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佐鳥姫の憂鬱 〜朝日を羨む夜の月〜
あなたの声が聞こえない 5
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「華南、卒業おめでとう。最後まで気を引き締めて、気をつけて行ってらっしゃい」
母の凡子は、いつものように柔らかな笑顔を見せて、玄関で私を見送る。
「行ってきます」
そして私も例外なく、いつも通り頭を下げて玄関を出ようとする。すると、母が「華南」と静かに私を呼び止めた。
「最近あなた、楽しそうね。卒業間際に学校が楽しくなるなんて」
困り顔で眉を下げ、複雑に笑みを浮かべる母の胸のうちには、嬉しいような、今更とでも言いたげな思いが拮抗しているように見える。
「友人が出来たの」
「それは聞いたわ。石灰深春さんでしょう? 大学も同じとか」
「そう、同じアパートに住みたいそう。お父さんが探してくれるって言ってたわ」
「それで張り切ってるのね、お父さん。華南がお願いごとするなんて珍しいから」
「お母さん、もう行かないと電車が」
母の話が長くなりそうで、話を遮る。
歴史ある佐鳥家の第十三代当主である母は厳しい人であるが、家族に対しては大らかなところもある。
「ええ、華南。良い門出となる一日になりますように」
慌てる様子もなく手を振る母に見送られた私は、用意された車に乗って駅へと向かった。
御簾路駅を出発した電車は、卒業式を迎える私にとって特別な日とも言える一日でも、普段と変わることなくゆっくりと加速を始める。
車内の光景も変わらない。車窓から覗くのどかな田園風景も。そして無機質な電車は、次第に開発の進む土地へと私を連れ去る。
始発駅から二駅目で乗り込んでくる青年もまた普段と変わらないだろう。そう思いながら、ドアの方へ顔を向ける。
彼は今日もいた。無意識に視線だけで彼を追いかける。胸元を開いたスーツ姿で、うつむき加減に私の前を通り斜め前に立つ。
電車が発車する直前、小さな違和感に気づく。彼はいつもつり革につかまらない。それなのに今日は、力なくつり輪に手首を引っかけたのだ。
名も知らない青年の顔を見上げる。伏せたまぶたに力が入っている。苦悶の表情を浮かべたほおはやたらと白く。
気分が悪いのかもしれない。隣の席は空いているのだ。座ればいいのに。そう思って、「あの……」と声を発した瞬間、私は奇妙な感覚に襲われて言葉を飲んだ。
それは異様な感覚だった。
どす黒い何かが私の胸を突く。そしてそこから現れるもやもやとしたものが私の全身を侵していく。
『……』
うめくわけでもないうなり声。聞こえない叫び声。感じるだけの低い声。
こんな感覚は初めてかもしれない。
彼の声が聞こえているのに理解ができない。彼の叫びが音としてではなく、黒い塊となって私に届く。
これが彼の声?
私は彼を好きなのだろうか。
幼稚園や小学生の頃は、男女問わずいろんな声が聞こえていた。それは純粋に誰かを好きと思う気持ちがたくさんあったからだ。
中学生になってからは静寂の世界が訪れた。男性から好意を寄せられることはあっても、相手の彼から声が聞こえることはなくて、運命の人ではないと相手にすることもなかった。
高校生になり、久しぶりに聞いた男性の声が嵩原くんのものだった。本当に愛する人が現れたと思ったのにそれすら儚く終わって。
そして、突如聞こえた名も知らない青年の声は、何を訴えているのかわからない声なき声で私を翻弄しようとする。
この人が私の運命なの……?
