菩提樹の猫

無一物

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15章 業深き運命の輪は回る

10 逃亡

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◆◆◆◆◆

 
 
『レネ……レネ……戻ってこい……』

 誰かが自分の名を呼んでいる。
 自分の名さえ捨て、還ろうとしていたのに……まだこの名で呼ぶ者がいる。

 レネに戻るとまた恐ろしい目に遭うだけだ。

(ここは敵しかいない……)

 
 理不尽な行為にさらされ、癒えかけていた傷からはまた血が流れ始める。
 自分の身体を制御できない恐怖に、ガタガタと身体の震えが止まらない。


 突然現れた人物によってレネの術は解け、目の前にいる男がバルトロメイではないことが判明した。
 その後のことはよく覚えていないが、まだ意識が残っているということは死んでいないのだろう。

 いっそのこと……あのまま本当に死んでしまえばよかったのに……。
 

『——レネ……レネ……』


 まただ。
 
 ふわりと温かいものに包まれ、この場を立ち去ろうにも身動きができなくなる。
 それはとても心地よく、震えていたレネの身体が次第に強張りを解いていく。



 
「——ここは……?」

 目が覚めると、自分を包んでいた温かな存在は消え一人で寝ていた。
 レーリオたちといた部屋とは違う場所だ。
 
 船室にしては大きく豪華なベッドと家具が備え付けてある。
 調度品はどれも高価なものばかりだが、西国のものとは少しデザインが違った。

 この船は……まるでフォルテからポルトゥワレへ行く時に乗せてもらった船と装飾が似ている。
 
(ポーストの船なのか……?)

 しかし、ドホーダ島はグリシーヌ公爵家の船しか行けなかったはず。
 南国の船が北の海を航海できるのだろうか?
 海の知識が乏しいレネは、無謀なことをしているようにしか思えなかった。

 
 自分の身体を見下ろすと薄い夜着を纏っているだけだ。
 拘束された時に暴れたせいで、手足首に傷ができていたが、どうやら癒し手の治療を受けたようで、今は傷一つ残っていなかった。

 こんな薄着のままでは心許ない。
 あんなことをされた後なので、余計に肌を晒したくない。
 何か着替えはないかとチェストの中を探ると、動きやすい服が入っていた。

 船の中は『復活の灯火』の支配下だ。
 ここにいたらまたあいつらから捕まってしまう。
 レネはこの身に受けた辱めを思い出し、震える自分の身体を抱きしめた。

(——怖い……)
 
 決して認めたくないが、恐怖の感情はそう簡単に消すことができない。


 この船に乗っているのは自分だけ。
 バルトロメイの姿は幻術師の見せたまがい物だった。

 自分が人を守ることはあっても、誰かに守られることは良しとしない。
 しかしこれほど、一人が心細いと思ったことはなかった。
 
 誰かに助けてほしいとは思わないが、孤独は辛い。
 
 
 
 窓に目を向けると、ちょうど東の空から朝日が昇ってきていた。
 
 レネの身体を光が照らし、温かな感覚が腹の底から湧き上がる。
 光が身体中に巡るよう目を瞑り深い呼吸を繰り返す。



 心の中にいる誰かが問うた。

——お前は何のために剣の道に進んだ?
 
 
 親が殺されるのをただ黙って見ていた自分が悔しくて、強くなろうと心に誓った。
 その親の仇がこの船に乗っている。
 そして……自分を散々弄んだ憎き男も、ここにいる。


 幸か不幸か、奴らはレネが囚われ、虐げられるところしか見ていない。
 今だって手折ることなど容易いことだと思っているだろう。

 本来の自分を思い出せ。
 自身さえも、己が本来は狩る側であることを忘れていないか?
 以前ヴィートが言っていたように、自分はまだ、牙も爪も抜けてない。


——自分のことは自分で始末をつけろ。
 

 やることは一つ。

『復活の灯火』の殲滅だ。




 着替えると、そっと扉に耳を当て外の音を探る。
 人の気配があったので、見張りが立っていることはわかっていた。
 耳を澄ませると、見張りたちの会話が聴こえてきた。

『交代時間はまだかよ』
『まだ日が昇ったばっかりだし朝飯が終わってからって言ってたからもう少し先じゃねえか?』

 どうやら扉の向こうには二人護衛が立っているようだ。
 アッパド語で喋っているということは、『復活の灯火』の人間に違いない。
 
 今いる部屋は内側からしか鍵をかけられない仕様になっている。
 だから見張りに寝ずの番をさせているのかもしれない。

(これならいける)
 
 冬に向け陽の昇る時間が遅くなったとはいえ、部屋にある置時計を見ると、まだ朝の早い時間だ。
 船員たちは起きているだろうが、ここの並びはこの部屋と同じように客室になっているはずだ。
『復活の灯火』のメンバーたちを詳しくは知らないが、夜に活動する盗賊たちは朝が得意だとは思えない。

 逃げ出すなら今しかない。

「……たっ……助けてっ……」

 レネは外に聴こえるように悲鳴を上げた。

「どうしたっ」

 すぐに見張りの一人が、部屋に入って来て、床に蹲るレネの方へやってきた。

 レネは俯いたふりをしながらも、顔を覆い隠す髪の間から男の一挙一動を見逃さない。
 男が蹲るレネの様子を確認しようとすぐ側まできて膝をついた瞬間に、そのベルトに差してあるナイフを抜き取り、喉笛を掻き切った。

