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第3章:勉強

1.家庭教師

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 アンセラの意欲に応える形で、アリシェはほぼ毎日オークラント家へ足を運んでくれた。
「ではエグリス伯爵様は武伯なのですね」
「ええ。今はイジェス家、オーヴィス家と並んで三家だけなのですよ」
「イジェス家は聞いた事があります。お姉様が嫁がれたお家です!」
「ええそうですね。もう一つ軍事特権を与えられた家が、ユークリウス家なのですけれど、こちらは侯爵家ですから、武侯と呼ばれております」
 ただの勉強だけではなく、慣習や常識の教えも兼ねた世間話なども、アリシェはしてくれた。
 そして、その会話の間、アンセラは自然に笑ったり驚いたりと表情を変えている。決して、大げさに身振り手振りをしたり大きく表情を動かしたりはしていないが、心の動きに合わせた自然な表情を作っているのだ。
 初対面のアリシェの前で泣き出してしまった日の夜。アンセラはメイド達に向かって見苦しい真似をして申し訳なかったと謝罪した。主人が恥ずかしい真似をすれば、仕えている者達も恥をかく。逆もまた然りだが、その場合責任を負うのは主人だという事も彼女はきつく教えられていた。
 憔悴したアンセラの謝罪をメイド達は困惑しながら受け取った。
 そんな日から三日。
「基本的な考え方は確かにそうですが…」
 張り付いた微笑を始終浮かべるアンセラに気付いたアリシェが、その理由を問うた事が、転機の始まりだった。
「アンセラ様は、目の前で子供が転んで血を流しているのに微笑を浮かべる人をどう思われますか?」
「………怖いです」
「ですよね」
 まともな感覚の返事に安心して、アリシェは言葉を続ける。
「表情を変えない事の根底に有るのは、無用な混乱、心配を避けるためです。ですが、身内に不安を訴える事が何かいけない事ですか? こうして縁あってアンセラ様の家庭教師となった私に、アンセラ様が何を好まれるのか、嫌われるのか、そうした事を悟らせないのは必要な事ですか? 貴方の身の回りで共に生きる人々と、心を通わせる事は不要ですか?」
 アンセラはぱちぱちと数度瞬きをした。不意にぼやけた視界の焦点が合ったような気がしたのだ。
 解らない世界の事だから、何もかも言われるがままに頷いて、従って、何一つ考えては来なかった。
(そうだ…)
 だが、アリシェの言葉を聞けば、直ぐに解った。
 おかしい事だ。
(貴族でも平民でも変わらない。だって、そうよ…)
 アリシェの美しい紫の瞳を見つめ返す。
(お姉様の微笑みが、アリシェ様の微笑みが、どうして優しいのか解った気がする)
 この時から、アンセラは貼り付けた微笑ではなく、本当に笑えるようになった。
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