1 / 1
反復・ニヒリズム・横跳び
しおりを挟む
体育館を、規則正しい振動が小刻みに揺らしている。俺の身体にも振動が伝わる。その振動の発生源は、決して太平洋沖ではない。目の前で反復横跳びをしている十五人の生徒である。
規定の二十秒の計測が終わり、一組と二組が入れ替わる。二組の十五人が三本の白線の中央を跨ぐと、俺は彼らに向かって言う。「最後まで全力でやること。八点取れればいいとか思うなよ」自分のことを言われたのだと察した一組の数人は、気まずく笑う。
俺は左手にストップウォッチ、右手にホイッスルを構えているが、その最中も、ずっとあることを考えている。他ならぬ自分の“点数”のことである。
昨夜帰宅したとき、紙切れが一枚、食卓の上に乗っていた。
『出ていきます。美世の養育費は要りません』
俺はすぐに、それが我が結婚生活の答案用紙であることを悟った。
俺は思った。どうして?何が間違っていた?どうすれば正解だったのだ?
ラップの掛かった夕食の残りすら乗っていない、寂しいテーブルの上で、俺は頭を抱えた。文科省のホームページを見たって、基準も模範解答も載ってやしなかった。脳内をこだまするのはいやらしい自問だけだった。すなわち、俺の結婚生活は何点だったのだ?俺という男は何点なのだ?
俺はやや呆然といった様子で、ホイッスルを口にあてがう。
「用意。始め!」
高い笛の音が短く響き、二組の十五人が一斉にステップを踏み始める。彼らは左右の白線にギリギリつま先が付くようにして、可能な限り効率的にステップを継続しようとする。体育館の床と彼らの内履きが擦れる音は、キュッキュッとうるさい鳥の鳴き声のように響く。右、左、右、左。リズムは印象的に耳に残る。タン、タタン。タン、タタン。キュッ、キュキュ。キュッ、キュキュ。
俺は考える。どちらが悪かったのだ――?俺が悪かったのか?ああ、きっとそうなのだろう。そうでなければ、由紀は自分が悪いのに自分で出ていった馬鹿者ということになってしまうではないか。
いや、案外由紀は馬鹿者だったのか?ああ、そうかも知れない。仕事をしているとはいっても、彼女の仕事はパートのようなものなのだ。美世の将来の足しにするために、雀の涙ほどの金を貯金していたに過ぎないのだ。それを『養育費はいりません』だ?これが馬鹿者でなくてなんだというのだ。第一、美世はどうするというのだ。
一番先頭で反復横跳びをしている彼は、俺と一メートル程離れている。彼のリズミカルな呼吸が俺のところに届いてくる。彼は右線を踏むときは右のつま先を、左線を踏むときは左のつま先をキッと見つめ、ただその動作を反復するだけの機械になっている。汗をかいている様が、蒸気機関のように見える。十九世紀イギリスの、巨大な振り子のように見える。
俺は思った。なあ、蒸気機関の振り子さんよ。俺と由紀と、どっちが悪かったと思う?お前が最後に踏んだ線が右なら俺が、左なら由紀が悪かったってことにしようと思っている。だから頼む。左を踏んで終わってくれないか――。
深夜零時。布団。
彼は残酷にも右を踏んだので、俺は精神衛生のために思考方針を転換した。
俺は考えた。結局、どっちが悪くたっていいだろう。どのみちもう、アイツは戻ってこないんだから。それにしても、女ってのはどいつもこいつも勝手に過ぎる。男の側の都合なんてモンはこれっぽっちも考えやしねえ。感情第一。自分第一。さりげなく娘まで連れて行きやがって。一言の相談も無しに。……弁護士だ。そうだ、弁護士だよ。そりゃそうだ、夫の許可無しに離婚して娘まで連れていくなんて、そんなこと許される訳無え。
争い?そうだよ争いだよ。これはアイツと俺の私的紛争。弁護士交まじえりゃ法的紛争だ。ああイラつく。イラつくイラつくイラつく。クソッ!
クソッたれ!!絶対吠え面かかせてやる!!
