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龍淵に潜む秋・ミツキの求婚
またね。志桜里
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堅い木靴がゆっくりと氷上を滑り出すように動き出した始発の特急列車は、空席が目立つものの、意外と利用者が多かった。こんな土曜日の朝から東京に向かう人たちは、どんな用件があるのだろう、なんて想像を掻《か》き立てられる。
欠伸《あくび》をする僕の隣で英単語帳を開いているミツキは、アールグレイのティーバッグがまだ入っているタンブラーを一口飲むと、流れる車窓を一瞥《いちべつ》して呟《つぶや》く。今日は嬉しい、と。
「なにが嬉しいの?」
「だって、シュン君と一緒に移動できるなんて、幸せじゃない」
そうだけど、と前置きした上で僕は胸中を吐露《とろ》する。ミツキは心配じゃないの。ミツキはそれに対して、口角を上げたまま僕の頬を右手で触れた。心配してないよ、と。
志桜里《しおり》の作品を撮るにあたって、二人きりになることはあり得ない。高梨マネージャーも傍《そば》にいるし、メイクと衣装の人だって近くで待機してくれている。だけど、昨日の銀杏の木の下の会話を思い出せば、僕は気が気ではない。ミツキが不安にならないのか、とても心配だった。
「もう。そんな顔しないの。わたしはシュン君のこと信じているし、また帰りは一緒に帰れるでしょ」
「————うん。でも、このまま、ミツキとどこかに行って、いなくなりたい」
自分でもなぜそんなことを口にしたのか分からなかった。遠くに見える田畑が白くなっていて、降《お》りた霜《しも》がその空気の冷たさを物語っている。昇ったばかりの太陽に水を注いだドライアイスのような雲が纏《まと》わりついて、海の青さが少しだけ深かった。
一歩ずつ近づいてくる冬に、少しだけ寂しさが増したのかもしれない。白く吐き出す息と一緒に、心の温もりまで奪われたのかもしれない——特に今日はミツキが恋しかった。すぐ隣にいるのに。
僕はミツキの英単語帳を下ろして、その唇に優しくキスをした。ミツキの黒縁メガネが鼻筋に当たって少しだけ痛かったけれど。驚いたミツキは、一度唇を離してから、もう、と言って再び僕の後頭部を支えながらキスをする。
少しだけ時間が止まった気がした。
いつの間にか眠っていた。瞼を開くと、ミツキは僕の肩に頭を乗せて寝ている。絡めた指は少しだけ汗ばんでいて、暖房が強くかかっていることに気付いた。車窓の向こう側は、いつの間にか空を突き上げるビルが押し寄せてきて、ミツキとの別れが近いこと意識する。この列車が無限のレールの上を回り続ければいいのに。
流暢《りゅうちょう》に流れる車内放送が終点を告げる頃、ミツキは、うぅん、と伸びをして覚醒し欠伸《あくび》をする。そそくさと棚から荷物を下ろす人たちを横目に、僕とミツキはしばらく沈黙したまま手をつないでいた。ミツキも寂しいのかな、なんて顔を覗き込んでみると、僕に微笑みかける。そんなことは微塵《みじん》も感じていない様子で、行こう、と言って立ち上がった。
迷宮だ。都内在住中には、こんな迷宮の中を彷徨《さまよ》うことになるとは露《つゆ》にも思わなかった。行き着く先がこの東京駅なのだから仕方がないが、同じ迷宮でも新宿駅のほうがよほど慣れていた。ホームから階段を下りて縦横無尽に行き交う人の川の中、僕とミツキは、またね、と言って別れる。帰りの時間は連絡するね、と告げるミツキの背中をしばらく追って。取り残された迷宮の中、僕はただ孤独感に苛《さいな》まされた。ミツキは寂しくないのかな。
★☆☆
