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第二章

第十話

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 ぼくはそれを声に出して読み上げた。
「アリアのもおなじ?」
 ぼくが聞くとアリアは黙って頷いた。

 もっともたかきいただきをみあげ、かくされしとびらをくぐれ、最も高き頂を見上げ、隠されし扉をくぐれ。
「最も高き頂?」
 ぼくは何度か全体を繰り返した後、最初の部分に注目した。隠されし扉は文字通りの意味だろうし、隠されているのだから行ってから探すしかあるまい。となると注目すべきは前半の部分だろう。
「あさひだけ」
 アリアがぽつりと言う。
「え?」
「あさひだけ。最も高き頂。ほっかいどうで一番高い山。この町にあるのよ」
「それだ、まちがいない。ミッションはこれまでも受け取った場所の近くが対象になってたもの。ぼくらが移動できる範囲のものを指定してくる。そこから先であり得ないほど遠くへ連れて行かれることはあったけど。そこは近いの?」
「うん。バギーで飛ばしていけばすぐだよ」
「よし、行こう」
 ぼくは身支度をしようとして、そもそもゴーグル以外なにも持ってきていないことに気づいた。山へ行くのにこんな軽装で大丈夫だろうか。

 アリアがクローゼットからグレーのダッフルコートを取り出してぼくに差し出した。
「これ。寒いとあれだから」
「ありがとう」
 ぼくはさっそく受け取ったコートに袖を通した。羽織って前を重ねるとふわりと風が頬を撫で、それが通り過ぎた後でアリアの匂いがした。アリアはコートよりも丈の短いレザーのジャンパーみたいなものを着た。バギーというよりも大きなオートバイにでも乗りそうなジャンパーだった。
「よし」
 ぼくらは顔を見合わせて微笑み合った。階下へ降りて玄関を出ると、アリアは玄関を施錠して「一応、ね」と微笑んだ。

 ぼくはバギーに乗り込む。前回よりは幾分ちゃんと座ることができた。バギーにはソーラーパネルがついていて、それが蓄電池を充電するようになっている。蓄電池は高効率のフライホイール型だ。これこそがエネルギー革命の主役になった技術だった。ソーラーパネルが作った電気で回転抵抗のほとんどない超電導フライホイールを回す。回転運動に替えられたエネルギーはホイールが回転し続けることで維持される。この回転で発電を行うことで電気を取り出す。フライホイール蓄電池は電解質を用いた電池とはまったく発想が異なる。常温超電導が実現してこの高効率な蓄電池が誕生し、その普及によってエネルギーの問題は文字通り革命的な変化を遂げた。今じゃ歴史の授業で教わるような話だけれど、皮肉なことにこの技術が浸透し始めたのと人口が急速に減り始めたのは同じ頃だった。溢れかえった人口を養えるだけのエネルギーを手に入れたとき、それを使う人間はもはや溢れかえってはいなかった。ほとんど無尽蔵に作ることができる電気を使って、誰も住まなくなった巨大都市をロボットたちが維持しているのだ。

 このバギーには小型のフライホイールが四つ、異なる向きで搭載されている。フライホイールの回転が車の走行に及ぼす影響を最小にするために軸の方向を工夫してあるのだろう。

 アリアは運転席に乗り込んでシートベルトを締めるとダッシュボードについている電源ボタンを押した。パネルが点灯してバギーが目を覚ます。ぼくも助手席で姿勢を直してベルトを締める。ベルトは両肩の上と腰の左右から出ている四本をお腹の前のバックルに集めるタイプのものだ。よく知らないけれどレース用という感じがした。
「行くよ」
 アリアはそう言ってステアリングを握った。アリアがペダルを踏みこむと背中の後ろでモータが回転を上げる。回転数と一緒に回転音が高くなる。バギーは砂利道を軽快に蹴りながら進む。サスペンションがタイヤからのショックを吸収する。舗装路に出ると急にロードノイズが変化してサスペンションの動きもおとなしくなった。アリアのペダル操作に呼応するように前後に荷重が移動して車の姿勢が変化する。町の目抜き通りへ出ると視界の限界までまっすぐの直線道路だった。
「すごい。まっすぐだね」
「そっか。こういう道路珍しい?」
 アリアはぼくの方を見ながら言った。今日はゴーグルをかけている。ゴーグルをかけてステアリングを握っているアリアはすこし新鮮だった。