――これが思考と呼べるかどうかは学会でも意見が分かれ、諸説ある。
深夜一時。布団。
俺は泣いていた。泣きながら、グダグダと続けた思考はもはや明後日の方向へと向かっていた。無意識にそうしていたのだが、そうする以外に、悲しみを紛らわす方法も思いつかなかったに違いなかった。俺は次のように考えた。
問い:
恒久的世界平和は実現するか?
答え:
まず人類が永遠に、未来永劫繁栄すると仮定した場合。この場合、恒久的世界平和は実現しない。何故なら、ある時点における世界平和が恒久的世界平和であると証明できる人間は皆無だからである。
他方、人類が将来何らかの原因で滅亡すると仮定した場合。この場合、それが核抑止の失敗とそれに伴う相互確証破壊の発動によってもたらされた全人類の滅亡でない限りは――例えば地球全体がブラックホールに飲み込まれる等の不可抗力によって滅亡するのであれば――、その瞬間に恒久的世界平和の概念は実現することになる。
つまるところ、恒久的世界平和は実現の可能性を持つが、実現の瞬間に人類は滅ぶ。
滅亡の瞬間に恒久的平和は実現する……か。
俺はそれが実現したところでさほど意味が無いように思えた。なにしろ、そのとき人類はもう滅亡しているのだから。
俺は、自分の結婚生活も同じだと思った。
永遠の夫婦愛は実現するか?実現の可能性はあるが、実現する瞬間に、俺も由紀も死ぬ。
俺はもうすっかり疲れてしまった。眠れないが、無理やり寝るしかないと思い、今日一日のことを頭から追い出そうとした。
考えるな。忘れちまえ。夫婦愛なんて、結婚生活なんて、さほど意味は無いんだから――。
それでも俺の頭の中では、あのリズムが懲りずに響いていたのだった。
タン、タタン。タン、タタン。キュッ、キュキュ。キュッ、キュキュ。
タン、タタン。タン、タタン。キュッ、キュキュ。キュッ、キュキュ。
永遠の夫婦愛が、実現する、実現しない。実現する、実現しない……
由紀、由紀。帰って来てくれ、由紀。
規定の二十秒の計測が終わり、一組と二組が入れ替わる。二組の十五人が三本の白線の中央を跨ぐと、俺は彼らに向かって言う。「最後まで全力でやること。八点取れればいいとか思うなよ」自分のことを言われたのだと察した一組の数人は、気まずく笑う。
俺は左手にストップウォッチ、右手にホイッスルを構えているが、その最中も、ずっとあることを考えている。他ならぬ自分の“点数”のことである。
昨夜帰宅したとき、紙切れが一枚、食卓の上に乗っていた。
『出ていきます。美世の養育費は要りません』
俺はすぐに、それが我が結婚生活の答案用紙であることを悟った。
俺は思った。どうして?何が間違っていた?どうすれば正解だったのだ?
ラップの掛かった夕食の残りすら乗っていない、寂しいテーブルの上で、俺は頭を抱えた。文科省のホームページを見たって、基準も模範解答も載ってやしなかった。脳内をこだまするのはいやらしい自問だけだった。すなわち、俺の結婚生活は何点だったのだ?俺という男は何点なのだ?
