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相棒と迎える初日の出
しおりを挟む吐く息が白く染まり、厩舎の裸電球の光に溶けていく。
二〇二六年、一月一日。午前五時半。
世間がまだ新しい年の朝寝坊を決め込んでいるこの時間、ここ馬術部の厩舎だけは、凛とした冷気と、どこか懐かしい生き物の匂いに満ちていた。
「あけましておめでとう、デューク」
私が重たい引き戸を引くと、奥の馬房から「ブフフ……」という低い鼻鳴らしが聞こえた。
名前を呼ばれたのがわかったのだ。暗闇の中に、濡れた黒曜石のような瞳が二つ、優しく浮かび上がる。
私の相棒、愛称デューク。正式名は『グランデューク』。
体高一七〇センチを超える、鹿毛のセルフランセ種。サラブレッドよりも骨太で、筋肉の鎧をまとったような重厚な馬体は、一五二センチしかない小柄な私が見上げると、まるで小高い丘のようだ。
私は馬房に入ると、まずは彼の首筋に抱きついた。
冷え切った頬を、彼の温かい被毛に押し付ける。
干し草と、土と、わずかな汗の匂い。高級な香水なんかよりずっと落ち着く、私の大好きな匂いだ。デュークは私がこうするのを嫌がらず、大きな顔を私の背中に擦り付けてくる。
フリースの上からでも伝わる、大きく力強い鼻息の熱。
「今年は午年なんだって。あんたの年だよ、デューク」
「ブルルッ」
「ふふ、わかってるって顔ね」
元旦だからといって、特別なことはない。馬たちは三六五日生きている。だから私も、三六五日ここに来る。
でも今日は、いつもより少しだけ時間をかけて「手入れ」をしたかった。
無口頭絡をかけ、洗い場へと彼を出す。
ゴムブラシを手に取り、冬毛でふっくらとした首筋から肩、そして背中へと円を描くように動かしていく。
ザッ、ザッ、というリズミカルな音。
巨大な体躯を持つデュークだが、実はとても甘えん坊で繊細だ。ブラシの圧が強すぎれば皮膚をピクリと震わせるし、気持ちの良いツボに入れば、下唇をだらりと伸ばしてうっとりする。
「ここ、痒かったでしょ」
?甲(首と背中の境目)のあたりを強めに擦ると、デュークは首を伸ばしてため息をついた。
私は台に乗らなければ彼の背中すら満足に見えないけれど、指先から伝わる彼の筋肉の張りや体温で、今日の彼がどんな気分か手に取るようにわかる。
蹄の裏の泥を丁寧に掻き出し、最後に熱いお湯で絞ったタオルで全身を拭き上げる。湯気が立ち上り、彼の黒い馬体が艶やかに光り始めた。
「よし、ぴっかぴか。男前が上がったよ」
鞍を乗せ、腹帯を締める。
ハミを掌で温めてから口元へ持っていくと、彼は自ら口を開けてそれを受け入れた。カチャリ、と金属音が鳴る。
準備完了だ。
東の空が、わずかに群青色から茜色へと滲み始めていた。
誰もいない、広大な角馬場。
霜が降りて白くなった砂の上に、私とデュークだけの足跡が刻まれていく。
踏み台を使って鞍に跨ると、視界が一気に二メートル以上高くなる。
この瞬間がたまらない。
私の小さな体は、この大きな背中を借りて初めて完成するのだと思う。
「まずは常歩、行こっか」
ふくらはぎで軽く圧迫すると、デュークはゆったりと歩き出した。
ザクッ、ザクッ。
四拍子のリズムが、鞍を通してお尻に、そして背骨へと伝わってくる。
手綱を通して感じる彼の口の感触は、柔らかいマシュマロのようだ。今日の彼は、とても従順で、それでいて内側に爆発的なエネルギーを秘めているのがわかる。
、そして駈歩へ。
タ・タ・タン、タ・タ・タン。
冷たい風が耳元を切り裂いていく。
スピードが上がるにつれ、デュークの背中が波打つように動き、私の体を押し上げる。
私はただ、その波に身を委ね、彼の重心と完全に重なり合うことだけに集中する。
ふと見ると、馬場の隅にセットしておいた障害物が目に入った。
高さ一一〇センチのオクサー、つまりは幅のある障害物。
先生には許可をもらってある。あまり無茶なコース取りはしないでおこうとは思っている。
だけど、それとこれとは少し別。
何せ元旦の初乗り。
手綱からもそんな心意気を感じてしまっては――。
やることはひとつだ。
飛ぼう。
「デューク、行くよ」
私が意識を切り替えた瞬間、彼もそれを感じ取った。
耳がピクリとこちらを向き、背中の筋肉がギュッと収縮する。
エンジンがかかった。
それまでゆったりとしていた駈歩が、一完歩ごとに力強さを増していく。
地面を蹴る音が、ドスン、ドスンと腹に響く重低音へと変わる。
コーナーを回り、障害物を正面に捉える。
あと五完歩。
目測がピタリとハマる。
私の仕事はもう、彼の邪魔をしないことだけ。
手綱をわずかに譲り、彼を信じて待つ。
三、二、一。
踏み切り。
強靭な後肢が砂を噛み、五〇〇キロを超える巨体が爆発的に跳ね上がる。
――浮遊感。
時が止まったような静寂。
鞍の前橋にお腹がつくほど前傾姿勢をとった私の下で、デュークが大きく背中を丸める。
バスキュール。理想的な放物線。
彼の首筋がぐっと伸び、私の顔のすぐ横に来る。
至近距離で見る彼のたてがみが、風に踊っている。
高い。
普段の目線よりずっと高い場所から、私たちは初日の出前の世界を見下ろしていた。
私とデューク、二つの命が完全に溶け合い、一つの生き物「人馬」となって空を翔ける瞬間。
ドンッ。
着地と同時に、強い衝撃が来る。
けれどデュークは体勢を崩すことなく、すぐに次の脚を出し、軽快な駈歩へと戻っていった。
「グッドボーイ! 最高だよ、デューク!」
私は彼の首筋を強く、何度も叩いて愛撫した。
彼もまた、興奮冷めやらぬ様子で「ブフッ」と鼻を鳴らし、首を振って応える。
私の太ももには、彼の体温と、躍動した筋肉の余韻がじんわりと残っていた。
馬場の中央で停止させ、手綱を緩める。
ちょうどその時だった。
東の山の端から、鋭い光の矢が放たれた。
「あ……」
二〇二六年、最初の太陽。
黄金色の光が、デュークの栗色の馬体を照らし、舞い上がった砂埃をキラキラと輝かせる。
彼の大きな影と、背中の上の私の小さな影が、馬場に長く伸びて一つに重なっていた。
デュークがまぶしそうに目を細め、ハミをカチャカチャと鳴らす。
その温かい首筋に頬を寄せながら、私は改めて思う。
この暖かさがあれば、私はどこへだって行ける。
どんな高い障害だって、彼となら越えられる。
今年はインターハイ、絶対にこの子と行くんだ。
「今年もよろしくね、相棒」
私の言葉に答えるように、デュークは力強く蹄で地面を掻いた。
乾いた砂の音が、新年の空に高く吸い込まれていった。
(了)
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