだ。でも、本当に僕は、ミツキがアイドルに戻ることを望んでいるの?
————ミツキの本当の幸せってなんだろう。
「ねえ、ミツキ。変なこと訊いていい?」
「うん? なに?」
「ミツキは——アイドルに戻りたい?」
「————どうだろう。わたしね」
「うん」
「アイドルになったのは、お父さんが連絡くれないかなって。再婚したお父さんがどこにいるのかも分からないの。わたしがもっとすごいアイドルになれば、わたしのこと思い出すんじゃないかなって」
「————わかった。絶対にアイドルに戻ろう。ミツキ、近いうちに都内にいこう」
「え? どういうこと?」
「写真家ミツキノミコトを紹介する」
ミツキは予想通り僕の肩から頭を上げて、僕の顔を見つめる。視線はやがて、僕の顔のどこを見つめていいのか迷い始めて、瞼《まぶた》を閉じた。目を開けて、と言った僕の言葉がミツキの鼓膜に到達したときには、彼女は僕の首の後ろに手を回していて抱きしめる。
「なんでシュン君知り合いなの? 嬉しい! ミツキノミコト様のファンなの。本当に作風が大好きで、フォトブックも全部持っているくらい好きなの」
「まあ、ね」
でも、僕は思う。将来、僕が撮ったママの写真だよ、と子供に自慢できる写真が、一番すごい写真なのではないかって。紫陽花の中で撮ったミツキの笑顔は、幸せそのものだった。謹慎中のアイドルであることを忘れてしまうくらいに。それは世の中に出回ることのない、僕とミツキと将来の子供のために一枚であって。本物の笑顔に勝る笑顔を撮ることなんてできやしない。だから、それは偽物の写真に過ぎない、と。
でも、僕とこのまま、こうしていることがミツキの幸せだとは限らない。ミツキと付き合う時点で分かっていたはずなのに。
僕の手から離れていってしまうと考えたら……。考えただけで。
————悔しいよ。
「シュン君? どうしたの? こっち向いて?」
「……ミツキごめん。やっぱり僕は。分かっていたけど。悲しい」
「どうしたの? 泣いてるの?」
「ミツキと離れたくないけど、それじゃあ駄目なんだ」
ミツキは僕の言葉ですべて理解したのだろう。僕を抱き締める。自分の身体に僕の頭を引き寄せて優しく髪を撫でると、シュン君ってばかね、と囁《ささや》いた。ストロベリーの甘い香りが僕の喉の少し奥を締め付けて、すべての思考を一旦脳の向こう側に押し出していく。何も考えられない僕の耳元に掛かる吐息が、ミツキのぬくもりを感じさせた。
————わたしはシュン君の前からいなくなったりしない。
僕は、ミツキがアイドルに戻らなければいい、なんて思ってしまった。これはミツキに対する背信行為であり、思ってはいけないことだ。あの桜の木の下で唇を噛《か》んで誓ったのに。分かり切っていたことなのに。
「シュン君のためなら、アイドルは諦めたっていいの。シュン君がいてくれたら、もう何もいらないって思っていたから」
だが、僕はかぶりを振って否定した。
「それに、まだ謹慎《きんしん》が解けるかどうかも分からないのに」
違うんだ。違う。
僕が、ミツキノミコトが花神楽美月を撮ったタイミングでアイドルに復帰の道が見ていることを。
僕が撮る花神楽美月の写真を、ある大企業が広告として使いたいと言っている。その大企業は、おそらく謹慎を揉み消せるほどの力を持っていて、実際にそうしようとしている、と。高梨マネージャーが僕に連絡をくれた。
ミツキが笑顔でフレームインできるくらいに回復しさえすれば、タイミングは任せる、と。
つまり、僕が撮った瞬間、ミツキはアイドルに復帰する可能性が高い。
ひどく僕を苦しめるジレンマは、僕の脳内を壊し始める。
僕とミツキは余計な口を挟まずに、ただ時の流れと二人のタイミングを見守ることにした。その後どうなったのかを、昼休みにでも聞いてみよう。
アダプターを介してミラーレスカメラに取り付けたライカのレンズ——ファーストズミルックス越しに見るミツキは、午後の晴れ間に少しだけ滲《にじ》んでいた。まさか、この写真をミツキノミコトの一枚として、使うことはできないけれど。だからと言って、写真を撮らないことは寂しすぎた。
紫陽花の前でレンズに背中を見せて、横顔だけをこちらに見せるミツキの表情は、すべてを貫くような真っ直ぐな瞳と何色にも染まらない無の表情で、周囲の空気を花神楽美月《はなかぐらみつき》の色に染め上げる。
ヴィンテージレンズで切り取った世界は、ミツキを中心に淡い光で霞《かす》んでいて、ブランドのルックブックの一枚のような仕上がりになっていた。貴婦人という二つ名で呼ばれるレンズで撮っただけのことはあるが、それに負けないミツキもさすがとしか言いようがない。
「もう溜息しかでない。なんだろう。こう……」