情緒豊かな色彩の奏でる橙《だいだい》と唐紅《からくれない》、深紅《しんく》が織りなす紅葉が手前の池に浮かび上がり、周囲の緑と淡い空が波紋の中に溶け出す。弧を描く通天橋は燃えるような真紅《しんく》で、岩に生える苔が朝露に濡れていた。それでいて、風が運ぶ都会の香りが、自宅の庭と違うことを明白にしている。
「春夜《しゅんや》くん、志桜里がわがまま言ってごめんなさい。昨日勝手に会いに行ったんでしょう。少し怒ってもいいのよ」
細身の女性で、いつもスーツを着こなしている、テキパキとなんでもこなすキャリアウーマン。彼女に対する僕のイメージは未だに変わることはない。花鳥風月プリズムZのチーフマネージャー高梨さんは、そう言ってペットボトルのお茶を手渡してきた。高梨さんがここにいるということは、ミツキには誰がついているのだろう、なんて勘繰《かんぐ》ってしまう僕は、少しだけ心が狭い。
少し? いやかなり。ミツキのことを思うと、なぜか急激に心の面積が狭まってくるのだ。空気を抜かれる圧縮袋みたいに。
「いえ。志桜里も楽しめたみたいだし。気分転換になったら良かったです」
「————そう。あの子、なんだか最近元気なくて。ちょっと心配なのよね」
そうですか、と言って僕は志桜里に視線を送る。まるで南国の海のようなセルリアンブルーのニットに漆黒のフレアスカートを組み合わせた志桜里は、僕のほうを見ながらメイクを施されている。毛先がカールしたアッシュグレーの髪は、今朝一番で染め上げたのだという。いったい何時起きなの。
元気がないのは、きっと僕が原因なのかな、なんて思うと少しだけ罪悪感が染みる。白い半紙に一滴ずつ落とす墨汁のように。やがて黒に染まるとき、僕は志桜里を見ることができなくなってしまうかもしれない。
「シュン、お待たせ」
「全然待ってないよ。僕もセッティングしていたから」
それでも、志桜里は笑顔だった。僕と二人きり——とはいえ、スタッフはいるけれど——のときに見せる笑顔は、高梨さんも写真の中でしか見たことがないという。だから、高梨さんとメイクさん、衣装さんもあえて距離を置く。遠目で見ていないと、志桜里の笑顔が引き出せないからだ。
「シュンはあれからすぐに帰ったの?」
「うん。疲れてお風呂も入らず寝ちゃったよ」
「うわ。汚ね」
「起きてすぐ入りました!」
シャッターを切りながら、他愛もない話をする。これが僕と志桜里の撮影スタイルだ。仕事の話や、作品の出来、それに僕からの指示も一切しない。ただ世間話をしながらシャッターを切るだけ。志桜里は、写真の確認を撮影が終わるまでしようとはしない。この時間を楽しんでいるようだった。
四角いフレームの中で燃える紅葉と振り返る志桜里が、とてもミスマッチだった。志桜里に赤は似合わない。だけど、そのアンバランスな構図がとても志桜里らしい。日陰の中、NDフィルターを装着したレンズで、あえてストロボを直当てして昭和の記念写真のような一枚も撮る。まるでファストファッションのルックブックだ。
「シュンが結構変態だということが分かって楽しかった」
「は!? こんな健全なのに、なに言っちゃってるの」
「私に冷えピタ攻撃してくるし、野々村さんの首筋にも冷えピタ当てて喜んでいたじゃない」
「志桜里だって、こんにゃくを朱莉の太腿に当ててきゃっきゃ言っていたじゃん」
小首を傾げる志桜里のあざといポーズは彼女には似合わない、なんて思っていたが、フレームに収めるとそんなことはなかった。とても可愛い。志桜里の性格を知っているから、可愛らしい仕草が似合わないなんて先入観を持っていただけで、写真を見ればそれは可愛らしい少女だ。
庭園を歩く志桜里は、拾った紅葉の葉を大事にポケットに仕舞い込んだ。
————また思い出がひとつ増えた、なんて言って。
こんな撮影でしか僕と二人きりで会えないなんて寂しい。だけど、すごく楽しいよ。なんて言われて。僕の心の白い半紙は半分以上が黒く染まる。
