佐鳥姫の憂鬱

水城ひさぎ

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佐鳥姫の憂鬱 〜朝日を羨む夜の月〜

二番目の恋 3

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 先ほどまで青かった空は、いつの間にか薄暗くなり、月が浮かんでいた。

 かすむ視界が次第にはっきりしてくると、記憶まで覚醒してくる。

 ここは夜間瀬先生の部屋だ。

 いつものように部屋の片付けにやってきて、ふと、先生が毎日眺める窓辺からの風景に興味を持った。

 ソファーに腰を下ろした後の記憶はない。そのまま眠ってしまったのだろう。

 辺りを見回してはっとする。隣で夜間瀬先生が足を組み、こぶしを握ったまま、ひじ掛けにもたれている。そのまぶたは閉じられていて、居眠りしているみたいだ。
 彼のネクタイは外されているがスーツのままだ。帰宅してすぐにソファーへ座ったのだろう。

 リビングの隅に置かれた鞄の上にネクタイが落ちていることに気づき、鞄ごと拾い上げてネクタイをハンガーにかける。

 ハンガーラックの下に鞄を置こうとして、首を傾げる。先生にしては珍しい。鞄が開いている。チャックを閉じようと視線を落とした先にあるファイルに驚いて目が止まる。

 研究室で先生が熱心に読んでいたファイルだ。驚いたのはそのファイルの隙間から〝佐鳥〟の名前が見えたからだ。思わずファイルを鞄から引き出して、中を開く。

「これは……」

 佐鳥家に関する調査報告書のようだ。先日彼に話して聞かせたことが詳細に記載されている。
 これはなんのために作成されたのだろう。数枚の書類のページをめくり、目を通していく。そして最後の一行に私は目を見張った。

『佐鳥家が所有する御簾路にはいまだなお、未知の薬草が隠されている可能性がある』

 私は震えそうになる手をこらえながら、ファイルを閉じ、鞄に戻した。そのまま両手で顔を覆い、息をつく。

 先生とどんな話をしただろうと記憶をさかのぼる。
 彼のことが好きだから、話さなくてもいいようなことを話したかもしれない。
 後悔はないが、恐怖はある。
 薬草とはなんのことだろう。私の知らない何かが動いているようで怖い。
 先生を疑うわけではないけれど、佐鳥家について調べている以上、良からぬことを考えている可能性もある。

 佐鳥家は広大な土地を保有している。その土地を守るために、母親が苦心しているのは知っている。
 そうまでして守らなければならない土地に何があるのかは知らないけれど、守ることが佐鳥家に生まれた者の定めであるという考えは、空気を吸うぐらい自然なこととして身についている。

 ふと先生の言葉が思い出され、顔を上げた。

『佐鳥一族を滅ぼす男に導かれ、佐鳥華南は夜間瀬大志を好きになった』

 最初から佐鳥家になんらかの秘密があると知って、先生が私を拒まずにいたのだとしたら、本当に好きになってはいけない人を好きになってしまったのかもしれない。

 よろりとしながら立ち上がり、キッチンへ向かう。私がいないと先生は家のことが何もできない。

 部屋の片付けと夕食の準備、先生の部屋へ来るのはそのためだ。でも、本心は別にある。
 先生が好きだから、先生の役に立ちたくて、私はここにいる。彼はその思いを汲み取って自由にさせてくれている。

 冷蔵庫のドアに手をかけて、ため息を吐き出す。

 佐鳥家の土地に隠された秘密とはなんだろう。先生が知りたいなら……と、心が揺れる。

 もうすぐ夏休みだ。自宅へ帰って調べる時間はある。いずれ私も知ることになる秘密だ。私には知る権利があって。

「もし……」

 思わず、声が漏れた。もしそれがわかったら、先生は少しぐらい私を恋愛対象として見てくれるだろうか。

「佐鳥くん」

 はっとして顔を上げる。いつの間に起きたのだろう。カウンター越しに立つ夜間瀬先生が、相変わらずの無表情で私を見ている。

「お夕食を準備したら帰ります」
「帰宅したら君がいたから驚いた」

 驚いたと言葉にするほど驚いている様子はない。

「鍵が空いていたので。物騒ですから、出かける時ぐらいは鍵をかけてください」

 だらしがない人、と思うけれど、先生からだらしなさを感じたことはない。

「鍵の空いた部屋で君みたいな女の子がうたた寝してる方が危険だ」
「……眠るつもりはなかったんです。夕食の準備したら帰ろうと思ってて」
「君がこんなことをしてるって七五三田くんが知ったら気分が悪いだろうね」
「柚樹くんが……、なぜ?」

 首をかしげると、先生は薄笑いを浮かべてバスルームの方へ行ってしまう。

 作り置きの料理を小皿に分けて、テーブルの上に用意した頃に戻ってきた先生は、ラフな格好に着替え、眼鏡をかけていた。

「君の分は?」

 テーブルに並ぶ料理を眺めて、彼はそう言う。

「え……」

 初めての催促に驚く。先生のお世話はするけど、今まで一緒に食事をしたことはない。

「自分の部屋で食べるので帰ります。遅くまでお邪魔してすみませんでした」
「遅く……。ああそうだね、帰った方がいい」

 すっかり暗くなっている外を眺めた後、夜間瀬先生はそう言ってキッチンの入り口までやってくる。

 キッチンの片付けをして、廊下に置いたままの鞄を持ち上げ、そのまま玄関へ向かおうとすると、彼は奇妙に眉を寄せる。
 なぜそんな表情をしたのか、すぐに悟ってほおが赤らんだ。
 いつも先生は私を抱きしめてくれる。今日もそれをねだるのだろうと思われたのだ。

「おやすみなさい、先生……」
「起きたばかりだけどね」

 皮肉げに笑う先生に背を向けて玄関に向かう。

 どういうわけか、今日は先生に触れたくないと思った。逃げるように立ち去る私を先生は追いかけて来なかった。

 ドアノブをひねり、驚く。鍵がかかっていた。今までそんなこと一度もなかったのに。

 どういうことだろう。先生は私がいないと思って鍵をかけたのだろうか。だとしたら、私が入って来れないようにした?
 そう気づいたら胸がずきりと痛み、思いがけず涙が溢れそうになる。今日ほど先生と距離を感じたことはなくて、今日ほど距離を縮めたいと思った日はない。

 どうすればこの思いが満たされるのかわからないまま、私は振り返ることなく部屋をあとにした。
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