嘘つきたちの晩酌

伊月千種

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1巻

1-1

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   優香ゆうか


 もうこよみの上では春で、例年なら桜が散っている時期だというのに、厚手のジャケットが必要なくらいに肌寒い日が続いていた。
 桜の花は五分咲きで、満開までにはまだ時間があるようだ。
 それでも三月らしく穏やかに晴れた土曜日に、鈴浦すずうら優香は朝からエプロンとマスクを身に着けて家中を徘徊はいかいしている。
 本当なら桜を見ながら川辺でお弁当を広げたり、桜並木の見えるカフェでゆっくり読書を楽しみたいのに、今日ばかりはそうも言っていられない。

「ねえ、これ誰が持ち込んだんだっけ?」

 マスクをあごまで下げ、バスルームに置かれていた防水の置き時計と浴槽用洗剤を手に、廊下を歩きながら大声を出す。すると、階段を上る途中だったらしい佐藤さとう征太せいたが、階段の手すりの上からひょいと顔をのぞかせた。

「どれ?」

 エプロンを身に着け、ついでに三角巾を被った給食当番のような格好が大柄な彼には不釣り合いで、優香は見るたびに笑いそうになるのを堪えていた。
 征太はその細い目をさらに細めて、優香の手の中にある時計を見る。

「うーん。とりあえず俺ではないと思うけど」

 言うとまた顔を引っ込めた。階段をのっそのっそと上って行く音がする。
 その音を聞きながら、優香はダイニング兼リビングへと続くドアを開けた。キッチンの方から何やら音楽とそれに合わせて鼻歌が聞こえてくる。中高生に人気の男性アイドルグループの曲だ。

千恵美ちえみ?」

 大きな声で呼びかけると、キッチンから明るい茶髪をポニーテールにした仙堂せんどう千恵美が「なあに?」と顔を出した。
 動きやすいラフな格好の上にエプロンをしていても、そのスタイルの良さは隠し切れない。
 千恵美はいかにもできる感じの美人だ。美人すぎて男性が尻込みしてしまうタイプとも言える。
 性格は外見通りサバサバした姉御肌なのだが、そのイメージに反してアイドルグループに熱を上げるほどミーハーだと初めて知った時は、意外すぎて笑ってしまった。

「顔、汚れてるよ」
「仕方ないでしょ、換気扇の掃除なんて久しぶりだから。あーあ、こんなことなら普段からこまめに掃除しておくんだった」

 大掃除の時に誰もが思うお約束を言いながら、千恵美が服の裾で顔をぞんざいに拭うと、頬についていた黒い跡が薄く広がった。

「で、なあに?」
「これ、誰のだっけ?」

 手にした時計を顔の高さに上げて尋ねると、千恵美は征太がしたように「うーん」とうなった。

「あたしの趣味とは違うかな。他の二人のでしょ」

 改めて手の中のシンプルな時計を見ると、確かに千恵美の趣味とは少しズレている。
 美大に通っている彼女は、服から小物に至るまでかなりのこだわりを持っている。この家の共有スペースのほとんどをコーディネイトしたのも千恵美だ。
 征太のものでも千恵美のものでもないとなると、この時計は優香かもう一人の同居人、紀藤きとう彰士しょうじのものだろう。

「大きいものはともかく、こういうのっていちいち覚えてらんないよね」

 持ち込んだ当初は忘れないだろうと思っていても、実際には二か月も経てば細かい共用品などは誰のものかわからなくなる。
 この家に四人で暮らしはじめてから二年。いろいろなことを忘れるには十分すぎる時間だ。

「それにしても彰士、おっそいなー。どこで油売ってるんだか」

 腰に手を当てた千恵美は、不機嫌そうにリビングから小さな庭へと続くガラス戸の外を見やる。
 今日は朝から四人揃って大掃除をする約束だった。
 それなのに昨日遅くまで飲んで帰ってきた彰士は、今朝はいつまで経っても起きてこない。
 結局征太に叩き起こされ、千恵美に説教された彰士は面倒くさそうな顔をして買い出しに出たきりだ。

