花交わし

nionea

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31.三夜の話

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「どっちにしろ今更だな」
 呆れたように息を吐きつつ言って、氷冴尾は何処かで夕餉を調達してくる、と歩き出した。
「………」
「………おい、貴冬…氷冴尾が恐ろしいことを呟いたぞ、お前、どういう」
「解らん」
 自分の言った言葉のせいでこの後貴冬が女将連中からどんな目に遭うのか、氷冴尾は全く気にしていなかった。
「貴冬さん」
「『解らん』とはどういう事やね」
「ちくとお話しよかねぇ」
 責められている内容に対して、疚しい事など微塵も無いはずなのに、明確な反論の言葉も思いつかず貴冬はいやに迫力のある笑顔に僅かに身を引きつつ言われる言葉に曖昧に返事をする他なかった。心の中で、全く頓着した様子もなく去っていく後ろ姿に叫びつつ。
(教えてくれ氷冴尾どういう事なんだ…?!)
 氷冴尾にとって、食の好みや生活面のすり合わせは犬狼の里で生活していた際に解っている事であったし、肉体上の問題も爪刃と春陽の間に子供が出来ているのだから問題無いだろうと考えての発言だっただけなのだが。
(何食うかな)
 そんな氷冴尾の真意を知っているのは本人だけだ。
 しっかりとした夕餉と軽くいっぱい引っ掛けたあとで長屋に戻った氷冴尾は、途方にくれたような顔で氷冴尾の家前にしゃがみこんでいる貴冬に気付いた。
「どうした?」
「いや、真意を聞くまで家には入れないと言われてしまって」
「?」
 何を言いたいのかよく解らないという顔をしつつも、氷冴尾は自分の家の木戸を開けて顎で入るか、と示す。
 貴冬は立ち上がりつつ言葉を紡ぐ。
「さっきの、今更という言葉の話なんだが」
「ああ」
 上がり框に向かう氷冴尾を追わず、貴冬は木戸の外で立ち止まる。
「何が今更なんだ?」
「何って、だから三日夜参りだろ」
「いや、ああだから、古式はそうかもしれないが、木柴が言っていたのは今更でもないだろう?」
 氷冴尾は上がり框に腰かけつつ首を捻った。
「里で同じ飯食ってただろ」
 洗い桶に軽く足を付ける氷冴尾に、はっきり言わないと伝わらないと今更ながら覚悟を決めた貴冬は意を決して口にする。
「三日目の事だ」
「爪兄と春陽の間に子ができたんだから問題無いだろ」
 自分の覚悟の割りに答えの早さと軽さが気にはなったが、より安堵が上回った。
「そういう話か」
 安心したせいでがくりとその場にしゃがみこんだ貴冬を見て、氷冴尾は数度瞬く。
「ああ、なるほど」
 氷冴尾の呟きに顔を上げた貴冬は、自分の方を真っ直ぐに見ている目と目が合った。
「じゃあ、やるか」
 何を、と貴冬が問いかける間もなく言葉は続く。
「三日夜参り」
 ぱしゃりと水が跳ねる音がして氷冴尾の足が招くように動いた。
 陽のある内は裾を割って見える足にどぎまぎして竈ばかり見つめていたのに、暗がりでならばまじまじと視線を向けられる自分の浅ましさに呆れながら、貴冬は立ち上がって内に入ると、後ろ手に木戸を閉め、氷冴尾へ歩み寄る。跪いて水滴の零れる足に触れ、手拭いを受け取った。自分でも呆れるほど期待が高まって、思わずごくりと生唾を飲み込む。
 その様が可笑しかったのか、氷冴尾の目が笑むように細められた。
 貴冬が拭い終えると、氷冴尾はすぐに立ち上がって奥へ向かう。一度部屋の半ばで振り返って、さっさと上がれ、と声をかけたが、すぐに奥へ入っていった。
 長屋の各戸は似た造りになっている。つまり、奥には湯場がある。
 貴冬は聞こえてきた水音から慌てて意識を逸らすために足を桶に浸けた。
「………」
 冷たいというほどではないが、水に足を漬けると、少し頭も冷えた。砂を落として手拭いで水気を取り、部屋の敷居を跨ぐ際にはもう随分と落ち着いた。
「ふぅ」
 なんとなく直視もできず、奥に背を向けて座ると意識的に息を吐いて、貴冬はこれまでの事を思い出した。
 自分と氷冴尾の間には、圧倒的に共通認識が足りていないのだ。そして、会話も足りていない。大概の物事が、認識しているのとは違う方向で進んでいると思って間違いない。
 あの話の流れでは古式の三日夜参りの事ではないだろう。だが、氷冴尾は既に夕餉を終えている。
「話し合いかな」
 つまり、二夜目の再現だろう、と貴冬は見当を付けた。
「何か言ったか?」
 考えがまとまった後。行灯に灯りを入れ、跳ねる心臓を落ち着かせるように座って瞑想していると、いつの間にか、氷冴尾が奥から出ていた。
 夜着姿の氷冴尾に覗き込むように見下ろされ、上に向けた首を動かす事もできなかった貴冬がようやく言葉を返す。
「…いや」
「湯は沸かしてねぇけど。使えよ」
「ああ」
 答えて、今氷冴尾が出てきた奥へ入る。
「落ち着け」
 井戸水とは違う上樋を通って各戸に届くぬるめの水で身を清めつつ、己に言い聞かせる。頭を冷やせ、落ち着け、そもそも今日の今日まで婚姻の申し出すらまともに受け止められてなかっただろうが、と自分を奈落の底に叩き落としてから、貴冬は風呂を出た。
 部屋に敷かれた布団の上で胡座をかいた、自分の白い髪を指で梳いていた氷冴尾と目が合う。
 逸らさなくては、と思ったが、逸らせない。
 そういえばさっきも真っ直ぐに目が合っていたが逸らされなかったな、と考えていると、
「何突っ立ってんだ?」
と、首を捻った氷冴尾に訊かれた。
「いや、目が合うな、と思って」
 答えながらできるだけ自然に動こうと意識しながら布団の横まで歩み寄る。
「そりゃまぁ、逸らす理由がないからな」
「そうなのか?」
「ああ」
 座る氷冴尾に合わせて、自身も膝を着く。
「?」
 動作の途中で下に向けた視線を戻すと、氷冴尾が眉を寄せていた。
 不思議そうな顔で自分を見ている貴冬に、氷冴尾は今日改めた認識はやっぱり何か間違っていたのだろうかと考えていた。
「よく解んねぇな…」
「これから話し合っていこう」
 氷冴尾の呟きに貴冬はそう言って微笑んだ。
「…面倒だ」
「ん?」
 が、氷冴尾は貴冬の襟を掴むと、布団に引き倒してその腹の上に跨った。
「婚儀だって面倒なのに、一夜二夜ってやってられるかよ三夜目だけで十分だろ」
 呆然と見上げてくる貴冬を見下ろして、氷冴尾は楽しそうに笑った。
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