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三章 次元を越えて
貧乏少年
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巻物や、畳んだ紙に表紙をつけた折本、糸綴じの冊子が並んだ本棚の横で、真緒は文机に向かい勉学に励んでいた。
古の匂いが漂う書斎だが、取り組んでいるのはバイオテクノロジーについて語った英語の長文問題である。
彼が得意とする教科は国語だけれども、他も人並み以上にはこなせた。
課題は早々に片づいて、うんと伸びをした後、もう思考は英語と全く関係のないことを考え始める。
(逢坂さんがこっちの世界に来たら、まず何を見せよう。歩いて楽しいのはやっぱり中心街だな)
妖怪の世界と現世を行き来してそれなりの年数が経っている彼だが、誰かを街案内した経験はない。
妖怪たちはほとんど年上で街のことは既にわかりきっているし、人間が訪れたことがあったとしても、それはうっかり来てしまった迷子で、楽しく観光している場合ではなかったのだ。
自分が好きな場所を紹介できるのはこんなにも嬉しいのだなと喜びに浸りつつ、真緒はごろんと畳の上に仰向けになる。
すると直後に、頭の上からすっと障子が開く音がして、顔の上にはぬっと青い目と黄色い目をした人形顔が現れる。
端正でありながら無感情の容貌は、人間を脅かし飛び上がらせることもできそうだが、彼女の顔を見慣れている真緒は平気だった。
「あ、茜。おかえり」
と、親しみの表れた柔らかい声音と笑みで挨拶をする。
しかし茜はぴくりとも表情筋を動かさない。それもいつものことだと思いきや、
「何をしているの」
茜はただいまとは返さず、早速質問を投げてきた。
文机には一瞥もくれていないので、真緒のしていたことに興味を持った様子ではない。問いただすような口調である。
真緒は彼女の真意をなんとなく察したが、あえて気づかないふりをして答えた。
「見ての通り、課題が終わって休憩しているよ」
「そういうことではない。なぜ『おかえり』と私を迎える」
茜は調子を変えずに、問いかけを変える。
「そんなこと? 今までも何度も言ってきたじゃないか。家の人が帰ってきたら『おかえり』の挨拶は基本——ぶはっ」
不意に真緒の顔面に布製の柔らかい塊が降ってきた。
衣類を包んだ風呂敷だと、彼は瞬時に悟る。なぜなら自分が持ち込んだ物だからだ。
「もう、乱暴だなあ」
「食事や寝泊りのために家に来る。今まで何度も呆れてきた。でも、今日は風呂敷が六つ。何泊するつもり?」
風呂敷を落としてきた上に言葉数が増えてきた。
実際に見たことはないが、茜を本気で怒らせる前にと、真緒は身体を起こして正座で向かい合う。
「俺の家が住める状態になるまでお願いしたい」
「嫌よ」
姿勢を正したところで茜の拒否は即答だった。真緒は子どものように頬を少し膨らませてむくれてみせる。
「俺の家の有様を知っていて言ってる? 茜ちゃんの意地悪」
「見てないから知らない」
「見てなくても、藍の強風を食らったんだから想像がつくだろ?」
「住める状態、と言っておきながら、どうせ修理の目途は立っていない。このまま居つく未来が見える」
「つれないこと言うなよ、俺たちの仲じゃないか」
「親しき中にも、と言う。勝手に入らないようこの家に繋がる鏡面札を返しなさい」
同情を誘っても茜の目線は冷ややかだ。
真緒が「鏡面札は検非違使部の連絡で必要になるかもしれないから」と言うと、しつこく返還を要求されはしなかったものの、
「あんなあばら家に住み続けていたのが悪い。宿にでも泊まりなさい」
「宿は、お金が…」
「〈大蛇〉の一件を解決した報酬があるはず」
「それ使うと和菓子を食べるお金が…」
説得力に乏しい理由を述べた結果、微妙にだが茜の柳眉が寄った。
たとえわずかでも彼女が表情に動きを見せるのは珍しい。
「あなたは私を頼りすぎている。紐をつけた覚えはない」
「ひ、ヒモ…」
ずばり直球な言葉が艶のある唇から飛び出してきて、さすがの真緒も返事に窮した。
茜の眉は元通りの位置に戻る。
「頼るなら、私ではなく親に頼ればいい」
「それは……」と、真緒は言い淀む。
「嫌ならば、自分で何とかしなさい。自立したいと言ったのは真緒」
茜は突き放すように振り返った。去り際、もう一言置いていく。
「そんな様子では、誰でも呆れて友人にはなってもらえない」
今の真緒にはもっとも効く台詞だった。一人になった彼は両の拳を握りしめ、眉間にしわを作って考える。
(〈大蛇〉の報酬で宿暮らしをして、修理代はどこかで地道に働いて稼ぐしかないのか…)
働くとなると、学校が終わった放課後になる。つまりしばらく部活動ができない。
どの選択をとっても真緒には苦痛だった。
「…やむを得ないか」
彼が住む街——桜葉街を紹介する計画が潰れて虚脱感に見舞われそうになるが、我が身の状況を知られて新たに掴みかけた交友を失っては元も子もない。
今後の予定を練り直しながら、真緒は粗雑に風呂敷を握って立ち上がった。