「シュンはさ。ミツキと結婚しても、私と会ってくれる? こうして写真撮ってくれる?」
一瞬答えられなかった。ミツキのことを思ってしまえば、志桜里が霞んでしまう。だけど、志桜里と話せば、彼女の言葉の一つ一つが僕の心を塗りつぶしていく。罪悪感という濡羽色《ぬればいろ》と錫色《すずいろ》の中間に属する薄い黒色。彼女に命を救われてからずっと引きずる、志桜里への想い。
「撮るよ。志桜里が求めるなら」
「————そういう優しさは、優しさって言わないのよ」
微かに眉尻を下げた志桜里は、すぐに微笑を浮かべて僕の手を引いた。あの橋に行ってみよう、なんて言って。
緑豊かな内装のカフェは、まるで花屋のようだった。壁を伝う緑の蔦《つた》と、テーブルに飾られた上品な桃色の薔薇がファンタジックに空気を彩り、窓から差す光が硝子《がらす》のテーブルに反射してハーブティーの存在を濃く表す。特別に三〇分間だけ貸し切ってもらった、花をテーマにしたカフェは、薫り豊かな静寂が僕と志桜里を包み込んでいた。
「見て、このランプすごく可愛い」
志桜里が見上げて指さすランプは硝子製のまん丸花瓶をひっくり返したようなデザインで、優しい光が自然光に溶けていた。
ライカのレンズ、スーパーエルマーでは少し暗いためにレンズを取り替える。父さんから拝借してきたズミルックスの超広角レンズは、これ一つで軽自動車が買えると言っていた。ああ、落としてしまいそうで怖い。
薄暗い店内の窓から入る逆光の中、志桜里が浮かび上がる。仄かに光るLEDライトを当てて顔を明るくすると、その笑顔がまるでバースディを祝われている少女のよう。F1.4の世界は、もはや志桜里以外は何も残らない。耳すら溶けているのに、睫毛《まつげ》と愛らしい瞳はしっかりと僕を射抜いている。徐々に絞りこんでいき、F2.8まで絞り環を回すとカフェの雰囲気が伝わってきた。ティーカップを両手で持って啜る志桜里は、とても女子高生には見えない雰囲気。そう、少し背伸びをしていた少女が大人になる瞬間の顔。
————まるで失恋をした少女。
「……すごく良い表情なんだけど」
「うん」
「もしかして、泣いてる?」
「————泣いてない」
「だって——」
「泣いてないよ……」
決して眉尻を下げていたわけではないのだけれども、笑顔だったのだけれども。満面の笑みで浮かべる流れることのない涙が、その瞳を少しだけ赤く、少しだけ潤わせていた。まるで恋愛ドラマで別れを告げるヒロイン。ため息を吐きそうになり、慌てて口を塞いだ僕の心の半紙はもうほとんど黒塗り。僅かに残った余白は滲《にじ》んでいる。
「十分撮ったから、休憩し——」
「だめ。今の表情も撮っておいて」
「え?」
「心に焼き付けるの。シュンを愛したことは間違いじゃなかったって。思えるように。だから、綺麗に、今までで一番綺麗に撮って」
無我夢中でシャッターを切った。志桜里がどんな表情をしていたのか、どんな仕草だったのか、覚えていない。ただ、ファインダーが湿ってしまい、ピントが合っているかどうかが不安だったけれど。でも、液晶で確認した志桜里はとても美しかった。花に囲まれた志桜里の儚《はかな》く優しい表情は、彼女のこれからの生き方を変えてしまうのではないか、と思えるほど。
志桜里、本当にごめん、ね。
————こんなことなら、出会わな……ければ良かった、ね。
その後、撮影場所を転々と変えて撮ったが、志桜里がカフェで見せた表情を再び見せることはなかった。すべての撮影を終え僕と志桜里はスタバの一角で向かい合って座る。ビルに反射した黄昏に目を細めていると、店員がブラインドを下ろした。
優しく微笑む志桜里は、僕に訊く。契約は終わっちゃったね。もう会えない……の?
