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クランド家の一室で、オルザヴェンは父であり、現副宰相であるワーフヴァスの視線に身を強ばらせていた。
アンネリザを見送ったあの日。
「その軽率さがお前に爵位を譲れぬ要因だ」
戻ったオルザヴェン溜息混じりにそう言ったクランド伯爵にして王城で副宰相は、今、無表情で縮こまる息子の姿を観察している。失態を取り返そうと躍起になっていたようだが、成果は芳しくないために、顔色を悪くして立っているのだ。その不首尾についてはしっかりと把握してる。
(潮時か…)
オルザヴェンだけではない。初めこそやる気を見せていた孫娘も、花の館から戻って以降、国王とアケチ家の姫が私的な文通を繰り返している事実にすっかり戦意喪失していた。
ワーフヴァスとしては、中央政治で力を持つ家から王后が生まれるのでなければ、悪くはない。
(問題は、アケチとアンスバッハが縁付いている事と生真面目という人物評しかなかったアケチ伯が、存外裏で動くのが得意な事だな…)
アケチ伯本人が聞いたら、顔を青くして何もしていないと否定しただろうが、ワーフヴァスの内心など知る由もない。よって、クランド家の主は、今まで孫娘を王后へ推すために傾けていた力を全てアケチ家への警戒に向けることを決めた。
「ふぅ…手を引くぞオルザヴェン。ドリミァを招き入れるよりはマシだ」
「はい」
ワーフヴァスの言葉に、オルザヴェンの肩から力が抜ける。その様子を見て、どうしても頼り無さを感じてしまう。
(アケチの次代は娘御だったか…さて、どのような人物なのか)
少なくとも中央で屈指の権力者が気にかけるような人物ではないと思うが、この場でその事実を彼に伝えられる人間は居なかった。
(孫娘の結婚式に王都へ来るか…ドリミァの動きへどのような手を打つか、見ものだな)
ミノレッタの結婚式はドリミァ王国一行の来訪とは十日程のズレがある。勿論、アケチ伯爵には何の裏も意図もない。ただミノレッタの嫁ぎ先であるアーレス家が営む商隊宿の本店と、懇意にしている神殿が、王都の外区にあったための結果だ。
そして、クランド家と同じ方針を、リンドブル家とカフス家も固めていた。アケチ伯にとってはとんでもない誤解であるが、それを晴らすどころか知る機会すら無い。全く身に覚えのない事で、中央政治の重要人物達から、要注意人物の筆頭にされてしまっていた。
一方その頃。
「どうしたね」
各家の方針とアケチ伯の実情を、最も正確に把握しているだろうジンライ家の老翁は手元の書類から顔を上げ、影を作っていた人物を見た。
「内容が、気になったので、盗み見、しようか、と、思いまして」
ミコトだった。
「堂々としたものだね。まぁ、別に隠しはしないから好きに見なさい」
ヤマトが読んでいたのは、アケチ伯宛に出した文の返事だ。
出した内容は、孫娘の結婚へのお祝いと、良い機会だから会って話でもしよう、という誘いだ。
返って来たのは、お礼と諾、という文。
「あら、おじいさまも、お会いになります、の?」
「末姫殿と連絡を取ったのかい?」
「はい。せっかく、王都にいらっしゃる、との、事でしたので。ジンライ家の手記の写しを、あれ、これ、と、用意してお待ちする事にしました」
「…気に入った相手にあれこれ教えたくなる気持ちは解るけど、ほどほどにね」
「気を付けます、わ」
「お二人が、アケチ家の方々に一目を置いているのは解りました。が、僕はどうしてここに呼ばれたんですかね?」
祖父と孫娘が楽しそうに微笑み合っていると間に、眉を寄せた青年が割って入った。
「それは、勿論、協力していただきたい事が、ある、からです、わ」
「ミコトがそういうので呼んだよ」
「………」
端的に表すと、
(おい、ジジィてめぇちょっと孫娘に甘すぎやしねぇか?)
