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「じゃあコレトー、お茶をお願い」
アンネリザは内から湧き出して止まらない楽しい気持ちで自分と共に帰宅した侍従にお茶を要求した。
既に初老を迎えたが、アンネリザに付き合うために必至に体力を保っている侍従のコレトーは、テンションの高い主人とは裏腹に淡々とした様子である。
「畏まりました」
国王との見合いから既に三日が経過していた。
王都の端とまではいかないが、中心部と呼ぶには外れた場所にあるアケチ家の王都屋敷。
彼女は、連日そこから出かけては、基本的に持ち主不明の曰く付き物件や廃墟へ通っていた。初日などは陽の落ちかかるところまで巡っていたが、流石に三日目ともなれば青空の内に帰ってきた。まぁ、既にめぼしい所は全て回り終えたからとも言えるが。
「あの得も言われぬ哀愁と静寂はやはり歩んできた歴史が刻み込まれているからよね。ねぇ知ってるかしら…あぁ私話したわね昨日も。ほら、憶えているでしょう? アレントの雛罌粟の花。美しい紫色。あの美しさもやはりアレントに有ればこそよね」
日当たりの良い居室でソファーに腰掛けてくつろぎながら、廃墟の様子を喜々として語る。
彼女が言っているアレントの廃墟というのは、今から二十年前に所有者を失った貴族屋敷である。本館に東西の廓と庭を持つ、立派な屋敷だったのだが、今から二十年前にその屋敷の所有者だった男性が死んだ時から不気味な曰くが付きまといだした。三百年の歴史を持つ買い手には事欠かないだろう物件であるのに、未だに次の所有者が現れない。今、王都の最恐スポットと名高い場所である。
そうしたおよそ一般的ではない場所を巡る王都観光から帰ってきた主人にお茶を淹れながら、主人の話は半分以上は聞き流すものと心得ているコレトーは、彼女の留守中に届いた文について告げる。
「本日正午過ぎ、王城より親書が届いたようです」
「あぁ、いやに美しい文箱があると思ったら、親書だったの」
本来であれば、国王からの親書などがアケチ家に届いたら、上を下への大騒ぎをするところだっただろう。だが、彼女達にとってそれは予期していたものであったので、落ち着いてお茶などを飲みつつ開封するに至っている。
彼女が見合いを終えた翌日。国王は全ての予定されていた相手との見合いを終えたのである。つまり、見合いの返答が一斉に各地の令嬢達に届いているというわけである。
「それにしても律儀な方よね、陛下も。今回のお見合いって、結局三百人くらいとお会いになったって伺ったけど」
丁寧な仕事が解る滑らかな表面の黒漆塗の文箱には、これまた丁寧な手織りの紅い紋様紐がかけられている。
「地味だけれど丁寧な仕事だわ。この文箱だけでも素晴らしい記念ね」
紐を解き、文箱を開ける。見合いの席でかいだのと同じ香りがした。真っ白な封筒に王紋の藍の封蝋。黒にも見紛う濃い青のインクで書かれた署名。
「これ、自筆かしらね? 整った美しい字だわ」
「さぁ…今上陛下の自筆は拝見したことがございませんので、なんとも」
「まぁ三百通自筆というのは現実的ではないわよね…王城の祐筆は流石、ということかしら。私もこんな美しい字が書きたいものだわ」
封蝋を開く。真っ白な封筒の中には、極淡く紅色に染まったカードが入っていた。
「………………」
引き抜いたカードに視線を落とすなり固まってしまったアンネリザに、コレトーが声を掛けようとした時だった。部屋の扉がノックされ、女中のカーシャの声が入室の許可を求める。
「どうぞ」
「入ります」
アンネリザに入室を許可され、キビキビとした動作でカーシャが入ってくる。アケチ家の王都屋敷で臨時に雇い入れている彼女は、時期を同じく王都に来ていた姉カゼリーナの屋敷から借り受けている女中である。もっとも、見た目通りに若い彼女は姉の嫁ぎ先であるミスノフ家に勤めてまだ二十日目だったのだが。
扉から数歩のところで立ち止まり、用件を告げる。
「荷造りはおおかた終了しております。ご出発は予定通りでよろしいでしょうか」
アケチ家は辺境領のさして余裕はない伯爵家である。一応王都に滞在用の屋敷を構えているとは言っても、人を常時、十全に配置する財力はない。そのため、今回の見合いのための諸々の出費は、家計をそれなりに痛めているのである。彼女は、長居は無用とばかりに、見合い予定日と前後二日の計五日間のみを滞在予定として計画し、行動していた。実際の見合いは予定より一日早く行われたので、見合い日から三日の今日こそが、王都滞在の最終日だったというわけだ。
