23 / 61
佐鳥姫の憂鬱 〜朝日を羨む夜の月〜
二番目の恋 3
しおりを挟む
*
先ほどまで青かった空は、いつの間にか薄暗くなり、月が浮かんでいた。
かすむ視界が次第にはっきりしてくると、記憶まで覚醒してくる。
ここは夜間瀬先生の部屋だ。
いつものように部屋の片付けにやってきて、ふと、先生が毎日眺める窓辺からの風景に興味を持った。
ソファーに腰を下ろした後の記憶はない。そのまま眠ってしまったのだろう。
辺りを見回してはっとする。隣で夜間瀬先生が足を組み、こぶしを握ったまま、ひじ掛けにもたれている。そのまぶたは閉じられていて、居眠りしているみたいだ。
彼のネクタイは外されているがスーツのままだ。帰宅してすぐにソファーへ座ったのだろう。
リビングの隅に置かれた鞄の上にネクタイが落ちていることに気づき、鞄ごと拾い上げてネクタイをハンガーにかける。
ハンガーラックの下に鞄を置こうとして、首を傾げる。先生にしては珍しい。鞄が開いている。チャックを閉じようと視線を落とした先にあるファイルに驚いて目が止まる。
研究室で先生が熱心に読んでいたファイルだ。驚いたのはそのファイルの隙間から〝佐鳥〟の名前が見えたからだ。思わずファイルを鞄から引き出して、中を開く。
「これは……」
佐鳥家に関する調査報告書のようだ。先日彼に話して聞かせたことが詳細に記載されている。
これはなんのために作成されたのだろう。数枚の書類のページをめくり、目を通していく。そして最後の一行に私は目を見張った。
『佐鳥家が所有する御簾路にはいまだなお、未知の薬草が隠されている可能性がある』
私は震えそうになる手をこらえながら、ファイルを閉じ、鞄に戻した。そのまま両手で顔を覆い、息をつく。
先生とどんな話をしただろうと記憶をさかのぼる。
彼のことが好きだから、話さなくてもいいようなことを話したかもしれない。
後悔はないが、恐怖はある。
薬草とはなんのことだろう。私の知らない何かが動いているようで怖い。
先生を疑うわけではないけれど、佐鳥家について調べている以上、良からぬことを考えている可能性もある。
佐鳥家は広大な土地を保有している。その土地を守るために、母親が苦心しているのは知っている。
そうまでして守らなければならない土地に何があるのかは知らないけれど、守ることが佐鳥家に生まれた者の定めであるという考えは、空気を吸うぐらい自然なこととして身についている。
ふと先生の言葉が思い出され、顔を上げた。
『佐鳥一族を滅ぼす男に導かれ、佐鳥華南は夜間瀬大志を好きになった』
最初から佐鳥家になんらかの秘密があると知って、先生が私を拒まずにいたのだとしたら、本当に好きになってはいけない人を好きになってしまったのかもしれない。
よろりとしながら立ち上がり、キッチンへ向かう。私がいないと先生は家のことが何もできない。
部屋の片付けと夕食の準備、先生の部屋へ来るのはそのためだ。でも、本心は別にある。
先生が好きだから、先生の役に立ちたくて、私はここにいる。彼はその思いを汲み取って自由にさせてくれている。
冷蔵庫のドアに手をかけて、ため息を吐き出す。
佐鳥家の土地に隠された秘密とはなんだろう。先生が知りたいなら……と、心が揺れる。
もうすぐ夏休みだ。自宅へ帰って調べる時間はある。いずれ私も知ることになる秘密だ。私には知る権利があって。
「もし……」
思わず、声が漏れた。もしそれがわかったら、先生は少しぐらい私を恋愛対象として見てくれるだろうか。
「佐鳥くん」
はっとして顔を上げる。いつの間に起きたのだろう。カウンター越しに立つ夜間瀬先生が、相変わらずの無表情で私を見ている。
「お夕食を準備したら帰ります」
「帰宅したら君がいたから驚いた」
驚いたと言葉にするほど驚いている様子はない。
「鍵が空いていたので。物騒ですから、出かける時ぐらいは鍵をかけてください」
だらしがない人、と思うけれど、先生からだらしなさを感じたことはない。
「鍵の空いた部屋で君みたいな女の子がうたた寝してる方が危険だ」
「……眠るつもりはなかったんです。夕食の準備したら帰ろうと思ってて」
「君がこんなことをしてるって七五三田くんが知ったら気分が悪いだろうね」
「柚樹くんが……、なぜ?」
首をかしげると、先生は薄笑いを浮かべてバスルームの方へ行ってしまう。
作り置きの料理を小皿に分けて、テーブルの上に用意した頃に戻ってきた先生は、ラフな格好に着替え、眼鏡をかけていた。
「君の分は?」
テーブルに並ぶ料理を眺めて、彼はそう言う。
「え……」
初めての催促に驚く。先生のお世話はするけど、今まで一緒に食事をしたことはない。
「自分の部屋で食べるので帰ります。遅くまでお邪魔してすみませんでした」
「遅く……。ああそうだね、帰った方がいい」
すっかり暗くなっている外を眺めた後、夜間瀬先生はそう言ってキッチンの入り口までやってくる。
キッチンの片付けをして、廊下に置いたままの鞄を持ち上げ、そのまま玄関へ向かおうとすると、彼は奇妙に眉を寄せる。
なぜそんな表情をしたのか、すぐに悟ってほおが赤らんだ。
いつも先生は私を抱きしめてくれる。今日もそれをねだるのだろうと思われたのだ。
「おやすみなさい、先生……」
「起きたばかりだけどね」
皮肉げに笑う先生に背を向けて玄関に向かう。
どういうわけか、今日は先生に触れたくないと思った。逃げるように立ち去る私を先生は追いかけて来なかった。
ドアノブをひねり、驚く。鍵がかかっていた。今までそんなこと一度もなかったのに。
どういうことだろう。先生は私がいないと思って鍵をかけたのだろうか。だとしたら、私が入って来れないようにした?
そう気づいたら胸がずきりと痛み、思いがけず涙が溢れそうになる。今日ほど先生と距離を感じたことはなくて、今日ほど距離を縮めたいと思った日はない。
どうすればこの思いが満たされるのかわからないまま、私は振り返ることなく部屋をあとにした。
先ほどまで青かった空は、いつの間にか薄暗くなり、月が浮かんでいた。
かすむ視界が次第にはっきりしてくると、記憶まで覚醒してくる。
ここは夜間瀬先生の部屋だ。
いつものように部屋の片付けにやってきて、ふと、先生が毎日眺める窓辺からの風景に興味を持った。
ソファーに腰を下ろした後の記憶はない。そのまま眠ってしまったのだろう。
辺りを見回してはっとする。隣で夜間瀬先生が足を組み、こぶしを握ったまま、ひじ掛けにもたれている。そのまぶたは閉じられていて、居眠りしているみたいだ。
彼のネクタイは外されているがスーツのままだ。帰宅してすぐにソファーへ座ったのだろう。
リビングの隅に置かれた鞄の上にネクタイが落ちていることに気づき、鞄ごと拾い上げてネクタイをハンガーにかける。
ハンガーラックの下に鞄を置こうとして、首を傾げる。先生にしては珍しい。鞄が開いている。チャックを閉じようと視線を落とした先にあるファイルに驚いて目が止まる。
研究室で先生が熱心に読んでいたファイルだ。驚いたのはそのファイルの隙間から〝佐鳥〟の名前が見えたからだ。思わずファイルを鞄から引き出して、中を開く。
「これは……」
佐鳥家に関する調査報告書のようだ。先日彼に話して聞かせたことが詳細に記載されている。
これはなんのために作成されたのだろう。数枚の書類のページをめくり、目を通していく。そして最後の一行に私は目を見張った。
『佐鳥家が所有する御簾路にはいまだなお、未知の薬草が隠されている可能性がある』
私は震えそうになる手をこらえながら、ファイルを閉じ、鞄に戻した。そのまま両手で顔を覆い、息をつく。
先生とどんな話をしただろうと記憶をさかのぼる。
彼のことが好きだから、話さなくてもいいようなことを話したかもしれない。
後悔はないが、恐怖はある。
薬草とはなんのことだろう。私の知らない何かが動いているようで怖い。
先生を疑うわけではないけれど、佐鳥家について調べている以上、良からぬことを考えている可能性もある。
佐鳥家は広大な土地を保有している。その土地を守るために、母親が苦心しているのは知っている。
そうまでして守らなければならない土地に何があるのかは知らないけれど、守ることが佐鳥家に生まれた者の定めであるという考えは、空気を吸うぐらい自然なこととして身についている。
ふと先生の言葉が思い出され、顔を上げた。
『佐鳥一族を滅ぼす男に導かれ、佐鳥華南は夜間瀬大志を好きになった』
最初から佐鳥家になんらかの秘密があると知って、先生が私を拒まずにいたのだとしたら、本当に好きになってはいけない人を好きになってしまったのかもしれない。
よろりとしながら立ち上がり、キッチンへ向かう。私がいないと先生は家のことが何もできない。
部屋の片付けと夕食の準備、先生の部屋へ来るのはそのためだ。でも、本心は別にある。
先生が好きだから、先生の役に立ちたくて、私はここにいる。彼はその思いを汲み取って自由にさせてくれている。
冷蔵庫のドアに手をかけて、ため息を吐き出す。
佐鳥家の土地に隠された秘密とはなんだろう。先生が知りたいなら……と、心が揺れる。
もうすぐ夏休みだ。自宅へ帰って調べる時間はある。いずれ私も知ることになる秘密だ。私には知る権利があって。
「もし……」
思わず、声が漏れた。もしそれがわかったら、先生は少しぐらい私を恋愛対象として見てくれるだろうか。
「佐鳥くん」
はっとして顔を上げる。いつの間に起きたのだろう。カウンター越しに立つ夜間瀬先生が、相変わらずの無表情で私を見ている。
「お夕食を準備したら帰ります」
「帰宅したら君がいたから驚いた」
驚いたと言葉にするほど驚いている様子はない。
「鍵が空いていたので。物騒ですから、出かける時ぐらいは鍵をかけてください」
だらしがない人、と思うけれど、先生からだらしなさを感じたことはない。