 前も後ろも、人も車も一切見えなかった。アリアは静かにスピードを上げて軽快に飛ばしている。車高が低いのとドアも窓もないことが影響してか大変な速度で走っているように感じた。直線道路の先には雪をかぶった山が見えていた。
「あれがその山?」
「そう。あの辺一帯の山を全部ひっくるめてたいせつざんって言うの。あさひだけはこっち側から行くと一番手前にある。あさひだけは火山だからあのふもとあたりは温泉がたくさんあるよ」
「へえ」
 雪山が見えていて火山があって温泉がある。ゴーグルでイマースして体験するそういう〈観光〉の実際の場所に今来ているということがぼくには不思議だった。アリアはそういう場所で暮らしている。生まれる場所が違うと毎日がこんなにも違うのだ。ぼくはアリアの横顔を見た。山と田畑に囲まれて生まれ育った人。この不思議なゲームによって出会った人。感覚も常識も違うし意見も食い違う、初めての友達。必死に共通の話題を見つけて消費することの虚しさを実感する。

 まっすぐに見えていた道路は町の賑わいを過ぎたあたりから曲がりくねっていた。アリアは細かく加減速しながらカーブを抜けていく。そのたびにサスペンションが沈み込んで車体が傾く。モータの回転音が変化してリズムを奏でている。

 道路わきの景色にもリズムがあって、まばらな家屋が緩やかに流れていると思えば、ときおり交番や学校があって密になったりする。そうかと思えば家屋さえなくなり、森の中みたいになったりもする。ロードノイズが変化して少しすると左側に大きな湖が見え始めた。
「あ。湖」
 ぼくは湖を見たまま言った。
「ダム湖だよ」
「すごい」
 ぼくはそう言いながらすごいってなんだよ、とおかしくなった。ダムがあって湖がある。なにもすごくない。でもその湖がすぐそこにあって、ぼくは窓のないバギーで風に吹かれながら手も届きそうな湖を見ている。それはやっぱりすごいと思った。もっと巨大な世界の名だたるダムだって見たことがある。イマースモードで行けばダムの見学コースに立つことはもちろん、ダムの上を飛ぶことだってできる。わざわざ出かけていく必要なんてない、そう思っていた。でもぜんぜん違うのだ。ずっと規模の小さいこの湖でさえ、風が吹いて木々の匂いがして湿度を感じながら見ると大きな感動があった。この場所に来たからこそ味わえた感覚がなにか絶対にある、そう感じた。すっかり見えなくなってしまうまでぼくは湖の方を見続けた。

 あさひだけの入り口には宿泊施設のような建物や観光客のための建物、広い駐車場などがあった。車は一台もなく、人影もまったく見当たらなかった。
「町の人口はほとんど変わらないけどね。観光客はいなくなったよ」
 アリアはバギーの速度を緩めながら言った。ひときわ広い駐車場に入る。地面には車を並べるためのラインが引かれていたけれど、アリアはそのラインに関係なく無造作にバギーを停めた。
「そこからロープウェイに乗って少し上まで登れるんだよ。利用客が減って一回廃止されたんだけどさ、そのあとロボットの自動管理になって再開されたんだ。ここに常駐する人が一人もいなくても誰か来たら動かして、人が来ない間は機械を整備しておけるようになったのよね。そっちのホテルもそう。利用客がいなくて運営してた会社は撤退しちゃったんだけどさ、町が譲り受けて今はロボットが整備してるの。たぶん泊まろうと思えば泊まれるはずだよ」
「そっか。いまどき観光で移動する人なんか少ないものね。でもイマースはさ、すごくリアルだしほとんど現実みたいに知覚できるけどさ、でもそれはインチキだよね。すごく巧妙だけどインチキなんだ」
 ぼくはついさっきまで自分もインチキの信奉者だったのに言わずにはいられなかった。
「でも昨日の話だけどさ、今この空間も全部もっと巧妙なインチキなのかもしれないよ」
 アリアはにこやかにそう言い放った。ぼくは目の前が暗くなったような気がして肩を落とした。
「ごめん。ほんとはあたしだってここがインチキだなんて思いたくないよ。ただあたしたちが何を感じようとそれが脳の知覚にすぎないんだとしたらさ、これだってインチキで作れる可能性はあるってこと」
 そう話しながらアリアの目には強い意志がみなぎり始めた。
「で、大事なのはね。あたしにそういうことを気づかせたのはシオンズゲイトだってこと。このゲームはあたしを導いてるとか試してるとかいろいろあるけどさ。あたしが一番重要なポイントだと思うのは、あたしの目を開かせたってことなの。見ていなかったものに気づかせたし、考えたこともなかったことを考えさせた。だから会いに行かなきゃならないと思うのよ。この茶番を始めた〈わたし〉って人に」
 その通りだ、とぼくも思った。
「その人に会えば世界の秘密がわかるのかもしれないね。なんとしてもたどりつかなきゃだ」
 ぼくは自分に聞かせるように決意を宣言した。
「隠されし扉をくぐれ、だよ。隠されし扉ってなんの話だろう」
 ぼくはミッションの後半部分を思い出して言った。あさひだけの頂はこの辺りのどこからでも見える。そうなるとかなり広範囲で隠されし扉を探さなきゃならない。
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