と、いった空気を纏っている青年は、ミコトの叔父、つまりはヤマトの息子で、ムサシという。
「協力と言われたところで、できる事とできない事がありますが。どんな事なんです?」
「そう、大した事では、ありません、わ」
簡単には言葉を信じなかったムサシが言われた事は、確かに大した事ではなかった。だが、気は進まない。
「なんだってそんな事」
「まぁ、ちょっとした、保険、というやつです、ね」
「儂からも頼むよ」
「…良いでしょう。引き受けます」
ムサシは肩を竦めてから、頷いた。
「ありがとうございます。おじさま」
「良かった良かった」
この大した事ではない約束から十日後。
アケチ家の一行が王領内外区に到着した。
勿論、アケチ伯は、自分が都貴族の間でどんな風に噂されているかなど、知りはしない。いや、多少、アンネリザの事を噂されているのは理解していたのだが。その娘の立場を裏で画策したのが己、という事になっているとは、気付きようがなかった。
一行が到着した、といっても、外区に滞在するのはミノレッタとタータミーナだけだ。アケチ伯とオリエ、アンネリザ、それにタータミーナの長男でありゆくゆくはアケチ伯を継ぐ事になるオキノは、アケチ家の王都屋敷へ向かう。ちなみに、ミノレッタの父は諸般の事情で遅れているが、式の前々日には外区へ着く予定だ。
もっとも、相手方との挨拶をしてからになるので、王都屋敷へ直行する事になっているのはアンネリザだけだ。
「レナ姉様とキャス姉様も王都屋敷に来るはずだったわよね」
「はい。エリット家の奥様は明日到着のご予定ですが、ミスノフ家の奥様は既に入られているそうです」
「………記憶違いではないと思うのだけど、ミスノフ家の王都屋敷って、外区寄りで便利の良さそうな所に有ったわよね?」
「然様でございますね」
「どうしてわざわざアケチの王都屋敷にいらっしゃったのかしら、事前の清掃まで買って出られて…何だか、嫌な予感がするわ。ねぇ、コレトー。チェイスから、何か連絡は入っていないの?」
チェイスというのは、ミスノフ家に嫁いだカゼリーナの侍従である。
「特に文などは届いておりませんね」
「そう………ねぇ、屋敷に入る前にチェイスに会いたいわ。ほんの少し先んじて話をするだけで良いのだけど」
「解りました、では、馬車停めにチェイスに来てもらうようにしましょう」
「お願い」
呼び出されたチェイスは、何とも表現しがたい複雑な表情でアンネリザの前に立った。
「実は、奥様は、大奥様と喧嘩をなさいまして」
チェイスの言葉に、またなの、という言葉を飲み込んだのは、いつもの喧嘩ならば彼女がこんなに言い難そうにするとは思えなかったからだ。
チェイスの言う奥様は、カゼリーナ。そして、大奥様は、カゼリーナにとっての義母の事だ。
嫁姑の仲が上手くいかない、というのは、古今によくある話で、その例に漏れず、ミスノフ家の嫁姑も仲が良くなかった。正直に言えば、愚痴を書き連ねた文が届くのは日常茶飯事。人目が有っても時に口喧嘩をするほどで、実家や多くの姉を持つカゼリーナの家出も、一度や二度の話では無く、手足の指全てでも足りないほどだ。
「もしかして、その喧嘩の原因に、私が関係しているの?」
「はぁ、その…」
「私は気にしないから、はっきり言ってしまって」
「はい。実は大奥様がお嬢様の事を悪く仰った事にお怒りになって。今度ばかりは許せない、と叫んで…離縁督促状を旦那様に渡して出ていらっしゃったのです」
「は…」
すっかり令嬢らしさを身に着けたはずが、アンネリザは思わず口をあんぐりと開けてしまう。ただ、一般的な令嬢でも、今度ばかりは同じような反応をするだろう。
「離縁督促状って…冗談でしょう?」
「いえ、形式も条件もきっちりと整えて、すぐにでも役所に提出できる正式な物です」
離縁督促状というのは、離婚をしたい夫婦の内、どちらかが一方的に切り出す手札だ。互いの話し合いの上で離婚する際には必要無いそれは、役所に提出すると、直ちに離婚審判にかけられ、内容が正当であると認められれば、片方が同意していなくとも離婚が成立するのだ。
「でも、お義兄様に渡したのでしょう? という事は、お義兄様が提出しなければ離婚審判は始まらないわよね」
「いえ。正式な離縁督促状は提出しなければ罪に問われますので、今月中に奥様が取り下げの意思を示さない限り、離婚審判に移ります」
「私の悪口くらいでどうしてそんな事になるのっ…?!」
思わず叫んで顔を両手で覆う。積年の積もり積もったものが、一気に噴出したのだろうとは、解る。だが、そのきっかけが自分だという事実は、さすがのアンネリザにも重苦しく肩へ伸し掛ってきた。
「とにかく、キャス姉様に会って、話をしましょう! お姉様が取り下げれば良いのだから!」
何とかしなくては、という使命感と焦燥感に煽られながら、アンネリザはカゼリーナと話した。
いや、話そうとした。
「ああ、チェイスから聞いたのね。別に、アンが自分のせいだなんて思う必要はないのよ。私が自分で決めた事なんだから。もう、嫌になったのよ。ミスノフ家には居たくないの。あの方をお義母様と呼ぶのも嫌だし、夫にも愛想が尽きたの。勿論、今更小姑になってお義兄様をいじめようなんて気もサラサラ無いわよ。アケチの家で一部屋貰って余生を過ごしたいだけなのよ」
「余生だなんて仰る歳では無いでしょう」
「知っていて、アン。女の人生で子供を産めなくなったら、その先は余生なのですって、だから、端から子供を産めなかった私には、人生なんてないのよ」
「はぃ…?」
首を傾げて、なんですかそれ、と尋ねかけて、アンネリザは固まった。その白い頬が見る見る内に真っ赤に染まる。
「何ですかそれは!」
思わず怒鳴ったアンネリザに、カゼリーナは微笑んで首を横に振る。
「その程度の事で怒るものではないわよ、アン。あなた、仮にも王后になろうっていうのなら、こんな事、四方八方から言われるわよ。一々怒ってないで受け流す練習をなさい」
「こっ…!」
この程度の事なものですか。冗談じゃない。王后の件は誤解です。ずっとそんな風に言われていたのですか。どうして仰ってくださらなったのです。入り混じる感情が多すぎて、膨れた怒りが言葉を見失わせた。
そんなアンネリザを見て、カゼリーナはやはり微笑みを浮かべたまま続ける。
「解るでしょう? 帰りたくないの、もう、二度と」
カゼリーナの言葉に、今度こそ、アンネリザは言葉を失う。何度かの呼吸の後で、怒らせた肩を落とし、眉間は険しいままだが、顔色は白く戻り始めた。
「解りました。もう、私は何も言いません」
自分で眉間の皺を伸ばし、努めて笑顔を作って声を出す。
「王都で流行りの菓子店を知っているのです! 私、今からちょっと行って、色々買って参りますわ!」
「あら、良いわね」
「お茶の準備のためにコレトーを置いていきますから、チェイスを連れて行きますね。チェイス、お姉様好みのお菓子を選ぶのを手伝ってちょうだい」
「解ったわ」
「畏まりました」
宣言通り、コレトーを部屋に残し、アンネリザはチェイスを連れて菓子店に繰り出した。
アンネリザを見送ったあの日。
「その軽率さがお前に爵位を譲れぬ要因だ」
戻ったオルザヴェン溜息混じりにそう言ったクランド伯爵にして王城で副宰相は、今、無表情で縮こまる息子の姿を観察している。失態を取り返そうと躍起になっていたようだが、成果は芳しくないために、顔色を悪くして立っているのだ。その不首尾についてはしっかりと把握してる。
(潮時か…)
オルザヴェンだけではない。初めこそやる気を見せていた孫娘も、花の館から戻って以降、国王とアケチ家の姫が私的な文通を繰り返している事実にすっかり戦意喪失していた。
ワーフヴァスとしては、中央政治で力を持つ家から王后が生まれるのでなければ、悪くはない。
(問題は、アケチとアンスバッハが縁付いている事と生真面目という人物評しかなかったアケチ伯が、存外裏で動くのが得意な事だな…)
アケチ伯本人が聞いたら、顔を青くして何もしていないと否定しただろうが、ワーフヴァスの内心など知る由もない。よって、クランド家の主は、今まで孫娘を王后へ推すために傾けていた力を全てアケチ家への警戒に向けることを決めた。
「ふぅ…手を引くぞオルザヴェン。ドリミァを招き入れるよりはマシだ」
「はい」
ワーフヴァスの言葉に、オルザヴェンの肩から力が抜ける。その様子を見て、どうしても頼り無さを感じてしまう。
(アケチの次代は娘御だったか…さて、どのような人物なのか)
少なくとも中央で屈指の権力者が気にかけるような人物ではないと思うが、この場でその事実を彼に伝えられる人間は居なかった。
(孫娘の結婚式に王都へ来るか…ドリミァの動きへどのような手を打つか、見ものだな)
ミノレッタの結婚式はドリミァ王国一行の来訪とは十日程のズレがある。勿論、アケチ伯爵には何の裏も意図もない。ただミノレッタの嫁ぎ先であるアーレス家が営む商隊宿の本店と、懇意にしている神殿が、王都の外区にあったための結果だ。
