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56. 父親 IV
しおりを挟む夜も更け、遠くで魔物の咆哮が聞こえる頃。
暗く狭い――部屋とも呼べないスペースで、俺は体育座りをしていた。
隣にはリリス。
人が二人入るには狭すぎる場所でぎゅうぎゅうに詰まっている状態だが、二人とも真剣な顔だ。
ちらりと横を見ると、真剣なリリスの瞳が目の前の壁から漏れる光に向けられている。
申し訳程度に開けられた穴から見えるのは、アンドラスのいる客室。
本でも読んでいるのか、こちらに背を向けて座るアンドラスの腕が動き、紙が擦れる音が聞こえた。
一度穴から目を逸らし、きつく瞑る。
こっち側が暗いから、部屋の光が眩しく感じる。
物音を立てない様、無音で待機。
何分そうしていただろうか。
ゆっくりと三度、ドアをノックする音が聞こえ、俺は弾かれた様に穴の先を見つめた。
入って来たのは、思い詰めた表情のラーナだ。
緊張から拳に力が入る。
一度リリスに目配せすると、再び穴へと目を向けた。
「待ちくたびれたぞ。散々逃げ回ってくれたよなあ。アスモデウスしかりサタンしかり……お前は権力者に取り入るのが得意なようだ」
「…………申し訳、ございません……」
「はっ、お前も母親と同じ、阿婆擦れの血が流れているということだろう。何人に股を開いたんだ、ええ? その程度しかお前には価値がないんだから、それも仕方がないことだよな。なあ?」
「…………っ」
唇を噛み、ここからでも分かる程震えているラーナに思わず出て行きそうになって、後ろに引っ張られた。
無言で首を横に振る彼女の手には、俺の服がぎゅっと握られていて――頭に上った血を下げるように深く深呼吸する。
まだ……まだだ。
サラとの面会を終え、客室を出た後。
俺達はベルちゃんの部屋へと集まった。
部屋にはリリスと、ロナルドに肩を抱かれたラーナが既にいて、俺達が部屋に入るとラーナは勢い良く頭を下げた。
「申し訳ありませんっ! 仕事を放棄し、挙句の果てにこの様な場まで……!!」
「大丈夫だよ。……何があったか、教えてくれるかな?」
「は、はい……」
自分の生まれのこと、アンドラスとの関係のこと、今日の夜彼に呼び出されていること――
ラーナの話が終わっても、誰も声を出せなかった。
彼女が啜り泣く声が響く中、サラが「なら」と口火を切った。
「それなら、貴方と私は異母姉妹になるのね」
「は、はい。……そうみたいです」
サラが目尻に涙を浮かべたまま微笑むと、一筋、静かに頬を伝って流れた。
「……私も似た様なものです。逃げ出す際、母は私を庇い、今も彼に囚われたまま……」
まあ、逃げた先でもフルカスに捕まってしまいましたが、と自嘲する。
「夫、ベルゼブブも謁見の間で名前聞いた後不審に思ったらしく、部下に調べさせてたらしいんですの。それで、そのぅ……」
「今、その部下とアンドラスの屋敷へと向かっています」
「えっ、そうなのか!?」
言い難そうに言葉を濁したリリスをベルちゃんが代弁する。
ベルゼ、めっちゃ仕事が出来る男だ。
むしろ出来すぎて、サタンとかアスタロトとかが駄目男化したんじゃないかとも思う。
「ただ、距離があるので少々時間がかかるかと。ラーナが呼び出されている夜までに間に合えばいいのですが、間に合わない場合は……現場を押さえます」
「現場を……」
つまり現行犯で押さえるということだ。
皆の視線がラーナに集まる。
現行犯ということは、ラーナには嫌な思いをさせるということで――
「……私は、皆様を信じています。だから……危なくなったら助けて下さいねっ?」
本当は怖いだろうに、心配かけない様に笑って見せたラーナ。
その思いに答える為にも、今出て行く訳にはいかなかった。
穴の向こうで布が擦れる音がした。
アンドラスが立ち上がり、ラーナへと近付いていく。
「それで? これまでの穴埋めとして、何をしてくれる。前に俺から逃げた奴は、一番の友達を殺してみせたぞ」
「え……」
「それが嫌なら自分の足でも切るか。切れの悪い刃で、利き手とは逆の腕でな」