やはり、答えることができなかった僕は、俯いたまま唇を噛むほかなかった。
撮影したデータをノートパソコンに移して、そのデータを志桜里と高梨さんに見てもらう。特に問題なさそうだったので、あとは現像して納品して契約が終了。これで、志桜里を撮ることもなくなる。ミツキには悪いと思いつつ、寂しい気持ちになった。
志桜里、またね。と言って僕は駅に歩き出した。決してふり返らないように。
☆★☆
スマホを確認すると、ミツキはまだ撮影中だという。キャスティングされたのは、恋愛ドラマのヒロインの友達役だった。大抜擢《だいばってき》だったと僕は思っているのだが、本人はあまり乗り気ではなかったようだ。台本を見てため息ばかり吐いていた。なぜなのだろう。
撮影現場が意外と近いことを知り、僕はとりあえず向かってみることにした。本当は近づきたくないのだけれど、高梨さんが許可証をなぜか僕にくれたために、たまには現場まで迎えにいくか、と。
撮影シーンは、あるスタジオの中だった。許可証を見せて中に入ると、すごい人の数。リビングルームが忠実に再現されていて、部屋の壁をぶつ切りにしたようなセットは、まるでプラモデルのよう。忙しなく動き回るスタッフの邪魔にならないように陰で様子を窺《うかが》った。
ソファに座る花神楽美月《はなかぐらみつき》にイケメン俳優が肩を回して抱き寄せている。そのままキスをしたところで、カットされた。
————なに、このモヤモヤ感。すごいモヤモヤする。
その行為に感情がないことくらい分かっている。分かっているけれど、とてもモヤモヤする。さっきまで自分は志桜里と二人きり——ではないけれど——で、デートをしていたくせに。ミツキはそんな僕を快《こころよ》く送り出してくれたのに。
僕は、ミツキのこととなると、こんなに心が狭くなってしまうの?
「倉美月春夜《くらみつきしゅんや》……さん?」
そう声を掛けてくるのは、若手ベテラン女優の新井木遥香《あらいぎはるか》さん。彼女は、今や大人気の女優で、まさか僕に声を掛けてくれるなんて思ってもみなかった。
「はい」
「一度お会いしたかった。倉山咲菜《くらやまさな》さんにはいつもお世話になっています」
「ああ、姉さんの。それで。いえ、こちらこそ、姉がお世話になってます」
「私、あなたのファンでした。もうダンスはされないのですか?」
「……わかりません。体調が良ければ、また」
「今度、写真もお願いしたいかな。ミツキノミコト様」
含むように笑いかけて、じゃあ、と手を振って人だかりの奥に消えていく新井木遥香さんは、このドラマのヒロインのはず。しかし、僕と話す彼女は、そんなにオーラがある人には見えない。むしろ、花神楽美月や鳥山志桜里のほうが、よほど雰囲気がある気がする——と思っていたら、次のシーンで、ベテラン俳優にブチ切れる演技を見て、僕は前言撤回をせざるを得なかった。気迫だけで、場の雰囲気を一転させるほど、ものすごいオーラだった。
「あれが、新井木遥香さんか」
なんて思わず独り言を言うと、僕の眼前に突然顔を出すミツキに、僕は驚いて、つい仰け反ってしまった。
「迎えに来てくれたんだ。ありがとうシュン君」
「ああ、うん」
「新井木さんに見惚れちゃった?」
まさか、と言った僕の手を握り、来てくれて嬉しい、と呟いたミツキは花神楽美月からいつもの花山充希に変わっていて、僕は安堵《あんど》した。
もしかして…………シュン君見てたの?