そして、クランド家と同じ方針を、リンドブル家とカフス家も固めていた。アケチ伯にとってはとんでもない誤解であるが、それを晴らすどころか知る機会すら無い。全く身に覚えのない事で、中央政治の重要人物達から、要注意人物の筆頭にされてしまっていた。
一方その頃。
「どうしたね」
各家の方針とアケチ伯の実情を、最も正確に把握しているだろうジンライ家の老翁は手元の書類から顔を上げ、影を作っていた人物を見た。
「内容が、気になったので、盗み見、しようか、と、思いまして」
ミコトだった。
「堂々としたものだね。まぁ、別に隠しはしないから好きに見なさい」
ヤマトが読んでいたのは、アケチ伯宛に出した文の返事だ。
出した内容は、孫娘の結婚へのお祝いと、良い機会だから会って話でもしよう、という誘いだ。
返って来たのは、お礼と諾、という文。
「あら、おじいさまも、お会いになります、の?」
「末姫殿と連絡を取ったのかい?」
「はい。せっかく、王都にいらっしゃる、との、事でしたので。ジンライ家の手記の写しを、あれ、これ、と、用意してお待ちする事にしました」
「…気に入った相手にあれこれ教えたくなる気持ちは解るけど、ほどほどにね」
「気を付けます、わ」
「お二人が、アケチ家の方々に一目を置いているのは解りました。が、僕はどうしてここに呼ばれたんですかね?」
祖父と孫娘が楽しそうに微笑み合っていると間に、眉を寄せた青年が割って入った。
「それは、勿論、協力していただきたい事が、ある、からです、わ」
「ミコトがそういうので呼んだよ」
「………」
端的に表すと、
(おい、ジジィてめぇちょっと孫娘に甘すぎやしねぇか?)
と、いった空気を纏っている青年は、ミコトの叔父、つまりはヤマトの息子で、ムサシという。
「協力と言われたところで、できる事とできない事がありますが。どんな事なんです?」
「そう、大した事では、ありません、わ」
簡単には言葉を信じなかったムサシが言われた事は、確かに大した事ではなかった。だが、気は進まない。
「なんだってそんな事」
「まぁ、ちょっとした、保険、というやつです、ね」
「儂からも頼むよ」
「…良いでしょう。引き受けます」
ムサシは肩を竦めてから、頷いた。
「ありがとうございます。おじさま」
「良かった良かった」
この大した事ではない約束から十日後。
アケチ家の一行が王領内外区に到着した。
勿論、アケチ伯は、自分が都貴族の間でどんな風に噂されているかなど、知りはしない。いや、多少、アンネリザの事を噂されているのは理解していたのだが。その娘の立場を裏で画策したのが己、という事になっているとは、気付きようがなかった。
一行が到着した、といっても、外区に滞在するのはミノレッタとタータミーナだけだ。アケチ伯とオリエ、アンネリザ、それにタータミーナの長男でありゆくゆくはアケチ伯を継ぐ事になるオキノは、アケチ家の王都屋敷へ向かう。ちなみに、ミノレッタの父は諸般の事情で遅れているが、式の前々日には外区へ着く予定だ。
もっとも、相手方との挨拶をしてからになるので、王都屋敷へ直行する事になっているのはアンネリザだけだ。
「レナ姉様とキャス姉様も王都屋敷に来るはずだったわよね」
「はい。エリット家の奥様は明日到着のご予定ですが、ミスノフ家の奥様は既に入られているそうです」
「………記憶違いではないと思うのだけど、ミスノフ家の王都屋敷って、外区寄りで便利の良さそうな所に有ったわよね?」
「然様でございますね」
「どうしてわざわざアケチの王都屋敷にいらっしゃったのかしら、事前の清掃まで買って出られて…何だか、嫌な予感がするわ。ねぇ、コレトー。チェイスから、何か連絡は入っていないの?」
チェイスというのは、ミスノフ家に嫁いだカゼリーナの侍従である。
「特に文などは届いておりませんね」
「そう………ねぇ、屋敷に入る前にチェイスに会いたいわ。ほんの少し先んじて話をするだけで良いのだけど」
「解りました、では、馬車停めにチェイスに来てもらうようにしましょう」
「お願い」
呼び出されたチェイスは、何とも表現しがたい複雑な表情でアンネリザの前に立った。
「実は、奥様は、大奥様と喧嘩をなさいまして」
チェイスの言葉に、またなの、という言葉を飲み込んだのは、いつもの喧嘩ならば彼女がこんなに言い難そうにするとは思えなかったからだ。