「え。わたし、そんなに写り悪い?」
僕の隣に立ち、カメラの背面液晶を覗き込むミツキに、違う、と言って慌てて弁解する。そうじゃない、そうじゃなくて、ミツキが美しすぎるのだ。
滲《にじ》んだフレームの中のキャンバスにパステルでミツキを描いたとすれば、途切れることなく線が像を結んでいて、しっとりとした質感と幻想的な色合いに、きっと溜息しか出ない。
雪のような肌は、薄桃色の頬が薄い濃淡で描かれていて、そもそも夏に似つかわしくない。明るい栗色の髪を黒いウィッグで覆い隠していたとしても。それが花神楽美月でも花山充希《はなやまみつき》でもなく、僕からしてみれば、ミツキに変わりはない。ミツキはいつでもミツキだ。
「可愛すぎて悶絶死《もんぜつし》するかもしれない」
ミツキは少し笑ってから、まてよ、と考え込んで訊ねる。大きな赤い縁の伊達メガネをきらりと光らせて、僕の顔を僅かに下から覗き込んだ。超新星爆発の輝きに満ちた瞳から生まれる、ブラックホールのような瞳孔《どうこう》が僕の魂を抜き取ろうとしているに違いない。いや、魂ならすでに、ミツキに盗まれているのだから気にすることなんてないのかも。
「それって、もしかして馬鹿にしてる?」
どこをどう捉えたら馬鹿にしているように聞こえるのか、僕が逆に質問をしたかったのだが、ミツキは口を尖らせて眉根を寄せると僕のカメラを奪い取る。
「可愛いって言ったらだめなの?」
「だって、悶絶死って、エッチな感じしない?」
「えぇ。そういう捉え方だったの。ありえない」
紫陽花と一体になった自分を確認するとカメラを僕に返して、もう一度よ、と言って小走りして紫陽花の前でポーズをとるミツキが、今度は少し笑って見せた。どこかのプロフォトグラファーの前で見せる職業的笑顔ではない。僕にはわかる。僕のために笑ってくれている。
「もうだめ。悶絶死確実」
「シュン君、まじめに撮ってる?」
未だに僕が写真家ミツキノミコトという事実を、ミツキは知らない。言っていないのだから当然なのだが、言うべきか迷っている。もし、事実を知れば、志桜里を未だに撮っていることをどう思うのか。もちろん、志桜里を撮ることについては仕事になっていて、彼女のマネジメント料金から報酬が僕に支払われている。それに、志桜里と二人きりでの撮影ということもあり得ない。でも、写真の中の志桜里は、僕に微笑みかけているのは確かである。それは、ミツキだって写真を見れば分かるようだ。
志桜里ちゃんって、ミツキノミコト様のこときっと好きなのよね。だって、恋している瞳だもの。
志桜里の誌上スナップを見て漏らしたミツキの感想に、僕は恐れおののいた。伊達にアイドルをしていないし、やはりその辺りの目利きはプロなのだと思った。
撮影の時間だけでも、志桜里ちゃんに恋させるなんて。ミツキノミコト様は何者、とミツキは訝しむ。
それと同時に、目標に駆けあがる意志の強さも持ち合わせているのだから、やはり、ミツキに真実を告げることを躊躇《ためら》ってしまう。
わたしもミツキノミコト様に撮ってもらいたいな。今度、高梨さんを脅して聞いてみようかな。
マネージャー高梨も、きっとタジタジなのだろう。花鳥風月プリズムZのメンバーは、みんな押しが強い。しかし、そうでなければ芸能界という亡者の池で生き残ることは難しいのかもしれない。
「撮っているよ。大真面目。でも、これ、何かに使うの?」
「インストグラムには使えないし、まさか宣材写真になんて使ったらきっと大炎上だし。うーん。そうね。決めた! 将来、子供に見せるの。パパが撮ってくれた写真だよ、って」
「お、重すぎ。そんな写真を撮ってるの僕? っていうか、気が早すぎると思うんだけど」
「だって、シュン君はそうやって捕まえておかないと、誰かに取られちゃいそうだし」
それは、僕が浮気性だと疑っているのだろうか。それとも、僕がミツキに飽きてしまって、誰かに目移りしてしまう、と危惧しているのだろうか。安心して、と言いたいところだけど、ミツキはきっとそんな言葉よりも、別の言葉を欲していることを知っている。
「ミツキ。おいで」
僕が両手を広げると、ミツキは嬉々として僕の中に飛び込んでくる。ドイツ空軍の猛攻からイギリス領空を守った、スピッドファイアのパイロットの帰還を待ち望んだ貴婦人のように。そして、強く僕を抱き締める。僅《わず》か数時間、接触がなかっただけで、これほど僕の体温を欲するのだから、もし、数日、数週間、会えなくなったとしたらミツキはどうなってしまうのだろう。やはり、貴婦人のように毎日窓から空を眺めて嘆くのだろうか。
「僕はどこにも行かないから。ずっと一緒にいるから」
「ほんと? 絶対に絶対?」
「うん。絶対」
