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霊安室
私のスマホに夫からの着信は一度もなかった。
友達からの安否を確認するメールはたくさん来ていたので、電波が届かなかったわけではない。
自分の親の世話を押し付けておいて……と苦々しく思うのと同時に、やはりただの介護要員だったのかと怒りを新たにしていた。
なるほど、夫は姑に何かあった時はこんなに早く駆けつけることができるのか。
あの時のビンタを倍返しして、気が済むまで罵ってやりたい。
そんな気持ちで姑の遺体に取りすがって泣く夫を眺めていたら、何かのはずみで白い布が外れて顔があらわになった。
頬に擦ったような傷が付いているが、間違いなく姑だ。
今朝まで生きて話をしていた人間の死に顔だというのに、悲しみは少しも感じなかった。
泣きわめいていた夫はようやく落ち着いたらしく、若い男性が先ほどと同じ説明をするのが聞こえてきた。
「……峠の大きな下り坂のカーブで……今のところ運転手の操作ミスか――」
「そんな、父を亡くしたばかりなんですよ⁉ 偶然であるわけが……!」
夫は納得できないと言わんばかりに目を剝いて若い男性を睨みつけ、その勢いで私に視線を向ける。
「お前、……いたのか」
今さら気が付いたという顔をする夫に対して、私は何の感情も持つことができなかった。
「本人確認のために来てくれと言われました。あなたが来るなら必要ありませんでしたけど」
「そ、そうか、いや……」
夫は落ち着きなく姑の遺体と私の顔を何度も交互に見て、口を開けたり閉めたりしている。
その嫌な目つきで、彼が何を言おうとしているのか私には分かってしまった。
「今度はどうやって私のせいにするんですか?」
夫の顔が赤く変色していく。
「おまえッ!」
叫ぶと同時に、夫は私に向かって拳を振り上げ――
「落ち着いてください!」
次の瞬間には制止の声が聞こえて、若い男性が夫の肩を抑えていた。
二人きりでなくて良かった、と私はそっと息を吐いた。
「……あなたの前の奥さん、脚細いのね」
二度目に見た「足」は膝までの、スリムパンツのよく似合う脚だった。
あれは夫の前妻、あの家でこき使われ夫に裏切られて自死した女性だ。きっと私と同じ……いやそれ以上に彼らを恨んでいる。
彼女をどう思っているのか知りたくて言ってみたのだけれど。
私のつぶやきを聞いた夫は顔色を変えて、目だけをキョロキョロと泳がせた。
「うわあぁああっ!」
突然夫は脂汗の浮いた顔を引きつらせ、若い男性を振りほどき、何かに追われるように霊安室から転げ出て行った。
前妻を殺したも同然のくせに、恨みを買っているのは怖いのかしら。
「何なんですか、あの人」
勢いよく閉じられたドアを見ながら、若い男性が困り顔をした。
若い男性にサインが必要な書類があると言われたので名前を書いていると、再び音を立てて霊安室のドアが開いた。
今度は白髪混じりの背の高い男性だ。
男性はどこか貧相な顔をしていて、姑の兄だと名乗った。夫にとって伯父にあたるため、一応私も夫の妻だと名乗っておいたが、式を挙げていないせいか反応は淡白なものだった。
姑の兄は姑の遺体を少しも見ようとしなかった。仲の良くない兄妹だったのだろうか。普通なら手を合わせるふりくらいはすると思う。
事故の説明を黙って聞き終えた姑の兄は、私に近づいてきた。
「通夜と葬式はそちらでしますよね?」
初対面の人にいきなりそう聞かれて、私は戸惑うよりも腹が立った。
なぜ私があんな男の母親を弔ってやらなければならないのかと。
「いいえ」
思っていたより冷たい声が出て自分でも驚いた。しかし姑の兄の方はもっと驚いたようで、肩がビクッとしていた。
「彼女には立派な息子さんがいるじゃないですか」
私は肌身離さず持ち歩いている白い封筒の中からあの写真を一枚取り出し、姑の兄へ突きつける。
「こんな素敵な女性とお付き合いしている息子さんが、ね」
夫が化粧の濃い女性と一緒に歩いている写真を見た姑の兄は、目をこれでもかと見開いて固まった。