なんて僕の瞳を見て訊いてくるミツキは、少しだけ寂しそうだった。
欠伸《あくび》をする僕の隣で英単語帳を開いているミツキは、アールグレイのティーバッグがまだ入っているタンブラーを一口飲むと、流れる車窓を一瞥《いちべつ》して呟《つぶや》く。今日は嬉しい、と。
「なにが嬉しいの?」
「だって、シュン君と一緒に移動できるなんて、幸せじゃない」
そうだけど、と前置きした上で僕は胸中を吐露《とろ》する。ミツキは心配じゃないの。ミツキはそれに対して、口角を上げたまま僕の頬を右手で触れた。心配してないよ、と。
志桜里《しおり》の作品を撮るにあたって、二人きりになることはあり得ない。高梨マネージャーも傍《そば》にいるし、メイクと衣装の人だって近くで待機してくれている。だけど、昨日の銀杏の木の下の会話を思い出せば、僕は気が気ではない。ミツキが不安にならないのか、とても心配だった。
「もう。そんな顔しないの。わたしはシュン君のこと信じているし、また帰りは一緒に帰れるでしょ」
「————うん。でも、このまま、ミツキとどこかに行って、いなくなりたい」
自分でもなぜそんなことを口にしたのか分からなかった。遠くに見える田畑が白くなっていて、降《お》りた霜《しも》がその空気の冷たさを物語っている。昇ったばかりの太陽に水を注いだドライアイスのような雲が纏《まと》わりついて、海の青さが少しだけ深かった。
一歩ずつ近づいてくる冬に、少しだけ寂しさが増したのかもしれない。白く吐き出す息と一緒に、心の温もりまで奪われたのかもしれない——特に今日はミツキが恋しかった。すぐ隣にいるのに。
僕はミツキの英単語帳を下ろして、その唇に優しくキスをした。ミツキの黒縁メガネが鼻筋に当たって少しだけ痛かったけれど。驚いたミツキは、一度唇を離してから、もう、と言って再び僕の後頭部を支えながらキスをする。
少しだけ時間が止まった気がした。
いつの間にか眠っていた。瞼を開くと、ミツキは僕の肩に頭を乗せて寝ている。絡めた指は少しだけ汗ばんでいて、暖房が強くかかっていることに気付いた。車窓の向こう側は、いつの間にか空を突き上げるビルが押し寄せてきて、ミツキとの別れが近いこと意識する。この列車が無限のレールの上を回り続ければいいのに。
流暢《りゅうちょう》に流れる車内放送が終点を告げる頃、ミツキは、うぅん、と伸びをして覚醒し欠伸《あくび》をする。そそくさと棚から荷物を下ろす人たちを横目に、僕とミツキはしばらく沈黙したまま手をつないでいた。ミツキも寂しいのかな、なんて顔を覗き込んでみると、僕に微笑みかける。そんなことは微塵《みじん》も感じていない様子で、行こう、と言って立ち上がった。
迷宮だ。都内在住中には、こんな迷宮の中を彷徨《さまよ》うことになるとは露《つゆ》にも思わなかった。行き着く先がこの東京駅なのだから仕方がないが、同じ迷宮でも新宿駅のほうがよほど慣れていた。ホームから階段を下りて縦横無尽に行き交う人の川の中、僕とミツキは、またね、と言って別れる。帰りの時間は連絡するね、と告げるミツキの背中をしばらく追って。取り残された迷宮の中、僕はただ孤独感に苛《さいな》まされた。ミツキは寂しくないのかな。
★☆☆
情緒豊かな色彩の奏でる橙《だいだい》と唐紅《からくれない》、深紅《しんく》が織りなす紅葉が手前の池に浮かび上がり、周囲の緑と淡い空が波紋の中に溶け出す。弧を描く通天橋は燃えるような真紅《しんく》で、岩に生える苔が朝露に濡れていた。それでいて、風が運ぶ都会の香りが、自宅の庭と違うことを明白にしている。