チェイスの言う奥様は、カゼリーナ。そして、大奥様は、カゼリーナにとっての義母の事だ。
嫁姑の仲が上手くいかない、というのは、古今によくある話で、その例に漏れず、ミスノフ家の嫁姑も仲が良くなかった。正直に言えば、愚痴を書き連ねた文が届くのは日常茶飯事。人目が有っても時に口喧嘩をするほどで、実家や多くの姉を持つカゼリーナの家出も、一度や二度の話では無く、手足の指全てでも足りないほどだ。
「もしかして、その喧嘩の原因に、私が関係しているの?」
「はぁ、その…」
「私は気にしないから、はっきり言ってしまって」
「はい。実は大奥様がお嬢様の事を悪く仰った事にお怒りになって。今度ばかりは許せない、と叫んで…離縁督促状を旦那様に渡して出ていらっしゃったのです」
「は…」
すっかり令嬢らしさを身に着けたはずが、アンネリザは思わず口をあんぐりと開けてしまう。ただ、一般的な令嬢でも、今度ばかりは同じような反応をするだろう。
「離縁督促状って…冗談でしょう?」
「いえ、形式も条件もきっちりと整えて、すぐにでも役所に提出できる正式な物です」
離縁督促状というのは、離婚をしたい夫婦の内、どちらかが一方的に切り出す手札だ。互いの話し合いの上で離婚する際には必要無いそれは、役所に提出すると、直ちに離婚審判にかけられ、内容が正当であると認められれば、片方が同意していなくとも離婚が成立するのだ。
「でも、お義兄様に渡したのでしょう? という事は、お義兄様が提出しなければ離婚審判は始まらないわよね」
「いえ。正式な離縁督促状は提出しなければ罪に問われますので、今月中に奥様が取り下げの意思を示さない限り、離婚審判に移ります」
「私の悪口くらいでどうしてそんな事になるのっ…?!」
思わず叫んで顔を両手で覆う。積年の積もり積もったものが、一気に噴出したのだろうとは、解る。だが、そのきっかけが自分だという事実は、さすがのアンネリザにも重苦しく肩へ伸し掛ってきた。
「とにかく、キャス姉様に会って、話をしましょう! お姉様が取り下げれば良いのだから!」
何とかしなくては、という使命感と焦燥感に煽られながら、アンネリザはカゼリーナと話した。
いや、話そうとした。
「ああ、チェイスから聞いたのね。別に、アンが自分のせいだなんて思う必要はないのよ。私が自分で決めた事なんだから。もう、嫌になったのよ。ミスノフ家には居たくないの。あの方をお義母様と呼ぶのも嫌だし、夫にも愛想が尽きたの。勿論、今更小姑になってお義兄様をいじめようなんて気もサラサラ無いわよ。アケチの家で一部屋貰って余生を過ごしたいだけなのよ」
「余生だなんて仰る歳では無いでしょう」
「知っていて、アン。女の人生で子供を産めなくなったら、その先は余生なのですって、だから、端から子供を産めなかった私には、人生なんてないのよ」
「はぃ…?」
首を傾げて、なんですかそれ、と尋ねかけて、アンネリザは固まった。その白い頬が見る見る内に真っ赤に染まる。
「何ですかそれは!」
思わず怒鳴ったアンネリザに、カゼリーナは微笑んで首を横に振る。
「その程度の事で怒るものではないわよ、アン。あなた、仮にも王后になろうっていうのなら、こんな事、四方八方から言われるわよ。一々怒ってないで受け流す練習をなさい」
「こっ…!」
この程度の事なものですか。冗談じゃない。王后の件は誤解です。ずっとそんな風に言われていたのですか。どうして仰ってくださらなったのです。入り混じる感情が多すぎて、膨れた怒りが言葉を見失わせた。
そんなアンネリザを見て、カゼリーナはやはり微笑みを浮かべたまま続ける。
「解るでしょう? 帰りたくないの、もう、二度と」
カゼリーナの言葉に、今度こそ、アンネリザは言葉を失う。何度かの呼吸の後で、怒らせた肩を落とし、眉間は険しいままだが、顔色は白く戻り始めた。
「解りました。もう、私は何も言いません」
自分で眉間の皺を伸ばし、努めて笑顔を作って声を出す。
「王都で流行りの菓子店を知っているのです! 私、今からちょっと行って、色々買って参りますわ!」
「あら、良いわね」
「お茶の準備のためにコレトーを置いていきますから、チェイスを連れて行きますね。チェイス、お姉様好みのお菓子を選ぶのを手伝ってちょうだい」
「解ったわ」
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