青年が身をかがめる。ひたいには汗が浮かぶ。暑い車内ではない。やはり気分が悪いのだ。
腰を浮かし、青年に手を貸そうとした時、なだれるように体勢を崩しながら、彼は隣の席へ腰を落とした。
「あの、大丈夫ですか?」
ポケットから取り出したハンカチを差し出す。
今日のために用意したイニシャル入りの真っ白なハンカチ。卒業式で泣くことはないだろうと思うから、彼の汗をぬぐってもかまわないと思った。
青年はまぶたを一旦閉じて天井を仰いだ後、ゆっくりと私の方へ首をひねる。
またしても私は息を飲む。
漆黒の瞳。彼の声と同じ。闇のように真っ黒でうつろな視線が、私の視線と重なる。
彼が私という人間を認識したのかはわからなかった。
彼に救いの手を差し述べるのが私でなくても、彼は同じ態度を取っただろう。それを確信するほど、彼は私を見ているのに見ていなかった。
「拭きたかったら、勝手に拭いて……」
ハンカチを受け取らず、物憂げに彼はそう小さく息をつくと、すぐに私から目をそらした。
「華南、卒業おめでとう。最後まで気を引き締めて、気をつけて行ってらっしゃい」
母の凡子は、いつものように柔らかな笑顔を見せて、玄関で私を見送る。
「行ってきます」
そして私も例外なく、いつも通り頭を下げて玄関を出ようとする。すると、母が「華南」と静かに私を呼び止めた。
「最近あなた、楽しそうね。卒業間際に学校が楽しくなるなんて」
困り顔で眉を下げ、複雑に笑みを浮かべる母の胸のうちには、嬉しいような、今更とでも言いたげな思いが拮抗しているように見える。
「友人が出来たの」
「それは聞いたわ。石灰深春さんでしょう? 大学も同じとか」
「そう、同じアパートに住みたいそう。お父さんが探してくれるって言ってたわ」
「それで張り切ってるのね、お父さん。華南がお願いごとするなんて珍しいから」
「お母さん、もう行かないと電車が」
母の話が長くなりそうで、話を遮る。
歴史ある佐鳥家の第十三代当主である母は厳しい人であるが、家族に対しては大らかなところもある。
「ええ、華南。良い門出となる一日になりますように」
慌てる様子もなく手を振る母に見送られた私は、用意された車に乗って駅へと向かった。
御簾路駅を出発した電車は、卒業式を迎える私にとって特別な日とも言える一日でも、普段と変わることなくゆっくりと加速を始める。
車内の光景も変わらない。車窓から覗くのどかな田園風景も。そして無機質な電車は、次第に開発の進む土地へと私を連れ去る。
始発駅から二駅目で乗り込んでくる青年もまた普段と変わらないだろう。そう思いながら、ドアの方へ顔を向ける。
彼は今日もいた。無意識に視線だけで彼を追いかける。胸元を開いたスーツ姿で、うつむき加減に私の前を通り斜め前に立つ。
電車が発車する直前、小さな違和感に気づく。彼はいつもつり革につかまらない。それなのに今日は、力なくつり輪に手首を引っかけたのだ。
名も知らない青年の顔を見上げる。伏せたまぶたに力が入っている。苦悶の表情を浮かべたほおはやたらと白く。
気分が悪いのかもしれない。隣の席は空いているのだ。座ればいいのに。そう思って、「あの……」と声を発した瞬間、私は奇妙な感覚に襲われて言葉を飲んだ。
それは異様な感覚だった。
どす黒い何かが私の胸を突く。そしてそこから現れるもやもやとしたものが私の全身を侵していく。
『……』
うめくわけでもないうなり声。聞こえない叫び声。感じるだけの低い声。
こんな感覚は初めてかもしれない。
彼の声が聞こえているのに理解ができない。彼の叫びが音としてではなく、黒い塊となって私に届く。
これが彼の声?
私は彼を好きなのだろうか。
幼稚園や小学生の頃は、男女問わずいろんな声が聞こえていた。それは純粋に誰かを好きと思う気持ちがたくさんあったからだ。
中学生になってからは静寂の世界が訪れた。男性から好意を寄せられることはあっても、相手の彼から声が聞こえることはなくて、運命の人ではないと相手にすることもなかった。
高校生になり、久しぶりに聞いた男性の声が嵩原くんのものだった。本当に愛する人が現れたと思ったのにそれすら儚く終わって。
そして、突如聞こえた名も知らない青年の声は、何を訴えているのかわからない声なき声で私を翻弄しようとする。
この人が私の運命なの……?
青年が身をかがめる。ひたいには汗が浮かぶ。暑い車内ではない。やはり気分が悪いのだ。
腰を浮かし、青年に手を貸そうとした時、なだれるように体勢を崩しながら、彼は隣の席へ腰を落とした。
「あの、大丈夫ですか?」
ポケットから取り出したハンカチを差し出す。
今日のために用意したイニシャル入りの真っ白なハンカチ。卒業式で泣くことはないだろうと思うから、彼の汗をぬぐってもかまわないと思った。
青年はまぶたを一旦閉じて天井を仰いだ後、ゆっくりと私の方へ首をひねる。
またしても私は息を飲む。
漆黒の瞳。彼の声と同じ。闇のように真っ黒でうつろな視線が、私の視線と重なる。
彼が私という人間を認識したのかはわからなかった。
彼に救いの手を差し述べるのが私でなくても、彼は同じ態度を取っただろう。それを確信するほど、彼は私を見ているのに見ていなかった。
「拭きたかったら、勝手に拭いて……」
ハンカチを受け取らず、物憂げに彼はそう小さく息をつくと、すぐに私から目をそらした。
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