「こ、これは……まさか……」
夫が浮気をしているので私はその母である姑の葬儀などしませんよ、という意味で見せたのに、彼はなぜかかなり動揺しているようだ。
しばらく写真を見つめていた姑の兄は我に返ったのか、急にキリっとした顔になって私に向き直った。
「この写真、買い取らせていただけませんか」
「……は?」
何を言っているのだろう。
買い取る、というのは夫の浮気を無かったことにするという意味なのか。それは夫をかばうつもりで? しかし姑の遺体に手を合わせることすらしないところを見ると、彼が姑の子である夫を助けるとは思えない。
――そういえば……。
舅のお葬式に町の議員が来る、と聞いた姑が嬉しそうにしていたことを私は思い出した。その町議員は姑の親戚だったはず。
「町議員の親戚が不倫をしている」という情報は田舎の人たちにとって刺激的なニュースになるのかもしれない。
町議員がどの程度の存在なのかわからないけれど、小さな町だからこそ醜聞になることは避けたいのではないか。町長や町議員を出している家であればなおさら。
ウワサ程度であれば権力を使って町の住民を黙らせることは可能だろう。
でも、もしこの写真がマスコミなどに流出した場合、その報道をいち町議員がもみ消すことは不可能になる。
私は大きく息を吸った。
「売りません。元データは別の場所にありますので、もしこの写真が奪われるようなことになったら、すぐに証拠付きで週刊誌にでもメールしますよ」
ハッタリだった。写真のデータなんて持っていない。でもこう言っておかないと、力づくで取り上げられるかもしれないのだ。
さっきまでの態度はどこへやら、姑の兄はふてぶてしく目を細めて私を睨みつける。
「……チッ」
抑えきれない苛立ちがその舌打ちに込められていた。
少なくともこの情報をばらまかれたくないのは間違いない。
私は写真を封筒に戻し、霊安室のドアを開けた。
「お葬式の件は、そちらから喪主である夫へ連絡を取ってくださいね」
ドアを閉める直前にちらりと見えた姑の兄の顔は、最初の印象よりずっと貧相に見えた。
友達からの安否を確認するメールはたくさん来ていたので、電波が届かなかったわけではない。
自分の親の世話を押し付けておいて……と苦々しく思うのと同時に、やはりただの介護要員だったのかと怒りを新たにしていた。
なるほど、夫は姑に何かあった時はこんなに早く駆けつけることができるのか。
あの時のビンタを倍返しして、気が済むまで罵ってやりたい。
そんな気持ちで姑の遺体に取りすがって泣く夫を眺めていたら、何かのはずみで白い布が外れて顔があらわになった。
頬に擦ったような傷が付いているが、間違いなく姑だ。
今朝まで生きて話をしていた人間の死に顔だというのに、悲しみは少しも感じなかった。
泣きわめいていた夫はようやく落ち着いたらしく、若い男性が先ほどと同じ説明をするのが聞こえてきた。
「……峠の大きな下り坂のカーブで……今のところ運転手の操作ミスか――」
「そんな、父を亡くしたばかりなんですよ⁉ 偶然であるわけが……!」
夫は納得できないと言わんばかりに目を剝いて若い男性を睨みつけ、その勢いで私に視線を向ける。
「お前、……いたのか」
今さら気が付いたという顔をする夫に対して、私は何の感情も持つことができなかった。
「本人確認のために来てくれと言われました。あなたが来るなら必要ありませんでしたけど」
「そ、そうか、いや……」
夫は落ち着きなく姑の遺体と私の顔を何度も交互に見て、口を開けたり閉めたりしている。
その嫌な目つきで、彼が何を言おうとしているのか私には分かってしまった。
「今度はどうやって私のせいにするんですか?」
夫の顔が赤く変色していく。
「おまえッ!」
叫ぶと同時に、夫は私に向かって拳を振り上げ――
「落ち着いてください!」
次の瞬間には制止の声が聞こえて、若い男性が夫の肩を抑えていた。
二人きりでなくて良かった、と私はそっと息を吐いた。
「……あなたの前の奥さん、脚細いのね」