「春夜《しゅんや》くん、志桜里がわがまま言ってごめんなさい。昨日勝手に会いに行ったんでしょう。少し怒ってもいいのよ」
細身の女性で、いつもスーツを着こなしている、テキパキとなんでもこなすキャリアウーマン。彼女に対する僕のイメージは未だに変わることはない。花鳥風月プリズムZのチーフマネージャー高梨さんは、そう言ってペットボトルのお茶を手渡してきた。高梨さんがここにいるということは、ミツキには誰がついているのだろう、なんて勘繰《かんぐ》ってしまう僕は、少しだけ心が狭い。
少し? いやかなり。ミツキのことを思うと、なぜか急激に心の面積が狭まってくるのだ。空気を抜かれる圧縮袋みたいに。
「いえ。志桜里も楽しめたみたいだし。気分転換になったら良かったです」
「————そう。あの子、なんだか最近元気なくて。ちょっと心配なのよね」
そうですか、と言って僕は志桜里に視線を送る。まるで南国の海のようなセルリアンブルーのニットに漆黒のフレアスカートを組み合わせた志桜里は、僕のほうを見ながらメイクを施されている。毛先がカールしたアッシュグレーの髪は、今朝一番で染め上げたのだという。いったい何時起きなの。
元気がないのは、きっと僕が原因なのかな、なんて思うと少しだけ罪悪感が染みる。白い半紙に一滴ずつ落とす墨汁のように。やがて黒に染まるとき、僕は志桜里を見ることができなくなってしまうかもしれない。
「シュン、お待たせ」
「全然待ってないよ。僕もセッティングしていたから」
それでも、志桜里は笑顔だった。僕と二人きり——とはいえ、スタッフはいるけれど——のときに見せる笑顔は、高梨さんも写真の中でしか見たことがないという。だから、高梨さんとメイクさん、衣装さんもあえて距離を置く。遠目で見ていないと、志桜里の笑顔が引き出せないからだ。
「シュンはあれからすぐに帰ったの?」
「うん。疲れてお風呂も入らず寝ちゃったよ」
「うわ。汚ね」
「起きてすぐ入りました!」
シャッターを切りながら、他愛もない話をする。これが僕と志桜里の撮影スタイルだ。仕事の話や、作品の出来、それに僕からの指示も一切しない。ただ世間話をしながらシャッターを切るだけ。志桜里は、写真の確認を撮影が終わるまでしようとはしない。この時間を楽しんでいるようだった。
四角いフレームの中で燃える紅葉と振り返る志桜里が、とてもミスマッチだった。志桜里に赤は似合わない。だけど、そのアンバランスな構図がとても志桜里らしい。日陰の中、NDフィルターを装着したレンズで、あえてストロボを直当てして昭和の記念写真のような一枚も撮る。まるでファストファッションのルックブックだ。
「シュンが結構変態だということが分かって楽しかった」
「は!? こんな健全なのに、なに言っちゃってるの」
「私に冷えピタ攻撃してくるし、野々村さんの首筋にも冷えピタ当てて喜んでいたじゃない」
「志桜里だって、こんにゃくを朱莉の太腿に当ててきゃっきゃ言っていたじゃん」
小首を傾げる志桜里のあざといポーズは彼女には似合わない、なんて思っていたが、フレームに収めるとそんなことはなかった。とても可愛い。志桜里の性格を知っているから、可愛らしい仕草が似合わないなんて先入観を持っていただけで、写真を見ればそれは可愛らしい少女だ。
庭園を歩く志桜里は、拾った紅葉の葉を大事にポケットに仕舞い込んだ。
————また思い出がひとつ増えた、なんて言って。
こんな撮影でしか僕と二人きりで会えないなんて寂しい。だけど、すごく楽しいよ。なんて言われて。僕の心の白い半紙は半分以上が黒く染まる。
「シュンはさ。ミツキと結婚しても、私と会ってくれる? こうして写真撮ってくれる?」