「そう…そうだったわね。荷造りね。うん」
カーシャを見つめ、手元のカードに視線を落とし続ける。
「カーシャ。荷を解いて、私の礼装一式をもう一度出して頂戴」
「え…畏まりました」
疑問を返しそうになり、慌てた様子で頷く。そんなカーシャに自分で気が付いて改めたなら言うほどのことはないと胸の内で考えつつ、コレトーは主人の言葉にこそ疑問の声を投げかける。
「お嬢様?」
不思議そうに自分を見るコレトーに、アンネリザも不思議そうな顔を返してしまう。
「ねぇ、コレトー」
「はい」
「舞踏会って、何をするものだったかしら?」
「舞踏会ですか。ダンスをする社交の場、ではございませんか?」
「そうよねぇ…」
その質問の後に手元のカードを渡され、恐る恐るコレトーがそのカードを見る。そこには、アンネリザを明日の午後に催される王城の舞踏会に招待する旨が記されていた。
「………」
天井を見上げ、パチパチと数度瞬きをし、指で眉間をつまみ上げるように揉んで、もう一度カードへ視線を戻す。当然ながら、書いてあることに変化はなかった。
「…どうなさるおつもりですか?」
今にも震えだしそうな顔色で、コレトーはアンネリザを見つめる。二人の只ならぬ様子に、カーシャも部屋を出て行くタイミングを逃し、オロオロと視線を行き来させる。
「どうも、こうも、国王陛下から招待状を頂いて、断るなどという選択ができる訳もないじゃない」
アンネリザが深々と溜息を吐き、ぼそりと呟く。
「最悪だわ、私、奉納舞か祭音頭くらいしかできないのに…」
「ですから…再三、教養の習得は真剣になさってください、と申し上げておりましたものを………」
天を仰ぐ主人に、顔を覆う上司、はっきりとは会話の内容が聞こえない上に見たこともない反応をする二人にカーシャはついて行けない。貴族令嬢という者は、おしなべてダンスを習得しているものだ、という王都あたりの常識も状況を理解し辛くしていただろう。
そう、二人の反応には理由がある。
残念ながらアンネリザは、およそダンスというものを踊れない。基本の姿勢をとること位はできるが、それ以外はできないに等しい。教えていた家庭教師が彼女のあまりの上達の無さに匙を投げた程の、なんとも表現しがたいがくがくとした動作ができるだけなのである。
だが、そんなことを大っぴらに発表しているはずもないし、ほんの数日間しか付き合いのないカーシャが知るはずもない。まして、彼女にとって、貴族令嬢は王都の平民女性達憧れの的という認識なのだ。踊れない、などという事情が有るなどとは毛ほども考えられなかった。
「あぁ、御免なさいカーシャ。明日舞踏会に出ることになったから、出発は中止、明後日以降に延期よ。さっき言った通りに、お願いね」
困惑を顔に浮かべて佇むカーシャに声をかけ、退室を促した。
「はい。ご前下がります」
舞踏会と聞いて、カーシャは誇らしさを顔に浮かべながら下がっていった。彼女からすれば、念願だった女中職に就いた家の主人の妹が、王家主催の舞踏会に招待されたという慶事にいきあった喜ばしい瞬間である。
笑顔の少女が出て行った後、室内には沈黙が満ち、主従はそろって俯いた。
今日、この時まで、別にアンネリザがダンスを踊れないからといって、困る事など起こり得ないはずだった。なぜなら彼女は、伯爵令嬢とは言え地方領主の伯爵の六人姉妹の末娘であったから。
彼女が産まれた時。
アケチ家の長女タータミーナは既に二十七歳。十八の時に婿養子を迎え、長男オキノ、長女オノーラ、次女ミノレッタという三児に恵まれ、アケチ家の家督を継ぐことが確定していた。
次女アリエーナは二十五歳。社交界の華と持て囃された曾祖母の容色と教養を受け継ぎ、十七の時に辺境領の貧乏伯爵としては大いに破格の相手に嫁入りを決めていた。
三女コルテンタは二十一歳。容姿こそ父に似て地味だったが、次女と同様に深い教養を備えており、十八の時に、位こそ子爵だが王国全土に店舗を展開する商会の家へと嫁ついだ。
四女カゼリーナは十八歳。上の姉達に薫陶を受けた社交術で、自ら婚約者を見つけ、二ヶ月後には経済力のある同格の家へ嫁ぐことが決まっていた。
このように、年の離れた上四人の姉達の存在だけで、アケチ家は安泰と言って良かった。後継の不安もなく、領地経営も安定し、何かあった時には頼りになる家との繋がりもできていた。
そのため、当時七歳のシレーナと産まれたばかりのアンネリザには比較的のびのびとした教育が施された。当然教養の為の家庭教師は付けられたが、本人達が嫌がれば、無理にさせなくても良いという事になったのだ。もっとも、シレーナは姉達と同様に令嬢としての教養を立派に修めていくことになるのだが。
そうしたのびのびとした教育方針と、最悪一人くらい嫁がなくても良いや、という父親の甘さから、アンネリザは舞踏会というものには参加することなく、また参加する気もなく、過ごしてきた。
「急病での欠席と出席、どちらがマシだと思う?」
「欠席よりは出席の上、壁の花となっていただく方が、旦那様のためにもよろしいかと」
「まぁ、そうよね、それしかないわよね…」
「そもそも奉納舞はあれほど上手でいらっしゃるのに何故ダンスは踊れないのですか」
「解ってないわねコレトー。舞とダンスは別物よ。それに、私の舞が上手に見えると言うならそれはアケチの楽士達の腕がいいからよ。あぁ、山羊に乗って崖を登れと言われたら、どんな令嬢方よりも上手にやってのける自信があるのに」
「崖の王とかいうお嬢様の二つ名、絶対に他所様でバレないようになさってくださいね。普通居ませんよ。山羊に乗って崖登りする令嬢など」
妙な主張をするアンネリザに、溜息混じりにコレトーが忠告する。
サッカイ州の山岳地帯では珍しいことではないが、小柄な女性や子供は、山羊に乗って山、とりわけ崖のような斜面を持つ山を登ることがある。もちろん、平民の、という冠が付く。どれほど山羊乗りが盛んな地域であっても、貴族の、それも女性が、山羊に乗る話は聞かない。
ところがアンネリザは子供の頃、人の手を借りなければ跨ることもできない馬よりも、自分でも飛び乗れる山羊に心惹かれた。そのため、馬に乗れるようになる前に山羊に乗れるようになり、その山羊で崖を登ることさえやってのけ、領民の子供を中心に『崖の王』という呼び名で讃えられたのである。
「それくらい、いくら私だって弁えてるわよ。それに、最近は背も伸びちゃって、前みたいにはいかないから、崖の王は返上しないといけないかもって考えてるのよね」
「…然様でございますか」
コレトーはもはや溜息さえ出なかった。
アンネリザは内から湧き出して止まらない楽しい気持ちで自分と共に帰宅した侍従にお茶を要求した。
既に初老を迎えたが、アンネリザに付き合うために必至に体力を保っている侍従のコレトーは、テンションの高い主人とは裏腹に淡々とした様子である。
「畏まりました」
国王との見合いから既に三日が経過していた。
王都の端とまではいかないが、中心部と呼ぶには外れた場所にあるアケチ家の王都屋敷。
彼女は、連日そこから出かけては、基本的に持ち主不明の曰く付き物件や廃墟へ通っていた。初日などは陽の落ちかかるところまで巡っていたが、流石に三日目ともなれば青空の内に帰ってきた。まぁ、既にめぼしい所は全て回り終えたからとも言えるが。
「あの得も言われぬ哀愁と静寂はやはり歩んできた歴史が刻み込まれているからよね。ねぇ知ってるかしら…あぁ私話したわね昨日も。ほら、憶えているでしょう? アレントの雛罌粟の花。美しい紫色。あの美しさもやはりアレントに有ればこそよね」
日当たりの良い居室でソファーに腰掛けてくつろぎながら、廃墟の様子を喜々として語る。
彼女が言っているアレントの廃墟というのは、今から二十年前に所有者を失った貴族屋敷である。本館に東西の廓と庭を持つ、立派な屋敷だったのだが、今から二十年前にその屋敷の所有者だった男性が死んだ時から不気味な曰くが付きまといだした。三百年の歴史を持つ買い手には事欠かないだろう物件であるのに、未だに次の所有者が現れない。今、王都の最恐スポットと名高い場所である。
そうしたおよそ一般的ではない場所を巡る王都観光から帰ってきた主人にお茶を淹れながら、主人の話は半分以上は聞き流すものと心得ているコレトーは、彼女の留守中に届いた文について告げる。
「本日正午過ぎ、王城より親書が届いたようです」
「あぁ、いやに美しい文箱があると思ったら、親書だったの」
本来であれば、国王からの親書などがアケチ家に届いたら、上を下への大騒ぎをするところだっただろう。だが、彼女達にとってそれは予期していたものであったので、落ち着いてお茶などを飲みつつ開封するに至っている。
彼女が見合いを終えた翌日。国王は全ての予定されていた相手との見合いを終えたのである。つまり、見合いの返答が一斉に各地の令嬢達に届いているというわけである。
「それにしても律儀な方よね、陛下も。今回のお見合いって、結局三百人くらいとお会いになったって伺ったけど」
丁寧な仕事が解る滑らかな表面の黒漆塗の文箱には、これまた丁寧な手織りの紅い紋様紐がかけられている。
「地味だけれど丁寧な仕事だわ。この文箱だけでも素晴らしい記念ね」
紐を解き、文箱を開ける。見合いの席でかいだのと同じ香りがした。真っ白な封筒に王紋の藍の封蝋。黒にも見紛う濃い青のインクで書かれた署名。
「これ、自筆かしらね? 整った美しい字だわ」
「さぁ…今上陛下の自筆は拝見したことがございませんので、なんとも」
「まぁ三百通自筆というのは現実的ではないわよね…王城の祐筆は流石、ということかしら。私もこんな美しい字が書きたいものだわ」
封蝋を開く。真っ白な封筒の中には、極淡く紅色に染まったカードが入っていた。
「………………」
引き抜いたカードに視線を落とすなり固まってしまったアンネリザに、コレトーが声を掛けようとした時だった。部屋の扉がノックされ、女中のカーシャの声が入室の許可を求める。
「どうぞ」
「入ります」
アンネリザに入室を許可され、キビキビとした動作でカーシャが入ってくる。アケチ家の王都屋敷で臨時に雇い入れている彼女は、時期を同じく王都に来ていた姉カゼリーナの屋敷から借り受けている女中である。もっとも、見た目通りに若い彼女は姉の嫁ぎ先であるミスノフ家に勤めてまだ二十日目だったのだが。
扉から数歩のところで立ち止まり、用件を告げる。
「荷造りはおおかた終了しております。ご出発は予定通りでよろしいでしょうか」
アケチ家は辺境領のさして余裕はない伯爵家である。一応王都に滞在用の屋敷を構えているとは言っても、人を常時、十全に配置する財力はない。そのため、今回の見合いのための諸々の出費は、家計をそれなりに痛めているのである。彼女は、長居は無用とばかりに、見合い予定日と前後二日の計五日間のみを滞在予定として計画し、行動していた。実際の見合いは予定より一日早く行われたので、見合い日から三日の今日こそが、王都滞在の最終日だったというわけだ。
「そう…そうだったわね。荷造りね。うん」
カーシャを見つめ、手元のカードに視線を落とし続ける。
「カーシャ。荷を解いて、私の礼装一式をもう一度出して頂戴」
「え…畏まりました」
疑問を返しそうになり、慌てた様子で頷く。そんなカーシャに自分で気が付いて改めたなら言うほどのことはないと胸の内で考えつつ、コレトーは主人の言葉にこそ疑問の声を投げかける。
「お嬢様?」
不思議そうに自分を見るコレトーに、アンネリザも不思議そうな顔を返してしまう。
「ねぇ、コレトー」
「はい」
「舞踏会って、何をするものだったかしら?」
「舞踏会ですか。ダンスをする社交の場、ではございませんか?」
「そうよねぇ…」
その質問の後に手元のカードを渡され、恐る恐るコレトーがそのカードを見る。そこには、アンネリザを明日の午後に催される王城の舞踏会に招待する旨が記されていた。
「………」
天井を見上げ、パチパチと数度瞬きをし、指で眉間をつまみ上げるように揉んで、もう一度カードへ視線を戻す。当然ながら、書いてあることに変化はなかった。
「…どうなさるおつもりですか?」
今にも震えだしそうな顔色で、コレトーはアンネリザを見つめる。二人の只ならぬ様子に、カーシャも部屋を出て行くタイミングを逃し、オロオロと視線を行き来させる。
「どうも、こうも、国王陛下から招待状を頂いて、断るなどという選択ができる訳もないじゃない」
アンネリザが深々と溜息を吐き、ぼそりと呟く。
「最悪だわ、私、奉納舞か祭音頭くらいしかできないのに…」
「ですから…再三、教養の習得は真剣になさってください、と申し上げておりましたものを………」
天を仰ぐ主人に、顔を覆う上司、はっきりとは会話の内容が聞こえない上に見たこともない反応をする二人にカーシャはついて行けない。貴族令嬢という者は、おしなべてダンスを習得しているものだ、という王都あたりの常識も状況を理解し辛くしていただろう。
そう、二人の反応には理由がある。
残念ながらアンネリザは、およそダンスというものを踊れない。基本の姿勢をとること位はできるが、それ以外はできないに等しい。教えていた家庭教師が彼女のあまりの上達の無さに匙を投げた程の、なんとも表現しがたいがくがくとした動作ができるだけなのである。
だが、そんなことを大っぴらに発表しているはずもないし、ほんの数日間しか付き合いのないカーシャが知るはずもない。まして、彼女にとって、貴族令嬢は王都の平民女性達憧れの的という認識なのだ。踊れない、などという事情が有るなどとは毛ほども考えられなかった。
「あぁ、御免なさいカーシャ。明日舞踏会に出ることになったから、出発は中止、明後日以降に延期よ。さっき言った通りに、お願いね」
困惑を顔に浮かべて佇むカーシャに声をかけ、退室を促した。
「はい。ご前下がります」
舞踏会と聞いて、カーシャは誇らしさを顔に浮かべながら下がっていった。彼女からすれば、念願だった女中職に就いた家の主人の妹が、王家主催の舞踏会に招待されたという慶事にいきあった喜ばしい瞬間である。
笑顔の少女が出て行った後、室内には沈黙が満ち、主従はそろって俯いた。
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彼女が産まれた時。
アケチ家の長女タータミーナは既に二十七歳。十八の時に婿養子を迎え、長男オキノ、長女オノーラ、次女ミノレッタという三児に恵まれ、アケチ家の家督を継ぐことが確定していた。
次女アリエーナは二十五歳。社交界の華と持て囃された曾祖母の容色と教養を受け継ぎ、十七の時に辺境領の貧乏伯爵としては大いに破格の相手に嫁入りを決めていた。
三女コルテンタは二十一歳。容姿こそ父に似て地味だったが、次女と同様に深い教養を備えており、十八の時に、位こそ子爵だが王国全土に店舗を展開する商会の家へと嫁ついだ。
四女カゼリーナは十八歳。上の姉達に薫陶を受けた社交術で、自ら婚約者を見つけ、二ヶ月後には経済力のある同格の家へ嫁ぐことが決まっていた。
このように、年の離れた上四人の姉達の存在だけで、アケチ家は安泰と言って良かった。後継の不安もなく、領地経営も安定し、何かあった時には頼りになる家との繋がりもできていた。
そのため、当時七歳のシレーナと産まれたばかりのアンネリザには比較的のびのびとした教育が施された。当然教養の為の家庭教師は付けられたが、本人達が嫌がれば、無理にさせなくても良いという事になったのだ。もっとも、シレーナは姉達と同様に令嬢としての教養を立派に修めていくことになるのだが。
そうしたのびのびとした教育方針と、最悪一人くらい嫁がなくても良いや、という父親の甘さから、アンネリザは舞踏会というものには参加することなく、また参加する気もなく、過ごしてきた。
「急病での欠席と出席、どちらがマシだと思う?」
「欠席よりは出席の上、壁の花となっていただく方が、旦那様のためにもよろしいかと」
「まぁ、そうよね、それしかないわよね…」
「そもそも奉納舞はあれほど上手でいらっしゃるのに何故ダンスは踊れないのですか」
「解ってないわねコレトー。舞とダンスは別物よ。それに、私の舞が上手に見えると言うならそれはアケチの楽士達の腕がいいからよ。あぁ、山羊に乗って崖を登れと言われたら、どんな令嬢方よりも上手にやってのける自信があるのに」
「崖の王とかいうお嬢様の二つ名、絶対に他所様でバレないようになさってくださいね。普通居ませんよ。山羊に乗って崖登りする令嬢など」
妙な主張をするアンネリザに、溜息混じりにコレトーが忠告する。
サッカイ州の山岳地帯では珍しいことではないが、小柄な女性や子供は、山羊に乗って山、とりわけ崖のような斜面を持つ山を登ることがある。もちろん、平民の、という冠が付く。どれほど山羊乗りが盛んな地域であっても、貴族の、それも女性が、山羊に乗る話は聞かない。
ところがアンネリザは子供の頃、人の手を借りなければ跨ることもできない馬よりも、自分でも飛び乗れる山羊に心惹かれた。そのため、馬に乗れるようになる前に山羊に乗れるようになり、その山羊で崖を登ることさえやってのけ、領民の子供を中心に『崖の王』という呼び名で讃えられたのである。
「それくらい、いくら私だって弁えてるわよ。それに、最近は背も伸びちゃって、前みたいにはいかないから、崖の王は返上しないといけないかもって考えてるのよね」
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