「もう、あいつホントに自己中! あんなのと二年も同居できた自分を褒めてやりたいわ!」

 きっちりしている上、はっきりとものを言う性格の千恵美は、穏やかな征太や内に溜め込むタイプの優香とは違い、嫌なことやムカついたことなどを遠慮なく口にする。
 そのためマイペースで、ともすればわがままにも見える彰士とは一番衝突が多かった。

「ただいまー」

 玄関から気怠けだるげな声が聞こえてくる。噂の彰士のご帰還だ。

「おっそーい! ガムテープと飲み物買うのにどこまで行ってたのよ?」

 すかさず大声を出した千恵美は、どしどしと足音を立てて玄関へと歩いて行く。優香も時計を片手に千恵美の後に続いた。

「たまたま薩川さつかわと会ったんだよ。あいつ、まだ就職決まんねーって。可哀想じゃん? だからちょっと話聞いてやってたんだよ」

 廊下に出て玄関の方を見ると、彰士は悪びれた様子も見せずに玄関に座ってゆっくりと靴ひもを解いていた。
 背中を向けていた彼がこちらにその顔を向けた時、就職が決まってからまた茶色に染め直した彼の髪からヒラリと桜の花びらが数枚落ちた。
 切れ長の目に通った鼻筋、品のいい唇は普段は口角が下がっていることが多いが、今は機嫌良さそうに笑顔だ。
 女性の誰もがイケメンと認める彰士は、自分の整った顔について自覚があるのかないのか、普段はあまり愛想がない。

「薩川って市ノ瀬いちのせゼミにいた? それヤバいんじゃないの?」
「うん。でも留年するにしても学費払う金もないから、卒業するしかなかったらしくてさ」
「就職浪人かー。きついね」

 彰士の話に乗せられ千恵美は怒りを忘れたようだ。二人で雑談をはじめる。
 話題に入っていけない優香は、少し離れたところで居心地悪く二人を見つめた。
 だが話がしばらく終わりそうにないので、諦めてバスルームへ戻ることにする。まだバスルームの壁にこびり付いた水垢と戦わなければならない。
 二年続いたこのシェアハウス生活も、優香、彰士、征太の大学卒業と就職をきっかけに幕を閉じることになった。
 千恵美は優香たちと同じ年だが、四年に上がる時に美大の三年次に編入したため学生生活があと一年残っている。
 今日はこの家を完全に引き払う前の最後の大掃除だ。これが終われば明日には彰士と征太はそれぞれの会社の寮へ、千恵美は美大近くに住む友人のアパートへ引越し、優香は実家へ戻ることになっている。
 征太は週明けから会社の研修がはじまると言っていた。この一週間せっせと荷物を自分で運んでいたようで、あとは身一つで引越し完了だ。
 優香はもう自分の荷物をまとめ終わっており、今日の午後に引越し業者が来てすべて実家まで運んでくれる算段だ。
 千恵美はもうすでに引越しを完了し、この一週間は掃除のためこの家と友人のアパートを行き来する生活をしていた。
 彰士は明日の午前中、すべての荷物を引き払う。今日は四人ともこの家に泊まる予定だが、明日にはばらばらになってしまう。
 皆、黙々と引越しの準備をしているが、やはり二年も暮らしたこの家にはそれなりの愛着が湧いている。
 特に優香はこの生活を気に入っていたので、卒業、就職という転機で四人がばらばらになってしまうのが寂しくてたまらない。そしてやっと出られたと思っていた実家に戻るのも憂鬱ゆううつだった。
 同居をはじめた頃はどうなるかと思ったが、幸い四人の生活リズムと性格が上手く合致したため、この同居生活の間は互いの関係が大きく崩れることもなかった。
 今でもこの三人と暮らしはじめたのは本当に不思議な縁だと、優香は思う。特に彰士と同じ家に住むことになるなど、大学のサークル説明会で彼の姿を見た時の優香は思いもしなかった。
 ふうと短くため息をついて、湿っぽい気分のまま湿っぽいバスルームを見渡す。
 それから勢いよく息を吸い込むと腕まくりをしてゴム手袋を着け、穿いているズボンもひざまでまくり上げた。マスクをぴったりと鼻の上までカバーして、征太が買って来てくれた掃除用の保護メガネを装着する。
 一度も染めたことのない自慢の真っ黒なショートボブの髪は、くくれるほど長くないが前髪が邪魔なのでヘアバンドで上げる。
 完全装備でたわしを手に、ごしごしと力一杯バスルームの壁をこすっていると、千恵美との会話を終えたらしい彰士が顔をのぞかせた。