俺はやや呆然といった様子で、ホイッスルを口にあてがう。
「用意。始め!」
高い笛の音が短く響き、二組の十五人が一斉にステップを踏み始める。彼らは左右の白線にギリギリつま先が付くようにして、可能な限り効率的にステップを継続しようとする。体育館の床と彼らの内履きが擦れる音は、キュッキュッとうるさい鳥の鳴き声のように響く。右、左、右、左。リズムは印象的に耳に残る。タン、タタン。タン、タタン。キュッ、キュキュ。キュッ、キュキュ。
俺は考える。どちらが悪かったのだ――?俺が悪かったのか?ああ、きっとそうなのだろう。そうでなければ、由紀は自分が悪いのに自分で出ていった馬鹿者ということになってしまうではないか。
いや、案外由紀は馬鹿者だったのか?ああ、そうかも知れない。仕事をしているとはいっても、彼女の仕事はパートのようなものなのだ。美世の将来の足しにするために、雀の涙ほどの金を貯金していたに過ぎないのだ。それを『養育費はいりません』だ?これが馬鹿者でなくてなんだというのだ。第一、美世はどうするというのだ。
一番先頭で反復横跳びをしている彼は、俺と一メートル程離れている。彼のリズミカルな呼吸が俺のところに届いてくる。彼は右線を踏むときは右のつま先を、左線を踏むときは左のつま先をキッと見つめ、ただその動作を反復するだけの機械になっている。汗をかいている様が、蒸気機関のように見える。十九世紀イギリスの、巨大な振り子のように見える。
俺は思った。なあ、蒸気機関の振り子さんよ。俺と由紀と、どっちが悪かったと思う?お前が最後に踏んだ線が右なら俺が、左なら由紀が悪かったってことにしようと思っている。だから頼む。左を踏んで終わってくれないか――。
深夜零時。布団。
彼は残酷にも右を踏んだので、俺は精神衛生のために思考方針を転換した。
俺は考えた。結局、どっちが悪くたっていいだろう。どのみちもう、アイツは戻ってこないんだから。それにしても、女ってのはどいつもこいつも勝手に過ぎる。男の側の都合なんてモンはこれっぽっちも考えやしねえ。感情第一。自分第一。さりげなく娘まで連れて行きやがって。一言の相談も無しに。……弁護士だ。そうだ、弁護士だよ。そりゃそうだ、夫の許可無しに離婚して娘まで連れていくなんて、そんなこと許される訳無え。
争い?そうだよ争いだよ。これはアイツと俺の私的紛争。弁護士交まじえりゃ法的紛争だ。ああイラつく。イラつくイラつくイラつく。クソッ!
クソッたれ!!絶対吠え面かかせてやる!!
――これが思考と呼べるかどうかは学会でも意見が分かれ、諸説ある。
深夜一時。布団。
俺は泣いていた。泣きながら、グダグダと続けた思考はもはや明後日の方向へと向かっていた。無意識にそうしていたのだが、そうする以外に、悲しみを紛らわす方法も思いつかなかったに違いなかった。俺は次のように考えた。
問い:
恒久的世界平和は実現するか?
答え:
まず人類が永遠に、未来永劫繁栄すると仮定した場合。この場合、恒久的世界平和は実現しない。何故なら、ある時点における世界平和が恒久的世界平和であると証明できる人間は皆無だからである。
他方、人類が将来何らかの原因で滅亡すると仮定した場合。この場合、それが核抑止の失敗とそれに伴う相互確証破壊の発動によってもたらされた全人類の滅亡でない限りは――例えば地球全体がブラックホールに飲み込まれる等の不可抗力によって滅亡するのであれば――、その瞬間に恒久的世界平和の概念は実現することになる。
つまるところ、恒久的世界平和は実現の可能性を持つが、実現の瞬間に人類は滅ぶ。
滅亡の瞬間に恒久的平和は実現する……か。
俺はそれが実現したところでさほど意味が無いように思えた。なにしろ、そのとき人類はもう滅亡しているのだから。
俺は、自分の結婚生活も同じだと思った。
永遠の夫婦愛は実現するか?実現の可能性はあるが、実現する瞬間に、俺も由紀も死ぬ。
俺はもうすっかり疲れてしまった。眠れないが、無理やり寝るしかないと思い、今日一日のことを頭から追い出そうとした。
考えるな。忘れちまえ。夫婦愛なんて、結婚生活なんて、さほど意味は無いんだから――。
それでも俺の頭の中では、あのリズムが懲りずに響いていたのだった。
タン、タタン。タン、タタン。キュッ、キュキュ。キュッ、キュキュ。
タン、タタン。タン、タタン。キュッ、キュキュ。キュッ、キュキュ。
永遠の夫婦愛が、実現する、実現しない。実現する、実現しない……
由紀、由紀。帰って来てくれ、由紀。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる