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君の世界は森で華やぐ 〜1〜
森に住む人 1
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駅の改札を抜けてすぐ、ここへ来ればなんとかなるだろうと意気込んでいた気持ちが、急速にしぼんだ。
駅前には開発の進む町が広がっている。
鮮明に残る幼い頃の記憶は、『白森』という名の駅と、木々に囲まれた喫茶店の風景だけ。
その記憶を頼りに、この町へ喫茶店を探しに来た。
大自然の中にぽつんと喫茶店はあると思っていたし、漠然と案内看板があるのではないかと思っていた。
しかし、想像と違って、駅前には郵便局や交番のほかにカフェもあり、海辺へ向かって新築の住宅がいくつも連なるさまが見えた。
森の中にいるような気分になる喫茶店。たったそれだけの記憶であの喫茶店を見つけるのは困難な気がした。
一時間に一本しかない電車はすでに発車している。
行くしかない。もう戻る気もないが、戻れば意に沿わない結婚が待っているだけ。
これまで贅沢なほどに順調な人生を送ってきた。恵まれた環境が私を支えていたのは事実で、その人生を捨てるなんて馬鹿げている。
自覚もあったし、周囲からの忠告もあったが、ここへ来たいという衝動は止められなかった。
駅の階段を下りて、交番へ向かった。
するとちょうど交番から中年の男が出てきた。ひとめで警察官とわかる制服を身につけたその男は、両腕を伸ばして背伸びすると私に気づく。そして珍しいものを見るような目で、私をじろじろと眺めた。
私がまっすぐ向かっていくから、警察官も様子をうかがうようにこちらを見て立っている。
「こんにちはー。すみません。道をお尋ねしたいんですが」
声をかけると、「なんだ、道案内かぁ」と警察官は破顔した。
彼は中肉中背の、どこにでもいるようなおじさんだった。体型同様まるく人なつこい笑みを見せるおじさんと目を合わせたら、急に身体から力が抜ける。同時にひどく緊張していたことにも気づいた。
「そんな派手なワンピース着た綺麗なお嬢さんが、今にも死にそうな顔して、なんだと思ったよー」
なおもおじさんは続ける。
だから怪訝そうにこちらを見ていたのかと合点がいく。今年流行の、特段珍しくもない大きな花柄があしらわれたワンピースだったが、おじさんにとってはよほど派手なものに映っているのだろう。
「そんなに深刻な顔してました?」
「ああ、してたしてた。まさか自殺の名所に道案内しろとかって言うんじゃないだろうねー」
「まさか」
目を丸くすると、「冗談冗談」とおじさん警察官はふたたび笑った。
「それで、どこへ行きたいって?」
たいがいのことならわかるよ、とおじさんは後ろのポケットから折りたたまれた地図を取り出す。手慣れた様子を見れば、彼がいつも道案内をしているとわかる。
期待大だ、と私は胸をふくらませて、幼少期に訪れたことのある喫茶店を思い浮かべながら言った。
「木に囲まれた、まるで森の中にいるような気分になれる喫茶店に行きたいんです。喫茶店の名前はわかりません。覚えているのは、落ち着ける雰囲気のログハウス風の喫茶店だということだけです」
地図を広げようとしていたおじさんの手が止まる。ふたたび奇異な目で彼は私を見る。
「そんな漠然としたことしかわからないのかい?」
「ええ、すみません。ここへ来たのはもう20年も前のことで。祖母が撮った写真の中に喫茶店が写ったものもあったんですが、その写真ももう、祖母の遺品を整理するうちになくなってしまったんです」
「思い出のある喫茶店だったようだねぇ」
おじさんは腕を組んで、うーんとうなる。さすがに20年も前からこの交番に勤務していたわけではないのだろう。
