嘘つきたちの晩酌

伊月千種

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1巻

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 日が傾きはじめた頃ようやく家の掃除を終えると、千恵美の一声で夕飯は出前を頼むことになった。千恵美はそれぞれの注文を聞くとスマホを取り出し、最寄りの定食屋に電話をかける。
 その手つきは慣れたものだ。行動の早い彼女は仲間内の飲み会などでも幹事を任されることが多い。

「ねえ、どうせ冷蔵庫に入ってるお酒だけじゃ足りないし、今のうちに誰か買い出しに行ってよ」

 電話を切ると千恵美が三人を振り返った。彰士がすかさず唇を突き出す。

「何でお前は行かない前提なんだよ」
「あたしはこれから冷蔵庫の最後の残りでサラダを作るのよ」

 睨み合った二人の視線が横に立つ征太へと移る。征太は苦笑いしながら頭をかいた。

「俺、もうちょっと壁のネジ穴補修するつもりだったんだけど。彰士が代わりにやってくれるなら買い出しでもいいよ」

 彰士は頭の中で買い出しとネジ穴補修を天秤にかけたようだ。微妙な顔をしている。どちらも嫌らしい。

「じゃあ私が行くよ。やることないし」

 不機嫌そうな彰士に気を使い優香が手を上げると、彰士はため息をついた。

「いい。俺行く。四人分の酒なんて重すぎるだろ。それにお前、あんまり酒知らないし」

 面倒くさいことが嫌いな彰士だが、こういうところは意外にフェミニストだ。文句を言いつつも結局は引き受けてくれる。

「二人で行ってくれば?」

 千恵美に言われ、優香はすでに歩き出していた彰士の背中を慌てて追ったが、「どうせ荷物持つのは俺だし、一人で十分」とそっけなく返されてしまう。

「ごめん、彰士。ありがとう」

 背中に声をかけると振り返りもせずにヒラヒラと手を振り、彰士はリビングを出て行く。

「じゃ、俺はネジ穴だな。二人の部屋のも埋めとくよ」

 彰士に続いて征太がリビングを出ると、千恵美が腕まくりした。

「さあて。さっさとサラダ作っちゃおう」

 一人だけ手持ち無沙汰になってしまった優香は、キッチンに向かう千恵美に何となく続く。

「何か手伝うことある?」
「そうね。じゃあ野菜洗って」
「オッケー」

 言われた通りに野菜を取り出そうと冷蔵庫を開けると、ほぼ空のその箱の中には数本の缶ビール。彰士が好きな、優香には苦すぎるメーカーだ。
 横から千恵美の手が伸びて、残り少ないベーコンをさらった。

「うーん……」

 冷蔵庫から取り出した野菜を流水で洗いながら、知らず知らずのうちにうなった優香に千恵美が振り返る。

「何? 何か言った?」

 千恵美の視線を受けて、優香はまたうなりながら天井を見上げる。

「あのさ、私って実は彰士に嫌われてたりするのかな?」

 思い切ってそう尋ねてみると、千恵美は眉根を寄せて持っていた包丁をまな板の上に勢いよく置いた。

「は? はあ? 何、急に? なんで? どう考えたらそう思うわけ?」

 背を向けていたはずの彼女は、今や完全に優香の方に向き直っている。

「彰士ってね、私と二人きりになるのを避けてるような気がするんだよね」
「そう? 今日の午後だって玄関のとこで二人で話してたでしょ?」
「うん。でもそういう一瞬じゃなくて、なんていうか……。三十分とか一時間とか割と長い単位で二人きりになったことが今までほとんどなくて」

 そうなのだ。二年も同じ家に暮らしていたにもかかわらず、優香は彰士と二人きりになる時間がほとんどなかった。
 買い出しに二人で行ったこともない。リビングに優香がいる時は、千恵美か征太が一緒じゃなければ彰士はその場に留まらなかった。
 寝るには早い時間帯に家の中で二人きりになると、彰士は二階の自室にこもるか、どこかへフラリと出かけてしまっていた。

「えー? そう? 全然気づかなかった」

 千恵美が驚きに目を丸くする。あからさまに避けられていたわけではなかったし、優香と接する時の態度はあくまで普通だったので、傍目から見るとわからなかったかもしれない。

