花交わし

nionea

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32.いつもの朝

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 暑い。
 目を覚ましてすぐ氷冴尾はそう思った。
 より正確に言うと、暑さで目が覚めた。
「…」
 自分の腹の辺りで丸くなって眠っている藍太を見て、こいつは暑くないのだろうか、と溜息を吐いて身を起こす。
 肩に乗っていた貴冬の腕が落ち、目を覚まさせた。
「氷冴尾…?」
「おう」
 藍太を挟んだ向こうで珍しく寝呆けた顔の貴冬をちらりと見て、返事をし、表に向かって歩き出す。
 昨夜。驚き顔の貴冬を見下ろすのは中々気分の良い光景だったが、その直後に藍太が木戸から飛び込んできたのだ。氷冴尾は帰るよう言いかけたし、藍太の後ろには千寿恵が追って引き戻そうとしていたのだが、本人が嫌がったのと貴冬が拒否をしなかったので、そのまま三人並んで眠る事になったのだ。
 三夜目は古式懐しい結果に終わったと言える。
「あ…」
「あ?」
 井戸で水を汲み上げていると、木柴が表に出てきた。
「おはようさん」
「おう」
「なぁ、本当に貴冬と縁付くのか?」
「おう」
 氷冴尾は答えつつ諸肌を脱いで寝汗を拭く。
 そのいっさい今までと何ら変わるところのない態度を見て、木柴は思わず宙を見上げた。
「………あのよぉ、もっと、こう、ねぇのか?」
「なんだよ」
「情緒だよ。情緒!」
「はぁ?」
 近頃、通り三つ向こうの飴屋の看板娘に岡惚れ中の木柴は勝手に貴冬を片恋仲間と思っていたので、上手くいった事を大いに喜んでいる。羨ましくはあるが恨めしくはなく、ただひたすら純粋に祝福している。そんな彼から見ると、氷冴尾の態度の変わらなさが不満であった。
「漸くまとまったんだぜ? こっからは嬉し恥ずかし手枕の仲ってわけじゃねぇか。それが、おめぇ、何も変わりゃしねぇって…」
 貴冬が気の毒だと溜息を吐かれて、氷冴尾は眉を寄せた。新手枕のつもりは十分にあったのに、昨日藍太を帰さなかったのは自分ではなく貴冬だ。それなのに何故木柴は自分が悪いかのような物言いをするのか。
「何だよ情緒って」
 うんざりと呟いた。
 濡れた手拭いを首にかけ、諸肌脱ぎのまま戻る。
 開けっ放しのまま出てきた木戸のところに行き着くと、ちょうど貴冬が上がり框の所にいた。奥で藍太はまだ眠っているようだ。
 起こして家に戻らせるか、このまま寝かせておくかを氷冴尾が考えていると、裸足のままで貴冬が土間へ下りてきた。
 汚れるぞ、と言う間もなく、氷冴尾の肩を抱き寄せて戸の内へ引き入れると木戸を閉める。
「…何だよ」
「前から思っていたんだが、身を拭うなら湯場の方が良くないか」
「水が温い」
「…それなら、桶に井戸の水をとれば」
「面倒だ」
「俺が汲んでくる。だから、表で身を拭うのは止めてくれ」
 一瞬、氷冴尾の中で母の姿が過ぎった。
 虎猫の里で水場は限られている。既婚未婚も男女の別もなく、限られた水場を共有している以上、多少肌が見える程度の事は当たり前だった。氷冴尾にとって、それが当たり前ではなかったのは、白い母だけだ。
 苛立ちのようなものが腹に湧きかける。
「………犬狼ではそういうものなのか?」
 だが、犬狼にとって白い事に特別な意味はない、という事を思い出した。氷冴尾が思い出せる限りで考えれば、犬狼の里で肌を見せている者もいなかったはずだ。離れで過ごしていたからというだけではなく、犬狼にとってはそういうものなのかもしれない。
 氷冴尾の訝しげな表情と問いに、貴冬は少し間を取って考えた。