その実、私も喫茶店で過ごした記憶はほとんどない。なぜあの喫茶店へ固執するのかすら明確な答えはない。思い出のある場所かと言われて、即答できなかったのが何よりの証拠だろう。
「どこかそれらしい喫茶店、知りませんか?」
「それがねぇ、喫茶店なんてものはこの町にないんだよ。あるのは、ほれ、あそこにあるカフェぐらいだよ」
おじさんの視線の先には白い壁と茶色の屋根がある。駅からも確認できたモダンなカフェだろう。ちょうど交番の向かいにある郵便局の裏手に建てられている。
「ほかに喫茶店ないんでしょうか?」
「ないねぇ。あのカフェも、リニューアルってのかい? それを最近したけどねぇ、もともとあったのも10年くらいだしねぇ。さすがに20年も経ってないなぁ。それにお嬢さんの言う森なんて、あのカフェにはないよ」
「そうですか。なんとなくここへ来れば見つかるんじゃないかって思ってたんですけど」
駅の改札を出たときに感じたむなしさがふたたび込み上げてくる。
よほどがっかりした表情をしたのかもしれない。おじさんがひどく申し訳なさそうに眉を下げる。
「お嬢さん、その喫茶店の形はよく覚えてるんだよねー? じゃあ……」
おじさんの視線がふと、今度は郵便局へ向けられる。
「ああ、ああ、うわさをすればなんとやらだ。いやいや、うわさする前から見つかった! 先生っ! 先生ーっ! ヒロト先生ーっ」
突然おじさんはそう叫ぶと、郵便局から出てきた青年に向かって手を振る。
ベージュのチノパンに白いシャツ、着の身着のまま出かけてきたような古びたサンダルを履いた痩身の青年がこちらを見る。
年の頃は私と同じぐらいだろう。どこか憂えているが、その顔立ちはわりと整っていて清潔感があった。
青年は深い感慨もない様子で、やや無表情なまま、郵便局の前に止めていた自転車を手で押しながら私たちの方へやってくる。
「どうも、羽山さん」
どうやら警察官のおじさんは羽山さんというらしい。青年はおじさんにあいさつした後ちらりと私を見たが、頭を下げる風もなく、すぐに目をそらした。
「先生ちょうどよかった。このお嬢さんが古い喫茶店を探していてね。特徴は覚えてるようだから、先生がササっと描いてくれたら意外とすぐに見つかるかもと思ってさー」
無茶ぶりだ。そう思ったが、無茶ぶりされた彼の方は表情ひとつ変えずに平然としている。
「紙とえんぴつ、貸してください」
さらりとそんなことを言うものだから、「あのー」と口をはさむと、羽山さんは交番の中へ戻りながら私に言う。
「その先生は絵描きさんだから。ちょっと待っててよ、お嬢さん。いま、紙とえんぴつ持ってくるからー」
羽山さんはすぐにバインダーと綺麗に削られたえんぴつを持って戻ってきた。バインダーにはA4サイズのコピー用紙がはさまっている。
それを受け取る青年が有名な絵描きかは知らないが、それでも交番にある一番立派な紙を持ってきたのだろうという羽山さんの気遣いは感じられた。
「こんなこともあるなら、画用紙も用意しなくっちゃなぁー」
半ばひとりごとのように言う羽山さんを見た青年が、ちょっとだけ口元をゆるめて笑う。
笑うんだ、なんて失礼なことを思ってしまう。まるで生気のない人だから意外だった。
彼の持つミステリアスな雰囲気は、絵描きだと聞けば、なるほど、と納得してしまうけど、それと知らなければなんとなくたよりない青年という印象を与える。
「えっと、じゃあ悪いけどお嬢さん、この先生に喫茶店の特徴を話してあげてくれるかい?」
絵描きの先生がまったくコミュニケーションを取ろうとしてこないから、羽山さんが見るに見かねて私を促す。
「お言葉に甘えて、すみません。ええーっと」と、小さな頃の記憶と祖母の家に飾られていた喫茶店の写真をつなぎ合わせながら話す。
「喫茶店のアプローチは、森の入り口みたいに樹々が左右から生い茂っていて、そう、バラのアーチみたいな入り口を、変わった形に曲がった木が自然と作り出してるんです。木の種類なんてわからないですけど」
そんな情報ではわからないだろうと、言ってる私も聞いてる羽山さんも不安になる中、絵描きの青年は紙面の上へさらさらとえんぴつを器用に走らせていく。
「あ、あ、そう、そうです。そんな感じです」
驚くぐらい正確に記憶が再現されている。青年の手が止まり、ハッとして続ける。
「喫茶店はログハウス風で、小さな庭と小さなテラスがありました。庭も通りから中をのぞけないぐらいの木に囲まれていて、本当に森の中にぽつんと建てられた家のようでした。ほかには……」
記憶を呼び起こしながら話す私をよそに、彼のあやつるえんぴつはどんどん記憶を再現していく。
「あ、そうです、それ。入り口にリスの置物がいくつもありました。小さな置物で、よくそれを持って遊んだんです。よくご存知ですねって……え?」
目を丸くして絵描きの青年を見上げたとき、同様に絵をのぞき込んでいた羽山さんもアッと声を上げる。
「先生、それ、ヒロト先生の家じゃないですか」
「えっ、先生の家っ?」
無言で絵を描き続けていた彼は、すべてを描き終えたのか、バインダーを私に差し出してくる。
「10年前まで喫茶店を営んでいました。お探しの喫茶店はうちのことかもしれません」
「あなたの家だったんですか」
バインダーを受け取り、ラフとは思えないような緻密に描かれた絵を眺める。それはまるで祖母の写真を見たことがあるかのような絵で。
「この絵、いただいてもいいですか?」
返事を聞く前にバインダーから紙をはずし、うれしくて胸にあてると、絵描きの青年はぴくりと眉をあげた。そしてそのまま無言で自転車を押しながら歩き出す。
気でも悪くしたのかと驚いて羽山さんを見れば、「ヒロト先生はいつもああだから」と笑う。するとふと、絵描きの青年は立ち止まり私を振り返る。
「行かないんですか」
「え……?」
「うちを探してたんでしょう」
相変わらずの無表情だが、どこかあきれた様子で彼はそう言う。
「あっ! 行きます! 行かせてくださいっ」
あわててバインダーとえんぴつを羽山さんへ渡して頭を下げると、ふたたび歩き始める彼の背中を追いかけた。
駅前には開発の進む町が広がっている。
鮮明に残る幼い頃の記憶は、『白森』という名の駅と、木々に囲まれた喫茶店の風景だけ。
その記憶を頼りに、この町へ喫茶店を探しに来た。
大自然の中にぽつんと喫茶店はあると思っていたし、漠然と案内看板があるのではないかと思っていた。
しかし、想像と違って、駅前には郵便局や交番のほかにカフェもあり、海辺へ向かって新築の住宅がいくつも連なるさまが見えた。
森の中にいるような気分になる喫茶店。たったそれだけの記憶であの喫茶店を見つけるのは困難な気がした。
一時間に一本しかない電車はすでに発車している。
行くしかない。もう戻る気もないが、戻れば意に沿わない結婚が待っているだけ。
これまで贅沢なほどに順調な人生を送ってきた。恵まれた環境が私を支えていたのは事実で、その人生を捨てるなんて馬鹿げている。
自覚もあったし、周囲からの忠告もあったが、ここへ来たいという衝動は止められなかった。
駅の階段を下りて、交番へ向かった。
するとちょうど交番から中年の男が出てきた。ひとめで警察官とわかる制服を身につけたその男は、両腕を伸ばして背伸びすると私に気づく。そして珍しいものを見るような目で、私をじろじろと眺めた。
私がまっすぐ向かっていくから、警察官も様子をうかがうようにこちらを見て立っている。
「こんにちはー。すみません。道をお尋ねしたいんですが」
声をかけると、「なんだ、道案内かぁ」と警察官は破顔した。
彼は中肉中背の、どこにでもいるようなおじさんだった。体型同様まるく人なつこい笑みを見せるおじさんと目を合わせたら、急に身体から力が抜ける。同時にひどく緊張していたことにも気づいた。
「そんな派手なワンピース着た綺麗なお嬢さんが、今にも死にそうな顔して、なんだと思ったよー」
なおもおじさんは続ける。
だから怪訝そうにこちらを見ていたのかと合点がいく。今年流行の、特段珍しくもない大きな花柄があしらわれたワンピースだったが、おじさんにとってはよほど派手なものに映っているのだろう。
「そんなに深刻な顔してました?」
「ああ、してたしてた。まさか自殺の名所に道案内しろとかって言うんじゃないだろうねー」
「まさか」
目を丸くすると、「冗談冗談」とおじさん警察官はふたたび笑った。
「それで、どこへ行きたいって?」
たいがいのことならわかるよ、とおじさんは後ろのポケットから折りたたまれた地図を取り出す。手慣れた様子を見れば、彼がいつも道案内をしているとわかる。
期待大だ、と私は胸をふくらませて、幼少期に訪れたことのある喫茶店を思い浮かべながら言った。
「木に囲まれた、まるで森の中にいるような気分になれる喫茶店に行きたいんです。喫茶店の名前はわかりません。覚えているのは、落ち着ける雰囲気のログハウス風の喫茶店だということだけです」
地図を広げようとしていたおじさんの手が止まる。ふたたび奇異な目で彼は私を見る。
「そんな漠然としたことしかわからないのかい?」
「ええ、すみません。ここへ来たのはもう20年も前のことで。祖母が撮った写真の中に喫茶店が写ったものもあったんですが、その写真ももう、祖母の遺品を整理するうちになくなってしまったんです」
「思い出のある喫茶店だったようだねぇ」
おじさんは腕を組んで、うーんとうなる。さすがに20年も前からこの交番に勤務していたわけではないのだろう。
その実、私も喫茶店で過ごした記憶はほとんどない。なぜあの喫茶店へ固執するのかすら明確な答えはない。思い出のある場所かと言われて、即答できなかったのが何よりの証拠だろう。
「どこかそれらしい喫茶店、知りませんか?」
「それがねぇ、喫茶店なんてものはこの町にないんだよ。あるのは、ほれ、あそこにあるカフェぐらいだよ」
おじさんの視線の先には白い壁と茶色の屋根がある。駅からも確認できたモダンなカフェだろう。ちょうど交番の向かいにある郵便局の裏手に建てられている。
「ほかに喫茶店ないんでしょうか?」
「ないねぇ。あのカフェも、リニューアルってのかい? それを最近したけどねぇ、もともとあったのも10年くらいだしねぇ。さすがに20年も経ってないなぁ。それにお嬢さんの言う森なんて、あのカフェにはないよ」
「そうですか。なんとなくここへ来れば見つかるんじゃないかって思ってたんですけど」
駅の改札を出たときに感じたむなしさがふたたび込み上げてくる。
よほどがっかりした表情をしたのかもしれない。おじさんがひどく申し訳なさそうに眉を下げる。
「お嬢さん、その喫茶店の形はよく覚えてるんだよねー? じゃあ……」
おじさんの視線がふと、今度は郵便局へ向けられる。
「ああ、ああ、うわさをすればなんとやらだ。いやいや、うわさする前から見つかった! 先生っ! 先生ーっ! ヒロト先生ーっ」
突然おじさんはそう叫ぶと、郵便局から出てきた青年に向かって手を振る。
ベージュのチノパンに白いシャツ、着の身着のまま出かけてきたような古びたサンダルを履いた痩身の青年がこちらを見る。
年の頃は私と同じぐらいだろう。どこか憂えているが、その顔立ちはわりと整っていて清潔感があった。
青年は深い感慨もない様子で、やや無表情なまま、郵便局の前に止めていた自転車を手で押しながら私たちの方へやってくる。
「どうも、羽山さん」
どうやら警察官のおじさんは羽山さんというらしい。青年はおじさんにあいさつした後ちらりと私を見たが、頭を下げる風もなく、すぐに目をそらした。
「先生ちょうどよかった。このお嬢さんが古い喫茶店を探していてね。特徴は覚えてるようだから、先生がササっと描いてくれたら意外とすぐに見つかるかもと思ってさー」