まるで子供だった。でも、僕にしか見せないはにかむ笑顔と甘える仕草は僕だけの特権で、二人だけの時間ならどんなにミツキが甘えてきても構わないと思っていた。
「お前らさ。やっぱり付き合ってんじゃん。いつ声かけようかと思って待ってたんだけど、終わりそうにないから、その、————イチャつき」
二人だけの時間なら、どんなに甘えようが抱き合おうが、構わないと思っていた、のに。背後の紫陽花の茂みから新之助が、呆れながら顔を出した。僕とミツキは完全に涼森新之助と園部三和子の存在を忘れていた。これは不覚であって、まさかこの広大な敷地の中で再び出会うなんてことは思っていなかったのだ。ここは紫陽花の森の一番奥だというのに。いや、それ以前に、二人だけの時間だと思い込んでいて、のめり込んでしまっていた、というほうが自然かもしれない。
「し、新之助……。ああ、ええっと」
慌てて離れたミツキの表情が、真顔に変わり、今までの行動が嘘のように素知らぬ顔で冷静さを保つ——というより演じている。唇をきつく閉じて、僕からゆっくりと離れていく。今更だよ、ミツキ。
「いや、別にいいよ。誰にも言わないし。それよりか、俺たち付き合うことになったんだ。それで礼を言おうと……」
「お二人のおかげです。本当にありがとうございました。倉美月くん、花山さん」
新之助と園部三和子が、すでに手と手を取り合って繋いでいる姿を、僕は素直に祝福した。やはり友人が幸せになる姿は、心が晴れやかになる。でも、こんな簡単に相思相愛の奇跡が降り立つものなの、と胸中で怪訝《けげん》に呟いた言葉が自分自身に返ってくる。ミツキと僕も、か。
「涼森君と園部さんも、本当良かったですね。あの、何度も言うのは、本当に恐縮なのですが」
俯き加減で静かに吐き出す言葉を、園部三和子はあらかじめ知っていたように遮った。花山充希——花神楽美月が気に病む事象は一つだけだ。僕とミツキの関係は、絶対に漏らしてはいけないというもの。
「花山さん、それは大丈夫よ。涼森君にも説明しておくから。ね?」
「あ、ああ。絶対に言わないから安心しろよ。でも、春夜、それとは別に後で説教だからな」
そんなこと言われても、と捨て台詞のように言葉を置いて、僕とミツキはその場を離れた。脇目使いで新之助と園部三和子を確認すると、手を繋いで歩いていて、少しだけその立ち位置が羨《うらや》ましかった。人の目を気にする必要もなく、自分たちの立場が誰かのせいで危うくなることもない。やろうと思えばなんでもできる、例えば変装無しで人の多いテーマパークにだって行くことだって可能だ——テーマパークに固執しているわけではないが。
帰りのバスの中で、ミツキは珍しく僕から離れていた。いつもなら腕を絡みつけてくるのに、ミツキの肌を感じられないと僕も少しだけ——いやかなり——寂しい。どうしたの、と訊いてみると、よほど涼森新之助と園部三和子に見られてしまったことがショックだったようだった。
「じゃあ、外ではもう知らない人のように、接するしか——ないね」
僕がそう言うと、ミツキは首がもげるのではないかと思うほど、急激に僕に顔を向けて、そんなの嫌だ、と主張する。しかし、人に見られる危険性が少しでもあるなら、そうするしかないと思うのだが。
「もっと、もっと変装勉強する。だから、今のままがいいの。いいのいいのいいの。シュン君も変装しよ。ね?」
「え? 僕も変装するの? 無茶じゃないかな。メイクとかしたくないし」
「勉強する。だから、知らないふり——とかそういうこと言わないで。怖いの。離れちゃうと怖いの」
結局、ミツキはその後、僕の腕にしがみついて眠りについた。僕はその肩を抱き寄せて、繋いだミツキの手を弄ぶ。どこかの水に溢れた惑星のようなマーブルカラーのネイルは、ミツキのストロベリーの香ばしい匂いも相成《あいな》って、とてもおいしそうだった。気付くと、ミツキの寝顔——頬——にキスをしていて、彼女の睫毛《まつげ》が少しだけ動く。バスの冷房が少し効きすぎたので、ミツキに自分の着ていたシャツを掛けて再び密着した。冷たくなったミツキの肩を摩りながら、可愛らしい唇をいたずらに指で触れると、ミツキは僕の指を食べた。獲物に食らい付くティラノサウルスのように。パクっと。無論、唇で咥えただけなのだけれども。
「起きてたの?」
「ふふ。今起きたの。なにやら、シュン君が構ってほしそうだったから」
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そろそろ、花神楽美月を撮るべきだ。ミツキノミコトのインストグラムのサムネイルを花神楽美月で満たすべきだ。でも、本当に僕は、ミツキがアイドルに戻ることを望んでいるの?