「そんな、ことっ……」
「他には……――ああ、そうだ。お前はサタン付きのメイドであったな。ならば魔王に毒を盛るなんてのはどうだ? 魔王も腑抜けになったと聞くし、案外気付かずに済むかもしれんぞ」
「い、嫌ですっ! そんなこと、絶対に……!! きゃっ!?」
パンッと渇いた音が響いた。
打たれた頬を押さえ倒れ込むラーナの腹部に向け、勢い良く引かれた足が――
「やめろ!!」
今度はリリスに止められなかった。
部屋の中に急に現れた俺に、アンドラスが空で足を止める。
物音に気付いたベルちゃんが入口から入って来て、挟み撃ちの状態だ。
「これは……?」
「アンドラス、お前、今何をしようとしていた?」
「……」
「答えろ!」
「……これは私の娘です。躾にございますので」
全部見られていたことを悟ったのか、言い訳はしなかった。
「躾で娘を蹴るのか? 足を切らせるのか!?」
「我が家では」
怒りで声が、肩が、震える。
ラーナへと視線を向けると、今にも泣きそうな顔で震えていた。
「……ふぅ、仕方ない。実はサラの母親に術をかけていましてな。私が念じれば爆発する仕組みになっているのです」
「なっ!?」
「母娘を引き裂く様な真似、私もしたくはありませんが……どうしましょうか」
起爆されたくなければ見逃せと、脅しにかかるアンドラス。
一歩間違えれば、サラの母親の命を失う事態に二の足を踏む。
こっちが強く出られないことを知ると、ニヤリと口端を上げた。
「では。さっさと立て!」
「い、いやぁっ! サタン様!」
ラーナの腕を引っ張り無理矢理立たせる光景に、奥歯をぐっと噛み締める。
そんな俺の様子を嘲笑うかの様に、アンドラスは勝ち誇った笑みで目を細めるとふっと短く息を吐いた。
「ああ、そうだ。もしも私の物が欲しいのならば、貴方が私を楽しませてくれてもいいんですよ?」
「は……?」
「聞いていたのでしょう? 毒ですよ、毒。これを飲んで下さるのならば、娘を差し上げましょう」
胸元から取り出した、どろりとした液体の入った小瓶をテーブルの上に置く。
「貴方が少し苦しめば周りは助かる。どうです、悪い話ではないでしょう」
「ダメです! やめて下さいサタン様ぁ!」
「サタン様……!」
手に取った俺を止める声が、心臓の音で掻き消される。
――……万事、休す。
蓋を開け、口元へ近付ける。
液体は無臭で、アスタロトの部屋の方が有害な臭いだったなぁ、なんて。こんな時なのに、くすりと笑みが溢れた。
「――お待たせしました。時間稼ぎありがとうございます、サタン様」
扉を蹴破り現れたのはベルゼだ。
いつもきちっとセットされた髪が少し乱れていて、急いで来てくれたんだと分かる。
「屋敷にいた者にかけられていた術は全て解きました。サラの母親につきましても保護済みです。これでこちらに不利なものはなくなりました」
「くっ……! こっの、偽善者がッ!! お前達も俺と同じ穴の狢のはず! 何故俺だけがこんな……!」
「そうですね、確かに。ただ……」
「私達はそんな卑劣な手は使いません。それに何より、お前は手を出しちゃいけねぇ御方に唾を吐いた。ただ、それだけだ」
「おお……! ベルゼさんかっけぇ」
ベルゼの登場により形勢が逆転したアンドラスが最後の抵抗を見せる。
だが向かって行った先が悪かった。
ひょいと呆気なくベルゼに捕えられたアンドラス。
正直、俺の方に来てたら勝ててたか分からない。
この身体で補正がかかってるとしても、俺、あんまり喧嘩したことないし。いや頑張るけどね。……危なかった。
そんな感情もあってふと洩れた言葉に、ベルゼが凄い勢いで振り返った。
「リリス!!」
「……ええ。バッチリよ。――『ベルゼさんかっけぇ』」
「……は?」
何が、と聞く間もなく、リリスが取り出したのは小型のレコーダー。
リピートされる俺の言葉。
「……ふっ。アスタロトに頼んで買ったかいがあったぜ」
えええぇぇえ……
ベルゼの目に光るものが見える気がするんだけど。
俺の感動を返してくれ。
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