「いや、どう、だろうな…俺はできればあまり見せたくない質だが、別に犬狼の質という訳ではないかもしれん」
 自分の嬬を自慢したくてたまらない質の知り合いが頭の中で惚気始めるのを追い出しながら貴冬は言った。
「それに、俺自身丹野のような場所は初めてなのだが、あまり見かけないだろう。この長屋は水場も整っているし」
「ああ、そういえばいないな」
 自分以外が井戸端で体を冷やしている姿を見た事がない、とは氷冴尾も認識してはいた。単純に女衆が多いのと自分の生活が早朝に始まるせいだと考えていたが。長屋の湯場などが各戸にある事を鑑みるに、多種族での生活においては控えるものなのかもしれない。
 面倒ではあるが、郷に入っては郷に従うのが最も面倒を少なくする術だと考えている氷冴尾は頷いた。
「まあ今後はそうするか」
 どうせこれから秋になれば表には出て行かないとも思ったが、口には出さないまま、身を離す。まだ寝息を立てている藍太を起こして戻した。
 藍太からしっかりと睨まれた後で貴冬も戻る。
 開けっ放しの戸から敷居を跨ぐと、木柴が鴨居に手をかけつつ立っていた。
「よお色男」
「…皮肉か?」
「嫌味だよ」
 上手くいって良かったな、と言いながら土間に下りてくる。
「上手くいっている、のか?」
「いや、知らねぇよ。何だよ上手くまとまったんじゃねぇのかよ?」
「…どうなんだろうな、よく解らん」
「おいおいしっかりしろや。お前さんが解んなかったら誰も解んねぇぞ。氷冴尾も情緒がねぇし、お前さんもそんなじゃ…本当に昨日まとまったんだよな?」
 長屋に戻って来るなり散々語られたお多衣達のお喋りが嘘だったのか、と呆れて笑えば、貴冬が苦笑を浮かべる。
「とりあえず婚儀には漕ぎ着けた」
「やっぱまとまったんじゃねぇか」
 心配させるなと笑う木柴に肩を叩かれて貴冬の肩から力が抜けた。
(………誤った気はするんだがなぁ)
 朝餉に米を炊こうと竈の火を探る木柴に、ふと思い立って声をかける。
「なぁ木柴」
「ん?」
「腹が空いているとしてだ」
「おう?」
 なにかの例え話が唐突に始まり木柴は首を傾げたが、ちょうど腹は空いているのでのってみた。
「目の前に好物ばかりを載せた膳がある」
「ふむ」
 栗飯、青菜の煮浸し、みぞれ塩鮭、芋の蜜絡め、とろみ豆腐のすまし、想像だけで唾がたっぷりと湧き、思わずごくりと嚥下した。
「どうする?」
「え? 食えば良いだろ? 何だ、食っちゃダメなのかよ?」
「いや。食べれば良いさ」
「…これ何の話だ?」
「特に意味のある話ではないな」
「何だそれ話逸らすにしても下手が過ぎるだろ」
「別に話を変えようという意図は無いが」
「あ…そう」
 変える気がない割りに露骨に話は変わっているように思うが、と言いかけて木柴はその言葉を飲み込んだ。よくは解らないが上手くまとまった貴冬の話を掘り下げたところで、よくて惚気話が出てくるだけだろうと考え直したからだ。
 そんな木柴の内心には思い至らず、貴冬は自分自身に溜息を吐く。
 腹が空いていて、目の前に好物の膳が有り、重ねてそれは自分が食べても良い物である。
 それなのに、まず膳に手を着けない。
 そういう癖が付いている。
 犬狼は上下関係が絶対だ。それは忠であれ孝であれだ。しかも、貴冬は族長の傍流である関係で幼い頃から自分を殺す事を厳しく躾けられた。自分自身の根底に我慢と忍耐が染み付いているのだ。
「食べれば良いのにな」
 里も血筋も関わりの無い今になっても、何故まず身を固めて我慢するのか、我ながら溜息ものだった。
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