「むしろあいつって優香に対しては過保護だと思ってたけど。特別扱い、みたいな……」

 ついさっき同じことを言われたのを思い出し優香が笑うと、千恵美が首を傾げた。

「さっき征太にも同じようなこと言われたの。でも私が特別扱いってことはないよ。むしろ仲がいいのは千恵美でしょ。サークルでも二人が付き合ってるっていう噂はずっとあったし」

 並んで立つと美男美女でいかにもお似合いの二人だ。
 普段は女子をあまり寄せ付けない雰囲気の彰士が、千恵美に対してはフランクに言いたいことをぶつける上、途中から同じ家に住みはじめたとなればそんな噂が出るのも仕方ない。
 美男美女というだけでなく、彰士と千恵美はどこか似ていた。自分の思ったことを素直に表現する性格や、どこにいても目立つ容姿。
 どんなに大人数でいても彰士と千恵美だけはすぐに見つけられる。まるで彼らの周りだけがキラキラした膜に覆われているようなのだ。
 優香は、よくサークルの女の子たちに二人の仲について根掘り葉掘り聞かれていた。
 そしてそういう子たちと話していると、話題はだんだん千恵美に対するやっかみになっていくのが定番だった。曰く、「彼女でもないのに彼女づらしてる感じ」とか「仲良くケンカすることで他の女を牽制してるみたい」などだ。

「ああ、そんな噂もあったね。気になるならあたしか彰士に直接聞きにくればいいのに、ほとんど聞いてくる子いなかったんだよね。……でもあたしの場合、彰士に限らずいろんな噂があったでしょ?」

 その容姿と白黒はっきりしている性格から、千恵美はあまり女子受けするタイプではない。サークルの女子の間では千恵美に関する悪意ある噂も広まっていた。
 千恵美が彰士と同じ大学の法学部にいた頃は、成績も良く、教授からも可愛がられていたことをねたまれ、成績やコネ作りのために枕営業しているなんて噂もあったぐらいだ。

「酷いよね、あんな根も葉もない噂」

 そんなことを千恵美がするわけがない。千恵美は今時珍しいぐらいに清廉潔白なのだ。
 最初は馬鹿正直に千恵美を擁護ようごしていたが、いくら優香一人が頑張ったところでそんな噂が消えることもない。
 千恵美自身もそんな連中を鼻で笑って相手にしていなかったので、優香も途中から「本人に聞いてみれば?」と流すことにしていた。
 千恵美が「うーん」とうなったのにつられて見ると、彼女はパッと顔を上げて苦笑した。

「それにしてもなーんで彰士がモテるかなー。この四年間でそれが最大の謎だったわ」

 腕を組み本気で悩んでいる千恵美の様子が何だかおかしい。

「まあ顔がいいのは認めるけどね」

 そう付け足すようにつぶやき、チラリと優香の顔を見たかと思うと、千恵美は置いていた包丁を手に取った。
 そしてベーコンに向き直り、止めていた作業を再開する。

「優香は? 彰士みたいなのはどう?」

 投げかけられた質問に優香は少しの間黙り込んだ。

「どうって?」

 千恵美の背中に問い返しながら、もう一つのまな板に手を伸ばす。洗い終わったキュウリをぎこちない手つきで薄切りにしはじめた。
 千恵美がトントンとリズムよくベーコンを切っている音を聞きながら、実家に帰ったら少しは母親から料理を習おうかな、とチラリと考える。

「男としてって意味。どう思ってるのかなって。タイプじゃない?」

 何かを迷うように続けた千恵美に、なぜ今になってそんなことを聞くのだろうかと率直な疑問が湧いた。
 一緒に住みはじめて二年。知り合ってからはもっと長いが、千恵美と恋愛の話をしたのは数えるほどだ。