クラスで人気者の、時に上品とも評される少年が、まさか住む場所に困るほどの貧乏とは、人界の住民は未だ誰一人気づいていない事実だった。
古の匂いが漂う書斎だが、取り組んでいるのはバイオテクノロジーについて語った英語の長文問題である。
彼が得意とする教科は国語だけれども、他も人並み以上にはこなせた。
課題は早々に片づいて、うんと伸びをした後、もう思考は英語と全く関係のないことを考え始める。
(逢坂さんがこっちの世界に来たら、まず何を見せよう。歩いて楽しいのはやっぱり中心街だな)
妖怪の世界と現世を行き来してそれなりの年数が経っている彼だが、誰かを街案内した経験はない。
妖怪たちはほとんど年上で街のことは既にわかりきっているし、人間が訪れたことがあったとしても、それはうっかり来てしまった迷子で、楽しく観光している場合ではなかったのだ。
自分が好きな場所を紹介できるのはこんなにも嬉しいのだなと喜びに浸りつつ、真緒はごろんと畳の上に仰向けになる。
すると直後に、頭の上からすっと障子が開く音がして、顔の上にはぬっと青い目と黄色い目をした人形顔が現れる。
端正でありながら無感情の容貌は、人間を脅かし飛び上がらせることもできそうだが、彼女の顔を見慣れている真緒は平気だった。
「あ、茜。おかえり」
と、親しみの表れた柔らかい声音と笑みで挨拶をする。
しかし茜はぴくりとも表情筋を動かさない。それもいつものことだと思いきや、
「何をしているの」
茜はただいまとは返さず、早速質問を投げてきた。
文机には一瞥もくれていないので、真緒のしていたことに興味を持った様子ではない。問いただすような口調である。
真緒は彼女の真意をなんとなく察したが、あえて気づかないふりをして答えた。
「見ての通り、課題が終わって休憩しているよ」
「そういうことではない。なぜ『おかえり』と私を迎える」
茜は調子を変えずに、問いかけを変える。
「そんなこと? 今までも何度も言ってきたじゃないか。家の人が帰ってきたら『おかえり』の挨拶は基本——ぶはっ」
不意に真緒の顔面に布製の柔らかい塊が降ってきた。
衣類を包んだ風呂敷だと、彼は瞬時に悟る。なぜなら自分が持ち込んだ物だからだ。
「もう、乱暴だなあ」
「食事や寝泊りのために家に来る。今まで何度も呆れてきた。でも、今日は風呂敷が六つ。何泊するつもり?」
風呂敷を落としてきた上に言葉数が増えてきた。
実際に見たことはないが、茜を本気で怒らせる前にと、真緒は身体を起こして正座で向かい合う。
「俺の家が住める状態になるまでお願いしたい」
「嫌よ」
姿勢を正したところで茜の拒否は即答だった。真緒は子どものように頬を少し膨らませてむくれてみせる。
「俺の家の有様を知っていて言ってる? 茜ちゃんの意地悪」
「見てないから知らない」
「見てなくても、藍の強風を食らったんだから想像がつくだろ?」
「住める状態、と言っておきながら、どうせ修理の目途は立っていない。このまま居つく未来が見える」
「つれないこと言うなよ、俺たちの仲じゃないか」
「親しき中にも、と言う。勝手に入らないようこの家に繋がる鏡面札を返しなさい」
同情を誘っても茜の目線は冷ややかだ。
真緒が「鏡面札は検非違使部の連絡で必要になるかもしれないから」と言うと、しつこく返還を要求されはしなかったものの、
「あんなあばら家に住み続けていたのが悪い。宿にでも泊まりなさい」
「宿は、お金が…」
「〈大蛇〉の一件を解決した報酬があるはず」
「それ使うと和菓子を食べるお金が…」
説得力に乏しい理由を述べた結果、微妙にだが茜の柳眉が寄った。
たとえわずかでも彼女が表情に動きを見せるのは珍しい。
「あなたは私を頼りすぎている。紐をつけた覚えはない」
「ひ、ヒモ…」
ずばり直球な言葉が艶のある唇から飛び出してきて、さすがの真緒も返事に窮した。
茜の眉は元通りの位置に戻る。
「頼るなら、私ではなく親に頼ればいい」
「それは……」と、真緒は言い淀む。
「嫌ならば、自分で何とかしなさい。自立したいと言ったのは真緒」
茜は突き放すように振り返った。去り際、もう一言置いていく。
「そんな様子では、誰でも呆れて友人にはなってもらえない」
今の真緒にはもっとも効く台詞だった。一人になった彼は両の拳を握りしめ、眉間にしわを作って考える。
(〈大蛇〉の報酬で宿暮らしをして、修理代はどこかで地道に働いて稼ぐしかないのか…)
働くとなると、学校が終わった放課後になる。つまりしばらく部活動ができない。
どの選択をとっても真緒には苦痛だった。
「…やむを得ないか」
彼が住む街——桜葉街を紹介する計画が潰れて虚脱感に見舞われそうになるが、我が身の状況を知られて新たに掴みかけた交友を失っては元も子もない。
今後の予定を練り直しながら、真緒は粗雑に風呂敷を握って立ち上がった。
クラスで人気者の、時に上品とも評される少年が、まさか住む場所に困るほどの貧乏とは、人界の住民は未だ誰一人気づいていない事実だった。
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