一瞬答えられなかった。ミツキのことを思ってしまえば、志桜里が霞んでしまう。だけど、志桜里と話せば、彼女の言葉の一つ一つが僕の心を塗りつぶしていく。罪悪感という濡羽色《ぬればいろ》と錫色《すずいろ》の中間に属する薄い黒色。彼女に命を救われてからずっと引きずる、志桜里への想い。
「撮るよ。志桜里が求めるなら」
「————そういう優しさは、優しさって言わないのよ」
微かに眉尻を下げた志桜里は、すぐに微笑を浮かべて僕の手を引いた。あの橋に行ってみよう、なんて言って。
緑豊かな内装のカフェは、まるで花屋のようだった。壁を伝う緑の蔦《つた》と、テーブルに飾られた上品な桃色の薔薇がファンタジックに空気を彩り、窓から差す光が硝子《がらす》のテーブルに反射してハーブティーの存在を濃く表す。特別に三〇分間だけ貸し切ってもらった、花をテーマにしたカフェは、薫り豊かな静寂が僕と志桜里を包み込んでいた。
「見て、このランプすごく可愛い」
志桜里が見上げて指さすランプは硝子製のまん丸花瓶をひっくり返したようなデザインで、優しい光が自然光に溶けていた。
ライカのレンズ、スーパーエルマーでは少し暗いためにレンズを取り替える。父さんから拝借してきたズミルックスの超広角レンズは、これ一つで軽自動車が買えると言っていた。ああ、落としてしまいそうで怖い。
薄暗い店内の窓から入る逆光の中、志桜里が浮かび上がる。仄かに光るLEDライトを当てて顔を明るくすると、その笑顔がまるでバースディを祝われている少女のよう。F1.4の世界は、もはや志桜里以外は何も残らない。耳すら溶けているのに、睫毛《まつげ》と愛らしい瞳はしっかりと僕を射抜いている。徐々に絞りこんでいき、F2.8まで絞り環を回すとカフェの雰囲気が伝わってきた。ティーカップを両手で持って啜る志桜里は、とても女子高生には見えない雰囲気。そう、少し背伸びをしていた少女が大人になる瞬間の顔。
————まるで失恋をした少女。
「……すごく良い表情なんだけど」
「うん」
「もしかして、泣いてる?」
「————泣いてない」
「だって——」
「泣いてないよ……」
決して眉尻を下げていたわけではないのだけれども、笑顔だったのだけれども。満面の笑みで浮かべる流れることのない涙が、その瞳を少しだけ赤く、少しだけ潤わせていた。まるで恋愛ドラマで別れを告げるヒロイン。ため息を吐きそうになり、慌てて口を塞いだ僕の心の半紙はもうほとんど黒塗り。僅かに残った余白は滲《にじ》んでいる。
「十分撮ったから、休憩し——」
「だめ。今の表情も撮っておいて」
「え?」
「心に焼き付けるの。シュンを愛したことは間違いじゃなかったって。思えるように。だから、綺麗に、今までで一番綺麗に撮って」
無我夢中でシャッターを切った。志桜里がどんな表情をしていたのか、どんな仕草だったのか、覚えていない。ただ、ファインダーが湿ってしまい、ピントが合っているかどうかが不安だったけれど。でも、液晶で確認した志桜里はとても美しかった。花に囲まれた志桜里の儚《はかな》く優しい表情は、彼女のこれからの生き方を変えてしまうのではないか、と思えるほど。
志桜里、本当にごめん、ね。
————こんなことなら、出会わな……ければ良かった、ね。
その後、撮影場所を転々と変えて撮ったが、志桜里がカフェで見せた表情を再び見せることはなかった。すべての撮影を終え僕と志桜里はスタバの一角で向かい合って座る。ビルに反射した黄昏に目を細めていると、店員がブラインドを下ろした。
優しく微笑む志桜里は、僕に訊く。契約は終わっちゃったね。もう会えない……の?