「男として……」

 千恵美の言葉を反芻はんすうすると、彼女は深い声で「うん」と答えた。
 今まで千恵美は、二人きりの時は避けるかのように恋愛の話題は振ってこなかった。
 そういう千恵美との関係は優香にとって心地いいものだった。
 決してべたべたしてこない、他の女子との付き合いよりもずっとさっぱりとした、それでいて互いを信頼し合っている関係。
 互いのすべてを知っているわけではないけれど、親友と言われれば千恵美の顔を一番に思い出すような、ちょうどいい距離感の友人。

「私は、別に……」

 どうして今さら、とどぎまぎしながら曖昧あいまいに答える。
 同時に、千恵美はどうなのだろうかと頭の隅で考えた。口ではあんなことを言っているが、彰士のことを本当に恋愛対象として見ていないのだろうか。

「タイプじゃない? じゃあどんな人がタイプ?」

 千恵美はまるで重要なことを確認するかのような口ぶりだ。

「タイプって……。何でそんなこと聞くの? 今まで一度も聞いてこなかったじゃん」

 誤魔化すように問い返すと、千恵美はことのほか明るく笑った。

「だからよ。最後ぐらい女子らしく恋バナしようっていうね。記念じゃん。じゃあ初恋! 優香の初恋っていつ? どんな相手?」

 さらに優香に追い打ちをかけるような質問だ。「えー」と冗談交じりの呆れた声を上げながらも、優香の脳裏に制服姿の少年の姿がよぎる。
 雨の中、傘もささずにこちらをジッと見つめる少年。
 そぼ濡れた髪。紅潮した頬。寒いのか唇を少し震わせ、どこか憂いを帯びた表情をしていた。
 あれは何年前のことだったかな。
 まな板の上にまっすぐ落とした包丁の刃が、タンと軽快な音を立てる。薄く切ったキュウリがパラリとまな板の上に落ちる。
 優香のまぶたの裏に強烈に焼き付いているあの光景。あの時は気づかなかったけれど、たぶんあれが優香の「初恋」だ。
 あの時の……

「優香、このピアスって優香の? 部屋に落ちてたけど」

 急に聞こえた大きな声に思考の底から呼び戻され、優香はハッとした。振り向くと、キッチンの入り口で征太が不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。


「何これ。ビールとカクテルばっかり。酒飲みはじめたばっかの女子かっつーの」

 夕飯の後片付けを素早く終わらせた千恵美が、彰士が買い出しに行った袋の中身を見て不満そうな声を出す。

「というか、どちらかと言えば優香の好みばっかり?」

 同じく袋をのぞき込んだ征太が愉快そうに彰士を見る。千恵美の手によってテーブルに広げられたのは、確かに優香の好きなカクテルばかりだ。
 しかし彰士はフッと不敵な笑みを浮かべリビングを出ると、すぐに何かを手にして戻ってきた。

「この前手に入れた俺の秘蔵の酒。仕方ねえからこれも開けてやるよ。本当は一人で飲もうと思って大事に取ってたんだけどなー」

 得意げに彰士がテーブルに置いた瓶のラベルには、やたら達筆な字で銘柄と産地が書かれている。

「おお。これ一回飲んだことある。旨いよね」
「こういうお酒を一人で飲もうとするとか、ないでしょ」

 優香はカクテルとビール以外あまり飲まないのでわからないが、二人は知っているようだ。千恵美と征太は顔を見合わせると悪戯いたずらっぽく笑う。

「じゃあ俺も」
「それじゃ、あたしも」

 言いながら征太と千恵美がそれぞれ動き出す。

「あ、それお酒だったの? さっきから何なのか気になってたんだよね」

 征太がリビングの隅に置かれていた箱を持ち上げるのを見て、優香が言う。すると、征太は箱を開けながらうなずいた。

「焼酎ね。ちょっと前に実家から持ってきてたんだけど忘れててさ。昨日クローゼットで見つけたんだ」
「あたしはこれ!」

 明るい声と共に、キッチンから千恵美が戻ってくる。彼女の手には四人分のグラスとワイン。

「キッチンに隠してるとか、アル中の主婦かよ」

 戻ってきた千恵美に彰士が笑いながら言う。

「うるさいわね。隠してたんじゃなくて、今日のために前もって買っておいたのよ」
「しかしこれって、ちょっとチャンポンしすぎじゃないか? 明日二日酔いになりそうだな」
「なったらなったでいいでしょ」