二度目に見た「足」は膝までの、スリムパンツのよく似合う脚だった。
あれは夫の前妻、あの家でこき使われ夫に裏切られて自死した女性だ。きっと私と同じ……いやそれ以上に彼らを恨んでいる。
彼女をどう思っているのか知りたくて言ってみたのだけれど。
私のつぶやきを聞いた夫は顔色を変えて、目だけをキョロキョロと泳がせた。
「うわあぁああっ!」
突然夫は脂汗の浮いた顔を引きつらせ、若い男性を振りほどき、何かに追われるように霊安室から転げ出て行った。
前妻を殺したも同然のくせに、恨みを買っているのは怖いのかしら。
「何なんですか、あの人」
勢いよく閉じられたドアを見ながら、若い男性が困り顔をした。
若い男性にサインが必要な書類があると言われたので名前を書いていると、再び音を立てて霊安室のドアが開いた。
今度は白髪混じりの背の高い男性だ。
男性はどこか貧相な顔をしていて、姑の兄だと名乗った。夫にとって伯父にあたるため、一応私も夫の妻だと名乗っておいたが、式を挙げていないせいか反応は淡白なものだった。
姑の兄は姑の遺体を少しも見ようとしなかった。仲の良くない兄妹だったのだろうか。普通なら手を合わせるふりくらいはすると思う。
事故の説明を黙って聞き終えた姑の兄は、私に近づいてきた。
「通夜と葬式はそちらでしますよね?」
初対面の人にいきなりそう聞かれて、私は戸惑うよりも腹が立った。
なぜ私があんな男の母親を弔ってやらなければならないのかと。
「いいえ」
思っていたより冷たい声が出て自分でも驚いた。しかし姑の兄の方はもっと驚いたようで、肩がビクッとしていた。
「彼女には立派な息子さんがいるじゃないですか」
私は肌身離さず持ち歩いている白い封筒の中からあの写真を一枚取り出し、姑の兄へ突きつける。
「こんな素敵な女性とお付き合いしている息子さんが、ね」
夫が化粧の濃い女性と一緒に歩いている写真を見た姑の兄は、目をこれでもかと見開いて固まった。
「こ、これは……まさか……」
夫が浮気をしているので私はその母である姑の葬儀などしませんよ、という意味で見せたのに、彼はなぜかかなり動揺しているようだ。
しばらく写真を見つめていた姑の兄は我に返ったのか、急にキリっとした顔になって私に向き直った。
「この写真、買い取らせていただけませんか」
「……は?」
何を言っているのだろう。
買い取る、というのは夫の浮気を無かったことにするという意味なのか。それは夫をかばうつもりで? しかし姑の遺体に手を合わせることすらしないところを見ると、彼が姑の子である夫を助けるとは思えない。
――そういえば……。
舅のお葬式に町の議員が来る、と聞いた姑が嬉しそうにしていたことを私は思い出した。その町議員は姑の親戚だったはず。
「町議員の親戚が不倫をしている」という情報は田舎の人たちにとって刺激的なニュースになるのかもしれない。
町議員がどの程度の存在なのかわからないけれど、小さな町だからこそ醜聞になることは避けたいのではないか。町長や町議員を出している家であればなおさら。
ウワサ程度であれば権力を使って町の住民を黙らせることは可能だろう。
でも、もしこの写真がマスコミなどに流出した場合、その報道をいち町議員がもみ消すことは不可能になる。
私は大きく息を吸った。
「売りません。元データは別の場所にありますので、もしこの写真が奪われるようなことになったら、すぐに証拠付きで週刊誌にでもメールしますよ」
ハッタリだった。写真のデータなんて持っていない。でもこう言っておかないと、力づくで取り上げられるかもしれないのだ。
さっきまでの態度はどこへやら、姑の兄はふてぶてしく目を細めて私を睨みつける。
「……チッ」
抑えきれない苛立ちがその舌打ちに込められていた。
少なくともこの情報をばらまかれたくないのは間違いない。
私は写真を封筒に戻し、霊安室のドアを開けた。
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