「鍵の空いた部屋で君みたいな女の子がうたた寝してる方が危険だ」
「……眠るつもりはなかったんです。夕食の準備したら帰ろうと思ってて」
「君がこんなことをしてるって七五三田くんが知ったら気分が悪いだろうね」
「柚樹くんが……、なぜ?」
首をかしげると、先生は薄笑いを浮かべてバスルームの方へ行ってしまう。
作り置きの料理を小皿に分けて、テーブルの上に用意した頃に戻ってきた先生は、ラフな格好に着替え、眼鏡をかけていた。
「君の分は?」
テーブルに並ぶ料理を眺めて、彼はそう言う。
「え……」
初めての催促に驚く。先生のお世話はするけど、今まで一緒に食事をしたことはない。
「自分の部屋で食べるので帰ります。遅くまでお邪魔してすみませんでした」
「遅く……。ああそうだね、帰った方がいい」
すっかり暗くなっている外を眺めた後、夜間瀬先生はそう言ってキッチンの入り口までやってくる。
キッチンの片付けをして、廊下に置いたままの鞄を持ち上げ、そのまま玄関へ向かおうとすると、彼は奇妙に眉を寄せる。
なぜそんな表情をしたのか、すぐに悟ってほおが赤らんだ。
いつも先生は私を抱きしめてくれる。今日もそれをねだるのだろうと思われたのだ。
「おやすみなさい、先生……」
「起きたばかりだけどね」
皮肉げに笑う先生に背を向けて玄関に向かう。
どういうわけか、今日は先生に触れたくないと思った。逃げるように立ち去る私を先生は追いかけて来なかった。
ドアノブをひねり、驚く。鍵がかかっていた。今までそんなこと一度もなかったのに。
どういうことだろう。先生は私がいないと思って鍵をかけたのだろうか。だとしたら、私が入って来れないようにした?
そう気づいたら胸がずきりと痛み、思いがけず涙が溢れそうになる。今日ほど先生と距離を感じたことはなくて、今日ほど距離を縮めたいと思った日はない。
どうすればこの思いが満たされるのかわからないまま、私は振り返ることなく部屋をあとにした。
0
あなたにおすすめの小説
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
やさしいキスの見つけ方
神室さち
恋愛
諸々の事情から、天涯孤独の高校一年生、完璧な優等生である渡辺夏清(わたなべかすみ)は日々の糧を得るために年齢を偽って某所風俗店でバイトをしながら暮らしていた。
そこへ、現れたのは、天敵に近い存在の数学教師にしてクラス担任、井名里礼良(いなりあきら)。
辞めろ辞めないの押し問答の末に、井名里が持ち出した賭けとは?果たして夏清は平穏な日常を取り戻すことができるのか!?
何て言ってても、どこかにある幸せの結末を求めて突っ走ります。
こちらは2001年初出の自サイトに掲載していた小説です。完結済み。サイト閉鎖に伴い移行。若干の加筆修正は入りますがほぼそのままにしようと思っています。20年近く前に書いた作品なのでいろいろ文明の利器が古かったり常識が若干、今と異なったりしています。
20年くらい前の女子高生はこんな感じだったのかー くらいの視点で見ていただければ幸いです。今はこんなの通用しない! と思われる点も多々あるとは思いますが、大筋の変更はしない予定です。
フィクションなので。
多少不愉快な表現等ありますが、ネタバレになる事前の注意は行いません。この表現ついていけない…と思ったらそっとタグを閉じていただけると幸いです。
当時、だいぶ未来の話として書いていた部分がすでに現代なんで…そのあたりはもしかしたら現代に即した感じになるかもしれない。
王弟が愛した娘 —音に響く運命—
Aster22
恋愛
村で薬師として過ごしていたセラは、
ハープの音に宿る才を王弟レオに見初められる。
その出会いは、静かな日々を終わらせ、
彼女を王宮の闇と陰謀に引き寄せていく。
人の生まれは変えられない。それならばそこから何を望み、何を選び、そしてそれは何を起こしていくのか。
キャラ設定・世界観などはこちら
↓
https://kakuyomu.jp/my/news/822139840619212578
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる