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閑話:コーフェンの古城

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 精霊王が築城したと伝わるコーフェンの古城は、とても小さな城だ。
 というか実は、古城という呼び名をされているが、今の時代の感覚では城ですらない。かつて精霊王その人が居住したという伝承があるために城と呼ばれているが、いたって普通の、むしろ質素な埴生の家である。
 大人の男の腰を超えない程度の高さの塀に囲まれ、犬は喜びそうだが馬が駆けるには狭い程度の庭がある。囲いのほぼ中央に位置する建物は平屋で、一応それなりの部屋数はあるが、基本的に貴人が一人で住む事を想定したつくりになっている。場所はサッカイ州に隣接してはいるのだが、ヒツシ州内だ。
 そして、その古城には、今、レンフロの曾祖母の妹にあたる人物の一人娘が暮らしていた。
 かつて、ウェズロー公爵を名乗った母親の爵位を例外的に継ぎ、今ではたった独り、コーフェンの古城に暮らしている。
 ウェズロー・サラエ公爵。
 故ウェズロー公爵は、当時未婚の母であり、その娘であるサラエについては様々な憶測が飛び交った。それは、彼女が人間に対して期待を抱かなくなるには十分な悪意に満ち溢れたものであり、今独りで暮らす結果を生んだ。
 黒髪に黒い瞳を持ち、小麦色の肌で、異国情緒ある顔立ちをした、女城主。
 既に老境に踏み入った彼女は、日々を質素に暮らし、身の回りの事も全て自身で賄っている。腰は真っ直ぐで矍鑠としているが、よく陽に当たるためだろうか、肌には歳を素直に映した皺が目立つ。だが、どういう訳だか、髪だけは艶やかな黒髪を保っていた。
(良い空だわ)
 天気の良さに目を細めつつ気を好くし、庭に作っているハーブ畑から収穫をしていると、その耳に、遠くから駆けて来る蹄の音が届いた。
 ほんの僅かに丘になっているため、近付いて門から目をやれば、その姿はすぐに解る。荷馬車を一つ連れた旅馬車を後に、馬に乗った兵士と思しき人物が一人、駆けて来ている。
(そういえば、予定では今日だったかしら)
 公爵を継ぎはしたものの、金銭的に一切王家や他貴族を頼っていない彼女は、あまり多くの王族や貴族と親しくない。それでも、当代の国王とは、挨拶などそれなりにやり取りがあった。
(孫のような相手が初めて頼み事をしてきたと思ったら、意外な内容で、思わず了承したけれど)
 彼女は、個人としてレンフロの性格を好んでいるという事もあり、今回の頼みを快く受け入れた。だが、普段貴族と接する事の無い彼女は、勿論、アケチ伯爵も、その娘達の高名も知りはしない。
(こんな豪農の館にも劣る城を見たいだなんて、変わった娘さんだわね)
 サラエの姿に気付いた騎士は、かなり手前で減速し、下馬してから徒歩で近付いてきた。
 傍目には農婦にしか見えないサラエである、その外見的特徴を事前に聞いていなければ、きっと直前まで騎乗で乗り付け、そのまま馬上から声をかけてしまっただろう。先触れの騎士は、内心で疑問と困惑と安堵を綯交ぜにしつつも、顔は真面目なまま口上を告げた。
「事前に聞いてはいましたが、御覧の通りのあばら家ですので、もてなしも出来ません。それでも良ければどうぞお好きにお過ごしくださいと伝えてちょうだい」
「はっ!」
 礼を返して馬車へ戻る姿を見送り、馬車の動きがこちらに向かって止まらずに進む事までは確認する。
 だが、その後はすぐに収穫途中のハーブ畑へ戻り、作業を再開させた。
 馬の嘶きや人が複数居る事の騒がしさなどで、馬車が到着した事はすぐに解る。しかしながら、サラエにはもてなしをする気は無く、出迎えついても同様だ。ただ、門から人が入って来る事も、妨げはしない。
 自身の近くに人影が近付いた事で、初めてサラエは来客へ顔を向けた。
「本日は、お住まいを拝見するご許可を下さり、誠に有難く存じます」
 微笑みながら立礼をしている少女は動きやすそうなシャツとスカート姿で、足元も農作業に向いているようなブーツを履いている。丁寧な挨拶の割に、この場には則しているが、貴族令嬢らしさはあまり感じない格好が、不思議とよく似合っていた。
「構いませんよ。なんの事はないただのあばら家ですから、好きに出入りなさってくださいな」
 ちょうど収穫を終えたので、足元の土を払いつつ答える。姿勢を立てる際に自然と視界に入った少女は、キラキラと目を輝かせて笑っていた。
 一体全体この場所にどんな魅力を感じているのかは、さっぱり解らないが、楽しそうで何よりだと思う。サラエはハーブを乗せた大笊を手に館に向かって歩き出した。
 少女は、きょろきょろと庭の畑を見ており、特に付いて来る事はなかった。
(手紙にあった通りね)
 サラエにとっては、自分の生活の邪魔をされないのなら、本当に館の何処でも好きに出入りすれば良いと思っている。むしろ、一々あれを見ても良いか、こちらに入っても良いか、などと訊かれるのが迷惑だ。なので、何もしない自分を気にする事なく館の周りを散歩している少女には安堵した。
 扉を開け放した所にも、お邪魔しますと声を上げるが返事は待たずに入っていく。
 そして、一時間ほど経って、回り終えたのだろう。最後にはお礼をと包を置いて去って行った。
(陛下から聞いていたのかしら)
 包の中には、サラエが唯一取り寄せて食べている好物の干し果物が入っている。
(妙な子だったけれど…勘が良いのでしょうねぇ。それとも古書でも読んだのかしら)
 この城で、最も価値の有る場所が有るとすれば、それは建物ではなく、裏手の庭だ。かつて精霊王が妖精と時を過ごしたと伝わる場所がそこに当たる。
 もっとも、今となっては妖精を見る者すら稀な存在だ。楽しそうに庭を見ていた少女にしても、妖精が見えていた訳ではない。
(たまになら、見知らぬ風が吹くのも好いものね)
 サラエは微笑むと、夕飯を作るために動き出す。いつもと変わらぬ日々の営みを続けるために。

□休題
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