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第5話 二人きりの夜 ③

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「腕枕をして下さい」

 ベッドに入るなり颯也が言った。

「えっ、それは取説には書いてなかったけど?」
「腕枕は添い寝の常識なので、姉も敢えて書かなかったのかもしれません」

「そ、そうなのか。そんな常識が……知らなかった」
 いきなり先制パンチを食らった気がした。先ほど彼が言っていた『抱き合って寝る』ということが必然性を帯びてきた。
「これで、いいのかな?」

 颯也の頭の下に腕を入れると身体が密着して、ちょうど抱き合って寝る体勢になった。
 今後、毎晩これが続くのかと思うといささかうんざりだった。ふと、彼のすぐ上の姉・真凛の言葉を思い出した。

『きっと、うんざりすると思うわ』

 義務と感じればそう思うのは当然かもしれない。しかし、これが愛情に基づくものとなればそうではなくなるのだろう。まさに、颯也の姉たちのように。彼女らは深い愛情と喜びを以って小さな頃から可愛い弟を抱いて眠った。

 だが、俺には無理だ。自由気ままな一人暮らしの居住空間に取扱説明書付きで託されたお荷物に、愛と喜びを以って奉仕できるか否かなど問うまでもない。

「では真田さん、おやすみなさい」

 颯也は俺の二の腕に頭を乗せ、目を閉じた。

「おやすみ」

 ベッドの中で恋人そっくりな顔が間近にあった。ほんの数センチ不用意に頭を動かそうものなら唇が触れ合いかねない。そのようなミスは最大限の注意を払って避けなければならない。
 あり得ないような緊張感に包まれて俺も目を瞑った。
 こんな状態で熟睡は、無理だ。


「あのォ、何かお話をして下さい」

 程なくして、おずおずと颯也が言った。

「眠れないの?」
「慣れない環境のせいか……」
「えっ、あぁ、そうだった」

 マジかよ! と続けたい言葉を呑み込んで俺は取扱説明書にあった文言を思い出した。

『寝付けない時は物語を聞かせること』

「えーと、じゃあ、昔々ある所に……って、こんなのでいいの?」

 物語といえば、昔話。紋切り型の出だししか思いつかない。

「お話なら何でもいいのです」

「そうか……」
 何でも良いとのお墨付きを得たので適当に喋ろう。
「昔々、ある所に貧乏な親子がいました。父親は長年の重労働で身体を壊し、病の床に臥せっていました。そんな父親を娘が献身的に看病していました。
『おとっつあん、お粥ができたわよ』
『すまないな。いつも迷惑かけて』
『それは云わない約束でしょう』――」

「そうですか。わざわざ約束までしていたんですね」

 静かに聴いていた颯也が突然相槌を打った。

「……あのね、聞き流していいから」

 いちいち真に受けるほどの話でもない。

「この親子が他にもどんな約束をしていたのか興味があります」

 口から出まかせの適当な話にそんな詳細な設定などありはしない。

「はいはい。良い子は黙って聞いてね」

 そう言うと颯也は静かになった。どうやら彼は一応良い子でありたいらしい。

 やがて、寝息が聞こえてきた。



「真田さん、真田さん」

 夜中、寝入りばなを起こされた。
 即興で話を作って聞かせるという普段使わない分野の脳をフル稼働させた所為で変に覚醒して、すんなりと睡眠モードに入って行けず、その上、二の腕には颯也の頭が乗っていることもあって寝返りもできない窮屈さの中、それでもようやく眠りかけていた矢先だった。

「ん……?」
 半開きの俺の目に映ったのは、豆球の薄明かりの中で麗羅とおぼしき顔が間近に迫って来るところだった。一瞬、キスをされるのかと思い、俺は反射的に首を振った。
「寝かせろよ」

 キスより眠りの方が何倍も魅力的だった。俺は再び目を閉じた。

「真田さん、トイレに連れて行って下さい」

 揺り動かされながら、俺ははっと目を覚ました。

「あっ、君か!」

 そうだった。この顔は麗羅ではなく、その弟の颯也。似て非なるもの。
 俺は彼の世話を任されていたのだった。確か、これも取扱説明書にあった。

『夜中にトイレに起きた時は必ず付き添うこと』

 俺は重い瞼をこすりながら颯也の手を引いてトイレに連れて行った。

「すみません。寝る前に用を足すのを忘れてたみたいで」
「明日から気をつけようね」
「はい」

 返事は良くて、とても素直なのだが。



「くすん」

 それからしばらくして、颯也の泣き声で俺は再び目を覚ました。

「今度は何だ!?」

 上体を起こして身構えた。
 もう自棄だ。またトイレか? それとも、まさかミルクとか言い出すんじゃなかろうか。って、俺はいつから乳幼児の母になった!?

「怖い夢見た」
「はぁ?」
「オバケが追いかけて来た」

 颯也が泣きながら俺に抱きついた。

「君は、いったい何歳いくつだ」
「十八歳」
「まともに答えてんじゃないよ。ったく、ちょっとはボケろよ。……って、無理か」

 二度にわたって睡眠を分断され、キレ気味の俺はついぞんざいな口調になった。

「無理」

 颯也は短く答え、俺の胸に顔を埋めて肩を震わせていた。

 外見は青年だが、中身は子どもだ。子どもに腹を立てるのは大人げなかったと反省した。

「よしよし。怖くない怖くない」

 泣いている颯也をそっと抱いて、彼が眠るまでずっと背中をさすった。

 こんなふうに人から全身で頼りにされるのは初めてだった。二十三歳の若さで父親になった気分だった。それはそれで、不思議とあまり悪い気はしなかった。




つづく
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