「優香、さっき……お前すげえ格好だな」

 優香の格好を見て口を歪ませた彰士は、優香が振り返って顔の横でたわしを構えて睨みつけると堪らず噴き出した。

「写真撮っていい? これ待ち受けにしてえ」

 言いながら笑い転げる彰士は、普段は愛想がないのに意外に笑いの沸点が低い。
 端整な顔を思い切りくしゃくしゃにして笑う彼を見て優香も微笑んだが、さすがに恥ずかしくなりたわしを置いてヘアバンドを外した。

「それで、何?」

 マスクのせいで声がくぐもる。息を切らせながらようやく身を起こした彰士が、目尻に溜まった涙を拭って優香を見た。

「いや、さっき何か用あったのかなあって。玄関のとこで何か言いたそうに立ってたから」

 言われて「ああ」と思い出す。
 自由気ままな彰士だが、実は人のことをよく見ている。こちらが意識していないような些細なことを指摘されて驚かされることが、この二年でよくあった。

「これ彰士のだっけ?」

 優香は洗面台の上にとりあえず置いていた時計を持ち上げた。彰士は時計をしばらく見つめて首を傾げている。

「覚えてねえなあ。誰もいらないんだったら俺が持ってくけど」
「じゃあ持ってって」

 時計を差し出すと、彰士は「おう」とそれを受け取った。受け渡す時に少し触れ合った指先を妙に意識してしまう。彰士はそんなこと何とも思っていないようにすぐ優香に背を向けた。
 時計を手にバスルームを離れようとした彰士が、思い出したように振り返る。

「俺ってどこ掃除すればいいの?」
「あ、じゃあリビングのガラス戸拭きお願い。内側も外側も網戸も全部綺麗にしてね」

 言うと「おっけー」と軽い返事が返ってきた。


「お昼にしようよー!」

 汗だくになりながらピカピカになったバスルームを満足げに見ていると、ちょうどリビングの方から千恵美の明るい声が聞こえてきた。

「はーい」

 マスクを取って大声で返すと狭いバスルームに声が反響する。
 ヘアバンドとゴム手袋、メガネを外し、まくり上げていたズボンの裾を下げ、洗面所で手を洗いながら鏡に映った自分の顔を見る。
 ヘアバンドのせいで前髪に変なくせがついている。いつもは隠れているひたいが丸見えだ。

「あーあ」

 ため息と一緒にバスルームを出ると、何かを抱えた征太と行き会った。

「デコ出し珍しいね」

 言われて反射的にひたいを前髪と一緒に押さえつけるように隠す。征太はニコリと目尻を下げた。

「ヘアバンドのあとがついちゃったの。そういうのは触れないでよ」

 恥ずかしくなって唇を突き出すと、征太は「可愛いのに」と笑った。
 大柄でどちらかと言えば地味な印象の征太は、その熊さんのようなのんびりした外見とは裏腹にさらりと女性を褒める時がある。意外と女性慣れしているのかもしれない。

「なにそれ?」

 誤魔化すように征太の手の中をのぞき込むと、そこには鮭をくわえた熊と大きな桂馬けいまの木彫りの置物があった。

「物置で見つけたんだ。誰だよ、こんなもん持ち込んだの……」

 呆れたようにつぶやく征太に苦笑しながら「そんなの彰士に決まってるじゃん」と言うと、彼も「まあね」とうなずく。

「早くー!」

 リビングから千恵美の苛立った声が聞こえてきた。

「おっと、女王様がお怒りだ。早く行かなきゃ」

 征太と二人で笑い合い、足早にリビングへ向かう。

「彰士、これお前のだろ?」

 リビングに入るや否や、征太が持っていた二つの置物を高く掲げた。すでにダイニングテーブルの前に座っていた彰士がぼんやりとそれを見上げ、「あ!」と声を上げる。

「そうそう、危ねえ。忘れるとこだった」

 立ち上がってその置物を受け取った彰士に二人で呆れた視線を送っていると、大きな鍋を抱えた千恵美がキッチンから現れた。
 途端、リビングにお腹の虫をくすぐるいい匂いが立ち込める。