————ミツキの本当の幸せってなんだろう。
「ねえ、ミツキ。変なこと訊いていい?」
「うん? なに?」
「ミツキは——アイドルに戻りたい?」
「————どうだろう。わたしね」
「うん」
「アイドルになったのは、お父さんが連絡くれないかなって。再婚したお父さんがどこにいるのかも分からないの。わたしがもっとすごいアイドルになれば、わたしのこと思い出すんじゃないかなって」
「————わかった。絶対にアイドルに戻ろう。ミツキ、近いうちに都内にいこう」
「え? どういうこと?」
「写真家ミツキノミコトを紹介する」
ミツキは予想通り僕の肩から頭を上げて、僕の顔を見つめる。視線はやがて、僕の顔のどこを見つめていいのか迷い始めて、瞼《まぶた》を閉じた。目を開けて、と言った僕の言葉がミツキの鼓膜に到達したときには、彼女は僕の首の後ろに手を回していて抱きしめる。
「なんでシュン君知り合いなの? 嬉しい! ミツキノミコト様のファンなの。本当に作風が大好きで、フォトブックも全部持っているくらい好きなの」
「まあ、ね」
でも、僕は思う。将来、僕が撮ったママの写真だよ、と子供に自慢できる写真が、一番すごい写真なのではないかって。紫陽花の中で撮ったミツキの笑顔は、幸せそのものだった。謹慎中のアイドルであることを忘れてしまうくらいに。それは世の中に出回ることのない、僕とミツキと将来の子供のために一枚であって。本物の笑顔に勝る笑顔を撮ることなんてできやしない。だから、それは偽物の写真に過ぎない、と。
でも、僕とこのまま、こうしていることがミツキの幸せだとは限らない。ミツキと付き合う時点で分かっていたはずなのに。
僕の手から離れていってしまうと考えたら……。考えただけで。
————悔しいよ。
「シュン君? どうしたの? こっち向いて?」
「……ミツキごめん。やっぱり僕は。分かっていたけど。悲しい」
「どうしたの? 泣いてるの?」
「ミツキと離れたくないけど、それじゃあ駄目なんだ」
ミツキは僕の言葉ですべて理解したのだろう。僕を抱き締める。自分の身体に僕の頭を引き寄せて優しく髪を撫でると、シュン君ってばかね、と囁《ささや》いた。ストロベリーの甘い香りが僕の喉の少し奥を締め付けて、すべての思考を一旦脳の向こう側に押し出していく。何も考えられない僕の耳元に掛かる吐息が、ミツキのぬくもりを感じさせた。
————わたしはシュン君の前からいなくなったりしない。
僕は、ミツキがアイドルに戻らなければいい、なんて思ってしまった。これはミツキに対する背信行為であり、思ってはいけないことだ。あの桜の木の下で唇を噛《か》んで誓ったのに。分かり切っていたことなのに。
「シュン君のためなら、アイドルは諦めたっていいの。シュン君がいてくれたら、もう何もいらないって思っていたから」
だが、僕はかぶりを振って否定した。
「それに、まだ謹慎《きんしん》が解けるかどうかも分からないのに」
違うんだ。違う。
僕が、ミツキノミコトが花神楽美月を撮ったタイミングでアイドルに復帰の道が見ていることを。
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ミツキが笑顔でフレームインできるくらいに回復しさえすれば、タイミングは任せる、と。
つまり、僕が撮った瞬間、ミツキはアイドルに復帰する可能性が高い。
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