やはり、答えることができなかった僕は、俯いたまま唇を噛むほかなかった。
撮影したデータをノートパソコンに移して、そのデータを志桜里と高梨さんに見てもらう。特に問題なさそうだったので、あとは現像して納品して契約が終了。これで、志桜里を撮ることもなくなる。ミツキには悪いと思いつつ、寂しい気持ちになった。
志桜里、またね。と言って僕は駅に歩き出した。決してふり返らないように。
☆★☆
スマホを確認すると、ミツキはまだ撮影中だという。キャスティングされたのは、恋愛ドラマのヒロインの友達役だった。大抜擢《だいばってき》だったと僕は思っているのだが、本人はあまり乗り気ではなかったようだ。台本を見てため息ばかり吐いていた。なぜなのだろう。
撮影現場が意外と近いことを知り、僕はとりあえず向かってみることにした。本当は近づきたくないのだけれど、高梨さんが許可証をなぜか僕にくれたために、たまには現場まで迎えにいくか、と。
撮影シーンは、あるスタジオの中だった。許可証を見せて中に入ると、すごい人の数。リビングルームが忠実に再現されていて、部屋の壁をぶつ切りにしたようなセットは、まるでプラモデルのよう。忙しなく動き回るスタッフの邪魔にならないように陰で様子を窺《うかが》った。
ソファに座る花神楽美月《はなかぐらみつき》にイケメン俳優が肩を回して抱き寄せている。そのままキスをしたところで、カットされた。
————なに、このモヤモヤ感。すごいモヤモヤする。
その行為に感情がないことくらい分かっている。分かっているけれど、とてもモヤモヤする。さっきまで自分は志桜里と二人きり——ではないけれど——で、デートをしていたくせに。ミツキはそんな僕を快《こころよ》く送り出してくれたのに。
僕は、ミツキのこととなると、こんなに心が狭くなってしまうの?
「倉美月春夜《くらみつきしゅんや》……さん?」
そう声を掛けてくるのは、若手ベテラン女優の新井木遥香《あらいぎはるか》さん。彼女は、今や大人気の女優で、まさか僕に声を掛けてくれるなんて思ってもみなかった。
「はい」
「一度お会いしたかった。倉山咲菜《くらやまさな》さんにはいつもお世話になっています」
「ああ、姉さんの。それで。いえ、こちらこそ、姉がお世話になってます」
「私、あなたのファンでした。もうダンスはされないのですか?」
「……わかりません。体調が良ければ、また」
「今度、写真もお願いしたいかな。ミツキノミコト様」
含むように笑いかけて、じゃあ、と手を振って人だかりの奥に消えていく新井木遥香さんは、このドラマのヒロインのはず。しかし、僕と話す彼女は、そんなにオーラがある人には見えない。むしろ、花神楽美月や鳥山志桜里のほうが、よほど雰囲気がある気がする——と思っていたら、次のシーンで、ベテラン俳優にブチ切れる演技を見て、僕は前言撤回をせざるを得なかった。気迫だけで、場の雰囲気を一転させるほど、ものすごいオーラだった。
「あれが、新井木遥香さんか」
なんて思わず独り言を言うと、僕の眼前に突然顔を出すミツキに、僕は驚いて、つい仰け反ってしまった。
「迎えに来てくれたんだ。ありがとうシュン君」
「ああ、うん」
「新井木さんに見惚れちゃった?」
まさか、と言った僕の手を握り、来てくれて嬉しい、と呟いたミツキは花神楽美月からいつもの花山充希に変わっていて、僕は安堵《あんど》した。
もしかして…………シュン君見てたの?
なんて僕の瞳を見て訊いてくるミツキは、少しだけ寂しそうだった。
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……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
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