無茶ぶりだ。そう思ったが、無茶ぶりされた彼の方は表情ひとつ変えずに平然としている。
「紙とえんぴつ、貸してください」
さらりとそんなことを言うものだから、「あのー」と口をはさむと、羽山さんは交番の中へ戻りながら私に言う。
「その先生は絵描きさんだから。ちょっと待っててよ、お嬢さん。いま、紙とえんぴつ持ってくるからー」
羽山さんはすぐにバインダーと綺麗に削られたえんぴつを持って戻ってきた。バインダーにはA4サイズのコピー用紙がはさまっている。
それを受け取る青年が有名な絵描きかは知らないが、それでも交番にある一番立派な紙を持ってきたのだろうという羽山さんの気遣いは感じられた。
「こんなこともあるなら、画用紙も用意しなくっちゃなぁー」
半ばひとりごとのように言う羽山さんを見た青年が、ちょっとだけ口元をゆるめて笑う。
笑うんだ、なんて失礼なことを思ってしまう。まるで生気のない人だから意外だった。
彼の持つミステリアスな雰囲気は、絵描きだと聞けば、なるほど、と納得してしまうけど、それと知らなければなんとなくたよりない青年という印象を与える。
「えっと、じゃあ悪いけどお嬢さん、この先生に喫茶店の特徴を話してあげてくれるかい?」
絵描きの先生がまったくコミュニケーションを取ろうとしてこないから、羽山さんが見るに見かねて私を促す。
「お言葉に甘えて、すみません。ええーっと」と、小さな頃の記憶と祖母の家に飾られていた喫茶店の写真をつなぎ合わせながら話す。
「喫茶店のアプローチは、森の入り口みたいに樹々が左右から生い茂っていて、そう、バラのアーチみたいな入り口を、変わった形に曲がった木が自然と作り出してるんです。木の種類なんてわからないですけど」
そんな情報ではわからないだろうと、言ってる私も聞いてる羽山さんも不安になる中、絵描きの青年は紙面の上へさらさらとえんぴつを器用に走らせていく。
「あ、あ、そう、そうです。そんな感じです」
驚くぐらい正確に記憶が再現されている。青年の手が止まり、ハッとして続ける。
「喫茶店はログハウス風で、小さな庭と小さなテラスがありました。庭も通りから中をのぞけないぐらいの木に囲まれていて、本当に森の中にぽつんと建てられた家のようでした。ほかには……」
記憶を呼び起こしながら話す私をよそに、彼のあやつるえんぴつはどんどん記憶を再現していく。
「あ、そうです、それ。入り口にリスの置物がいくつもありました。小さな置物で、よくそれを持って遊んだんです。よくご存知ですねって……え?」
目を丸くして絵描きの青年を見上げたとき、同様に絵をのぞき込んでいた羽山さんもアッと声を上げる。
「先生、それ、ヒロト先生の家じゃないですか」
「えっ、先生の家っ?」
無言で絵を描き続けていた彼は、すべてを描き終えたのか、バインダーを私に差し出してくる。
「10年前まで喫茶店を営んでいました。お探しの喫茶店はうちのことかもしれません」
「あなたの家だったんですか」
バインダーを受け取り、ラフとは思えないような緻密に描かれた絵を眺める。それはまるで祖母の写真を見たことがあるかのような絵で。
「この絵、いただいてもいいですか?」
返事を聞く前にバインダーから紙をはずし、うれしくて胸にあてると、絵描きの青年はぴくりと眉をあげた。そしてそのまま無言で自転車を押しながら歩き出す。
気でも悪くしたのかと驚いて羽山さんを見れば、「ヒロト先生はいつもああだから」と笑う。するとふと、絵描きの青年は立ち止まり私を振り返る。
「行かないんですか」
「え……?」
「うちを探してたんでしょう」
相変わらずの無表情だが、どこかあきれた様子で彼はそう言う。
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