 三人がそれぞれ手にした酒を見回し、優香は目をパチクリした。

「えー。みんな、それぞれお酒持参? 私、何もないよ」
「いいんだよ。お前、どうせカクテルかビールしか飲まないだろ」

 彰士はそう言って笑うと一番に席に着く。

「じゃあ、とりあえずビールで乾杯?」

 千恵美の一声で全員席に着くと、そのまま彼女の音頭で乾杯した。
 四人同時に缶ビールに口をつける。独特の苦みに続いて後を引かないさっぱりとした口触りが広がり、優香は思わずプハッと息をついた。他の三人も同じような反応をしている。

「あー、一仕事終えたあとの一口目って最高」
「千恵美、親父くさい」
「こればっかりはそう言われても仕方ないわー」

 四人声を揃えて笑う。今日が最後だなんて思えないほどいつも通りの雰囲気だ。

「そういえば、一緒に住むっていう話が最初に出たのって飲み会の時だったよな」

 しばらく雑談をしていると、征太が懐かしむようにそう言った。彼は、テーブルに広げられたおつまみの中にあったさきいかの袋を開けている。

「そうそう、サークルの飲み会。私は彰士とも征太ともあの時初めて話したんだよね。サークルで何回か顔は見てたけど」

 優香が言うと、征太が「そうだっけ?」と首を傾げた。
 優香たちが所属していたのは三つの大学を中心としたインカレサークルだったために人数が多い。顔と名前は知っていても話したことはないというサークル仲間が大勢いた。

「冷静に考えると、ほぼ何も知らない男との同居を決めるってすごい度胸だな、お前」

 彰士がテーブルに頬杖をついて、呆れたような感心したような声を出す。

「だって千恵美がよく知ってたみたいだったから」

 言い訳するように答えると、「ふーん」とつまらなそうな返事が返ってきた。

「まあ実際、あの時はその場のノリっていうか、ホントに一緒に住むことになるなんて思ってなかったけどね」
「言い出しっぺがよく言うよ」

 千恵美に彰士が野次を飛ばし、征太が「間違いない」と噴き出した。
 大学二年時にあったサークルの飲み会で、たまたま同じテーブルについた優香たち四人は意気投合して大いに盛り上がった。他のテーブルが席替えを繰り返す中、優香たちはずっと同じテーブルで話し続けたほどだ。
 そして酒の勢いで一緒に住もうと言い出した千恵美に、全員が賛同したのだ。しかし優香を含め、その場の誰もがその計画をただのノリだと思っていたはずだった。
 その後、千恵美から本当に一緒に住まないかと誘われ、酷く驚いたことを優香は今でも覚えている。

「あの夜はあたしも本気じゃなかったわよ。でも引越したかったのはホントだったから、いろいろ物件を見てたの。そしたら一人で住むよりも、数人でシェアした方が広いところを安く借りられるし、学生向けのシェアハウスもたくさんあるってことに気づいたのよ」

 そしてシェアハウスを見ているうちにその気になってしまい、試しに優香に声をかけたらしい。それは早く実家を出たいと思っていた優香には渡りに船だった。

「でも、一応のつもりで声かけた彰士や征太までオッケー出すなんて驚いたけどね」

 いくら学生向けに格安にしてくれているとはいえ、新しい場所に移るのにはお金がかかるものだ。それなのに学生である四人が全員引越しを承諾するというのは奇跡に近い。

「俺は全部計算したよ。ここの家賃と敷金礼金合わせた額とか、前のアパートの家賃とか。あとは大学とかバイト先への交通費なんかもいろいろ比べて、こっちのが安いってなったからさ」

 征太がさきいかを口に挟んだまま言うと、彰士が茶々を入れる。

「そういうとこ細かいよな」
「堅実って言ってくれよ」

 征太が不服そうに彰士を見た。

「ところで千恵美は何で引越したかったの?」

 優香は実家を出るために同居を承諾したが、千恵美が引越ししたかった理由は聞いたことがない。それに思い当たって優香が尋ねると、千恵美は手の中でピーナッツをもてあそびながら天井に目をやった。


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