 声も立てぬまま絶命した男を床に転がしたまま、扉を開いて廊下にいたもう一人の護衛を部屋の中に引きずり込んで、急所を刺して一撃で殺す。

 普段は剣で戦うことが多いが、元々どんな状況からでも戦えるようにと、幼い頃からルカーシュに仕込まれていた。
 そんな時に、決して強そうに見えない外見は役に立つ。
 
 人は視覚で情報を判断する。
 自分よりも細く弱そうな相手だと油断して隙を作りやすい。
 
 特に今回はレーリオたちから屈辱的な行為を受けていたので、周囲はレネのことを女のような扱いを受けるひ弱な奴と思い込んでいるはずだ。
 
 外からはわからないように死体を引きずって、ベッドの影に隠すと、床に散った血を絨毯の下に隠す。
 もちろん使えそうな武器は全て奪った。

 これで交代の時間までは見つかることがない。
 
 どこかに身を隠さなければいけないが、客室はどこも鍵が閉まっているだろうから、他に人の少ない所はないかと思案する。
 船の客室は上の階にあるから、荷物に紛れるならばもっと下の階に降りる必要があった。
 天井の低い廊下の奥に階段があるが、ここを降りたら船員たちが忙しく働いているだろう。

 
 二人殺したことで少し気が立っていたが、レネはここで少し冷静さを取り戻す。

 レネの複雑な事情を知っているのは『復活の灯火』の組織の人間で、船員たちまでは知らないはずだ。
 だったらコソコソしている方が余計に怪しく見えないか?
 本来自分はレナートでこの船を自由に歩いていいはずだ。
 だったら話しかけられても偉そうにして胡麻化しておけばいい。
 
 意を決して階段を降りると、下の廊下も人の姿はない。
 反対側の廊下の突き当りに扉があり、何やら食べ物のいい香りが漂ってくる。
 もしかしたら、あそこが食堂なのかもしれない。

 先ほどの男たちの話では、これから交代する見張りたちも食堂で朝食を摂っているはずだ。
 それなのに廊下に人気がないということは、食堂の反対側にも出入り口があるのか、食堂から直接甲板に上る階段があるのかもしれない。
 
 食べ物の匂いを嗅いで一気に腹が減ったが、しかしこのままもう一つ下の階に降りる階段を進んだ方が無難だ。
 
 もう一つ階段を降りると、想像していた通りそこは貨物室になっていて、予備の帆や、ロープ、それに沢山の樽でひしめいていた。
 板に塗ったタールと生臭い海水の臭いがあたりに漂っている。
 上の階とはずいぶんと様子が違った。

 貨物室の中も船員たちがあれやこれやと忙しそうに働いている。
 レネが推測していた通り、船員たちは皆南国人ばかりだ。
 幸い物が沢山あるので身を潜める場所はたくさんあった。

『それにしてもゾラン様はリューリ王子の要請でこの船を出したって聞いたが、なんでまた辺鄙な場所に行くんだ』
『なんでもポーストが、神の恩恵にあやかれるようにだってさ』
 
 聞きなれない言語で船員たちが喋ているが、聞き取れる言葉があった。

(ポースト、そしてゾラン)

 たぶん……この船にゾランが乗っているのだろう。
 以前会った時に、自分は兄の代わりに見届け役をすると言っていたような気がする。
 
 ポーストから船を出してカムチヴォスたちを島まで運んでいるのだろうか?
 
 ゾランはゼラだ。
 ヴィートによると、ゼラはあの島からレネが逃れる手はずを整えてくれたという。
 
 しかし神との契約に手を貸すのならば、レネにとっては敵となる。
 そうなれば……ゼラもこの手で倒さなければならない。

 ゼラは強い。
 レネはまだ、バルナバーシュやルカーシュ以外で、ゼラより強い人間に会ったことがない。
 相手はレネを殺すことができないというハンデがあっても、有り余る強敵だ。
 
 それだけではない。
 レネはゼラのことを憎めない。
 レーリオと一緒にとんでもなことをされたが、あれはバルトロメイの情報を伝えるために仕方なかった行為だと思っている。
 
 穏やかな深い海のような瞳でレネを見つめ、直接手を差し伸べることはなくとも、そっとよりかかる肩を貸してくれる頼もしい存在だ。

 そんな相手に剣を向けたくはなかった。
 これまでのゼラとの思い出が、全て自分かゼラの血の色に染まる。

 
(駄目だ……)

 ここで私情を挟んではならない。
 
 レネがここで何もできずに魔法が復活すれば、間違いなく大きな戦が起こる。
 そうなったとき渦中にいるのは自分を乗っ取ったレナートだ。
 
 もう二度とレナトスの時のようなことは起こさない。
 

 
 レネは心を鬼にする。
 

——ドンッ!
 
 頭の中で太鼓の音が鳴る。
 
 コジャーツカ族に伝わる剣舞の太鼓。
 戦いの前に、戦士たちを鼓舞する踊りだ。

 突然始まった雷鳴のような激しい音と共に、レネの心は鬼神と化した。
 
 味方のいない船に一人。
 まさに背水の陣の中、全てを懸けて、反撃の狼煙がいま上がる。
 
 
 


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