佐鳥姫の憂鬱

水城ひさぎ

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佐鳥姫の憂鬱 〜朝日を羨む夜の月〜

あなたの声が聞こえる理由 8

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「また君か……」

 夜間瀬先生の部屋を訪れると、キッチンにいた彼は静かにつぶやいた。うんざりしているのかもしれないが、表情からはわからない。
 彼の静謐な黒い心はあいかわらずだが、淡々とした生活に私が入り込むとわずかに乱れもする。

「母がクッキーを送ってくれたんです。先生は甘いものお好きですか?」
「もう来ないかと思ってたよ」

 先生は私の質問には答えず、湯気の立つマグカップを片手にソファーへ向かう。ほんの少しだけ躊躇してから彼に近づく。

 彼の部屋へ来るのは一週間ぶりだ。抱かれたいなら明日来いと言われた翌日は、悩んだ挙句訪ねることができなかった。クッキーも二日前に母から届いたものだ。

「海外で有名なクッキーだそうです。先生と食べたいと思って」

 クッキーを一緒に食べたいなんて言うのは口実。気になって仕方なかったのは、研究室で見た女生徒のこと。それがなければ今日も来れなかったかもしれない。

 先生はマグカップをサイドテーブルに置く。猫脚の洒落た丸いサイドテーブルだ。そしてメガネを外し、鼻の根を指でつまむ。
 疲れているのだろうか。

「少し寝る。好きな時に帰りなさい」

 先生はそう言うと、ソファーの背にもたれてまぶたを落とした。

 コーヒーの揺らめくマグカップとシルバーフレームのメガネが乗るサイドテーブルに、クッキーの入った青い缶を置く。

 視線の先にあるレースのカーテンがふわりと揺れて、ソファーで眠る夜間瀬先生の足元をかすめていく。くすぐったそうに彼は足を引っ込める。同時に無意識に上半身をひねるから、ソファーに倒れそうになる。

 私はあわてて隣へ座る。危うく崩れ落ちそうだった彼の身体は、私の肩に支えられることを好むようにしなだれてくる。

 耳元で静かな規則正しい寝息が聞こえる。
 はためくカーテン、次第に冷めていくコーヒー、鍵をかけない部屋、雑然とした室内もどこか幾何学的で奇妙。
 夜間瀬先生の魅力が詰まった空間は、少なからず私にとって居心地がいい。

 少しだけ彼に近づきたくて、わずかにみじろぎした瞬間、彼の頭がずるりと胸元へ下がる。なめらかなサテンシャツを滑り落ちた彼の頭がひざの上で止まる。
 これ以上動かないようにと、伸ばした指先が触れた彼の黒髪は柔らかい。

 いったん指を離してみるものの、やはり彼に触れていたい衝動に勝てず、髪にうずもれさせる。
 その時だった。先生のまぶたがぴくりと動いて、ゆっくりと開かれていく。私のひざの上に頭を乗せていることに気づいた彼は、ふたたびまぶたを閉じる。

「先生……」

 呼びかけは聞こえたようで、彼は物憂げに上体を起こす。

「……まだいたのか」
「来てからそれ程時間は経っていません」
「そうか。コーヒーは冷めたか」
「淹れ直します」
「いや、いい。このままの方がいい」

 私に身を寄せたままの先生は、ぬるくなったコーヒーを一口のみ、メガネをかける。

「一週間ぶりか……」
「一週間前言ったこと、覚えてますか?」
「ああ。記憶力を疑われるのは心外だな」

 中途半端に目覚めたためか、先生はけだるそうにそう言う。

「そういう話ではないです。私だって……、少しぐらいは緊張もします」

 先生は意外そうに私を見つめると、胸元へ視線を落とす。

「冗談も通じない佐鳥くんを抱いたりはしない。それに君は抱かれ方を知らない」
「あの人は……、知ってるんですか?」
「あの人というと? 抽象的な言い方は誤解を招く」
「今日研究室にいた綺麗な人です」
「綺麗なというのは君の主観だろう。彼女は綺麗だろうか。少なくとも浅ましさは君以上だろうな」

 うっすら笑みを浮かべる先生は珍しい。

「でも先生は触れたのでしょう?」

 彼女も私も相手にされていないことはわかる。それでも私を見てほしいと思う。

「そうして欲しいと言われたことをしたまでだ。そこにどんな感情もない」
「それなら……、私にも触れてもらえますか?」
「君が望むなら」

 先生の返答はいつも同じだ。私が導かないと触れてもくれない。おそるおそる伸ばした手で彼の手首をつかむ。
 男の人の手を数多く知っているわけではない。それでも彼の手が綺麗なことはわかる。この長い指で触れられたらどうなってしまうのだろう。

「先生……」

 ほんのり赤くなるほおを自覚しながら、彼の胸に頭を寄せる。しかし、彼は一向に動かない。そればかりか、私を突き放す。

 息をひそめて見つめ合う。お互いの心を探るようだ。

「佐鳥くん、やめようか」

 夜間瀬先生は小さな息を吐き出す。

「どうしてですか……」
「全ての男が女の体に触れて喜ぶわけじゃないことを君は知るべきだろう」
「……そんなにも魅力的ではないですか?」
「愚問だ」

 そう先生は切り捨てる。それでも私はすがる。

「私は先生と繋がりたいです。たった一人産めるという子の父親は、先生でなければならないんです」

 彼の眉がぴくりとあがる。

「子供が欲しいのか?」
「佐鳥家の血を絶やさぬよう、愛する人の子を産むのが定めです」

 私は答える。夜間瀬先生が私の求める最後の男に違いないと思うから。
 伴侶になってほしい。ほかの女性を受け入れるのはもうやめにしてほしい。その思いを形作るには、彼に受け入れてもらうしかなくて。

「急に何を言い出すのかと思えば、佐鳥一族の風習か? そのために君は自分を愛しもしない男に抱かれ、子を成すのか」

 首を横に振り、先生の手を握る。

「私は普通の恋愛をしているだけです。先生とずっと一緒にいたいと思うから、先生が振り向いてくれる日を願っています」
「佐鳥一族は呪われていると聞いたことがある。その由縁は知らない。しかし血を絶やさないことには呪いは続くだろう。君の幸せはさらにその先にある」

 先生はいつも答えをはぐらかす。そして明確なビジョンを私に与える。考えるということを私に求める。

「……私の代で佐鳥一族を終わらせろと? 永遠に続く呪いを断ち切ることが私の定めだと言うのですか」
「そうすることが子孫を救うことになる」
「だから私が好きになった人は夜間瀬先生だったんですか?」
「佐鳥一族を滅ぼす男に導かれたならそうだろう。迷信じみた話は信じていないが、俺に固執する君を見ていると哀れに思う」

 愛する人に哀れまれる。それほど悲しいことがあるだろうか。

「それでも先生が好きなんです。今も聞こえています。苦しそうな声が……ずっと」
「苦しそう、か。理解に苦しんでいるだけだ。君がかまわないなら教えてくれないか。佐鳥一族とは何か。君の能力は何のためにあるのか」
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