「ラーメン?」

 匂いにつられたように征太がテーブルにつく。

「うん。インスタントラーメンに冷蔵庫にあった野菜とかぶち込んで、煮込みラーメンにしちゃった」

 たかが野菜を一緒に煮ただけのインスタントラーメンだが、食卓にドンと置かれた鍋の中身はいろどりが美しく食欲をそそる。
 千恵美は、派手な容姿からは想像できないくらいに家庭的な面がある。
 四人の中で一番料理上手なのは千恵美だ。その次が征太。優香はあまり料理が得意ではない。割と大人しい性格のせいか、家庭的だと思われがちなのが優香のコンプレックスの一つだった。だがそんな優香より酷いのが彰士だ。
 この家では週に一度、特別な理由がない限り四人で揃って夕飯を食べるというルールがあった。
 同居人同士のすれ違い防止と、家の雑事について定期的に話し合う場が必要だったからだ。
 その際の食事の準備は、最初は四人の持ち回りにしようと言っていたのだが、優香と彰士の料理オンチのせいで、結局千恵美と征太が二人で分担することになった。
 その代わり、優香と彰士は掃除当番を二人より多く担当していた。

「いただきまーす」

 四人で座って手を合わせると、一斉に鍋の中をつつきはじめる。
 初めの頃は皿に取り分けてから並べていた食事も、いつの間にか大皿や鍋からそれぞれ直接取るようになった。これも二年という時間を経て四人の間に遠慮がなくなった証拠だろう。

「あ、それ彰士のオブジェ? まだ捨ててなかったの?」

 テーブルの脇に置かれた置物を見て千恵美が笑うと、彰士は不機嫌そうに唇を突き出した。

「捨てるかよ。俺の高校の時の思い出の品なんだから」
「何か特別な思い出があるの?」

 優香が興味をそそられて尋ねると、彰士は得意げに口を開いた。

「高校の修学旅行の自分へのお土産」

 なんだ、とまたしても呆れて優香が口をつぐむと、征太もため息交じりに彰士を見た。

「そんなもん、わざわざ持って来ないで実家に置いとけよ」
「なーんだよ。この殺風景なリビングを飾り立ててやろうと気を利かして持ってきてやったんだろ?」
「で、それを見つけたあたしが、そんなセンスのないもん飾るなって怒ったのよ。確か引越し初日に」

 千恵美がすかさず言を継ぐ。二人が言い合っている光景が目に浮かぶようで、優香は思わず噴き出した。

「それにしても二年なんてあっという間よね。最初はどうなることかと思ったけど意外と楽しかったし、学生時代のいい思い出って感じだったわ」

 千恵美が感慨深げに言うと、征太は恨めしげな目を彼女に向ける。

「千恵美は編入組だからまだあと一年残ってるだろ。就職も決まってるし、この一年はぱあっと遊べるなあ」
「この一年が大変なのよ。卒業制作も本格的にはじめなきゃだし、教授の講演会のアシスタントのバイトとかで地方について行ったり、卒制以外の制作発表会なんかもエントリーさせられて、忙しいのなんのって……」

 眉間にしわを寄せながら話す千恵美は、しかしどこか楽しそうだ。几帳面な彼女は予定がしっかり詰まっている状態が好きらしく、忙しければ忙しいほど生き生きとしている。
 周りもそんな彼女を頼りにしていて、編入前に通っていた大学でもバイトとして教授や講師のアシスタントをよくやっていた。

「優等生は大変だねー」

 彰士がつまらなそうにつぶやいて麺をすする。

「この前の送り出し合宿の時もバイトだったし、本当に忙しいんだね。あの時は千恵美がいなくて残念だったなあ。あの合宿が最後だったのに」

 毎年四年生が卒業する直前に行われるサークル合宿は、送り出し合宿と呼ばれている。
 優香がため息をつくと、千恵美も眉尻を下げた。

「ほんと、あれは痛かったわー。合宿すっごく楽しみにしてたのに……」

 優香、彰士、征太はそれぞれS大、C大、H大に通っていた。この三大学は歩いていけるほどの距離にあるため交流が盛んで、三大学を中心としたインカレサークルも多く存在する。


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